蒼衣さんのおいしい魔法菓子

(人が、浮いてる?) 
 それは帰宅途中の、信号待ちだった。残業が終わり、空腹で頭の回らないまま斜め向かいの公園を眺めたときだった。
 高坂《こうさか》理恵《りえ》は、ベンチの上にふわふわ浮かぶ『人影』を見てしまった。
(疲れて幻覚でも見てるの?)
 まずは瞬きをし、目をこすった。……ベンチの上には、やはり人影が浮いている。
(う、う、うそでしょ!?)
 信号が変わったのにも気づかず、理恵はまたも公園を凝視する。すでに人気の少ない住宅地の一角、幸いにも理恵の奇行を気にする人はいない。
(超常現象? 幽霊? ええっ、なに、あれ) 
 気になって仕方ない理恵は、信号がまた青になるのを待った。護身用にとスマホを手に持ち、青になった横断歩道を渡る。足音がしないように、そっと歩いてしまうのは警戒心からか。
 公園は規模の小さなものだ。防砂林もどきの木の下に、問題の人影はある。公園のある道の信号が赤なのを見たとき、一瞬冷静になる。この町は比較的治安がいいが、それでも面倒なことに巻き込まれたらと考える。
 季節は三月。暖かくなると、主に女子どもを狙った軽犯罪をしでかす不埒な輩が多くなるのは、人生経験でわかっている。
(でも、寝るまでこのことが気になって、眠れなかったらどうしよう)
 二十八歳としては危機管理がなってないと、実家の両親に怒られるかもしれない。しかし、一人暮らしをしている家は公園のほんの少し先にあるし、不審者として通報するにしても、もう少し様子を見てからのほうがいいだろう。理恵はそうやって理屈をつけて、青になった信号をさらに慎重に渡った。
 何気ない通行人を装いつつ、理恵は公園に近づいた。凝視しない程度に公園を見る。
 薄暗い電灯の下だが、人影には足ががあることはわかって、とりあえず幽霊ではないことを確認した。
 人影は、空気いすのような格好でふわふわ浮いている。なにか食べているような様子だ。一歩、二歩、近づいた理恵は、思わず口に手を当てた。
(大滝《おおたき》、さん?)
 人影、それは、理恵の職場のお局様――大滝《おおたき》照子《てるこ》の姿だったからだ。


 公園で浮かぶ大滝を見かけた翌日のこと。
(出社して早々、大滝さんからの呼び出しだなんて)
 始業から一〇分も経たない時間に、会社の廊下で小さなため息をつく。理恵は彩遊市にある町工場に、一か月前から事務員として働いている。
 今日は始業後すぐ、昨日の受注リストの件で聞きたいことがある、と出荷管理部の大滝から内線があった。
(まさか、昨日公園で覗いてたことがバレた? いやいや、業務内にそんなこと話すようなひとじゃないでしょ)
 大滝の仕事一徹な態度を思い出し、理恵はかぶりを振る。それ以前に「人間が宙に浮かぶ」という現象が起きること自体が信じられない。今でもあれは、残業疲れで見た幻覚じゃないだろうかとも疑っている。
 しかし、理恵の憂鬱な気分はそれだけではない。単純に、大滝とのやり取りが苦手なのだった。
 二階の総務室から、三階の出荷管理部に向かうほんの少しの間、理恵は誰もいない廊下で何回もため息をこぼした。


 出荷管理部は、会社で作った製品の検査と出荷業務、在庫管理を行う部署だ。あけ放たれているドアから入れば、所せましと並ぶ在庫棚と、製造部から上がってきた製品が置かれている作業机が広がっている。それらを通り抜けると、一番奥の大きな机の前に座る人物の背中が見える。
 一瞬、昨日の夜に見た背中と重なるが、仕事中だと自分に言い聞かせ、妄想を追い払った。
「大滝さん」
 理恵の呼びかけに、その人物は振り向いた。きっちりとまとめた髪に、分厚い眼鏡。常に口元を「への字」にしている壮年女性――大滝照子。出荷管理部の人員は、大滝一人だけだ。
「高坂さん、これ間違ってるんだけど、すぐに直せる?」
 大滝は単刀直入に告げた。差し出された一枚の紙を受け取る。件の受注リストだった。
 昨日、上司である神山《かみやま》から、表計算ソフトのこのテンプレートに注文番号を入れておけばいいからと請け負った仕事だった。受注数も少なかったし、番号は何度も見直したはずだった。理恵は不服そうな顔になるべくならないよう、笑顔を作って大滝を見た。
「すみませんでした。でも、どこを直せば」
「この書式、今は使ってないの。新しいのを探して、もう一回出してもらえる? ここ、書式が違うとクレーム付けてくるところだから」
 大滝は表情を変えず、最低限の情報のみを短く告げた。そして、それ以上は話すことはないと言いたげに、机に向き直った。
 その書式、神山さんが指定したんです、とはとてもじゃないが言いづらい雰囲気だ。言ったとしても「でも作ったのは高坂さんでしょう?」と言われるのがオチだ。大滝がミスを慰めるだとか、冗談を言うだとか、そういう場面に一度も出くわしたことがない。
「わかりました」
 いつも通りにぐっと不満を飲み込み、理恵はその場を離れた。

 
 家から近い、九時五時の事務。土日祝日休みで、上手くいけば正社員登用予定。小さな会社だが、特殊な金属加工を扱ってるので、事業は好調らしい。
 社長や経理担当の社長夫人、数年間一人で事務をやってきたという神山も優しいし、製造部の男性は事務の女性、というだけで態度がやわらかい。ずっと違う会社を転々とし、フリーターをしていた理恵にとって、かなりの好待遇・好条件の会社だった。
 しかし、出荷管理部の大滝とは、会話のリズムも、態度もかみ合わない。つんけんとした態度。クスリとも笑わない仏頂面。他人にも自分にも厳しい、仕事一徹女。三十代後半の神山も似たような気持ちらしく、あまり大滝について良くいうことはない。
 しかし、製造部の従業員たちの間では、一目置く存在だという。
 この在庫はどこ、この図面のことなんだけど、と真剣に尋ねる姿を少なからず見たことがある。それに対しても大滝は簡潔な答えしか返さないし、決して愛想がいいわけでもない。
(難しいひと)
 それが理恵の、大滝の評価だった。
  

 大滝らしき人物が浮かぶのを見た日から、二週間。偶然、お昼休みや帰宅時に顔を合わせることがあっても、どこから雑談の糸口をつかめばいいのかわからず、なにも聞けなかった。
 そんな中、仕事にも慣れてきたかなと思い始めた頃、理恵の環境は急変した。
 帰宅時だった。神山が、二週間後に退職だということを知らされたのだ。
 しかも、急な話ではない。神山が辞めるのは、理恵が入社する前から決まっていたことだというのだ。
「入ったばかりの人に「すぐ辞めます」なんて言えないでしょ? 高坂さんがおおかたの仕事を覚えたら言い出そうと思ってて。ごめんね、いきなりで」
 一応申し訳なさそうな顔をしているが、話の内容は酷いものだ。理恵はどういう表情になればいいか分からず、あぜんとした顔のまま話を聞いていた。
「そう、なんですか」
 かろうじてそんな言葉が出てきた。神山はそれを見て、少しだけ安堵したような表情になった。理恵があからさまに嫌がると思っていたのだろう。
「ここだけの話、社内でソリの合わない人がいて。三年頑張ってたんだけど、限界かなって。同じような仕事でもっと条件のいいところが見つかったからさ」
 辞められる解放感からか、神山は笑顔を交えて語り始めた。ソリの合わない人というのは、おそらく大滝のことだろう。約一か月半しかいない理恵でも推測できる。
 だが理解できるのは、あくまで気持ちだけだ。半年すら経っていないまま残される理恵をないがしろにされて、怒りと失望が生まれ始めていた。優しい先輩だと思っていただけに、ショックが大きい。
「それは、よかったですね」
 理恵は固い声で、形だけの言葉をかけた。本音はそんなことこれっぽっちも思っていない。
 しかし、ここで感情をあらわにしたところで、なにが変わるわけでもない。理恵は常に誰かのスケープゴートになる運命なのだということを、改めて思い出した。
「本当にごめんね、がんばってもらえるかな? わからないことがあれば、なんでも聞いてね」
 言葉だけなら頼もしく聞こえる神山のフォローなど、今の理恵の心には響かない。かろうじて微笑を浮かべ、機械的に「はい」と答えて、そのまま別れた。


