「久しぶり、蒼衣くん」
東家の玄関で出迎えてくれたのは、旧知の友人であり、八代の妻である良子だった。
ゆったりとした部屋着に、化粧を落としたすっぴんという出で立ち。百五十五センチと小さめの身長ながら、やや三白眼で無表情、きっちり切りそろえたストレートボブヘアが常の良子は、つっけんどんとした、一見近寄りがたい女性に見えるだろう。
「二人ともお疲れ様。簡単な食事しか残ってないけど、食べる?」
「食べるよヨッシー! ありがとう愛してる! 君が用意してくれるならバケットのかけらだろーとサーモンの切れっ端だろうと」
「さっさと中に入りなさい。寒いんだから」
「はーい!」
冷めた態度の良子と、完全に愛妻骨抜きモードになった八代のやりとりに蒼衣はいつもながら微苦笑を浮かべる。
「……あの、僕、突然来ちゃってよかったのかな?」
蒼衣は若干尻込みしながら尋ねる。
「今さらそんなこと言う間柄でもないでしょ。どうせ連れてくると思ってたから大丈夫よ。入って」
良子が顔を傾け、中に入れとジェスチャーをする。早く早くと八代も催促したので、蒼衣は流されるままに靴を脱ぎ始めた。
「じゃ、いくよ」
「あおちゃん、はやく!」
八代の娘・恵美の催促に、蒼衣はほほえみ一つを返し、『スノーマン・ハウス』へ触れる。すると、ヘクセンハウスの屋根に付けた色とりどりのマカロンが柔らかな光を帯び、赤と緑のドレンチェリーがピカピカと点滅しはじめる。薄暗い部屋の中が、一瞬で明るくなった。
クリスマスのイルミネーション――魔法効果を纏った小さな家に、八代と恵美、良子がおお、と感嘆を漏らす。
家の中に招かれ、用意してあった軽食を食べた後。持参した『スノーマン・ハウス』を食べることになったのだ。
「試作したとき以来だなあ。いやはや、薄暗い中だと結構幻想的だ」
「さあ、お楽しみはこれからだよ」
蒼衣がヘクセンハウスをゆっくりと持ち上げる。するとそこには、イチゴで作ったサンタ帽をかぶった、雪だるまがいた。
人差し指で雪だるまの頭をつつく。すると、起き上がりこぼしのように体を揺らした雪だるまが、文字通り《《分裂》》した。
ぽこっ、ぽこっと音を立てて、雪だるまが増えていく。あっという間に、土台には複数の雪だるまがわらわらと動き回っていた。
「わあ、かわいい!」
恵美がジャンプしながらはしゃぐ様子を、大人三人が心底ほほえましいといった表情で眺める。
最初のお披露目を終え、八代が部屋の電気をつけた。
「へえ、ミニチュアハウスで遊んでるみたい。でも、なんで雪だるまが増えるの?」
良子の質問に、それはね、と蒼衣が応える。
「マルチプル・グレープのジュースで風味付けした入れたレアチーズムースだからだよ。周りは薄いぎゅうひで包んであるから、洋風大福って言っても差し支えないかも。直前まで凍らせてあったから、もう少し動き回るかなあ」
「マルチプル……増える、ねえ」
「こいつ、つかんでみようかな」
蒼衣の説明を横で聞いていた八代が、ちょこちょこと動き回っている雪だるまを指でつまむ。つままれた雪だるまはおとなしくなり、やがて動かなくなった。
「あの、食べごろになると、動きは止まるからそれからでもいいんだけど……」
「いや、エビの躍り食いみたいだな~と思って」
と八代がこぼすと、蒼衣は良子と思わず顔を見合わせた。
「ヤーくん、こういう感性の持ち主だけど、これでよくケーキ屋の店長やってられるわね。シェフパティシエとして、どうなのこれは」
「いやあ、はは、いいんじゃないかな。率直な意見って大事だよ……たぶん」
どうコメントしていいか分からず、戸惑った答えを出すと、良子はどこか呆れたような顔になった。
「そうやって、いつも蒼衣くんはヤーくんを甘やかすからいけない……」
「俺の自慢のシェフパティシエは優しいんですぅ」
「あなたは黙って雪だるまくんでも食べてれば?」
「パパー、一緒に食べよう!」
パパ一つちょうだい、と抱きつく恵美に、八代は「ほら優しく持つんだぞ」と雪だるまを渡す。
「いただきまーす」
二人同時に口に運ぶ。瞬間、親子の顔が喜びにほころび、蒼衣にも気持ちが伝わってくる。
「おいし~い! あっ、イチゴの味だった! あおちゃん、中のおいしいのなに?」
「コンフィチュール。簡単に言うとジャムだよ。四種類入れてみたんだ」
「パパはマンゴーだ。ほら、ヨッシーもあーん!」
雪だるまをひとつまみした八代が、満面の笑みで良子に迫る。しかし良子はぷいと顔をそらした。
「いや、自分で食べられるから」
「つれないなあ。いけずぅ」
八代を適当にあしらった良子も、動きの止まった雪だるまを手に取り、口に入れた。
ほんの少しだけ、ぴくりと眉が動くのが見える。伝わってくるのは「おいしい」の気持ちだ。
「これ、カシスだ。レアチーズのムースもほんのり白ブドウの風味がして、さっぱりしてる」
ありがとう、と返すと、良子は二個目の雪だるまを手に取った。
「ヨッシー、おいしいよなこれ。もう、とまらないやめられないって感じ? 小さいからいくらでも食べられるし、さっぱりしてるし」
「何個このかわいい雪だるまを口に投げ込んだの。あと、いつまでエビネタを引っ張るつもりなのこのオッサンは」
「ママ-、わたし三個も食べちゃった! ママは? ママは何個?」
「三個も食べたの? じゃあきちんと歯磨きしないとね。ママは今から二個目をもらうの」
「ねえねえ、どの子にするの?」
どれにする? と、ヘクセンハウスの周りの雪だるまを眺める東一家を、蒼衣は穏やかな心持ちで眺めている。
三人から伝わる「おいしくて楽しい」気持ち。美味しいものを、大好きな家族にも楽しんでほしいという願い。
あたたかく、愛おしく、素敵なものだ。
しかし、心のどこかで。
こんな理想的な家族の場所に、なぜ自分がいるのだろうか。蒼衣の体は、自然に後ずさる。
家族、という形を、蒼衣は八代ほど信じることができない。自分自身の人生で精一杯な自分が、他人の人生に寄り添い、生活を共にできるのだろうかと自問自答することが、近年密かに多くなった。
八代のそばにいたい、という願いは、決して家族になりたいというものではない。
恋人でもなく、家族でもなく『魔法菓子店 ピロート』という場所で、彼とバディでありたい、という意味合いが強い。
それが、蒼衣の求めていた場所であり、関係だ。
だが、それは時として、八代の「家族の時間」を奪うことにもなる。
三人を愛おしいと思うからこそ、こうして受け入れられることが、つらいと思う――あまりにも身勝手な感情が、蒼衣の中で渦巻く。
そのときだった。
「蒼衣くん、なにしてんの」
良子が、蒼衣の肩を軽く叩いた。
「あ、え、良子さん?」
「ぼーっとしてると、雪だるまがぼんくら店長とちびっ子に全部食べられちゃう」
「ああ、いや、僕は。それは、みんなのために用意したものだし」
だから僕はいいよ、という蒼衣の言葉に、良子が「違う」と短くかぶせてきた。
「みんな、の中には、貴方もいるの。あのねえ、これでも私と貴方、十三年の付き合いがあるの忘れた?」
「それは、その」
「貴方がただの夫の友人だったら、わざわざ食事なんて用意しない。どっかで食べてきてください、って言っちゃう。私、そんなにいい妻じゃないし。貴方は私の友人なの。一年で一番忙しい時期を乗り越えた友人を少しでもねぎらいたい、一緒にクリスマスを過ごしたいって思うの、いけないこと? だから勝手に拗ねないで」
