住宅街の中ほど、小さな公園のある角っこを曲がってすぐ、私たちの家はある。
いわゆるシェア・ハウスというやつだ。二階建ての、ごく普通の庭付き一軒家だから、「シェアハウス野の花」のプレートがなければ、それとはわからないだろう。
元々は誰かの持ち家だった物件を、運営会社がシェアハウスとして安くで貸してくれているのだ。
折原くんは、五人いる住人のなかで、いちばん若い。大学一年生、つい先月十九歳になったばかり。みんなの弟的存在。
ドアを開けてすぐ、玄関のところで待たされた。
「陽乃さんがそのまま上がったら廊下がびしゃびしゃになります。あとで拭くの、めんどうくさいでしょう?」
そう言って、先にあがって、どこからかバスタオルを持ってきてくれた。しかも二枚。
「……ありがとう。これ、折原くんの?」
「洗濯したてだから綺麗です、いちおう」
もういちどお礼を言って、顔を拭いて髪を拭いて、からだを拭いた。太陽と柔軟剤のにおいがする。
「足も拭いていいっすから」
「ほんとうにごめん」
靴を脱いで、靴箱に手をついて立ったまま片足ずつストッキングを脱ぎ、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、足を拭いた。折原くんは、その間、ずっと私から顔をそむけていた。
ほんとにほんとに、ごめんなさい。
「洗って返すね」
そう言ったのに、いいっすよ、とぶっきらぼうに答えて、折原くんは私の手からバスタオルをうばった。そして、二枚あるうちの、綺麗なままのタオルを、私の頭にぽふっとかけた。
「羽織っててください。肩、寒そう」
こんな、六つも年下の男の子に、なにからなにまでお世話してもらって。情けない、そう思ったら、目の奥が熱くなって視界がぼやけた。
すん、と鼻をすすると、
「何か、あったんですか」
と。折原くんがつぶやいた。
なんでもない、と短く答えて私はぺたぺたと廊下を歩く。住人五人の共同の場所である、ダイニングキッチンへ。
折原くんはすぐに小さな薬缶を火にかけてお湯を沸かしはじめた。私は自分専用の椅子に座って、ふかふかのバスタオルにくるまってまるくなっていた。
まっすぐに部屋に戻ったら、ひとりになってしまう。それがなんだか、怖かった。
ぜんぶがどうでもよくなったまま、もう二度とあたたかい光のある世界とつながれなくなる気がした。つい一時間ほど前に見た、あの光景を、まぶたの裏にふたたび見てしまいそうな気がした。
すぐに、薬缶がしゅんしゅんと湯気を吐き出しはじめる。
「お風呂、すぐに入ったほうがいいんじゃないですか。今、誰もいないみたいだし」
折原くんは、火をとめて、棚からちいさなガラス瓶を取り出した。
「でも、折原くんだって濡れてるし。いま八時ぐらいだし、お風呂、折原くんの時間でしょ?」
「いいんです。俺、今からごはんの準備するし」
「……ごはん」
その単語を聞いたとたん、私のおなかが、きゅるるるる、と、間抜けな音をたてた。
「…………」
「…………」
恥ずかしい。それに、信じられない。
今私はこれ以上ないってぐらい散々な精神状態なわけで、そんななのに食欲だけは平常通りだなんて。雨に打たれた冷たさも、寒さも、彼に裏切られた傷みもどこか遠くにあって、まるで感覚が麻痺したみたいな感じだったのに。
「食べます?」
「……献立、聞いてもいい?」
「ごはん。鯵の塩焼き。作り置きのきんぴら。味噌汁。具は、冷蔵庫の在庫と相談。それと、たまご焼き」
たまご焼き。
折原くんのたまご焼き、ごちそうになったことがある。大好きな味。
思い出すと、ごくりと喉が鳴った。
いわゆるシェア・ハウスというやつだ。二階建ての、ごく普通の庭付き一軒家だから、「シェアハウス野の花」のプレートがなければ、それとはわからないだろう。
元々は誰かの持ち家だった物件を、運営会社がシェアハウスとして安くで貸してくれているのだ。
折原くんは、五人いる住人のなかで、いちばん若い。大学一年生、つい先月十九歳になったばかり。みんなの弟的存在。
ドアを開けてすぐ、玄関のところで待たされた。
「陽乃さんがそのまま上がったら廊下がびしゃびしゃになります。あとで拭くの、めんどうくさいでしょう?」
そう言って、先にあがって、どこからかバスタオルを持ってきてくれた。しかも二枚。
「……ありがとう。これ、折原くんの?」
「洗濯したてだから綺麗です、いちおう」
もういちどお礼を言って、顔を拭いて髪を拭いて、からだを拭いた。太陽と柔軟剤のにおいがする。
「足も拭いていいっすから」
「ほんとうにごめん」
靴を脱いで、靴箱に手をついて立ったまま片足ずつストッキングを脱ぎ、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、足を拭いた。折原くんは、その間、ずっと私から顔をそむけていた。
ほんとにほんとに、ごめんなさい。
「洗って返すね」
そう言ったのに、いいっすよ、とぶっきらぼうに答えて、折原くんは私の手からバスタオルをうばった。そして、二枚あるうちの、綺麗なままのタオルを、私の頭にぽふっとかけた。
「羽織っててください。肩、寒そう」
こんな、六つも年下の男の子に、なにからなにまでお世話してもらって。情けない、そう思ったら、目の奥が熱くなって視界がぼやけた。
すん、と鼻をすすると、
「何か、あったんですか」
と。折原くんがつぶやいた。
なんでもない、と短く答えて私はぺたぺたと廊下を歩く。住人五人の共同の場所である、ダイニングキッチンへ。
折原くんはすぐに小さな薬缶を火にかけてお湯を沸かしはじめた。私は自分専用の椅子に座って、ふかふかのバスタオルにくるまってまるくなっていた。
まっすぐに部屋に戻ったら、ひとりになってしまう。それがなんだか、怖かった。
ぜんぶがどうでもよくなったまま、もう二度とあたたかい光のある世界とつながれなくなる気がした。つい一時間ほど前に見た、あの光景を、まぶたの裏にふたたび見てしまいそうな気がした。
すぐに、薬缶がしゅんしゅんと湯気を吐き出しはじめる。
「お風呂、すぐに入ったほうがいいんじゃないですか。今、誰もいないみたいだし」
折原くんは、火をとめて、棚からちいさなガラス瓶を取り出した。
「でも、折原くんだって濡れてるし。いま八時ぐらいだし、お風呂、折原くんの時間でしょ?」
「いいんです。俺、今からごはんの準備するし」
「……ごはん」
その単語を聞いたとたん、私のおなかが、きゅるるるる、と、間抜けな音をたてた。
「…………」
「…………」
恥ずかしい。それに、信じられない。
今私はこれ以上ないってぐらい散々な精神状態なわけで、そんななのに食欲だけは平常通りだなんて。雨に打たれた冷たさも、寒さも、彼に裏切られた傷みもどこか遠くにあって、まるで感覚が麻痺したみたいな感じだったのに。
「食べます?」
「……献立、聞いてもいい?」
「ごはん。鯵の塩焼き。作り置きのきんぴら。味噌汁。具は、冷蔵庫の在庫と相談。それと、たまご焼き」
たまご焼き。
折原くんのたまご焼き、ごちそうになったことがある。大好きな味。
思い出すと、ごくりと喉が鳴った。