 そして神山が退職した次の日、今度は理恵のした仕事でクレームが発覚した。理恵が手配した図面が間違っていたのが発端だ。
 普段なら社内で誰かが気づくため、大事に至らないケースが多い。しかし今回間の悪いことに、複雑な図面のため、製造部も気づかなかった。しかも、普段なら大滝が検査するのだが、有休で不在だった。経験の少ない営業が検査して出荷したため、客先からのクレームに発展してしまった。
 社内はそれの対応にてんやわんやし、製造部がすぐに再制作、営業が客先にすっ飛んでいった。
 事務に一人残された理恵には、大量の仕事が山積みになっていた。神山が辞めたことによって、今まで二人でやってきた業務を、理恵一人でこなさなくてはいけない。しかも、クレームが発生したのは理恵の手配違いなこともあって、忙しい上にさらなる正確さが要求された。社内全体がピリピリしたムードに包まれ、他の従業員が、常に理恵を訝しげな目で見ているような気がしてならなかった。
 理恵にはそれが、辛くて仕方なかった。


 昼食時、食堂代わりの会議室にも行かず、理恵は最上階にある階段の踊り場にうずくまっていた。
 用意していた昼ご飯にも手を付けられない。理恵の頭の中には、今までの職場で起こったことがフラッシュバックしていた。
 最初に就職した会社ではセクハラを受けた。学校を出たばかりでどうすればわからなかった理恵はなにも言い出せず、夜の誘いが明確に来たときに思い切って辞めた。
 無職は養わないと両親に言われたので、すぐに入れた飲食店のアルバイトを始めたが「若いから」を理由に初日から一〇連勤を強いられた。両親の手前、すぐに辞めることもできなかったので頑張ったら、体に不調が出た。三度目の欠勤の電話で「あなたもう来なくていいから」と言われ、しかも自主退職という形で辞めることになっていた。
 体の具合が安定してから就職した受付業務は、最初こそよかった。しかし、なにかトラブルが起きるたびに、一番下っ端の理恵に濡れ衣をきせられた。理恵が礼儀を知らないから教えてやってるのだと先輩たちから親切そうに言われた記憶と神山の様子が重なって、ついに理恵の目から涙がぼろぼろこぼれだした。
 いつだって理恵は誰かの犠牲になる人間だった。自分は価値がない人間なのだと繰り返し言われているような気がして、仕方がなかった。
 それが悔しくて、事務の仕事に必要な資格を勉強し、新たな職を探した。その間に短期バイトで片っ端からいろんな会社に行って、簡単に傷つかないように気持ちを鍛えた。いろいろ見て分かったのは、本音は絶対に言わず、とにかく笑顔を張り付けて言うことを聞けば、なんとかなるのだということ。たとえ少しくらい理不尽でも、それが社会なのだと、理恵はうっすらわかってきた。
 そして見つけたのがこの会社だった。今度こそは上手くやろうと思っていた矢先だったのに。
 理恵はさらにぎゅっと膝をかかえた。
(せめて、始業のチャイムがなるまで。昼からは、また頑張らなきゃ)
 そう理恵は言い聞かせて、声を押し殺して泣いた。


 午後の仕事が始まったが、理恵はとにかく仕事を処理することで頭がいっぱいだった。
 あっという間に時は過ぎ、定時のチャイムが鳴る。しかし、机の上にはこなせない量が残っていた。最低でもこれだけは今日中に処理しなければならない受注のメールと、社内から回ってきた在庫発注の紙の束を見て、今にも泣きそうになった瞬間だった。
「手伝うわ」
 突然、束を誰かの手がつかんだ。振り向けば、そこには大滝の姿があった。
「大滝さん?」
 大滝が事務室に来ることは少ない。なぜここに来たのか聞く前に、大滝は理恵の隣のデスクに座り、パソコンを操作し始めた。
「私、人手がないときは事務作業もやってたの。在庫発注やっとくわね」
 有無を言わせぬ態度に、理恵は流されるままにうなずいた。


「終わった……」
 十八時、放心状態の理恵はつぶやいた。結局、在庫発注だけではなく、受注の半分も大滝にやってもらった。
「大滝さん、ありがとうございました。とても助かりました」
「いいのよ」
 大滝は、いつものように口をへの字にしながら言った。次いで、じっと理恵を見る。なにかお小言を言われるのだろうかと、理恵は緊張して待ち構えた。
 しかし。
「高坂さんって、甘いものは好きだったかしら」
「……へ?」
 予想外の言葉に、理恵はぽかんと口をあけた。
「甘いもの、ですか?」
 大滝は「洋菓子とか好きかしら」と小首をかしげる。普段の冷静な大滝とは違うお茶目な様子に、理恵は初めて親しみを抱いた。
「甘いものは、好きです」
 しかし、いったいどうしてそんな話をされるのかわからない。あからさまに困惑していると、大滝はどこか気恥ずかしそうな様子になった。
「近所に、おいしいお菓子屋があるの。金曜だけは遅くまでやってるから、今からそこに行こうと思って。高坂さん、一緒にどうかしら」
 そう話す大滝は、まるで、思春期の娘に意を決して話しかける父親の様子にも似ていた。
 普段とは違う様子の大滝が珍しく感じたそのとき、理恵はようやく思い出した。公園で浮かんでいた、大滝らしき人物のことだ。
 あれは本当に大滝なのだろうか。確かめたい、という欲求が理恵の中で生まれた。
「その前に、一つおたずねしたいことがあります。一か月前、帰りに、近くの公園で宙に浮かぶ大滝さんを見かけました」
 理恵の言葉に、常に仏頂面のはずの大滝の目が見開かれた。この反応で、あれが幻覚ではないことが分かった。
「あれがなにか教えてくださるのなら、ご一緒します」
 駆け引きみたいな自分の物言いに、理恵は少し緊張していた。しかも、相手はあの大滝である。他人にここまで干渉するなんて、めったにないことだからだ。
「いつかは誰かに見られるかなって思ってたんだけど。そっか、高坂さんか」
 そして大滝は、への字の口をかすかにゆがませて笑った。
「まさに行こうとしてるお店に、それがあるの」