良子とは、最初こそ友人の恋人、というポジションではあったが、八代とは違う冷静な視点と、敬遠されがちな見た目と反する面倒見の良さは、蒼衣にとって好ましい性格だった。故に、友人として親交を深めていった経緯がある。
良子から伝わってくる気持ちは、間違いなく、友人である蒼衣を心配するものだ。
蒼衣は、自分勝手な憐憫に浸っていたことを恥じた。
「……ごめん」
「わかればよろしい」
ほら、と手を引かれ、八代と恵美に近寄る。
「蒼衣、家のクッキーも美味しいな! バニラの甘い香りがめっちゃする!」
「おいしーい!」
二人の手元には。パキパキと割られたクッキーがあった。
ヘクセンハウスのクッキーには、バニラシュガーをふんだんに使っている。本来はスパイス入りのものが多いが、子どもでも食べやすいようにアレンジしたのだった。
「あら、二人ともしっかり歯磨きしてよ。あと、ヤーくんと蒼衣くんは、食べたらお風呂に入ってきたら?」
お店に戻るんでしょ、と良子は言う。
そう、クリスマスイブは終わったが、明日が本来のクリスマスである。予約分も当然用意しなければならないし、当日もケーキが出るだろう。
「ありがとう、良子さん」
「さすがヨッシー大好き! 愛してる!」
「……そこのぼんくら眼鏡はちょっとは黙ったらどうなの」
ストレートな八代の愛情表現を、良子はなかなか素直に受け取らない。蒼衣自身も、八代の直球な言葉を受け取るのは気恥ずかしく思うので、良子がつれない態度なのも理解できる。
少しくらい、良子の味方をしてもいいだろう。
「八代、口説き文句がワンパターンだってさ」
案の定、八代は目を丸くする。
「確かに、蒼衣くんの言う通り」
「あ、あ、蒼衣に言われるの、なんか悔しいんですけど! っていうかヨッシ―は俺の味方じゃないんですか!」
「私は自分の心に素直なだけ」
「パパもママもあおちゃんも、なかよしだねえ」
やがて夫婦漫才に発展しつつある二人を見て、蒼衣の口に自然と笑みが浮かぶ。
真っ直ぐで賑やかな親友も、冷静で世話焼きな友人も、ニコニコとそれを眺める幼子も。
確かに今、自分の目の前に――手の届く場所にあるのだと、蒼衣は思った。
名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった。
……正確には、人ではないのだけれども。
暗闇の中でも光る目に、機敏な動き。姿を消したと思っていたらいつの間にか足下にいて、じっと僕を見つめていたりするのだから不思議だ。
「やあ、今日も会ったね」
閑静な住宅街の中ぼんやりとした街灯の下、こちらを見据える双眸がある。
その人とは、黒い野良猫。
とあるきっかけで勤めた師匠の店を「武者修行をしてこい」と半ば追い出された僕は(もちろん、円満退職しているので問題はないし、師匠との関係も良好だ)東京の片隅にある魔法菓子店に勤め始めた。
勤務を始めて約一ヶ月経った頃、帰り道で見かけた猫さんに、つい話しかけてしまった。
おそらく、新しい店で働くこと、元々普通の洋菓子店で働けなくなった過去、おまけに、知り合いも皆無の知らない街――不安だらけの生活だったのが原因だと、今なら思う。
ほんの一言、二言。お腹が空いたよ、とか、今日は雨だね、とか。本当にささいな独り言から始まったのだが、今日は、どうも気分が沈んでいた。
「今日もまた、うまくやれなくてね」
優しく頼もしい師匠が、ゆっくりと時間をかけて教えてくれたのは、魔法菓子の製造技術と、この世界で生き抜くための処世術。
幸い、師匠の紹介という体もあってひどい扱いはされない。それでも、仕事の仕方や雰囲気が変われば、戸惑いは大きい。
おまけに、休日は寝ているか、少し元気があれば溜めた家事をするだけで時間が過ぎ、若干疲れていたのも原因かもしれない。
「……手際が悪い、って言われたのがちょっとひっかかっちゃって」
その後、作業スペースの位置や、使う道具に関して相談できたこと、他の職人の動線を再度確認して、自分がどう動けば良いのかを考える機会に恵まれたのは幸運だった。今の店のシェフはそういった対処が得意なひとらしく、頭ごなしに叱責されることはなかったのも、また幸いだったはずなのだが。
「情けない話だけど、指摘をもらってショックなのは悲しいんだ。そこは、自分でも『悲しい』って思って良いんだ、って、師匠は言っていた。でも、それはあくまで自分の中のことであって、他人にそれを押しつけてはいけないって。……君に聞かせるのも、本当は少しルール違反なのかもしれないけれど」
にゃあ、と猫さんはひと鳴きして、じっと僕を見る。
「……うん。明日は、少しでも変われるといいなって、思うよ」
――少しずつ慣れていけばいい、わからないことは何度でも聞いていい。相手に嫌がられてもそれは一瞬だから気にするな。指摘は辛いが、それは君を否定するものではないんだよ、蒼衣くん――。
脳内に師匠の言葉を思い出して、自分を奮い立たせる。
にゃ、と小さく猫さんが鳴いた。彼(彼女かもしれない)は、特になにか要求してくることはないし、僕も、とりわけ動物が好きなわけでもないので、ふれあったことはない。
しかし、鋭い眼光が自分を見つめてくるのが、どこか「見てくれている」気がして、実のところうれしい。あの目は不思議な魅力があるんだな、と思う。
「ありがとう、猫さん」
そう言うと、猫さんは背を向けて、建物の間にするりと入り込んだ。
「今夜もさびしくないよ」
その言葉が届かなくてもかまわなかった。情けない大人の自己満足なのはわかっている。それでも、このひとときが確実に自分の心を癒やしてくれているのは事実だった。
:::
猫の顔に型抜きしたブラックココアのサブレ生地に、つやつやのオレンジピールの砂糖漬けを目に見立てて。ホワイトチョコレートで耳・口・ひげを書けば、立派な猫の顔だ。
「仕上げはオレンジピールをたっぷり入れたバタークリームを挟んで……できあがり。『黒猫サンド』です」
「これはこれは、珍しく可愛らしいじゃないか、蒼衣にしては」
閉店後のピロート厨房内。今年のハロウィン新作を八代に差し出すと、少し予想外のコメントが飛んできて「珍しいかな」と聞き返す。
「フランス菓子に傾倒してるのは知ってるから、こういう露骨にかわいいのは作らないとばかり」
「いやだなあ『もうちょっと、ファンシーでかわいいヤツが欲しい。マカロンとかクッキーとかの感じで』って言ったの、君でしょう、東店長?」
「言ったけどさ、驚いちゃって。でもなぜ黒猫?」
「……黒猫さんには、いろいろと恩があるので」
かわいいヤツ、というリクエストを受けて、いろいろと資料を見ているときだった。動物モチーフのお菓子を見たとき、東京での修業時代、心細かった時期に見かけたあの猫さんを思い出したからだ。
いつの間にか、あの猫さんと会うことも少なくなって、店を離れる頃には存在すらすっかり忘れてしまっていたのだが。きっと、仕事への気負いがなくなってきたから、猫さんに癒やしを求めることも少なくなったのだろう。
「その話はまた聞かせてもらおう。まずは試食だ」
