「……何度見ても、おまえの面とのギャップがありすぎるだろ、この部屋は」
 呆れた声音でつぶやけば、目の前で背中を丸めて縮こまる我が店のシェフパティシエは「顔のことはともかく、ひどいのはわかってるんだけど」と小さな声でうめく。
 お盆も過ぎ、初めての長期夏期休業(といっても、平日の五日間を休みにするだけだが)に入った「魔法菓子店 ピロート」。月初めに参加した百貨店出店のおかげで、猛暑と言われる中でも予想以上の売り上げをたたき出し、ほくほく顔のまま連休に突入する予定だったのだが。
 百貨店出店に関する騒動ですっかり忘れていたのだ。この、菓子作りと人当たりの良さに長けた親友の欠点を。
「南武への出店でバタバタしてて、そのう」
「知ってるけど、だからってこの有様はひどすぎる。この一年で最高の状態だよ。悪い意味でな。冬からなんも変わっちゃいない」
「ひとの部屋をボジョレーの評価みたいに言わないでくれ、八代……」
 がっくりと肩を落とす親友――蒼衣の肩を軽く叩く。
 連休初日の朝。蒼衣はパジャマ代わりのよれたTシャツに、いまにも腰から落ちそうなスウェットのズボンという、いかにも休日の朝起きたての格好だ。
 いつもならば一つにまとめた長髪も、あっちへこっちへとうねって曲がって、大惨事である。
 これが、ごくごく一部じゃ『イケメンパティシエ』と言われる男の素顔だと言われても、納得するひとは少ないだろうなと内心、思う。もっとも、学生時代から内情を知る自分には、とうに見慣れた姿ではあるが。
「ま、そのために俺がこうやって手伝いに来たんだ。今日一日でとりあえず足場を作るぞ、足場を」
「目標は足場なんだ……」
 まだ眠そうな目で己が部屋を見回す蒼衣は、はあ、と重たいため息をつく。ああ、本当に惜しい男だとつくづく思う。
 俺たち二人の目の前に広がるのは、出しっ放しの衣装ケースに積み上がった服とタオルの山、散らばった本やパンフレット、DMの類、出し忘れたであろうゴミ袋と、袋に入りきらなかったであろう、原形をとどめていないなんかのゴミ。しきっぱなしでぐちゃぐちゃのせんべい布団に、季節ハズレの羽毛布団(分厚い)部屋の隅に転がる埃など。
 だれが見ても苦笑を通り越して表情が固まる、いわゆる一人暮らしの「汚部屋」である。
 そう。腕よし、顔よし、性格に若干の難あり――だが、お人好しなピロート自慢のシェフパティシエ・天竺蒼衣の欠点は、生きる上で必要な衣食住の内「衣」と「住」の能力が、壊滅的にないことだった。


「冬物はしまっとけって、春先に言っといただろうが。ほれ、このプラケースに入れとけ。ああっ、こんなぼろぼろの肌着、まだ使ってんのか」
「だってまだ着られるし、もったいないと思って。あと、肌触りが一番良くって」
「首んとこ破れてて、逆に着心地悪いだろうが。うわっ、高校のジャージまだ使ってんのか。待ってくれ、これ高校んとき着てたやつじゃないのか。ってまた破れてる! パンツ見えるぞ!」
「ジャージもそれも、一応パジャマのつもりで。破れてるから流石に外出着にはしてない……」
「きちんとしたパジャマ買えって何度も言ってるのに」
「だってパジャマって結構高い……」
「いや待て、おまえの買う専門書よりは安いだろうが」
「だったら本を買うほうが」
「だからそれが! 違うって! 言ってるじゃないか天竺蒼衣-!」
 たまらずにうがーっ! と言葉にならぬうなり声を上げると、へっぴり腰でゴミをゴミ袋に入れている蒼衣が「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
 夏の猛暑日で蒸し暑い中、件の汚部屋――天竺蒼衣の部屋は、着々とゴミが消え、宣言した通りに足場ができつつあった。