 ありふれた地方都市の静かな住宅街を、大滝と二人して歩いていく。明日は晴れますかね、なんていうお天気の話をしながら進んでいくと、大滝は曲がり角にあるビルの前で立ち止まった。
 三階建ての小さなビルの一階部分に、あたたかな灯りのともる店があった。看板には『魔法菓子店 ピロート』と書かれている。
「お店って、魔法菓子のお店なんですか? こんな住宅街の中にあるなんて」
「半年前くらいに開店したの」
 慣れた様子で入る大滝の後についていった。入った瞬間、お菓子屋特有の甘い香りが鼻をくすぐる。
 クリーム色に塗られた壁、柔らかな色合いの木、内装の差し色に使われているのはパステルブルー。平日の夜だったが、ショーケースにはおいしそうな生ケーキが飾られている。ケースの上には、シュークリームの皮が山のように積まれている。右側の壁際には焼き菓子が所狭しと並んでいる。
 左側には、小さいが喫茶スペースも設けられていた。
 いかにも小さな「町のケーキ屋さん」といった風情だ。魔法菓子はホテルや百貨店、結婚式などの式典で使われる高級なものだと思っていた理恵は、カジュアルな雰囲気に驚いていた。
「いらっしゃいませ」
 ショーケースの向こう側にある扉から出てきたのは、パティシエの男性だった。きっちりと帽子をかぶり、大滝と理恵に向けてやわらかい笑顔を浮かべる。声を聴いていなければ、女性と間違えそうな整った顔立ちだ。
「今日はここで食べていきたいのだけど、いいかしら」
「承知いたしました」
 パティシエに話しかける大滝は、仏頂面のままだが、声音が少しやわらかい。
 お飲み物のメニュー表です、とパティシエが差し出すのを受け取った。コーヒー、紅茶、加賀棒茶、オレンジジュース、リンゴジュースの中で迷っていると、大滝はメニューも見ないで注文をしていた。
「私は『ふわふわシュークリーム』一つに、デカフェ(カフェインレス)のコーヒーを」
「じゃあ、私もそれで」 
 生ケーキも魅力的だったが、これを食べた後に夕飯が食べられないのも困る。それに、こういう時は先輩と同じものを頼むのが無難だし、夜にはカフェインを控えておくほうがいいだろう。
 パティシエに「お好きなお席でお待ちください」と促され、二人は喫茶スペースの一番奥の席に座った。
 簡素な作りだと思った椅子は高さもちょうどよく、意外にかけ心地がいい。ふと見上げた天井は高く、小さな店なのに解放感があった。
「私、魔法菓子なんて久しぶりです」
「なかなか普段使いはしないものだしね。でも、ここはおやつ感覚のものがメインなの」
 向かい合って座る大滝は、会社のときよりもやわらかい印象がする。苦手だと思っていたのが、うそのようだった。
 しばらくすると、お待たせいたしました、とパティシエがコーヒーの香りをまとってやってきた。
 パティシエが持っているカフェトレイの上には、紙に包まれたシュークリームと、小さなマドレーヌとシャーベット。そして大ぶりのマグカップ。
 パティシエと目が合う。
「お客様、当店のお菓子は初めてですか?」と尋ねられたので、理恵はうなずいた。
「では、シュークリームをお召し上がりになる際は、天井にお気を付けください。浮かびますので」
「浮かぶ?」
 パティシエの言葉に、目を丸くする。
(浮かぶ? シュークリームが? それとも、まさか自分の体が?)
 考えを巡らせていると「ご説明いたします」とパティシエが言った。 
「これは、雲のクリームを入れたシュークリームです。食べると体がふわっと浮きます。ほんの数センチ浮く程度に調節はしてあるのですが、稀に魔力との相性の関係で強く作用する方もいらっしゃいます。お出ししたコーヒーは、魔力を緩和する作用がありますから、ご安心ください」
 流れるようなパティシエの説明を聞き、やっと合点がいった。天井が高いのは、雰囲気づくりもあるのだろうが、そういった魔法効果への対策でもあったのだ。
「少しでも楽しんでいただければ幸いです。では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
 そう言い残すと、パティシエはカウンターの向こうに入っていった。
 改めて、皿の上を見た。拳よりは少し小さめの、かじりつくにはちょうどよいサイズだ。
「あの、まさか、これが」
「そう。私が浮いていたのは、これを食べてたからよ」
 見た目はおいしそうなシュークリームそのもの。本当にこれでひとの体が浮くのだろうか、と、理恵はいまいち信じられない。しかし、好奇心に急かされるままかぶりついた。
 とろり、と口の中にあふれるのは、甘くなめらかなクリームだ。カスタードの濃厚な味と、舌ですっと溶けるやわらかさと、どちらも感じられる。シュー皮も、流行りのクッキーシューとは違う、どこか懐かしいやわらかさ。クリームとともに咀嚼すれば、バニラの甘い香りも相まって、疲れた脳や体全体に、力が行き渡るようだ。
「おいしい」
 しみじみ味わっていると、急にお尻の辺りにクッションが挟まれたような感触を覚えた。
「え、えっ?」
 気づけば、理恵の体が椅子の上で浮いていた。説明も聞いていたのに、信じ切れていなかったのかもしれない。急に、非現実的な世界に来てしまったような気分になった。
 しかし目の前には、仏頂面の大滝が同じように浮いている。これは紛れもない現実だ。
「初めてだとびっくりするわね。コーヒー、飲んでみたら?」
 砂糖やミルクは入れるの? と聞かれ、とっさに「ハイ」と答える。大滝はマグカップのそばに置かれた砂糖とミルクを入れたあと、理恵が手に取りやすい位置に置きなおした。
 デカフェなのに、しっかり香りも味もあるコーヒーだった。すると、ふわふわ浮かんでいた体が静かに降りていき、ぺたん、とお尻が椅子に着地する。理恵は、夢見心地な様子で息を吐きだした。
「本当に浮くんですね、これ」
 再び口にすれば、やはり浮いた。今度は慣れてきたのか、浮遊感を楽しめる余裕も出てきた。
「仕事で疲れたとき、これを一人で食べるのが好きなの。これで答えになった?」
 幻覚でもなければ、超常現象でもなかった。ただ単に、魔法菓子を食べていただけだったのだ。どこかつっかえが取れたような、そんな気分になった。
「はい」と答えると、大滝は「ならよかった」というだけだった。
 