ああ、顔を食べるのはもったいない。そう言いながらも八代は遠慮なく猫の顔をかじる。
「ビターなココアとさわやかなオレンジの組みあわせ、良いよな。バタークリームも口ん中で上品に溶けるし、サブレ生地との相性もいい。噛めば噛むほどオレンジピールの香りが広がって、やっぱ美味い!」
言葉と同時に「おいしい……けど、もっと」という、さらになにかを求めるような気持ちが伝わってくる。
「八代、なんかひっかかってる?」
「俺はチョコとオレンジの組み合わせが好きだからいいんだけど、この味、チョコミントばりに好みが分かれるから、別の味もほしい……ニャー……!?」
語尾に付いた突然の猫の鳴き声に、発言した八代本人が驚きの表情を見せる。しかもこの猫の声は人間が真似する類の「ニャー」ではなく、本物の猫の声と聞き間違えるレベルのそれである。
「げっ、魔法効果、まさか……ニャ~」
「……『キャット・カカオニブ』を少量使いましたので……その……本物そっくりな猫の声が時折出るので……その……」
耐えられず、ふふっ、と僕の口から笑いが漏れる。
「……なんつうものを作ったんだ、ニャー」
仏頂面で「ニャー」と鳴く八代が面白くて「これ良子さんに教えてもいい?」と思わず聞いてしまった。八代が「蒼衣にしてやられた~くやしい、ニャー」とぼやくのが、また面白くて笑ってしまった。
「面白効果のため、じゃないんだけどね、実は」
八代を見送り、しかし素直に部屋に戻る気分にもなれなかった僕は、黒猫サンドを一つ手に、夜の住宅街をぼんやり歩いていた。
ここはあのときの東京じゃないから、あの猫さんがいるはずがないのだけれど。
「……ちょっと話ができたらいいな、って思っちゃっただけ」
これはあくまで鳴き声が再現できるだけで、聞いたところで猫の言葉は理解できない。
会話は相手の言葉を理解しなければならないから、よしんば話をしようとしても、コミュニケーションなど成立しない。
それでも。相手のわかる言葉で、なにかを伝えたい。
通りかかった公園のベンチで、一人座って『黒猫サンド』をかじる。ニャー、と猫の声が自分の口からでた。
静かで、優しい夜だった。
***
このお話は、
『天竺蒼衣のお話は
「名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった」で始まり「静かで優しい夜だった」で終わります。
#こんなお話いかがですか
https://shindanmaker.com/804548』
の診断メーカーより考えました。
2017-10-07
第三十七回#Twitter300字ss
お題:「酒」より改稿
※八代の「アルコール分解酵素が少ない」設定が固まる前(本編完結前)に書いたお話なので若干の矛盾がありますがご容赦ください
:::
「フルーティな吟醸香、甘いクリーム、リッチなブリオッシュ、超絶美味い!」
店長の東八代は、フォークを持ったまま身悶えた。
口の中でシロップがじゅわりと広がる。純米大吟醸酒サバラン『米寿』は、魔法菓子店ピロートの通が好む一品だ。
「世界が明るい! 今ならなんでもできる!」
「それ、酔ってるだけ。下戸なのに無理しないの」
酔った八代を横目に、パティシエの蒼衣は呆れた顔だ。
「八十八歳以上の人が食べれば神様の力が宿るかもしれないけど。八代には無理だよ」
「じゃあおれ、それまで生きるから、そんときに食わせてくれ」
「……僕も一緒に八十八歳まで生きろってこと?」
真面目に頷く八代を見て、蒼衣は心の底から嬉しそうな顔をした。
「トリック・オア・トリート! ハッピーハロウィーン!」
陽気な声が、俺の耳の鼓膜を震わせた。
夜、会社から出ると、目の前にある大きな広場でハロウィンのイベントをやっているのが見えた。カボチャのお化け――ジャック・オー・ランタンやお化けの飾りつけが賑やかな広場には、派手なメイクをした若者や、かわいらしい仮装をした子どもたちが溢れている。誰もが、日本でようやっと馴染み始めたこの祭りを楽しんでいるようだ。
しかし。家に帰ってもだれが待っているわけでもない、夜に誰かと約束をするわけでもない独り身の俺には、その様子が眩し過ぎる。秋の冷たい風を首に受け、思わずコートの裾をすぼめて通り過ぎようとした、そのときだった。
「大人も子どもも寄っといで、楽しい魔法菓子はいかがかなー!」
魔法菓子。その一言で足が止まる。
ハロウィン、魔法菓子、祭り。それらの単語が頭に浮かんだとき、ふと思い出す人がいた。
小学生のとき、十月にこの世を去ったクラスメートのことを。
広場の一角で、隣の市から出店したという魔法菓子店のブース内をちらりと覗く。ネクタイとYシャツにエプロンをかけた男性と、コック服の人物が、せわしくブースを行きかっている。
興味本位でのぞき込んだだけだったが、エプロンの男性が目ざとく俺の姿を見つけ、ニコニコと笑顔で近づいてきた。俺と同じ三十代らしい彼は、パッと見ではお菓子屋の店員には見えず、どこかの会社員にも見える。
「やあやあお兄さん、変装カップケーキはいかがです? 簡単に仮装ができちゃいますよ。今日はなんと無料! タダでプレゼント!」
「い、いや、俺は……」
「まあまあまあ、ぶっちゃけるとこれ、明日以降は売れないのわかってるんで! もらってってくださいな、色男のお兄さん~。おいしいおいしい、魔法のカップケーキですよ」
在庫処分かよ、と内心で突っ込みつつ、確かに季節ものは旬が過ぎれば売れないだろうなと納得する。男性が差し出したカップケーキを、半ば強制的に受け取らされると「ささっ、食べてみてくださいな」と勧められた。
思えばまだ晩飯を食べていない。鼻孔にお菓子の甘い香りがふわんと届き、食欲を誘う。気づけば、一口かぶりついていて――なんだ、これ。
滑らかなクリームの味は優しい甘さ、素朴な甘みのカボチャ味の生地と、中に入っていたシャキシャキのリンゴジャム(だと思う)の酸味が、控えめに言っても最高だった。なにかスパイスでも使っているのか、ただただ甘ったるいだけでないのがきっといいのだろう。普段、好んで甘いものは食べないが、断言できる。これは美味い。
「美味い」
「でしょう! おっ、お兄さんは黒猫でしたな。ヒゲと耳がなかなかに似合いますぜ」
「黒猫?」
なんのことだ? といぶかしげな顔をすると、男性はすっと鏡を差し出した。そこには、頭に黒い猫耳、鼻の頭にはピンク色の猫の鼻、頬には猫のヒゲをはやした、疲れた顔のおっさん……すなわち自分の顔が映っていた。
「うぉえっ?!」
なんじゃこりゃー! とどこぞの刑事張りの叫び声をあげる。なんだこれはと男性に詰め寄ろうとした瞬間、ブース上にある『魔法菓子店 ピロート』の文字が目に入る。そうだ、俺は魔法菓子の言葉に引かれてここに来たんだった。
「お客さま、大丈夫ですか? 私はこの店のシェフパティシエ、天竺と申します」
俺の後ろから慌てた様子で声をかけてきたのは、コック服の人物だった。
天竺と名乗った彼は、変わった風貌をしていた。穏やかだが低い声は、たしかに男性であったのだが、長い髪をひとまとめにし、肩にゆるりと流している。整った顔立ちは、一見すると女性にも見える。しかし、高さが百七十二センチの俺と同じ目線だし、よくよく見れば、きれいなだけではなく、男性的なものも感じる顔だった。
