「トリック・オア・トリート! ハッピーハロウィーン!」
 陽気な声が、俺の耳の鼓膜を震わせた。
 夜、会社から出ると、目の前にある大きな広場でハロウィンのイベントをやっているのが見えた。カボチャのお化け――ジャック・オー・ランタンやお化けの飾りつけが賑やかな広場には、派手なメイクをした若者や、かわいらしい仮装をした子どもたちが溢れている。誰もが、日本でようやっと馴染み始めたこの祭りを楽しんでいるようだ。
 しかし。家に帰ってもだれが待っているわけでもない、夜に誰かと約束をするわけでもない独り身の俺には、その様子が眩し過ぎる。秋の冷たい風を首に受け、思わずコートの裾をすぼめて通り過ぎようとした、そのときだった。
「大人も子どもも寄っといで、楽しい魔法菓子はいかがかなー!」
 魔法菓子。その一言で足が止まる。
 ハロウィン、魔法菓子、祭り。それらの単語が頭に浮かんだとき、ふと思い出す人がいた。
 小学生のとき、十月にこの世を去ったクラスメートのことを。


 広場の一角で、隣の市から出店したという魔法菓子店のブース内をちらりと覗く。ネクタイとYシャツにエプロンをかけた男性と、コック服の人物が、せわしくブースを行きかっている。
 興味本位でのぞき込んだだけだったが、エプロンの男性が目ざとく俺の姿を見つけ、ニコニコと笑顔で近づいてきた。俺と同じ三十代らしい彼は、パッと見ではお菓子屋の店員には見えず、どこかの会社員にも見える。
「やあやあお兄さん、変装カップケーキはいかがです? 簡単に仮装ができちゃいますよ。今日はなんと無料! タダでプレゼント!」
「い、いや、俺は……」
「まあまあまあ、ぶっちゃけるとこれ、明日以降は売れないのわかってるんで! もらってってくださいな、色男のお兄さん~。おいしいおいしい、魔法のカップケーキですよ」
 在庫処分かよ、と内心で突っ込みつつ、確かに季節ものは旬が過ぎれば売れないだろうなと納得する。男性が差し出したカップケーキを、半ば強制的に受け取らされると「ささっ、食べてみてくださいな」と勧められた。
 思えばまだ晩飯を食べていない。鼻孔にお菓子の甘い香りがふわんと届き、食欲を誘う。気づけば、一口かぶりついていて――なんだ、これ。
 滑らかなクリームの味は優しい甘さ、素朴な甘みのカボチャ味の生地と、中に入っていたシャキシャキのリンゴジャム(だと思う)の酸味が、控えめに言っても最高だった。なにかスパイスでも使っているのか、ただただ甘ったるいだけでないのがきっといいのだろう。普段、好んで甘いものは食べないが、断言できる。これは美味い。
「美味い」
「でしょう! おっ、お兄さんは黒猫でしたな。ヒゲと耳がなかなかに似合いますぜ」
「黒猫?」 
 なんのことだ? といぶかしげな顔をすると、男性はすっと鏡を差し出した。そこには、頭に黒い猫耳、鼻の頭にはピンク色の猫の鼻、頬には猫のヒゲをはやした、疲れた顔のおっさん……すなわち自分の顔が映っていた。
「うぉえっ?!」
 なんじゃこりゃー! とどこぞの刑事張りの叫び声をあげる。なんだこれはと男性に詰め寄ろうとした瞬間、ブース上にある『魔法菓子店 ピロート』の文字が目に入る。そうだ、俺は魔法菓子の言葉に引かれてここに来たんだった。
「お客さま、大丈夫ですか? 私はこの店のシェフパティシエ、天竺と申します」
 俺の後ろから慌てた様子で声をかけてきたのは、コック服の人物だった。 
 天竺と名乗った彼は、変わった風貌をしていた。穏やかだが低い声は、たしかに男性であったのだが、長い髪をひとまとめにし、肩にゆるりと流している。整った顔立ちは、一見すると女性にも見える。しかし、高さが百七十二センチの俺と同じ目線だし、よくよく見れば、きれいなだけではなく、男性的なものも感じる顔だった。
 簡単に言えば「美形」の一言で済む。
「いや、これって確か、魔法効果、なんですよね? 大丈夫です、説明は聞いていたんですが、驚いてしまって」
 自然界に存在する魔力を持つ食材を使って作られた、高級嗜好品。それが「魔法菓子」だ。食べればまさに魔法がかけられたような、不思議な現象が起きるのだ。今の俺の顔みたいに。
 俺の言葉を聞くと、天竺は「さようでございましたか」と安心した顔を見せた。
「あの、お客さま、お酒は嗜まれますか? 少しですが、シードル……リンゴのお酒がありますので、どうぞ。ああ、こちらもサービスですからお代はいただきません。今日はお祭りですから」