「大滝さん。改めて、今日はありがとうございました。手伝ってくれなかったら、全部終わりませんでした」
 サービスで付いてきたであろうマドレーヌとシャーベットを味わった後、理恵は今日助けてもらったことについて、お礼の気持ちを伝えた。
「そんな大げさなことじゃない」
 と、大滝は言った。
「高坂さん、入ったばかりなのに、大変な状況になっちゃって。あんなの、だれだって一人で全部こなせないから。奥さんに言っとくわ。しばらく私も事務作業していいかって」
「えっ? でも、出荷検査の仕事は」
「事務で図面が用意できなきゃ製品も上がってこないし、製造部から人を寄こすわけにもいかないし。一応、私、この会社に三十年いる古株よ、相談してみる。……神山さんが辞めたの、私が原因だし」
「それは」
 そうですとは、やはりこの雰囲気でも言い出せない。言葉を濁すと、大滝は「わかってるの」と自嘲気味に言った。
「ごめんね、困らせるようなこと言って。私、こんな感じでしょ。神山さんみたいに、今までも何人か辞めちゃってるの。恥ずかしいけど、私のこういう態度が、仕事する上でよくないって、最近になってやっと気づいたの。それに、あなたのミスだと思ってたことの大半が、神山さんが原因だってことを察せなかった。新人だから、っていう思い込みが招いた私のミスね。ごめんなさい」
 大滝が小さく頭を下げた。
「昔は気にならなかったの。誰がどう思っていようと、仕事さえできていればいいって。現場の男性社員は職人気質のひとが多いし、私も細やかな性格でもないし。でもこの十年、つぎつぎ事務の人が辞めていくから、おかしいってなって。原因を探っていったら、どうやら私の態度が良くないっていうことがわかった。仕事のことだから、なんとか改善してみようと思ったの。でも、態度を変えるのはとても難しくて。神山さんとも、あまり友好的にはなれなかった。難しいわね、他人と働くのって」
 大滝がシュークリームを口にする。ふわり、と浮かび、遠い目をした。
 最後の一言が、理恵の心に突き刺さった。『難しい』と理恵が感じていたひとも、同じように難しいと考えていたのだ。
「私も、正直なところ、大滝さんのことは苦手でした」
 おずおずと大滝を見る。大滝は理恵を見ないまま「そうよね」と静かに答える。
 気まずさから、理恵もシュークリームを口にする。ふわりと体が浮かぶと、大滝と目が合った。
「私、今まで、人間関係で上手くいかなくて、職場を転々としてました。どうやって歩み寄ればいいのか、わからなかったです。今でも、いい方法は見つかってません。でも、大滝さんが助けてくれたのは確かだし、大滝さんだって変わろうしてます。だって、私よりも年上のかたが、素直に自分のミスを謝ってくれたことなんて、ありません。だから、一緒に少しづつ、変わっていけたら、いいなって。そう、思うんです」
 こんな形で、職場の苦手なお局と、本音に近い会話をするなんて信じられなかった。しかし、今の大滝になら話してもいいかもしれなかった。
 なにも伝えずに、なにもせずに、状況が変わることはない。だったら、伝えればいい。
「あなたと一緒なら、できる気がする。不思議ね」
 仏頂面の大滝が目を細めて笑った。理恵も「不思議ですね」と答えた。
 来週からの仕事は頑張れそうだ、と、理恵は心の中で思った。 
 桜の盛りである四月、一週目の金曜日の夜。
 蒼衣は注文のデカフェコーヒーをコーヒーマシンにスタンバイさせる。その間にシュークリームに雲クリームを詰めるために厨房に戻った。作業台下の冷蔵庫から雲クリームの入った絞り袋を出して、シュー皮に詰めた。
 ピロートのシュークリームは、注文をもらってからクリームを詰める。雲クリームの魔力は消えやすいからだ。
 今、店内には蒼衣と、喫茶に入った女性客しかいない。八代は保育園に通う娘の恵美を迎えに行き、そのまま家で食事などの世話をしている最中だ。
 隔週で妻の良子と交代しているらしく、フルタイムで働く良子が帰宅すれば、店に戻ってくる。その間、店を回すのは蒼衣一人だ。
 パラフィン紙に入れたシューを小皿に乗せる。できあがったコーヒーと皿を持って、女性の席に向かった。
 きっちりまとめた髪、仏頂面が近寄りがたい雰囲気を醸し出している壮年女性――金曜日の夜に現れ、シュークリーム一個とデカフェのコーヒーをテイクアウトしていく人である。
 夜の常連であるその女性のお気に入りは『ふわふわシュークリーム』だ。
 半月前に会社の後輩らしき女性と来店してからは、テイクアウトではなく喫茶の利用になったのが不思議だった。


「お待たせしました」
 テーブルの上に、盛り付けをしたシュークリームとマグカップを置く。女性は薄くほほえんで「ありがとう」と言った。
(あれ、このお客様)
 女性の表情や雰囲気が以前と変わっていることに気づいた蒼衣は、思わず注視してしまう。すると、不思議そうな顔をした女性と目が合った。
「あっ、大変申し訳ありません。失礼かと思いましたが、以前と雰囲気が少し変わられたので。なにか、よいことがありましたか?」
 女性は蒼衣の言葉に、少し驚いた顔になった。
「そういえば、あなたが勧めてくれたのよね、このシュークリームは」
「覚えていてくださり、恐縮です」 
 この女性が初めて来店したとき、ひどく憂鬱な気持ちが伝わってきたのだった。暗く、どこか八方ふさがりで苦しそうな彼女がいたたまれなくて、シュークリームを勧めた。少しでも、気持ちが軽くなるようにと。
「普段使いの魔法菓子ってどんなものか、想像ができなくて。だから、初めて食べたときは驚いちゃった。しかも、とても美味しいクリーム。軽いのに、カスタードの味がしっかりしてて、私の好みだった。あえて皮がやわらかいのも、懐かしい感じでいいわね」
「ありがとうございます」
「味も好きなんだけど、あのシュークリームを食べて宙に浮いていると、なんだか気持ちが軽くなる気がするの。ちょうどあのときは、仕事で悩んでることがあって、それでずいぶんいやな顔になってたんだと思う。雰囲気、変わったのかしら」
「ええ、とても優しいお顔です」
「ありがとう。でも不思議ね、まるで私の気持ちがわかってて、シュークリームを勧められた気がするけど、気のせいかしら」
 探るような女性の視線に、そうですね、と蒼衣はあいまいに笑みを浮かべた。こうして笑うと、大概の人はこれ以上追求することをやめることを蒼衣は経験で知っている。
「甘いお菓子は、休息に向いていますから。少しでもお役に立てたのなら光栄です」
 それから女性は、新しく入った事務の人と試行錯誤しながら仕事をしていることを話しはじめた。憂鬱な気持ちは、それが原因だったらしい。
「あのとき、会社から自分のせいで従業員が辞めてるって言われて、どうすればいいかわからなかった。今までのやりかたではだめだと言われて、でも、こんな年でどうすればいいって戸惑ってたところだったの。突然すりよっても、気持ち悪がられそうだったし、なにより自分らしくなくて、いやだった」
 打ち解けたのは、公園でシュークリームを食べて浮かんでるところを見られたのがきっかけだったと、浮きながら笑った。
 しかし女性は、ふっと表情を戻した。自嘲気味の顔に、蒼衣は少しどきりとする。
「――私は、きっかけがほしかったのかもしれない。食べるだけなら家でもここでもよかったはずなのに、職場の近くの公園で食べ続けた。もしかしたら、あの子が見つけてくれるかもしれないって。そしたら、もう少し近づけるかもしれない。大人げないのはわかってたのに、そんな方法しか、思いつかなかった」
 女性は変な人よね、と笑う。しかし蒼衣は、首を横に振った。
「変でも、大人げなくても、行動できた人のほうが、僕はすてきだと思います。仕事だと割り切っても、人間関係は存外、難しいものかと」
「ありがとう、その通りね」
 蒼衣の言葉に、女性は静かに答えた。次いで、あなたも、となにかを言いかけたが、すぐに思い直したようにかぶりを振った。蒼衣は薄くほほえむだけでそれを受け止める。
「お客様、雲のクリームの魔力は揮発性が高いので、よろしければそろそろ」
 一呼吸置いて、蒼衣はシュークリームを勧める。女性もああ、と気づいた顔になった。
「ごめんなさい、仕事中に引き留めてしまって。あなたとお話できて良かったわ、パティシエさん」
「とんでもないことです。僕も、お客様とお話ができてよかったです。どうぞごゆっくり、お過ごしくださいませ」
 心から、女性が穏やかな日常を過ごせますようにと願いを込めて、蒼衣は頭を下げた。きっとそれが今の自分にできることだと信じて。