簡単に言えば「美形」の一言で済む。
「いや、これって確か、魔法効果、なんですよね? 大丈夫です、説明は聞いていたんですが、驚いてしまって」
自然界に存在する魔力を持つ食材を使って作られた、高級嗜好品。それが「魔法菓子」だ。食べればまさに魔法がかけられたような、不思議な現象が起きるのだ。今の俺の顔みたいに。
俺の言葉を聞くと、天竺は「さようでございましたか」と安心した顔を見せた。
「あの、お客さま、お酒は嗜まれますか? 少しですが、シードル……リンゴのお酒がありますので、どうぞ。ああ、こちらもサービスですからお代はいただきません。今日はお祭りですから」
スッと差し出された小さなプラスチックのコップを受け取る。酒には目がないので、内心儲けもんだと小躍りした。さわやかな酸味と炭酸、芳醇な香り、甘すぎないドライな味が口の中に広がる。
しばらくは、シードルの風味を味わいながら、物販スペースに並べられた品物を眺めることにした。
先ほど食べた「変装カップケーキ」に「金のミニフィナンシェ」と「銀のミニマドレーヌ」。アタリなら金や銀の粒が出ると書いてあって、思わず欲が出そうになる。かじれば鈴の音が出る「ベルサブレ」どんな音がするのかと興味がそそられる。
そして、新作と銘打たれた「ランタン・モンブラン」には酒が使われているとも書いてあり「おいしそうだなあ」と酒好きのそれが出てしまった。まさにお祭りにふさわしいバラエティの豊かさだ。
俺が小学生のころ、魔法菓子は憧れの存在だった。店も少なかったし、子どもにとっては(当たり前だが)特別なものだったからだ。俺も、誕生日に数えるほどしか食べたことがない。
この店は、そんな楽しさにあふれている。
『魔法菓子って知ってる? すっごく不思議で、楽しくて、美味しいんだって! 滅茶苦茶高くてお金持ちしか買えないんだよ。大人になったら、私、たくさん買うんだ』
あの子は、魔法菓子を食べたがっていた。
だけど、あの子は十月の最後、火事で死んだ。コンセントの埃かなにか――本当に、どんな家にも起こりうるような原因で――火事の前日、秋祭りで楽しく遊んだばかりだったのに。
こんなことを思い出すのも、多分、同僚に子持ちが多くなってきたとか、独り身をいじられることが多かったとか、本当にそういう些細なことが原因なんだろう。人恋しい、というものか。だから、余計にあの子のことを思い出したのかもしれない。
小学校の学校行事だった秋祭り。彼女と偶然、一緒に工作を作ることになった。学校の木から採れたどんぐりと枯れ葉を使って、紙皿に貼るという、今考えれば謎の飾り物だ。それでも当時の俺はまあまあ楽しいと思っていたし、同じテーブルでそれを作るあの子とも楽しく話をしていたはずだ。
なんでもないはずの行事が、悪い方向に思い出深くなってしまった。
俺の背中で、元気な小学生の声がする。振り返り、男女入り混じり、楽し気な雰囲気で去っていく背中をまじまじと見つめてしまった。
三十路も過ぎて、そんな感傷に浸る暇などないのは十分承知している。だが、一度思い出してしまったものをどうしたらいいのか、わからない。
……どうしてこんなに感傷的になっているのだろうか。シードルのせいだろうか。
どうしたらいいかわからない感情を持て余していると、先ほどの天竺なるパティシエが「本当は一杯だけなんですけど」と小声で言いながら、お酒のカップを差し出してきた。
「どこかお疲れのようなので。店長には内緒です」
天竺が言ってちらりと見やったのは、最初に声をかけてくれた眼鏡の男性だ。彼は相変わらず陽気に声をかけ、お祭りを盛り上げている。賑やかさのある場所に戻りたくなくて、差し出されたカップを手に取った。
「秋のお祭りと、その……魔法菓子には、あまりいい思い出がないんだ。貴方の前では申し訳ない話だが」
悲しい、と言う気持ちが止まらない。表の喧騒が遠ざかっていく。
「……昔、ちょうどこのくらいの季節に、クラスメートを亡くしたことを思い出したんです。まだ小学生で、魔法菓子に憧れていた、女の子でした」
これまで、他人に話したことはなかった。というよりは、今日の今日まで、こんなにはっきりとあの子のことを思い出すことはなかった。
俺は歳を取り、しかし、あの子は十歳でこの世を去った。彼女が生きるはずだった人生がなくなった、ということが、突然自分の中に重くのしかかる。ふがいなく泣きそうになったそのときだった。隣に居る彼が不意に口を開いた。
「ハロウィンが本来どんな行事であるのか、お客さまはご存知でしょうか」
知らないです、と答える。仮装をした子供が、近所の家にお菓子をねだりに行くもの、くらいの認識だ。
「所説ありますが、ハロウィンは日本でいうお盆のようなお祭りらしいです。先祖の霊に混じり魔女や物の怪の類が闊歩するので、それらから身を守るために仮装する……というお話もあります」
突然語られたハロウィンの豆知識に、俺は首をかしげる。
「お盆、ですか」
「はい。でも、ここは日本なので。この喧騒の中で、いろんなひとが、夏とは違う里帰りをしてるかもしれませんね。信じるか信じないかは、お客さまのご自由に、としか申し上げられませんが」
「……そういうのが、見えるんですか、あなたは」
「さあ、どうでしょう」
自然な様子で、人差し指を口に当てて小首をかしげる。成人男性らしからぬ仕草だが、妙に似合っている。仮装もしていないはずの彼が、急に魔法使いかなにかに見えてきて……魔法菓子を作る職人なのだから、なにかしら不思議な力を持っていてもおかしくないのでは? とまで思ってしまった。
「ただ、たまにだれかのことに想いを馳せることは、悪くないことだと……僭越ながら思います」
どこか不器用な笑みを浮かべ、天竺は言う。それは、泣き出しそうになった自分を肯定する優しい言葉に感じられた。
「……ありがとう」
先程の悲しさが薄れているのがわかった。そのとき目に入ったのは、オレンジ色のモンブランクリームにジャック・オー・ランタンの目と口がある「ランタン・モンブラン」だった。
「あの、すいません。これを一つください」
:::
家に戻った俺の手には、先程の魔法菓子店で買ったケーキがある。
帰宅後のルーチンを早々と終え、軽めに晩飯を済ませてしまうと、ケーキを皿に乗せた。
フォークを差し入れると、モンブランクリームが淡くオレンジ色に光る。まさに「ランタン」だ。せっかくなので部屋を暗くすると、より一層わかりやすくなった。
あたたかなオレンジ色の光。ケラケラと笑い出しそうなジャック・オー・ランタンの顔は、怖いながらも愛嬌がある。
一口大にすくって、口に入れる。コクのあるカボチャの甘さとお酒の香り、中身の柔らかな抹茶クリームのほろ苦さが合っている。中心部には粒あんが少し入っていて、アクセントになっている。
なるほど、和風のモンブラン。ランタンは提灯か。故郷のお盆に飾る提灯を思い出す。
ぼんやりと光を眺めていると、そのなかに人影が見えた。
「あっ……!」
あの子だった。こちらを見て、にこりと笑う。驚いて二度見すると、あの子の姿は消えていた。
:::
「ランタン・モンブラン、すごいなあ」