 スッと差し出された小さなプラスチックのコップを受け取る。酒には目がないので、内心儲けもんだと小躍りした。さわやかな酸味と炭酸、芳醇な香り、甘すぎないドライな味が口の中に広がる。
 しばらくは、シードルの風味を味わいながら、物販スペースに並べられた品物を眺めることにした。
 先ほど食べた「変装カップケーキ」に「金のミニフィナンシェ」と「銀のミニマドレーヌ」。アタリなら金や銀の粒が出ると書いてあって、思わず欲が出そうになる。かじれば鈴の音が出る「ベルサブレ」どんな音がするのかと興味がそそられる。
 そして、新作と銘打たれた「ランタン・モンブラン」には酒が使われているとも書いてあり「おいしそうだなあ」と酒好きのそれが出てしまった。まさにお祭りにふさわしいバラエティの豊かさだ。
 俺が小学生のころ、魔法菓子は憧れの存在だった。店も少なかったし、子どもにとっては(当たり前だが)特別なものだったからだ。俺も、誕生日に数えるほどしか食べたことがない。
 この店は、そんな楽しさにあふれている。
『魔法菓子って知ってる? すっごく不思議で、楽しくて、美味しいんだって! 滅茶苦茶高くてお金持ちしか買えないんだよ。大人になったら、私、たくさん買うんだ』
 あの子は、魔法菓子を食べたがっていた。
 だけど、あの子は十月の最後、火事で死んだ。コンセントの埃かなにか――本当に、どんな家にも起こりうるような原因で――火事の前日、秋祭りで楽しく遊んだばかりだったのに。
 こんなことを思い出すのも、多分、同僚に子持ちが多くなってきたとか、独り身をいじられることが多かったとか、本当にそういう些細なことが原因なんだろう。人恋しい、というものか。だから、余計にあの子のことを思い出したのかもしれない。
 小学校の学校行事だった秋祭り。彼女と偶然、一緒に工作を作ることになった。学校の木から採れたどんぐりと枯れ葉を使って、紙皿に貼るという、今考えれば謎の飾り物だ。それでも当時の俺はまあまあ楽しいと思っていたし、同じテーブルでそれを作るあの子とも楽しく話をしていたはずだ。
 なんでもないはずの行事が、悪い方向に思い出深くなってしまった。
 俺の背中で、元気な小学生の声がする。振り返り、男女入り混じり、楽し気な雰囲気で去っていく背中をまじまじと見つめてしまった。
 三十路も過ぎて、そんな感傷に浸る暇などないのは十分承知している。だが、一度思い出してしまったものをどうしたらいいのか、わからない。
 ……どうしてこんなに感傷的になっているのだろうか。シードルのせいだろうか。
 どうしたらいいかわからない感情を持て余していると、先ほどの天竺なるパティシエが「本当は一杯だけなんですけど」と小声で言いながら、お酒のカップを差し出してきた。
「どこかお疲れのようなので。店長には内緒です」
 天竺が言ってちらりと見やったのは、最初に声をかけてくれた眼鏡の男性だ。彼は相変わらず陽気に声をかけ、お祭りを盛り上げている。賑やかさのある場所に戻りたくなくて、差し出されたカップを手に取った。
「秋のお祭りと、その……魔法菓子には、あまりいい思い出がないんだ。貴方の前では申し訳ない話だが」
 悲しい、と言う気持ちが止まらない。表の喧騒が遠ざかっていく。
「……昔、ちょうどこのくらいの季節に、クラスメートを亡くしたことを思い出したんです。まだ小学生で、魔法菓子に憧れていた、女の子でした」
 これまで、他人に話したことはなかった。というよりは、今日の今日まで、こんなにはっきりとあの子のことを思い出すことはなかった。
 俺は歳を取り、しかし、あの子は十歳でこの世を去った。彼女が生きるはずだった人生がなくなった、ということが、突然自分の中に重くのしかかる。ふがいなく泣きそうになったそのときだった。隣に居る彼が不意に口を開いた。
「ハロウィンが本来どんな行事であるのか、お客さまはご存知でしょうか」
 知らないです、と答える。仮装をした子供が、近所の家にお菓子をねだりに行くもの、くらいの認識だ。
「所説ありますが、ハロウィンは日本でいうお盆のようなお祭りらしいです。先祖の霊に混じり魔女や物の怪の類が闊歩するので、それらから身を守るために仮装する……というお話もあります」
 突然語られたハロウィンの豆知識に、俺は首をかしげる。
「お盆、ですか」