 その後、女性はゆっくりと時を過ごしたらしかった。伝わってきた気持ちは、リラックスした、心安らかなものだったからだ。蒼衣はそれを感じたあと、すぐに仕込みに戻った。
 誰かを救えた、誰かの苦しみを溶かせた。そんな小さな達成感を感じていた。 
 しばらくして、女性が呼び鈴をならした。厨房にいた蒼衣が店先に戻る。会計をするために財布を手にした女性が、「一つおたずねしても?」と口を開いた。
「あなた、名古屋の『パルフェ』っていうお店で修行されていなかった?」
 パルフェ、という言葉に、蒼衣のレジを打つ手が止まった。
 一瞬、心臓を掴まれた心地になる。ひゅっと息をのむ。沈黙が流れた。
「シューのカスタードの味や食感が、そこのお店と似ている気がして。間違っていたらごめんなさい」
「……昔、少しだけお世話になったことがあります」
 脂汗をにじませながら、かろうじて絞り出したのはそんな言葉だった。店員にあるまじき態度だったが、女性の顔を見ることさえできなかった。なんとか指を動かし、レジを操作する。
 女性は「そうなの」と納得したようにうなずき、それ以上は尋ねてこなかった。
 お会計を済ませ、女性を見送った後、蒼衣は力なく作業台にもたれかかる。 
 ――パルフェとは、名古屋市にある有名なフランス菓子店の名前だ。そこは十年前、蒼衣が初めて就職した店であり、九年前の冬に自動車事故を起こすまで勤めていた店だった。
 蒼衣の頭に浮かぶのは、朝早くから夜遅くまで働いていた十年前の記憶。飛んでくるオーナーシェフの怒声だった。
 ――どうしてこんな単純なミスをする、もっと手際よくしろ、仕事が遅すぎる、なんでこんなことを覚えられないんだ、普通に考えればわかることだ、何度もやらせているのにどうして下手になっていくんだ、おまえがもっと使える人間なら、俺はこんな苦労はしない、どうせおまえは、辞めると思ったよ、期待外れだ――。
 脳裏に勝手に響いてくる声に、体が萎縮する。最近は、思い出すことはなかったのに。いつの間にか震えだした右手を、左手で押さえる。こんなに動揺してどうする、と自分に言い聞かせようとした。
「お客さんが、くるかも、しれないんだぞ」
 声に出せば少しはマシになるかもしれなかった。しかしその声はかすれていて、心許ない。
「とにかく、仕事を」
 喫茶の机を片付けようと動く。しかし、頭の中でのフラッシュバックは消えない。今度は仕事を辞めた後の空白期間――部屋に引きこもり、寝る以外の行動を取らなかった時期――すら思い出した。親からの干渉も世間の目も怖くて仕方なかった。自分の体すら満足に管理できなくなっていた。だから、自分は世界で一番いらない人間なんだと思っていた。
 それを振り払うように、蒼衣は心の中で独白し続けた。僕はもう、あの店を辞めた。僕は、魔法菓子職人なんだ。優しく頼れる師に出会って、一緒に店をやろうと言ってくれた親友がいて。だから僕はここで、必要とされているはず。そう繰り返し心の中で叫ぶ。
 しかし、どこかでそれを冷静に見つめる自分が現れた。
『同じ味のクレーム・パティシエール(カスタード)なんか作って、未練がましいね』
『辞めたことを後悔してる? 上手く働けなかったくせに。この、出来損ない』
『今だって、八代が助けてくれるから社会生活ができていることを忘れたのか? 魔法菓子が作れるから傍に置いているだけかもしれないぞ? 彼がいなければ、おまえはいつまでもだめな人間のままなんだ』
 手を伸ばしたマグカップが傾き、派手な音を立てて砕けた。ほんの少しのきっかけで壊れてしまう。それは過去の自分そのもののようで、今の蒼衣はそれを呆然と見つめることしかできなかった。
「ただいま~。あれ、蒼衣は? ど、どうしたの、それ」
 はっとして顔を上げる。八代が戻ってきたのだった。その声に心底、安堵する。
「大丈夫か、誰も怪我しなかったか?」
 ごめん、と言う前に、八代が心配そうに尋ねた。
「だ、大丈夫。お客さんが帰った後、僕が一人で落として割っただけだから。ごめんよ」
 そんなの大丈夫だって、と優しく言う八代は、手際よく掃除道具入れからホウキとちりとりを手にして片付けをし始めた。
「蒼衣が怪我したら店やれなくなっちゃうからな、俺がやっとくよ。そうだ、店先へ閉店のプレート出すの、やってもらってもいい?」
「え、あ、もうそんな時間なの?」
 営業時間に戻ってこれなくてごめんな、といいつつ、八代はさっさと破片を片付けてしまっていた。蒼衣も慌てて店先に向かい、プレートを『閉店』に変える。
 店の中に戻れば、八代はカウンターの中で閉店作業を始めていた。すでにショーケースのケーキはばんじゅうに戻されている。 レジも売り上げレポートのレシートが印刷されていて、作業机の上には、八代が店の経営に使うタブレットに、売り上げデータが表示されている。八代はいつも通りに処分予定のケーキに手を伸ばし、食べようとしていた。
 低く流れるボサノヴァのBGM、バターと砂糖と、シリコンシートの焼けた独特の香り、暖色系の照明。目指していた『町のお菓子屋さん』。
 普段と変わらない店の様子。しかし、蒼衣はふと、ここに自分がいていいのか、不安になった。
「あのさ、八代」
「んあ?」
「僕の作ったケーキ、おいしいと思う?」
 いくらなんでも口が滑りすぎた。しまった、と手を口にやるが、取り消す言葉は頭にひとかけらも浮かばない。
 実に情けない問いかけだ。質問というよりは、縋っている体《てい》に近いし、なにより普通の大人はこんなことを言わないだろう。しかも、言わなくても食べれば『伝わってくる』ことを知っているくせに。なんて浅ましい。
 これじゃあ、不機嫌で誰かをコントロールする昔の自分と同じじゃないか――理性が叫んでいる。
 八代はきょとんとした顔で蒼衣を見ていた。なにを馬鹿なことを、と罵られるのも怖くなって「変なこと聞いた、忘れて」とごまかそうとしたそのときだった。
「なんだなんだ、変なクレーマーでもきたのか? そういうのは情報共有してくれないと困るんだぜ、パティシエくん」
「いや、そういうことじゃなくて」
 決してあのお客様がクレーマーというわけではない。ただ単に、疑問に思ったことを訊いた、それだけのことだろう。むしろ、半年近く通い続けてくれている彼女は、クレーマーとはほど遠い存在だ。
 すべての原因は自分にしかない。十年がかりでしっかりとふたをしてきたつもりだった記憶と後悔が、たかだか店の名前一言だけでぐちゃぐちゃにあふれ出ているだけなのだ。最悪なことに、今の蒼衣はそれを片付ける方法を知らない。
 八代はふーん、と意味ありげにつぶやいて、カウンターから出てきた。そして、店の真ん中で立っていたままの蒼衣の周りをゆっくりと歩き、さまざまな角度から眺めた。まるで探偵が事件のヒントを探すような、滑稽な様子だった。
「なあ蒼衣、この街にも隣の街にも、たくさんのお菓子屋がある。それぞれ自分たちの一番だ、って思うものを売ってるはずだ。なにを言われたのかは知らんが、俺が信じてるのは他でもない、天竺蒼衣の魔法菓子だ。そうじゃなけりゃ、脱サラして自営やろうなんて思わないよ」
 八代は穏やかに言った。同い年のはずなのに、蒼衣よりもはるかに成熟した余裕を感じられた。
「……お見通しなんだね、ごめん」
 蒼衣は恥ずかしくもあり、申し訳なくも思った。しかし同時に、東八代という男の心の広さを、改めて感じた。
「そんな日もあるよな、いろんなお客もくるだろうし。魔法菓子だからって明後日の方向のいちゃもんつけてくる『たわけ』な客もおるでよ~」 
「なんで最後だけ名古屋弁なのさ」
「たまには使わないと忘れそうで」
「君、生粋の名古屋人じゃないよね?」
「へいへい、生まれも育ちも彩遊市ですよう」
 蒼衣の口から笑いが漏れた。先ほどまで蒼衣を襲っていた不安が、どこかに引っ込んでしまったように思えた。
『たわけ』は標準語で『馬鹿』や『アホ』の意味を持つこの地方の方言だ。同じ愛知県でも西三河地方出身の蒼衣はあまり使わない言葉ではあるが、意味はわかる。
「結論。おまえのお菓子は美味い! 覚えておいてくれたまえよ、パティシエくん」
「ありがとう、八代」
 たわけは僕のほうだったね、と心の中だけでつぶやいた。
 五月。第二日曜日の『母の日』も終わり、開店からなにかと慌ただしかった『ピロート』にも、穏やかな時間が流れるようになった、ある日のことだった。
「兄さん、久しぶり」
 店内に入ってきた女性を見て、蒼衣は「いらっしゃいませ」の挨拶を忘れてしまった。
 明るい髪色で、きれいに整えられた巻き髪のロングヘアー。華やかなメイクとぱりっとしたスーツ。すらりとしているが、女性としてはやや高めの身長。二〇代前半の若々しさにあふれたキャリアウーマン。
 現れたのは、天竺咲希(さき)……蒼衣の妹だった。
「珍しいね、うちに来るなんて。紳士服売り場は忙しいだろうに」
 咲希は、彩遊市の百貨店『南武百貨店 彩遊店』に勤める社員だ。時間も休みも不規則な職業な上、彼女は西三河の実家から電車で一時間半かけて通っている。ピロートと南武は同じ市にあれど、徒歩で寄り道できるような距離ではない。距離だけで無く、趣味も交友関係も広い咲希は忙しいのか、これまで一度もピロートに訪れたことはなかった。
 久しぶりに会う妹と、どう接していいかわからず、蒼衣の声は少しこわばっていた。
「あれ、食品部門に異動になったこと、言わなかったっけ? 兄さん、もう少し実家に顔を出したら? 忙しいばかり言い訳にしてさ、親不孝者だよ。連絡くらいしたらどう? 普通、電話くらいできるでしょ、機械音痴でも」
「うん、ごめんね」
 薄い笑みを貼り付け、言葉だけの詫びになる。咲希はそれに気づいているのか、気づいていないのかはわからない。
「それは置いといて。今日は仕事の話をしに来たの。夏にうちでスイーツフェスタの催事をやるんだ。で、私はその担当になってて、いろんなお店に出店のオファーをかけてる最中」
 渡された企画書を見ると、開催時期は八月の第一週と書かれていた。
「八月? ずいぶん急だね」
「お盆前にも売り上げ上げたいんだって。で、人が集まるお菓子の催事をしたいって言われたの。お菓子屋さんって夏は暇なんでしょ? 兄さんの店も出せばいいじゃん、って思ってさ。魔法菓子ってSNS映えするし」
「確かに暇だけど……百貨店でしょ。うちのケーキはファミリー層向けだから、合わないんじゃないかな」
 東京の百貨店には、ピロートよりも技術水準の高い魔法菓子店が出店しているのを知っている。いくら地方都市とはいえ、ミスマッチだ。
「それが今回は、地域密着、地元のお店を呼びたいっていう上の命令があってさ。それに、お得意様からも、このあたりで魔法菓子のお店はないの? って聞かれてて。兄が魔法菓子店やってます、って話したら、声かけてこいって上司から言われちゃってさ。身内にいると楽よね、こういうときは」
 自分はまだイエスもノーも言っていないのに、すでに合意の方向で話が進んでいる。居心地の悪さを感じていると、八代が配達から帰ってきた。とたんに気持ちが軽くなり、ほっと息をついた。
 軽く経緯を説明すると、八代は少し難しい顔をした。それは経営者としての面持ちで、仕事のことなのに、相手が身内だというだけでひるんでいた蒼衣との差を見た気がして、息苦しくなった。
「蒼衣、夏場は生ケーキの売り上げが落ちるってのは、よく知ってるよな」
 八代の言葉に、とっさにうなずく。菓子業界なら常識的なことだった。夏の売り上げ対策に苦戦している店は少なくない。つまり、夏場の対策としてこの催事の話を受けたいということか。理屈はわかるが、今の蒼衣は素直に受けたいと思えなくなっていた。
「そうなんだよね。でも、百貨店にはあまりいい思い出がなくて」
 先ほどからの居心地の悪さを隠しつつ、蒼衣はもう一つの懸念を話した。
 昔、製菓専門学校の校外実習で催事の手伝いをしたときのこと。初日から細かい質問攻めをされて、いやな思いをしたことがあった。今でこそなんとか接客できるようになったが、あのめまぐるしさと人いきれの中で店と同じように接客をするのかと思うと、上手くできる自信はなかった。
 蒼衣にとって、ピロートは理想の店だ。自分の力で作れるだけの商品と、最大限の接客サービスを提供できる余裕と雰囲気。それを、他の店と同じ規格でやらなくてはいけない場所に出すことへ、抵抗があった。
 それを伝えると、咲希は「そんなことでよく客商売やってるね」とあきれた顔をした。咲希は高校生から接客業ばかりやっていて、クレーマーさえ上客にすると豪語するほど、仕事に自信を持っている。よく言えば自信家でパワーにあふれているが、発する一言は遠慮がない。
 なるべく人当たりのいい言葉を選び、他人との衝突を避ける蒼衣とは違うタイプの人間だった。
「兄さんってほんと変な人。せっかくのチャンスなんだよ? 催事に出たら名前がバーン! って出て有名になれるのに。変なところで弱腰なんだよね。それに、何年もパティシエとして働いてるくせに、いまいち自信なさげなのが見ててイライラする。ほんと、そういうとこ、家に戻ってたときと変わんないし。あーあ、情けない、三十一歳になるのにさ」
 一気にまくし立てると、咲希は腕組みをして、指で腕をトントンとたたき始めた。自分の思い通りに行かず、いらだち始めた時に出る、咲希の癖だ。
 過去のことを引っ張り出され、素直に怒ることができればいいのだが、反射的に、どうやって機嫌を取ろうかと考えてしまう。身内である妹だから仕方ないと思う一方で、他人の機嫌の悪さに振り回されそうになる自分に嫌気がさす。
 ここで咲希に言い訳をしたところで、それが伝わるかは怪しい。自分の懸念を「変な人」「弱腰になる」という言葉で片付けられてしまったからだ。
 一応兄妹だから、縁を断ち切ることもできない。かといって、いつも言うことを聞くだけの関係も、不満がつのるだけだった。
 年を重ねるにつれ、だんだんと実家に寄りつかないのも、それが原因かもしれない。
 そんなことを考えていると、八代が「俺は蒼衣の気持ちもわかるぞ」と割って入った。
「確かに、ここの接客をそのまま催事でやれるかっていったら不安はあるんだよな。ただでさえ今はクレームに敏感だし。……そういえば、SNSでお客さんから『百貨店出店は無いのか』ってよく聞かれてるって話、したっけ?」
「そうなの?」
 初耳だった。蒼衣はこのご時世珍しいことに、ネット環境をいまだに整えていない。自宅にパソコンはあるが、八代のお下がりな上、操作方法が分からず、埃をかぶっている。携帯電話も未だガラケーで、滅多にネットにはつながない。
 ときどき八代から画面を覗かせてもらうだけが、蒼衣の知る『インターネット』の世界だ。
「魔法菓子はSNS映えするから、定期的に口コミで話題に上がるんだ。通販の要望もあるんだけど、魔力保持の問題があるから難しいだろ? 百貨店の催事なら、対面販売だからそこんところはクリアか。南武は市駅の隣にあってアクセスもいいし、普段うちの店に来るのが難しい人も来店できる……ん、メリットあるじゃん」
 たしかに、と蒼衣も思わず同意した。
 ピロートは彩遊市の住宅街の中にあり、徒歩や車で来店する地元の人をメインにしてるため、最寄りのバス亭はあれど公共交通機関で来るには不便な場所にある。欲しいと思ってくれるお客さんに届けるには、催事への出店はかなりのプラスになる。一消費者として考えれば、蒼衣にでも分かる理屈だ。
 以前、魔法効果を写真に撮られてSNSにアップしたときの反応を思い出した。「もっと家から近かったら行けるのに」「駅から近くないのが残念」というコメントがあった。そのときはただただ申し訳ないばかりだったが、それを解決できる方法が今、目の前にある。
「確かに接客のクオリティや方法は、ここと少し変えなくちゃいけないかもしれない。でも、俺はもっと、蒼衣のお菓子をいろんな人に知ってもらいたいんだ。その可能性が見えるなら、俺は少しでもそれに賭けたい。不安なことはなんでも言ってくれ、なるべく一緒にどうするか考えるからさ。ていうか、それがオーナーたる俺の役目だし」
 八代の言葉に嘘や偽りはない。それは、魔法菓子を食べなくても分かる。
 夏場の売り上げへの懸念、ネットでの反応、八代の熱意。これでは、ただ不安だとだだをこねる自分が、あまりにも恥ずかしくなってくる。
 八代は自分の不安も分かった上で、こうして手をさしのべてくれる。その信頼に応えたかった。
「少し、頑張ってみたいな」
 おずおずと言葉を返した。瞬間、八代の顔がぱあっと明るくなる。
 できれば催事には八代が出てくれるとうれしいんだけど、と遠慮がちに言うと「了解、店も開けてたいしな」と二つ返事で帰ってきた。
「これを機に催事限定商品とか考えちゃったりしない? 夏向けのやつ」
「それいいね、兄さんなんかない?」
 さっきまで不服そうな顔をしていた咲希も、八代の提案に乗っかった。気持ちの切り替えの早さは咲希のいいところだ。しかし、唐突に感じるときが多く、蒼衣はペースについて行けない。
「あー……なんか、考えとくね」
 あいまいに微笑むことしかできなかった。
「そうだそうだ、咲希さん、他にどんな店が出るの?」
「えっと、名古屋を中心に、中部東海の有名なところに声かけてんだ。リスト見せよっか? 一応社外秘だから、内緒ね」
 リストを見せてもらうと、そうそうたるメンツの中に『パルフェ』の文字があった。
 瞬時に、蒼衣の表情が固まった。
 パルフェが出るということは、少なくとも一度はシェフに会うかもしれない可能性が、脳裏によぎる。
「兄さん? なに、どうしたの」
 八代が眉をひそめるのが見えた。
「二人ともどうしたの? リスト変だった?」
 困惑する咲希の前で、蒼衣は返しが思いつかず、沈黙する。八代も咲希も、蒼衣がかつてパルフェに勤めてことは知っている。だから八代も言葉を選んでいるのだろう。しかし、咲希はすっかり忘れているようだった。
 すると、勝手口のドアが開いた。
「ちわーっす、ロータス商会でーす」
 厨房のドアを開ければ、材料卸の営業の声が聞こえてくる。
「材料の配達が来たから、受け取ってくるね」
 その場をごまかすように、蒼衣は厨房に駆け込んだ。