名古屋でのハロウィンイベントを終えた夜、急いで片付けを終えた八代が言う。
彼の手には、淡い光を放つ「ランタン・モンブラン」があった。
光を放つちょうちんカボチャに、みりんを合わせて甘さを引き出しモンブランクリームに。みりんはいわば「米のリキュール」である。濃厚で風味のあるそれは、カボチャの甘さと相性が良いのだ。普通のモンブランなら中身は真っ白なシャンティイが主流だが、抹茶の苦味と粒あんのアクセントをつけて和風に仕上げた一品だ。
「ランタンいらずな明るさだな。ほーれ、トリック・オア・トリート〜」
モンブランを蒼衣の顔に近づけ、からかう様子の八代に苦笑するしかない。
「いたずらしなくてもいつも勝手に食べてるだろ、君は」
「雰囲気を楽しみたまえよ。パティシエくんのいけずぅ」
「じゃあ、雰囲気出ることを教えてあげようか?」
「なんだよそれ」
「これの主な材料の『ちょうちんカボチャ』の魔法効果はぼんやり光ることなんだけど、一部の地域で語られてる伝承があってね」
「伝承?」
「稀にね……このカボチャの光を眺めていると、亡くなった人の顔が浮かぶんだ。だから、その地域ではお盆の時期に、収穫したてのちょうちんカボチャを使って、お迎えする習慣があるんだよ」
ちょうちんカボチャの産地と、魔法菓子職人の間で有名な伝承である。魔法効果ではなく、いわゆる怪談や超常現象といったもので、魔法菓子職人の力では、実現不可能だ。
「珍しいな、季節外れの怪談話なんかして」
「ちょっと、ね」
亡くしたひとを想ってくれた男性客を思い出したからだ。この伝承は彼に伝えなかったが、もしかしたら、という、なんともいえない予感があった。
「ハロウィンは日本でいえばお盆みたいなもんだからなあ、それもおもしろい話だな」
だね、とうなずく。
「魔法菓子職人にはできないことだけとね」
「できたらおまえ、ホントの魔法使いになっちまうな」
そうだね、と答えて、ピロートのハロウィンは終わりを迎えようとしていた。
「水着なんて持ってないのに」
断る言葉が逆効果だったと気づいたのは、ショッピングモールの衣料品売り場に連れて行かれた後だった。いつの間にかラッシュガードなる上着とシンプルな短パンのような水着が八代の手にある。
八月下旬の月曜日、夕方。僕と八代の店「魔法菓子店 ピロート」の開店を約二週間前に控えた日。今日予定されていた作業を早めに切り上げ、八代の運転する車で向かったのは、名古屋市の港近くにある大型商業施設付属のプールだった。
夜でもプールが開いてるのかと驚いたが、どうやら最近は「ナイトプール」なる夜の営業があるらしい。
「水着持ってないなら用意しないとな。もらったチケットが四人分なんだよ。しかも今月中。開店準備で忙しいからこそ、今日はあえて……遊ぶ! 息抜きだと思ってくれたまえ、パティシエくん」
八代は会社員時代から、仕事とプライベートの切り替えが上手い、と聞いてはいたが、実際に一緒に仕事をするとよくわかる。どうしてもだらだらと仕事をしたがる自分には新鮮な視点だ。でなければ、寝る間も惜しんでお菓子を作り続けかねないし、要らぬ心配をしすぎて無駄なことをしていると思う。
適度に休憩を促してくれたり、開店までに必要な分量ができたことを教えてくれたり。必要な手続きや書類のことを気にかけてくれたり。
開店準備が慌ただしいのに疲れがたまっていないのは、きっと彼のこうした配慮もある。
そういった理由もあって出かけることになったのだが、水着を持ってない僕の分を調達するために、プールに行く前に店に寄ったのだった。
「一番手頃なのを選んだから財布は心配するな」
「そういう問題じゃなくて。その、プールって感じじゃないでしょう、僕」
それでも行き渋ったのは、プールはもとより、自分自身が娯楽施設ではしゃげるような性格をしていないからだ。それに、誘うなら親戚か、もっと親しい友だち――恵美ちゃんの、保育園の知り合い――がいるだろう。そう言うと八代は、
「他所のお子さん一人預かるよりは、勝手知ったる成人男性の面倒見るほうがよっぽど楽だ。喉が渇いたら自分でお茶も飲めるし、飛び込むでもないし、走り回らないし」
と、それ以外の答えはありません、と言わんばかりの答えを返してきた。
……五歳児と比べられるのも情けない気がするが、提供主がそう言うならと、これ以上言い訳を並べるのは止めた。
どこを見ても人、人。人いきれとはまさにこのこと。
煌々と明かりに照らされるプールを見て、人の多さと賑やかさに息を呑んだ。
「僕はなにをすれば」
戸惑っていると、あおちゃんこっち! とかわいらしい水着を着た恵美ちゃんが僕の手を引いた。「付き合ってもらっていいか」と言う八代に快諾の返事をし、導かれるままに歩き出す。
慣れないサンダルのせいでおぼつかない足取りの男と、五歳の女の子の組み合わせは奇特に見えるのか、道行く人が若干訝しげな表情だ。いたたまれなさを感じながらも、恵美ちゃんが子供用プールに入ってしまえば、あとは似非監視員をすればいいだけだった。
子供用プールで手を付いた恵美ちゃんは、
「あおちゃん、見て、ワニさん泳ぎできた」
と、保育園で覚えた泳ぎを自慢してくれた。
すごいとほめれば、小さなワニ恵美ちゃんはニコニコ笑う。一緒にやろう、と促されたがやんわりとお断りする。このプールで大人が寝転ぶには邪魔だろう。あおちゃんはパパよりちょっとおっきいもんね、とあきらめてくれたものの、たぶん君のパパでもできないと思うよ、とは言えなかった。
人が少なくなったときを見計らい、手をつないでバタ足の練習をしたり、仰向けになってラッコのまねをしたり。特にラッコのまねはツボに入ったらしく、何度もせがまれた。正直、同じことのくりかえしなので、飽きてきてしまうのだが、預かった以上はいい加減なことはできないと、辛抱強く付き合っていた……つもりだったのだが。
少し、疲れたな。そう思って恵美ちゃんから目を離した一瞬だった。「きゃあ」という声が聞こえて、慌てて振り返る。
「今、この子、足が滑って転びそうになって。倒れてはないから大丈夫だと思うけど」
同い年くらいの男性が、恵美ちゃんの背を支えていた。すわ不審者か、と思ったが、言葉の意味と姿勢から、逆に助けてもらったのだと理解して、血の気が引く。
「すいません! 一瞬、目を離してしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ~。お嬢ちゃん、助けるためとはいえ、いきなり体を触ってごめんね」
では僕はこれでと男性は言い残し、自分の子どもらしい男の子の所へ行ってしまった。
「ごめんね恵美ちゃん、僕が見てなかったから。痛いところ、ない? 大丈夫?」
恵美ちゃんは転んでない、大丈夫と言うが、直接見ていない僕は気が気でない。しかし、いくら親しいとはいえ、女の子の体をそうジロジロ見られず戸惑っていると、八代が良子さんと共に現れた。焦る僕は「スライダーに乗ろうぜ」と誘ってくる彼を制し、先ほどの転倒のことを話した。
八代は良子さんと一緒に恵美ちゃんの体を確認したあと「大丈夫だと思う」と僕に言った。
「頭をぶつけてなけりゃ、そんなに心配しなくても。怪我もしてないし」
「でも、僕がいたのに……申し訳ない」
未だオロオロする僕の肩を八代が叩く。