「はい。でも、ここは日本なので。この喧騒の中で、いろんなひとが、夏とは違う里帰りをしてるかもしれませんね。信じるか信じないかは、お客さまのご自由に、としか申し上げられませんが」
「……そういうのが、見えるんですか、あなたは」
「さあ、どうでしょう」
 自然な様子で、人差し指を口に当てて小首をかしげる。成人男性らしからぬ仕草だが、妙に似合っている。仮装もしていないはずの彼が、急に魔法使いかなにかに見えてきて……魔法菓子を作る職人なのだから、なにかしら不思議な力を持っていてもおかしくないのでは? とまで思ってしまった。
「ただ、たまにだれかのことに想いを馳せることは、悪くないことだと……僭越ながら思います」
 どこか不器用な笑みを浮かべ、天竺は言う。それは、泣き出しそうになった自分を肯定する優しい言葉に感じられた。
「……ありがとう」
 先程の悲しさが薄れているのがわかった。そのとき目に入ったのは、オレンジ色のモンブランクリームにジャック・オー・ランタンの目と口がある「ランタン・モンブラン」だった。
「あの、すいません。これを一つください」
 
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 家に戻った俺の手には、先程の魔法菓子店で買ったケーキがある。
 帰宅後のルーチンを早々と終え、軽めに晩飯を済ませてしまうと、ケーキを皿に乗せた。
 フォークを差し入れると、モンブランクリームが淡くオレンジ色に光る。まさに「ランタン」だ。せっかくなので部屋を暗くすると、より一層わかりやすくなった。
 あたたかなオレンジ色の光。ケラケラと笑い出しそうなジャック・オー・ランタンの顔は、怖いながらも愛嬌がある。
 一口大にすくって、口に入れる。コクのあるカボチャの甘さとお酒の香り、中身の柔らかな抹茶クリームのほろ苦さが合っている。中心部には粒あんが少し入っていて、アクセントになっている。 
 なるほど、和風のモンブラン。ランタンは提灯か。故郷のお盆に飾る提灯を思い出す。
 ぼんやりと光を眺めていると、そのなかに人影が見えた。
「あっ……!」
 あの子だった。こちらを見て、にこりと笑う。驚いて二度見すると、あの子の姿は消えていた。
 
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「ランタン・モンブラン、すごいなあ」
 名古屋でのハロウィンイベントを終えた夜、急いで片付けを終えた八代が言う。
 彼の手には、淡い光を放つ「ランタン・モンブラン」があった。
 光を放つちょうちんカボチャに、みりんを合わせて甘さを引き出しモンブランクリームに。みりんはいわば「米のリキュール」である。濃厚で風味のあるそれは、カボチャの甘さと相性が良いのだ。普通のモンブランなら中身は真っ白なシャンティイが主流だが、抹茶の苦味と粒あんのアクセントをつけて和風に仕上げた一品だ。
「ランタンいらずな明るさだな。ほーれ、トリック・オア・トリート〜」
 モンブランを蒼衣の顔に近づけ、からかう様子の八代に苦笑するしかない。
「いたずらしなくてもいつも勝手に食べてるだろ、君は」
「雰囲気を楽しみたまえよ。パティシエくんのいけずぅ」
「じゃあ、雰囲気出ることを教えてあげようか?」
「なんだよそれ」
「これの主な材料の『ちょうちんカボチャ』の魔法効果はぼんやり光ることなんだけど、一部の地域で語られてる伝承があってね」
「伝承?」
「稀にね……このカボチャの光を眺めていると、亡くなった人の顔が浮かぶんだ。だから、その地域ではお盆の時期に、収穫したてのちょうちんカボチャを使って、お迎えする習慣があるんだよ」
 ちょうちんカボチャの産地と、魔法菓子職人の間で有名な伝承である。魔法効果ではなく、いわゆる怪談や超常現象といったもので、魔法菓子職人の力では、実現不可能だ。
「珍しいな、季節外れの怪談話なんかして」
「ちょっと、ね」
 亡くしたひとを想ってくれた男性客を思い出したからだ。この伝承は彼に伝えなかったが、もしかしたら、という、なんともいえない予感があった。
「ハロウィンは日本でいえばお盆みたいなもんだからなあ、それもおもしろい話だな」
 だね、とうなずく。
「魔法菓子職人にはできないことだけとね」
「できたらおまえ、ホントの魔法使いになっちまうな」
 そうだね、と答えて、ピロートのハロウィンは終わりを迎えようとしていた。