 
「で、どうするの、催事。参加するの、しないの。どうなの」
 営業が帰ったあと、待ちぼうけを食らった咲希が、急かすように問いかけてきた。
 腕が組まれ、細い指がリズムを刻もうとしているのが見える。
 ああ、まずい。うまいこと言葉が出ずに困っていると、八代が「咲希さん」と声をかけた。
「申し訳ないのだけど、あと少し待ってくれないかな。うれしい申し出だし、すぐにでも返事をしたいところだけど、こちらも九月に開店一周年記念のイベントを企画してるんだ。準備との兼ね合いもある。なにせこの店は、俺と蒼衣の二人しか従業員がいないからね。いい加減にことをすすめては、南武さんにも、咲希さんにもご迷惑がかかるから」
 と、助け船を出してくれた。
 八代はこういうとき、蒼衣のように腰が低すぎたり、かといって黙ることはない。的確に状況とこちらの要望を、相手のわかる言葉で伝えることのできる人間だった。
 腕組みを止めた咲希が、少しねえ、とひとりごちる。
「……一応、魔法菓子はお得意様からの要望だからってことで、ぎりぎりまで粘れるはずです。でも、早めに返事をください。できれば、六月の頭には。こっちも滞りなく仕事を進めたいので」
 では、と咲希はさっさと店を出て行った。ドアを見て、八代は肩をすくめる。
「君の妹はなかなか、パワフルだねえ」
「ごめん。昔からああいう子で。我が道を行くというか、せっかちなんだ」
「さて、いい話だけど、どうする」
 八代は含みのある目で蒼衣を見た。
「……それもごめん、もう少し考えさせてくれないかな」
 地元のお店中心なのだから、パルフェが出ない訳がない。経営面から言えば、出るのがどう考えても正解だ。だが、心の奥で引っかかりが多すぎて、がんばろうとする気持ちがすっかり引っ込んでしまった。
「蒼衣、やっぱり、おまえまだ――」
「ごめん、配達された食材、しまってくる」
 声のトーンが低くなっているのを自覚しながら、蒼衣は八代の言葉を遮り、厨房に逃げこんだ。
 咲希が来てから四日経った火曜。蒼衣は名古屋市内にある製菓材料専門会社『ロータス商会』社屋の一室にいた。
 学校の調理室のように複数の調理台が並び、壁際には食器や食材を入れる棚がある。部屋の一番奥には、大きめの調理台とホワイトボードが置かれ、そこには『夏期向け商品提案講習会』と書かれている。
 蒼衣は、事前に申し込みをしてあった、夏向け商品の講習会へ訪れていたのだった。
 有名店のシェフパティシエが招かれ、流行と技術が間近で見られる材料卸主催の講習会は、多くの職人にとって格好の学び場であり、情報交換会でもある。
 もっとも、蒼衣としては技術とアイディアの勉強のためがメインであり、同業他店の人間と『交流』するのは、苦手とするところではある。その点だけ言えば、八代と共に参加するのが一番いいのだが、唯一の休みである定休日に、一日引っ張り出すのは気が引けた。
 賑やかな中、蒼衣は調理台の一番後ろに、遠慮がちに座る。周りが親しげに話しているのを尻目に、肩身が狭い思いを抱きつつ、開催時間を待った。
 すると、蒼衣の隣にだれかが腰掛ける気配があった。なんでわざわざ自分の隣に、と思わず胡乱げに見上げると、視線が合ってしまった。
「あれ、おまえ……」
「あ……」
 蒼衣は顔を見た瞬間、それがパルフェ時代の先輩の一人だということに気づき、顔がこわばった。
 蒼衣よりも少し年上の男性で、髪の毛は脱色した金色。短髪だが、耳には派手にピアスが着いている。かすかにたばこの匂いがして、たばこを吸わない蒼衣は思わず顔をゆがめる。確か、山本という名だったはずだ。
「その童顔、見覚えがある……えっと、おまえの名前、なんだっけ? 俺は山本だよ、覚えてるか? あー、なんか、女っぽい名前だったような」
 冷笑を含んだ声音は、蒼衣の神経を逆なでした。
 すぐに感情を抑えた声で「天竺です」と短く答えた。下の名前では呼ばれたくない、と強く思った。
 山本は明らかに不満そうな顔をした。
「ああ、そうそう、天竺。名字も珍しかったんだっけ。しかし、おまえまだあそこにいるの? とっくに逃げたと思ってたわ」
 逃げたのはそっちじゃないか、と叫びたくなる気持ちをなんとかなだめて、蒼衣は「いえ、辞めました」とだけ言った。
 山本は蒼衣の答えに「だよな」と興味なさげに反応した後、今の自分が別の店でチーフになりそうなこと、不眠不休で働いてるかを勝手にしゃべり始めた。
 山本のいる店は、名古屋でもそこそこ大きな店だ。パルフェほどではないが、メディアや業界紙には、よく名前が挙がる有名店。
 つまりは、忙しいと嘆くように見せかけた自慢話である。蒼衣は聞いているフリをしてやり過ごそうとした。
「で、天竺は今どこの店にいるの」 
「僕は今、友人と店を経営しています」
「――は? え、つまり、独立してる? マジ?」
 澄ました顔でうなずく。鞄から名刺を取り出し「彩遊市にあります」と住所を指さした。
「……ふーん、あっそ」
 山本は明らかによそよそしくなり、口を閉ざした。形だけ差し出した名刺も、受け取ろうとする気配はない。
 自分の店を持つ、というのは、職人にとっては一種の出世のようなものだ。下に見ていたはずの後輩が自分の店を持っていた、という事実は、山本を黙らせるのには十分だったのだろう。
 蒼衣は、珍しく他人に対して、優越感を持ったことを自覚していた。しかし、正しくない方法で得た、後ろめたいものであることは、あえて無視をした。