「大丈夫だって。親だって四六時中監視できないから、気にすんな気にすんな」
スライダー行こうぜ~、といつもの調子の八代に、僕のほうが釈然としない気持ちを抱く。だけど、恵美ちゃんも普段どおりの様子なので、とりあえずは納得する方向で自分の気持ちをなだめた。
「でも八代、スライダーは身長が足らないんじゃ」
恵美ちゃんはまだ五歳。遊べない遊具があるのはよくあることなのでそこを気にしていたのだが、八代は「うんにゃ」と首を横に振る。
「乗るのはお前と俺」
「僕!?」
聞けば、恵美ちゃんは前々から良子さんと一緒に泡のプールで遊びたいと言っていたらしい。いつの間にかプールを出て良子さんと去って行く恵美ちゃんは「いってらっしゃーい」と僕に向かって手を振った。
「ハブられたかわいそうなパパに付き合ってくれよ、早く行こうぜー」
楽しげな八代に肩を組まれて、半ば引っ張られる形で連れて行かれた。
「……存外高いところから滑るんだね」
スライダーに乗るための階段を登り切ると、プール全体が見下ろせるくらいの高さだと気づいて、思わず足がすくむ。
「あれ、苦手だっけ」
「いや、その」
嫌だと突っぱねるほどではないが、普段しないことへの不安はすぐに抱く癖はある。どうなるかわからないことにはネガティブなイメージを持ちやすい。スライダーは「地上に戻る」というのは分かっていても、外から見るだけではわからないあの曲がったところや、ざあざあと大きな水の音、なによりも、地上から何メートル離れているのか考えたくないくらいに高いので、恐怖心が勝る。
だが、後ろに待っている人が居ることに気づいて、慌ててライフジャケットを着込む。大人二人は余裕で入れる大きな浮き輪(で、良いのだろうか)に乗ると、一気に滑っていった。勢いよく滑り落ち、曲がりくねるため、右に左に体が大きくゆれる。落ちていく感覚への恐怖と緊張で「ひぃ」とか「ああ~」という、逆に気の抜けた声が出る。
それに比べ、僕の向かい側に座る八代はギャーギャーと楽しそうな声を上げている。その余裕はどこから出てくるのか、彼の根性の太さを若干うらやましく思いつつも、それもすぐに曲がる衝撃で吹き飛んでしまった。
「うう……」
「ぐったりしてんなあ、蒼衣」
プールサイドにある休憩用テーブルにつっぷした僕に、八代が飲み物を差し出してくれた。しかし出てくるのは、ははは、と力ない笑いのみ。
結果、スライダーを滑り終えた僕は、軽い乗り物酔いを起こしてしまった。
「スライダー……予想以上にびっくりしちゃって。あんなに大きくて、勢いがあるんだねえ。こう、公園の滑り台のようなものかと」
「今年リニューアルしたらしいぞ。やあ、やあ、面白かった。こっそり蒼衣の反応も見てたんだけど顔が引きつってて美形が台無しだったのが申し訳ないけど面白くて」
「……楽しそうだねえ、八代」
「そりゃあ、あんなの小さな子どもがいたら乗れやしないからな」
もう一回乗ってもいい? と楽しそうに聞いてきたから、いたずら心が動いて「行くなら君一人で」と返した。すると八代は「ならやめとくわ」と少し残念そうな顔をした。その顔は、まるで初めて出会ったときの――高校生のときのそれに似ていて、途端に郷愁が襲った。
ごめんね、と詫びを言った後、あまりにも胸が一杯になった感情に、蓋ができなくなった。
「こんな遊びを、また君とできるとは思わなかった」
口元が綻び、嬉しさがつい滲む。……その直後に、いつこの関係が終わるのかと、恐怖が襲う。さっきのスライダーなんて比じゃないくらいの、先の見えない、曖昧模糊とした不安。
本来なら、とうに切れてしまう縁だったはずだ。
部屋に引きこもっていたときに。あるいは、長野に行ったときに。あるいは、八代が結婚したときに。あるいは、子どもを授かったときに。
ライフステージが変われば、付き合う人間も変わる。就職や家庭を持つことはもっともたる例だ。それはつねづね良子さんが愚痴をこぼしていて(彼女には、僕にとっての八代のような存在の友人がいる)出産と育児の負担が大きい女性のほうが顕著なようだが、男性だってそれはある。
八代は、結婚して良子さんの「夫」になり、恵美ちゃんの「父」になってしまった。……しまった、と表現してしまう自分の浅慮も情けないが、実際、彼は端から見ていても立派な夫で父なのだから仕方がない。
キャリアウーマンの妻と共に家庭を回し、子どもの面倒もよく見る。イクメンというと本人は反論するので言わないが(彼曰く「イクメン」とか言う以前に俺は「父親」だから、育児するのは当然のこと、となんのことはない調子で言うのだ)亭主関白そのものだった自分の父親と比べると、雲泥の差がある。
その上で、彼は会社員という立場を捨てて、店を作った。まだ小学校にも上がっていない子どもを抱えて、よく良子さんがOKしたものだと思う。しかし彼女は「やーくんの決めたことだから」と涼しい顔で言う。
あまりにも、あまりにもできすぎた友人。それは、高校を卒業して同じ環境に居られなくなった頃から抱えている不安。
先に大人になっていく八代と、いつまでも自分のことすらままならない自分。
自分に出来ることは、おいしいと言ってもらえるお菓子を作ること。ただそれだけだ。
そんな人生を「店」という形で八代と共に過ごすことができることになって、尊く、幸せではあるのに。
そう、ひとたび離れてしまえば、いつもは奥底で眠る魔物が鼻を鳴らすのが聞こえてくる。
いつか「一緒」はなくなるぞ。お前とあいつの世界は違うぞ、と。
子どもを持つ親の苦労や気持ちを、子どもの居ないお前が分かるか、と。
現にさっきだって、安全に気を配れなかったじゃないか、と。
「……おいおい、そういう台詞は、あと四十年後くらいに言ってくれよ」
「四十年……って、七十代でスライダーは無理があるでしょう。そういう意味じゃなくて君はもう、僕とは違って――」
言葉を続けようとしたとき、良子さんと恵美ちゃんが向かってくるのが見えた。恵美ちゃんの足取りが重い。おそらく、もう眠いのだろう。時計を見れば、二十時を過ぎていて、今帰らないと明日に響く時間だった。
ご飯は、と聞くと、ここに来る前に屋台のご飯を食べたと良子さんが言う。眠い、と目を何度もこすり、眠気を訴える恵美ちゃんが、パパと呼ぶ。八代がすぐに席を立った。
「眠いよな。シャワーでいいから、髪の毛洗えるか? もう少しだ。パパが抱っこするからな」
手慣れた様子で恵美ちゃんを抱きかかえ、注意深く様子を観察する八代の横顔は、すっかり「父親」の顔が板に付いている。
今この瞬間、至らない自分と目の前の世界がぱっきり割れたような感覚が襲う。「ほうら、ごらん」と、僕の隣で魔物が囁く。
帰るよ、という良子さんの声で我に返る。すっかりぐずった恵美ちゃんを抱えた八代の後ろをついて行き、プールを去ることになった。
着替えと退場を大慌てで済ませ、ぐずり放題の恵美ちゃんをなんとかジュニアシートに乗せた後、車で帰路に向かった。
着替えさせるときに盛大に暴れた(と、良子さんが言っていた)恵美ちゃんと、その対応に疲れた良子さんは、後部座席でそれぞれ寝息を立て始めた。
車内で起きているのは、スライダーでの疲労もずいぶん和らぎ、すっかり普段通りに戻った助手席の僕と、運転担当の八代だけだ。
