名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった。
 ……正確には、人ではないのだけれども。
 暗闇の中でも光る目に、機敏な動き。姿を消したと思っていたらいつの間にか足下にいて、じっと僕を見つめていたりするのだから不思議だ。
「やあ、今日も会ったね」
 閑静な住宅街の中ぼんやりとした街灯の下、こちらを見据える双眸がある。
 その人とは、黒い野良猫。
 とあるきっかけで勤めた師匠の店を「武者修行をしてこい」と半ば追い出された僕は(もちろん、円満退職しているので問題はないし、師匠との関係も良好だ)東京の片隅にある魔法菓子店に勤め始めた。
 勤務を始めて約一ヶ月経った頃、帰り道で見かけた猫さんに、つい話しかけてしまった。
 おそらく、新しい店で働くこと、元々普通の洋菓子店で働けなくなった過去、おまけに、知り合いも皆無の知らない街――不安だらけの生活だったのが原因だと、今なら思う。
 ほんの一言、二言。お腹が空いたよ、とか、今日は雨だね、とか。本当にささいな独り言から始まったのだが、今日は、どうも気分が沈んでいた。
「今日もまた、うまくやれなくてね」
 優しく頼もしい師匠が、ゆっくりと時間をかけて教えてくれたのは、魔法菓子の製造技術と、この世界で生き抜くための処世術。
 幸い、師匠の紹介という体もあってひどい扱いはされない。それでも、仕事の仕方や雰囲気が変われば、戸惑いは大きい。
 おまけに、休日は寝ているか、少し元気があれば溜めた家事をするだけで時間が過ぎ、若干疲れていたのも原因かもしれない。
「……手際が悪い、って言われたのがちょっとひっかかっちゃって」
 その後、作業スペースの位置や、使う道具に関して相談できたこと、他の職人の動線を再度確認して、自分がどう動けば良いのかを考える機会に恵まれたのは幸運だった。今の店のシェフはそういった対処が得意なひとらしく、頭ごなしに叱責されることはなかったのも、また幸いだったはずなのだが。
「情けない話だけど、指摘をもらってショックなのは悲しいんだ。そこは、自分でも『悲しい』って思って良いんだ、って、師匠は言っていた。でも、それはあくまで自分の中のことであって、他人にそれを押しつけてはいけないって。……君に聞かせるのも、本当は少しルール違反なのかもしれないけれど」
 にゃあ、と猫さんはひと鳴きして、じっと僕を見る。
「……うん。明日は、少しでも変われるといいなって、思うよ」
 ――少しずつ慣れていけばいい、わからないことは何度でも聞いていい。相手に嫌がられてもそれは一瞬だから気にするな。指摘は辛いが、それは君を否定するものではないんだよ、蒼衣くん――。
 脳内に師匠の言葉を思い出して、自分を奮い立たせる。
 にゃ、と小さく猫さんが鳴いた。彼(彼女かもしれない)は、特になにか要求してくることはないし、僕も、とりわけ動物が好きなわけでもないので、ふれあったことはない。
 しかし、鋭い眼光が自分を見つめてくるのが、どこか「見てくれている」気がして、実のところうれしい。あの目は不思議な魅力があるんだな、と思う。
「ありがとう、猫さん」
 そう言うと、猫さんは背を向けて、建物の間にするりと入り込んだ。
「今夜もさびしくないよ」
 その言葉が届かなくてもかまわなかった。情けない大人の自己満足なのはわかっている。それでも、このひとときが確実に自分の心を癒やしてくれているのは事実だった。


:::


 猫の顔に型抜きしたブラックココアのサブレ生地に、つやつやのオレンジピールの砂糖漬けを目に見立てて。ホワイトチョコレートで耳・口・ひげを書けば、立派な猫の顔だ。
「仕上げはオレンジピールをたっぷり入れたバタークリームを挟んで……できあがり。『黒猫サンド』です」
「これはこれは、珍しく可愛らしいじゃないか、蒼衣にしては」
 閉店後のピロート厨房内。今年のハロウィン新作を八代に差し出すと、少し予想外のコメントが飛んできて「珍しいかな」と聞き返す。
「フランス菓子に傾倒してるのは知ってるから、こういう露骨にかわいいのは作らないとばかり」
「いやだなあ『もうちょっと、ファンシーでかわいいヤツが欲しい。マカロンとかクッキーとかの感じで』って言ったの、君でしょう、東店長?」
「言ったけどさ、驚いちゃって。でもなぜ黒猫?」
「……黒猫さんには、いろいろと恩があるので」
 かわいいヤツ、というリクエストを受けて、いろいろと資料を見ているときだった。動物モチーフのお菓子を見たとき、東京での修業時代、心細かった時期に見かけたあの猫さんを思い出したからだ。
 いつの間にか、あの猫さんと会うことも少なくなって、店を離れる頃には存在すらすっかり忘れてしまっていたのだが。きっと、仕事への気負いがなくなってきたから、猫さんに癒やしを求めることも少なくなったのだろう。
「その話はまた聞かせてもらおう。まずは試食だ」
 ああ、顔を食べるのはもったいない。そう言いながらも八代は遠慮なく猫の顔をかじる。
「ビターなココアとさわやかなオレンジの組みあわせ、良いよな。バタークリームも口ん中で上品に溶けるし、サブレ生地との相性もいい。噛めば噛むほどオレンジピールの香りが広がって、やっぱ美味い!」
 言葉と同時に「おいしい……けど、もっと」という、さらになにかを求めるような気持ちが伝わってくる。
「八代、なんかひっかかってる?」
「俺はチョコとオレンジの組み合わせが好きだからいいんだけど、この味、チョコミントばりに好みが分かれるから、別の味もほしい……ニャー……!?」
 語尾に付いた突然の猫の鳴き声に、発言した八代本人が驚きの表情を見せる。しかもこの猫の声は人間が真似する類の「ニャー」ではなく、本物の猫の声と聞き間違えるレベルのそれである。
「げっ、魔法効果、まさか……ニャ~」
「……『キャット・カカオニブ』を少量使いましたので……その……本物そっくりな猫の声が時折出るので……その……」
 耐えられず、ふふっ、と僕の口から笑いが漏れる。
「……なんつうものを作ったんだ、ニャー」
 仏頂面で「ニャー」と鳴く八代が面白くて「これ良子さんに教えてもいい?」と思わず聞いてしまった。八代が「蒼衣にしてやられた~くやしい、ニャー」とぼやくのが、また面白くて笑ってしまった。


「面白効果のため、じゃないんだけどね、実は」
 八代を見送り、しかし素直に部屋に戻る気分にもなれなかった僕は、黒猫サンドを一つ手に、夜の住宅街をぼんやり歩いていた。
 ここはあのときの東京じゃないから、あの猫さんがいるはずがないのだけれど。
「……ちょっと話ができたらいいな、って思っちゃっただけ」
 これはあくまで鳴き声が再現できるだけで、聞いたところで猫の言葉は理解できない。
 会話は相手の言葉を理解しなければならないから、よしんば話をしようとしても、コミュニケーションなど成立しない。
 それでも。相手のわかる言葉で、なにかを伝えたい。
 通りかかった公園のベンチで、一人座って『黒猫サンド』をかじる。ニャー、と猫の声が自分の口からでた。
 静かで、優しい夜だった。

***

このお話は、

『天竺蒼衣のお話は
「名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった」で始まり「静かで優しい夜だった」で終わります。
#こんなお話いかがですか
https://shindanmaker.com/804548』

の診断メーカーより考えました。