 開始時間になっても、ロータス商会の社員が慌ただしくしていることに首をひねっていると、やっとアナウンスが入った。
「申し訳ありません、加藤先生が急病により、本日の講師はこの方に変わりました」
 調理室に現れた人物を見て、蒼衣の顔から血の気が引いた。
 厳つい角刈りの頭で腕組みをする、いつも不機嫌な顔の壮年男性。
「ご紹介いたします『パティスリーパルフェ』のオーナーシェフ、五村《ごむら》さんです」
 会場がざわめきたつ。ほどなくして「鬼の五村かよ」という言葉が聞こえてきた。それは、体育会系の厳しさ、激しさ故についた業界内で五村をさすあだ名だ。
 すると、五村が蒼衣のほうに向かってあごをしゃくり上げた。
「文句があるなら今すぐ出てけ!」
 山本がヒッ、と悲鳴と共に立ち上がり、直立不動になった。先ほどの「鬼の五村」発言は、彼だからだ。
「フン、ウチの店を出てった軟弱ものか」
 吐き捨てられた言葉に、山本は背中を丸めて、居心地が悪そうに着席する。
 五村の怒声に、蒼衣は腕をさする。昔、激高した五村に鍋やホイッパーを投げつけられた箇所が、痛んだ気がしたからだ。
 今すぐ出て行こうか否か、悩み始める。しかし、ここへはお店の金で出ている。勉強したいと思ったのは自分だ。
 そして、なによりも、五村を見たときから、もう一人の自分が「もしかして」と甘い期待を抱いていることに、蒼衣は気づいていた。
 自分より先に逃げ出した先輩よりも、先に店を持てた自分。
 ――今の自分なら、五村に認めてもらえるかもしれない。
 過去の恐怖をも覆い隠すほどの得体の知れない自信が、蒼衣の心の中に膨らんでいた。