 蒼衣自身が「部屋の片付けをしたいんだけど、自分だけでは絶対に終わらないから、手伝ってほしい」と申し出たのはよしとしよう。よしとしたいのだが、いくらなんでも散らかりすぎていて、ついつい小言が多くなる。
 それでも、いらないDMやチラシ、ペットボトルや食品の外袋など、わかりやすいゴミはすぐに片付いた。しかし、問題なのは積みに積まれた服の山だ。
 漁れば漁るほど、ひどいものしか出てこない。衣替えという概念はなく、大概の服は洗濯の仕方が雑なのかヨレヨレで皺だらけな上、さっきのように破れたものまで平気で居座っているし、おまけに本人曰く現役らしい。
 大半の服のラインナップが、十五年前から変わっていない事実には、見ないふりをしておこう。
 苦い顔をしていると、蒼衣は取り繕うような表情でハハハ、と笑いをもらした。
「服ってよくわからないんだ。なんていうか、ほら、一日中コックコートだし、あんまり出かけないし。平日は店かコンビニか、たまーに材料の買い出しに行くかだけでしょう? そもそも、僕になにが似合うかもよくわかんないし」
 あと、値段が高い。と付け加えて口をすぼませる。
「……部屋の隅にある製菓関係の専門書三冊くらいの値段で、ファストファッション店ならコーディネート一式を余裕で買えるって再度突っ込んでもいいかい、パティシエくん」
「そう言われるとますます、服を選ぶのがおっくうになるよ」
 専門書を引き合いに出したのがミスだった。
 この男、自分の興味関心のあること以外には、かなりの無頓着だ。彼の興味関心といえば、お菓子か、店か、客のことか、ともすれば自身の趣味――本や映画のDVDの収集――。
 それに反比例するように関心が薄いのが、衣服と部屋の整理だった。休日の少ない職業な上に、一人暮らしで時間もマンパワーも足らないのは重々承知だが、それに輪をかけて本人にその気がないのだから、惨状はかくやと言わざるを得ない。
 ギリギリ食に関しては、冬のある時期を除いてはきちんと三食食べるし、職業柄もあって、自分でまかなうことはできる。故に最低限の生命維持は出来るものの、生活環境の維持も人間活動の一環ではあると俺は思うのだが。
「……もうなにも言うまい」
 ため息が出たが、無心になって手を動かせば、服の検分着々と終わりつつあった。取り急ぎ、分厚い冬服は(ほんの数ヶ月先だが)衣装ケースに入れておく。
 破れてぼろぼろなものは、はっきり捨てろと通告した。「安眠するのも職人としての体調管理の一環」と店長権限で意見すると、小さく「ハイ」と返事が返ってきた。
 残りの、かろうじて着られそうな服はほこりっぽい上に皺だらけなので、思い切って俺の家で洗濯しようと思った。なにせ我が家にあるのは、乾燥機付きの最新型だ。自慢じゃないが、白物家電には金をかけている。共稼ぎ夫婦にとって、家事は金をかけてでも軽減せねばならない。子どもがいるならなおさらだ。……若干過保護過ぎるが、蒼衣の家にある一人暮らし用の簡素なものでは限界というものがある。
 提案すると「そこまでしてもらうのは悪い」と案の定首を横に振った。
「確かに、僕は服や部屋の管理はすごく苦手だから、こうやって手伝ってもらえるのはすごく助かる。少なくとも、八代にきっぱり「破れてるから着心地が悪い」って言ってもらえると、ああ普通はそうなんだよなあ、ってやっと思うことができるから。でも、本当は、こんなことは自分一人でできることのはずなんだ。だから、さすがにここまで面倒見てもらうのは申し訳ないよ」
「でもなあ」
「いいんだよ八代。君は僕の友人ではあるけど、子どもじゃあないだろ? ええと、こういうとき、どうすればいいんだろうなあ。アイロン、どこやっちゃったっけ」
 苦笑する蒼衣を見て、彼の「生きづらさ」を改めて思う。
 部屋の整理ができないのも、服に関心が薄く、他人から見たらどうでもいいところでこだわりがあるのも、おそらく生まれながらの特性だろう。