「二人とも、寝ちゃったみたいだから……ラジオ、ボリューム下げていいかな」
申し出ると、頼む、と言われたのでカーステレオの音量を小さくした。
「ありがとな。その代わり、俺が寝ないようになんか話してくれ」
「ええー」
「まだウチまで三十分あるだろ。助手席に乗った者の宿命だぞ。ドライバーの相手をしたまえ」
「安全第一でしょうが」
「居眠り運転よりマシだ」
急かされたので、まずは今日誘ってくれた礼を述べ、プールでの恵美ちゃんの様子を話した。
「お前に自慢したいってずーっと言ってたから、うれしかったろうなあ。ああでも、何度もラッコやったのはしんどかったよな、すまんかったわ」
我が事のようにはにかむ八代の顔は、やはり「父親」のもので。……それはきっと、僕がこの先、手にすることはおそらくないであろう「大人」の顔だ。
八代の顔を眺め続けるわけにもいかず、かといってなにを言えるわけでもなく、顔を背ける。窓から流れていく夜景を眺めていると「蒼衣」と名前を呼ばれた。
「俺はさ、俺がどうあろうと、たぶんお前と楽しくスライダー乗ろうぜって言うと思うぞ」
「……八代?」
「変わんないんだよ。大人になっても。結婚しても……子どもがいても」
あ、と声が出た。そう、八代は僕が密かに気にしていたことに、気がついていたのだ。
「そりゃあ、子どもがいるから行く場所も遊ぶ場所も変わっちまったのは事実だけども。でも、人の親になったからって、自分の友だちと遊ぶことができなくなる道理はないだろう。今日だって、恵美はヨッシーが見ててくれたし。逆に、お前が恵美と遊んでくれてたから、俺とヨッシーがスライダーでいちゃいちゃできたし」
「でも、家族の団らんを、邪魔してるんじゃ。それに、今日は恵美ちゃんを」
「そう思ってたら、最初から誘ってない。もうちょっと信じてくれよ、蒼衣。この年でひとの縁をつなぎ続けるのは、簡単なことじゃないんだから」
真剣な声音から一変し「おじさんも苦労してるのよ~?」と冗談めかした言葉が飛んできた。
「そう、だね……ごめん」
それぞれに人生があり、繋がる縁もあれば、離れてしまう縁もある。繋がり方が、自分の思っているものと違う相手もいる。世界が違ってしまうことを嘆くこともある。
僕にとっての、八代との出逢いや師匠、魔法菓子との出逢い。最初の店でのことと、五村シェフとの別れ。そして、新しい店のこと。
「僕は、怖いんだと思う。自分と違う、しっかりした君と一緒にいるのが」
そう。僕は、世界が違う……「同じ」でないのが、本当は不安なのだ。
他者と違うから、一緒にいられない。今のところ、特定のパートナーと関係を築くことも、家庭を作って子どもを育てることもしないし、他人の安全にも気を配れない。気分が落ち込んだとき、うまく切り替えできない……世間でいう「普通の大人」になれない自分は、いつか「世界」から忘れ去られる――子どもじみたその強迫概念は、やはり魔物の形をしていて、治める術を忘れている。
「蒼衣は、違うのが怖いのか」
「怖い、んだと思う。他人と自分が違う、っていうのはわかってるつもり……だったんだけど。違う、ってわかっちゃうと、疎外感があるというか。遠い存在に感じるというか。今日も恵美ちゃんを危ない目に合わせちゃって。それに気づけなくて。ごめん、ほんと、なんでこんな」
声が震える。情けない姿を見られるのはこの十年近くの間に二度や三度じゃないのだけれど、それでも本来なら、他人には見せない類の感情だろう。だから自分はだめなのだ、と自己嫌悪に陥いりそうになったときだった。「あのさ」と、八代の落ち着いた声が降ってきた。
「……他人と違う、ってのが、俺にとっては面白いことで。だからこそ離れがたい、っていう感情になる、みたいな……?」
「面白い?」
「面白い! 今日みたいにスライダー乗ってヒイヒイ言ってる蒼衣は面白いし、他人から聞く子どもの話は新鮮だし、こうやって話をするのも、なかなか趣があって面白い。あと、恵美のことはホントに気にするな。助けてもらってラッキーだったな、くらいに思っとけ。あんまり抱え込むなよ。そうやって責任追いすぎるのもしんどいぞ。子どもといりゃあ、金玉ヒュッってなるようなことたくさんあるんだし、そんなことでおまえをいちいち責めたりしないよ。むしろ、きちんと教えてくれてありがとな。恵美を大切に思ってるってこと、ちゃーんと伝わってる」
だからさ、と八代は朗らかに言う。
「俺とおまえは確かに違うけど、以上の理由から、俺がおまえから離れる気はないんだよな、残念ながら。観念したまえ、心の友よ。言ってしまえば、君とは公私共々、一蓮托生の運命なのだよ」
ふふん、と鼻を鳴らしそうな勢いでまくし立てられる。あっけにとられてしまい、返す言葉が見つからない自分を見て、八代は「なんだなんだ、俺なりのプロポーズだぞ」と冗談めかして追い打ちをかけてきた。
「ちょ、ちょっと待って。君、なに言って!」
プロポーズ、運命、と言う言葉が頭の中をぐわんぐわんとかけめぐる。もちろん、本来の意味で使っている訳ではないのは、重々承知だ。それでも、自分に向けられた信頼のそれが気恥ずかしく、同時にうれしくてこそばゆい。
「なにって、店の借金がわんさか残ってるからなあ。まさに一蓮托生! 共に白髪が生えるまで! 凄腕パティシエくんがたくさんお菓子を売ってくれないとウチはつぶれてしまうし一家が路頭に迷う! かわいそうな俺の嫁と娘!」
「脅さないでくれ~、売れるかどうかも不安なんだぞ、僕は」
「自信持てよ、大丈夫だって。おまえのお菓子は世界一だから! まああれだよ、もろとも地獄へ行こうぜってことで」
「借金地獄ってこと?」
「そうとも言う!」
僕が発端のジメジメした雰囲気など一瞬で吹き飛ばす八代には、手も足も出ない。
ああもう、この際地獄だろうがなんだろうが構わない。君と一緒にいられるなら、どこにでも付き合うよ。
:::
「やー、今日も溶けそうな暑さだ。生ケーキの売り上げたるや悲惨で俺の心が溶けそうだ」
八代が、厨房と店内をつなぐドアに寄りかかりながらぼやく。
「上旬の売り上げが良すぎたんだよ」
苦笑しながら答えてあげると「来月の一周年で巻き返してやる」と早くも立ち直っていた。
八月も下旬、ピロートの初めての夏が終わりにさしかかっている。
百貨店出店の影響で一時的に店は賑わったものの、連日の暑さは外に出る気を失わせるのか、客足は少ない。
「げえっ、この暑さの中迎えに行かねばならないのか。オーブンの前にでも行って暑さに慣れておこうか……いやしんどいよなそれ……」
「暑いからやめたほうがいいよ」
あと数時間後に迫った恵美ちゃんのお迎えのことを思い出したのか、八代は再びげんなりした顔になった。
ケーキの温度管理もあるので店内は比較的涼しいのだけれど、それはそれで外との温度差が激しいので、八代の気持ちもわからないものではない。
かくいう僕も、金のミニフィナンシェの仕込みのためにオーブンの近くにいる。むわりとした熱気は冷房を効かせていてもどうにもならなくて、じんわり汗がにじむ。
「あ~、こうなると海かプールが恋しい……あ、今年もそういやもらってたっけ、チケット」
「チケット?」
