「たべたい。……たべたい。折原くんの、ごはん」
「承知しました。じゃ、その前に。陽乃さんのマグカップ、借りますよ」
 棚から私専用のマグを取り出すと、小瓶から金色の蜜を匙ですくってたらし、お湯を注いだ。ふんわりと、あまい香りの湯気がひろがる。
「はちみつしょうが湯です。飲んでください」
「……ありがとう」
 折原くんはほんとうに気が利く。どうやったらこんなにいい子に育つんだろう。彼のご両親が育児書を書いたら売れるんじゃないかな。
 はちみつのやさしい甘さと、しょうがのかあっとくる刺激と香りが、からだの芯をあたためる。
「しょうがを薄く切ってはちみつに漬けただけです。ホットミルクに入れてもいいし、夏は炭酸で割ってもいいし、料理の味付けにも使えるし」
「そういうの、誰に教わったの? お母さん?」
「いえ、親父です」
「へえ。お父さん」
「ええ。それより、それ飲んだらお風呂ですよ? 溜めて浸かったほうがいいです。みんないないし、内緒にしときますんで」
 こくりとうなずいた。
 今日は金曜だし、みんな遅いか、もしくは帰ってこないかもしれない。野村くんは飲みにいってそうだし、歌ちゃんは彼氏のとこ。沢木さんは、そういえば今日は夜勤だって言ってた。なら、いいか。
 お風呂はみんなで時間を決めて共同で使っている。バスタブに湯をはったら、つぎのひとのために捨てて、浴槽を軽く洗っておくのがルール。もったいないからみんな、特別なことがない限りシャワーで済ますのだ。これは公式ルールじゃないけど、暗黙の、ってやつ。

 はちみつしょうが湯であたたまって、熱い湯に浸かってぬくもって。もこもこのルームウエアに着がえて、すぐに髪を乾かした。
 それから、脱衣所を軽く掃除。自分の脱いだものは、自分専用の脱衣かご(外から中身が見えないタイプ)に入れたけど、今だれもいないみたいだし、洗濯してしまうことにする。ちなみに洗濯機は、男子用と女子用のふたつがある。
 友達でも兄弟でもなんでもない他人同士が共同生活をするのだ。互いに不快な思いをしないように、かずかずのルールがある。生活していくうえで、新たにつくったルールもあれば、ルームメイト同士、打ち解けていくうちになあなあになったルールもある。
 そこは臨機応変に、大切なのは相手の立場になって振る舞うこと。
 住人同士のコミュニケーションを大事にするのが、このシェアハウスを運営する会社のコンセプトだけど、もちろんそれぞれのプライバシーは守らなければならない。うまく暮らしていくには、それなりのバランス感覚が必要なのだ。

 ダイニングに戻ると、ごはんの炊けるふくよかなにおいと、魚の焼けるこうばしい匂いが私を出迎えた。
 ねこのもようの入ったエプロンをつけた折原くんが、キッチンでせわしく立ち回りながら言った。
「座っててください。魚も焼けたし、あとはたまご焼きだけなんで」
「たまご、焼き」
 頭のなかを折原くんのごはんだけでいっぱいにした。
 しあわせなもので満たされていたい。
 どろどろした淀んだ澱は、ぜんぶ、ぜんぶ、押し込めて浮上できないようにしていなくちゃ。