 しかし、一旦世間に出てしまうと、それらはすべて「欠点」や「変わり者」と表現される。たとえあの手で世界一おいしい(と、俺は思っている)お菓子を作れるとしても、仕事場を出てしまえば、ただの「天竺蒼衣」という三十一歳の男性でしかない。
 かつて勤めていた会社でも、こういった「変わり者」は少なからずいた。そして、特性が悪い方向に作用して、うまくやっていけない現状も、目の当たりにした。
 なおかつ、そういうひとたちを助けるのは、非常に難しいことだというのも痛感していた――過去の自分のように。
 正直なところ、俺には、蒼衣たちのような困りごとがあまりピンとこない。
 時間に遅れる。口頭で言ったことが理解できない。片付けが苦手で、資料や書類を紛失する。正直なことを口に出し、得意先の人間を激怒させる……などなど。もう少し若い頃は「わがままだ」とすら思った。どうしてそんな簡単なことができないのか、と。
 しかし、自分の身近で、最終的には自分を追い詰め、死にそうになった男――蒼衣がいたことや、職場で出会ったひとたちとの関わりで、俺の考えは変わった。
 助けてくれ、こうすれば理解できるから工夫してくれ、と、一言言えばいいのに、と単純に思う。でも、蒼衣は助けてと言えなかった。親友だと慕ってくれていたはずの俺はおろか、身近であろう家族にすら。
 後々、俺の思う「家族」の関係と、蒼衣の「家族」という関係の認識の違いが分かってからは、さもありなんと思うこともできたのだが。
 だから、今こうして蒼衣が困りごとを自分から言えるだけでも十分に変わったと思う。今までよりも吹っ切れたのは、きっと夏前に起きた一連の出来事のおかげでもあるだろうが。
 だれでも大なり小なり、苦手なことややれないことがあるだろう。それが他人から見れば些細なことでも、本人にとっては非常に深刻な「つまづき」だ。
 しかしそれらは、視力を補強する眼鏡のような、なんらかの補助があれば歩けるようになるかもしれない。それが物だったり、考え方だったりするのは、ひとそれぞれだが。
 そうすれば、少なくとも、身近に居る人間との軋轢を少なくすることができるはずだ。

 
 アイロンなんてしばらく使ってないなあ、とぼやく蒼衣を見て、俺は一つため息をついた。と同時に、思いついたことがあった。
「なあ、タダでやるのがイヤなら、なんか対価があればいいんじゃないか」
「対価?」
「そうだな……アレを作ってくれたら、家にある自慢の最新式乾燥機付き洗濯機でおまえの服を洗って綺麗にしよう。おまけにアイロンもかける」
 どうだ、と顔を寄せる。提案の唐突さに戸惑う蒼衣がほへえ、と気の抜けた声を出した。
「アレって、ええと?」
「高校時代によく作ってた、おまえの十八番があるだろうよ。秋に向けての試作だと思って一本」
 もったいぶってヒントを出せば、蒼衣はああ、と手を叩く。
「そういえばアレ、開店するときはラインナップから外したね」
「アルコールがダメな俺が好き好んで食える、唯一の酒入りパウンドケーキなんだけどな。初年度は様子見したいからってやめたんだよなあ」
「あ、あれはお酒は……」
「アレは別なんだよ。ああ、うちのご自慢のシェフパティシエが作るアレが食べたいなー」
 なにか言いたげな蒼衣の言葉を遮ってしまったが、ふざけてもう一回「食べたいなー」と繰り返せば、蒼衣は呆れたような、しかし面白がるような顔でクスクスと笑った。
 若い頃はずいぶんと達観した笑い方をするヤツだなと物珍しかったが、三十路を越えた今では、それがすっかり板に付いている。
「ああ、君にそんなリクエストをされたら、答えないわけにはいかないね。じゃあ、お言葉に甘えて、あのケーキ一本で洗濯、お願いしていいかな」