繰り返すと、八代はなにかを思いついた表情になり「いいこと思いついた」と楽しげな様子になる。
「プールのな。そして今年も四人だ。どうだパティシエくん、来週月曜の夜の予定は?」
人付き合いの少ない自分に、予定なぞ滅多にない。
「空いてます、けど」
「じゃあ決まりだな。去年買った水着は……片付けた中にあったか……?」
「……ごめん、自信ない」
「来週までに見つけておくこと!」
上機嫌になった八代は「じゃあ来週月曜は少し早めに店閉めようぜ。なあに告知しておけば大丈夫だ」と、早速告知文をパソコンで作りだした。
去年みたいに、行くのを渋る気持ちはない。向けられた言葉を素直に受け取って、一緒にいられる時間を楽しめばいいってわかっているから。
「一蓮托生の運命、だからねえ」
小さな声でつぶやけば、八代が振り向く。
「なんか言ったか?」
「内緒だよ」
「なんだい水くさい」
「そのうちにね」
「俺に隠しごととは、やるなイケメンパティシエ。涼しい顔しやがって」
「イケメンは余計だよ」
この一年、いろいろあった。弱音も醜いところもまた見せてしまったけれど、それでも君は変わらずそばに居てくれる。
一年前からずっと君から受け取っていた気持ちを、やっと自分の言葉で返せそうだ。
――今日のフィナンシェ、おいしく焼けるといいな。
焦がしバターにバニラシュガー、蜂蜜に卵白、そして魔法の金粉を少し。とろりとしたフィナンシェ生地を絞り袋に入れて、シリコン型に流し込んでいく。
――彼に、きちんと気持ちを伝えるためにもね。
心の中だけで語りかけながら、生地の入った型をオーブンに入れ、蓋を閉めた。
2018年7月16日発行
柏木むし子さん主催同人企画「Text-Revolutions7 キャラクターカタログ3」のキャラクター紹介掌編より再掲
(東八代 キャラクター紹介用掌編)
:::
土日のケーキ屋は、朝から晩までお客がひっきりなしに訪れる。愛知県名古屋市……の隣、ありふれた地方都市の彩遊《さいゆう》市に店を構える『魔法菓子店 ピロート』も、例外ではなかった。
「それはなんと……食べると、声が変わるんですよ。えっ、お客さん、信じてなさそうなお顔してますね。なら、一回食べてみるのが一番! 中にある甘酸っぱいベリーソースと、濃厚なクリームがめっちゃ合います。クリームに少しだけ、サワークリームを入れて、ソースの酸味と合わせてるってうちのパティシエが言ってました。俺も大好きなんですよ、これ。甘酸っぱいのが好きならオススメです!」
黒縁眼鏡に、少しくせっ毛の茶色の髪。ワイシャツにネクタイの上に、エプロンを着た店長の東《あずま》八代《やしろ》が、ショーケース前の女性客にオーバーアクションでケーキを勧めている。三十歳を超えた自他ともに認める「おじさん」であり、一児の父である八代だが、屈託のない笑みはどこか少年のようで、女性客の口元に好意的な笑みが浮かぶ。
じゃあそれを、と女性が指さしたのは、八代が勧めた『ボイスマジック・ロッカー』という名のロールケーキだった。
***
「八代は、ほんとお客様に対して上手にお勧めするよねえ、ケーキのこと」
しんとした閉店後のピロート。五徳を洗うピロートのシェフパティシエ・天竺《てんじく》蒼衣《あおい》は、閉店後のレジ処理をする八代に話しかける。厨房と店の間にあるガラス越しだが、ドアは開けっぱなしなので、会話は可能だ。
「唐突になんですか、パティシエくん」
「いや、今日も接客してるのを見たからさ。にぎやかだけど楽しげで、聞いてるこっちまで気分がよくなるよね。ケーキが好きっていうのが伝わってくる」
「楽しげ、ねえ……。そうだな、俺は蒼衣のケーキは世界一ィィィ! って常に思って接客してるからな。ホントは口で説明したって足りないから、片っ端から試食をお客の口に突っ込んでいきたいくらいなんだけど」
「……世界一は言いすぎだってば。あと、口に突っ込むのはダメだよ」
長い付き合いだからこそ、ストレートに褒められると照れると同時に、その明るさに救われている自分がいる。蒼衣は顔をほころばせた。
2018年7月16日発行
柏木むし子さん主催同人企画「Text-Revolutions7 キャラクターカタログ3」のキャラクター紹介掌編より再掲
(天竺蒼衣 キャラクター紹介用掌編。掲載分にほんの少しの加筆あり)
:::
「蒼衣《あおい》さんって、本当に、ホントーに三十歳超えてるんですか?」
声を潜めた女子高生・鈴木信子の質問に『魔法菓子店 ピロート』オーナー兼店長の東《あずま》八代《やしろ》は、眼鏡の奥の目を丸くした。
ここは、ピロート店内の喫茶スペース。信子は常連であり、件の『蒼衣さん』のファンを自称する一人である。友人関係を拗らせて気持ちが不安定だった彼女を、蒼衣が優しく慰め、仲直りのきっかけのヒントを与えたのがきっかけらしい。
蒼衣本人は「泣き出してしまったからほっとけなかったし、彼女の気持ちもわかるからつい。余計なお世話かと思ったんだけど……」と申し訳なさそうにしていたが、なんにせよ誰かの気持ちを癒したのは事実であり、彼女には良き水先案内人《ピロート》になっただろう。
注文されたケーキと飲み物を信子の前に置き、八代は困ったように笑う。最近、とみに増えてきた質問の一つだからだ。
「あんなにきれいな顔で、いつも背景にお花飛ばしてそうなお兄さんなのに、店長さんと同い年だなんて」
信子は、ショーケースのある方向を見てため息をつく。視線をたどれば、中性的な顔つきのコック服の男性――ピロートのシェフパティシエ・天竺《てんじく》蒼衣がにこやかな笑顔で接客するのが見えた。
「残念ながら、うちの蒼衣は、俺と同じ三十一歳のおじさんだよ」
「蒼衣さんを簡単におじさんよばわりしないでください。あれは奇跡の三十代なんです。美魔女ですよ」
一時期流行った、年齢と反比例して若々しい人のことを呼ぶ「美魔女」という表現が出て、コメントに困る。一応、蒼衣の性自認は男性なのだが。
「いやあ、僕はもうれっきとしたおじさんだよ、鈴木さん」
「蒼衣さん!?」
いつの間にお客を見送ったのか、蒼衣は八代の横にいた。二人でなんの話してたの? と無邪気に話す様子からは「アラサーのおじさん」と呼ぶには難しい雰囲気が漂う。
確かめてみようか。八代は思い立ち、蒼衣が被るコック帽に手をかける。
「ほいっとな」
帽子を外され、驚く蒼衣の肩に長めの髪の毛が落ちる。髪が見えると、中性的な顔立ちのせいもあってますます「おじさん」から遠のいた。遠目から見れば、器量よしの女性にすら見えるだろう。
「わあっ、もう、いきなりはやめてくれよー」
どうして帽子を外しちゃうかなぁ。ぼやく蒼衣の様子はおっとりしていて、信子の言う「花が飛んで」いる幻影が一瞬だけ見えた。「やっぱりカッコイイ」とのぼせる信子の気持ちも、わからなくはない。
しかし、長い付き合いの八代は知っている。この男は自分の顔を「童顔で騙されやすいお人よしの顔」としか思っていないことを。
「……もうちょっと自分の顔面偏差値について考えたまえよ、パティシエくん」
「が、顔面偏差値? どういうこと? ああっ鈴木さんごめんね、ゆっくりしていってね!」
そう言いつつ首をひねる蒼衣の素直な様子は面白くも好ましい。八代は口元に笑みを浮かべた。