「いいともー! アレが新作として食べられるなら、俺はなんでもやりますようパティシエくん」
 もみ手もみ手でさらにおだてれば、蒼衣は「よしてよ」と苦笑する。謙遜しているが、大層うれしそうに頬を緩めることは知っている。実際、俺の言葉に嘘はないのだから、もっと派手に喜んでくれてもいいのだけど。
「じゃあさ……今度、服を選ぶのを手伝ってくれないかな。その、ファーストフードみたいな名前の店で」
「おっ、ついにおしゃれに目覚めたねイケメンパティシエくん。あと、ファーストフードじゃなくてファストファッション。店の名前じゃない」
 俺の訂正に、蒼衣は「そうなんだ」と神妙にうなずいた。
 もともとテレビもあまり見ない上に、いまだにガラケーを使い、もちろんインターネットなど学校くらいでしかロクに使ったことがない、今時珍しいアナクロな思想の蒼衣は、本当に流行に疎い。これも、興味関心があること以外への意識が薄いからだろうとは思うが、もともと俗世に染まれないタイプだったのだろう。
 だからこそ、魔法菓子――魔力への適性があるのかもしれないと、彼の師がこぼしたことがある。
「あと、僕はイケメンじゃないって。まったく、だれがそんなこと言ってるのかな」
 童顔なのに、と心底不思議そうな表情をする蒼衣を見て、俺は本日何度目かのため息をついた。


「待ってましたよパティシエくん!」
 連休最終日の『魔法菓子店 ピロート』厨房内に俺の声が響く。
「おととい焼いたから、そろそろ味がなじんだかな」
 清潔なコックコートに身を包んだ蒼衣は、冷蔵庫から棒状のものを取り出し、ぐるぐると巻かれたラップを取り去ると、パラフィン紙をはがした。すると、しっとりとした質感のパウンドケーキが現れた。
 お湯で温めたナイフを差し入れ、スライスしたものを小皿に乗せると、真っ先に俺に差し出してくれた。
「どうぞ「りんごとキャラメルのパウンドケーキ」だよ」
「久々だなあ、この香り!」
 小皿の上に乗せられたのは、プレーンのパウンドケーキよりも濃いキャラメル色した生地に、キャラメリゼしたリンゴがぎっしり詰まっているパウンドケーキ。
 行儀は悪いのは承知だが、手でつかんで一口ほおばる。
 バターの香る柔らかな生地の中に、時折シャクシャクとした食感が楽しいリンゴの果肉。キャラメルのほろ苦さと濃厚さ、リンゴのほのかな酸味と甘さが調和する中で、口の中を一瞬支配するのは……ラム酒に似た甘い香りだった。
「これな、これ! 主張し過ぎない洋酒の香り。リンゴの甘酸っぱさとキャラメルの味の濃厚さが好きなんだけど、そこにふんわりと乗っかる甘い酒の香りな~」
「久しぶりに作ったけど、この組み合わせは良いよねえ」
 これは、蒼衣が高校時代に初めて俺にごちそうしてくれたお菓子だ。それまで特に甘い物への執着がなかった俺に、新しい世界を見せてくれた。
 小さな焼き菓子一つの中に、甘いも酸味も苦みも同居している。おまけに、未成年だった当時の俺には、少し憧れだった酒の香り。成人してから、アルコール分解酵素が少ない体質だとわかったときは、飲み会よりも、こういったお菓子が十分に味わえないほうが、つらかった。
「サバランやウイスキーケーキ、一つまるごと食べられない。でも、こいつだけは別。焼いててアルコールが飛んでるからか? って思ったけど、他の店のはダメだったんだから訳がわからないんだ」
 首をひねっていると、あのね、と遠慮がちな前置きの後、蒼衣は困ったような笑みを浮かべてこちらを見た。
「ごめん、八代。実はこのケーキ、ラム酒はほんの少しだけシロップに使ってるだけなんだ。……だから、八代が好きって言ってるのは、もしかしたらこれかもしれない」
 そう言うと、蒼衣は材料棚から一つの袋を取り出した。透明な袋には、褐色の粒子状のものがつまっている。
「これは、カソナードっていうフランス産のブラウンシュガーだよ」
 別の小皿に、袋から褐色の砂糖――カソナードを少しだけ出してくれた。粒の大きさは厨房で多く使われるグラニュー糖よりも大きく、荒い。
「なんか、砕いた黒糖みたいだな」
「鋭いねえ、八代は。カソナードは黒糖と似てるんだ。ちょっとだけ解説すると、カソナードや黒糖は含蜜糖っていって、いつも使ってるグラニュー糖や上白糖のような精製された砂糖とは違って、果糖やミネラルを多く含んでるから、味にコクや独特の風味があるんだ」
「じゃあまさか、あの酒みたいな風味って」
「そう。カソナードはラムやバニラ、はちみつみたいな風味がする。リンゴとは相性が良いから、キャラメリゼするときに少し加えているんだよ」
「なるほどな。って、おまえそれ高校のときになんで教えてくれなかったんだよ」
 あの味を酒の味だと、十年近く思い込んでいたのか。勘違いにもほどがあるし、仮にも菓子屋を経営しているのに砂糖の知識がなかった俺もうかつだったが、なによりも詳細を黙っていた蒼衣に、珍しく軽い憤りが湧いた。
 すると蒼衣から、本当にごめんよと切実な声が帰ってきた。三十路らしからぬしおらしさに、一瞬湧いた憤りがあっさり消し飛ぶ。
「今まで何度も説明しようとしたんだけど、その度に君がやたらめったら喜んじゃって、水を差すのも悪いなーって。いつか言おう言おうと思ってたんだけど、新作考えるのでいっぱいいっぱいですっかり……」
「おまえなあ」
「ごめんってば。これ、いくらでも食べていいから。材料は自前だから気にしないで。あと、言い忘れたけど魔法効果は――」
「みなまで言うな、パティシエくん」
 頭頂部分がカッと熱くなる。約一年魔法菓子を食べ続けたおかげで、すぐにこれが魔法効果なことはわかった。
 ポケットからスマホを出し、インカメを起動して己の頭を写す。
「おおー、真っ赤な髪の毛か」
 俺の髪の毛は、燃えるような、と表現したくなるような赤色に変化していた。
「使ったカソナードには赤の魔法色素が含まれているから。ただ、顔にメークを施す「変装カップケーキ」と効果が似てるから二番煎じなのが申し訳ない」
 ひらめきが足りないんだよなあ、と蒼衣はぼやく。
「もっと勉強したり、いろいろなものを見なくちゃ」
 ともすれば思い詰めたようにつぶやくので、俺は思わず「まあまあ」と肩に手を置いた。
「久しぶりにあの味が食べられただけでも、俺は儲けもん。でも、うちのシェフパティシエの向上心に乗っかるのは悪くない。さあて、こいつをどう進化させたら面白いかな?」
 期待を込めて笑ってやれば、蒼衣の顔に少しだけ泣きそうな感じの、安堵の表情が浮かぶ。ここ一年、店の中では――少なくとも、シェフパティシエの天竺蒼衣としては――滅多に見せなくなった素の顔に、懐かしさを覚える。
 ――生真面目で素直で、同時に愚かで生きづらそうで、付き合うのもまったくもって面倒だ。長い付き合いの自分でさえそう思うのだから、社会に出たとき、周りが扱いに困っただろうことはなんとなく予想できる。
 だけど、とにかく見ていて飽きないし、なによりも、あいつの作るお菓子は昔から、俺にとって世界で一番美味いシロモノで。
 だれかへの「労り」「優しさ」がたくさん詰まってる。こんなに純粋で甘くておいしいものを作れるヤツを、みすみすつぶしたくない。
 せっかく見つけた面白い人間を、手放してたまるか。
 それはきっと、妻の良子や娘の恵美に向ける愛情とはまた違った形のものだ。
「ありがとう、八代」
「いいってことよ。さあ、明日からまた仕事をバリバリするぜー! 秋からはお菓子屋の稼ぎ時だー!」
「確かに、そうだねえ。また一年、がんばらないとね」
 陽気に振る舞えば、蒼衣はそれにつられて元気を出す。
 そうして新しくお菓子を作ってくれるなら、俺はいくらでも笑えるからさ。