 五村の手元が、天井からつり下げられたモニター画面にアップで映し出された。手早く作り上げられていく生地、無駄のない動き。生地焼成の間に作られていくクリーム。
 鬼の五村と呼ばれるのは、性格の激しさだけではない。菓子作りへのこだわりと追求の苛烈さも表しているのだ。作り出すのは、大胆と繊細さを兼ね備えた、一級品のフランス菓子。
 やがて、画面で見るだけでは耐えられなくなった一人が、作業台の近くに寄っていった。五村が拒む様子がないのがわかると、大半の参加者が同じ行動をし始めた。蒼衣もおそるおそる立ち上がり、人だかりの隙間からのぞき見る。
 スパイスの香りが利いたスペキュロス生地のクランブルをタルトのように固め、その上にホワイトチョコレートのムースを流し入れる。
 その中にオレンジや梨などのピューレで作られたジュレを入れ、軽めのクレーム・シャンティイ(ホイップクリーム)で被う。
 周りにビターなガナッシュを絞り、一口大にカットしたオレンジ果肉を飾る。
 五村の創作フランス菓子『タルトレット・ソレイユ』ができあがった。


 試食の時間。久々に口にする五村の菓子に、蒼衣の手が震えた。
 チョコレートのムースの甘さと口溶け、ジュレのみずみずしさと、スペキュロス・クランブルのざくざくとした食感。シャンティイ、フレッシュフルーツ、スパイス、三つの風味のバランスは絶妙。飾り付けのバランスも美しい。
 まさに食べる宝石の異名を持つ、五村の菓子だった。
 五村を盗み見ると、室内を歩き回り、眼光鋭く反応を伺っている。十年前と変わらぬ姿勢に、否応なしに背筋が伸びた。
 ふと、五村と目があった。
 ――気づいた。意を決して、席を立った。
「十年前にお世話になった、天竺です」
 声がかすれ、手が震えた。
 しかし五村は、かすかに眉をひそめただけだった。
「今は、魔法菓子の職人をやっています」
 自分が取り繕うような、ひどく情けない表情をしているのだろうとは思っていたが、すでにどうすることもできなかった。
「魔法菓子?」
 五村の目じりがぴくりとけいれんするのが見えた。そして、鼻先で笑う。
「ハッ、いかがわしい魔力とやらに頼る、たわけたアレか。くだらんな。あんな味のしない、食べ物というのもおこがましいものを」
 吐き捨てるように言って、五村は蒼衣から離れた。
 静寂が訪れ、場の空気が一気に冷えるのがわかった。蒼衣は突然の否定に、どう言葉を返していいのか、どんな顔をすればいいのかもわからず、その場に立ち尽くす。
 やがて、他の参加者から「魔法菓子?」「なんでそんな店が?」という困惑する声が聞こえてきた。
「魔法菓子? まさか店って……普通の職人になれなかったから、そんなアコギな商売に手ぇ出したのか。ハハ、よくも職人面してここに来たもんだ、なあ!」
 先ほどの萎縮具合から打って変わった、嫌になるほど強気な山本の言葉が、蒼衣にとどめを刺した。


 講習会が終わる前に黙って部屋を出ると、顔見知りの営業が追いかけてきた。しかし蒼衣は力なく笑みを浮かべて「失礼します」とだけ言って、社屋を後にした。
 彼は、普通の製菓材料を取り扱う会社に勤務しているが、魔法菓子に興味があるひとで、ピロートとの取引も好意的に受け止めてくれていた。
 まさか、講師が急遽変更になり、それが自分と因縁のある相手だとは知るよしもないだろう。蒼衣も、五村が魔法菓子に対して否定的なことや、さらに他の職人らも同じように思っていたことは、今日初めて知ったくらいだった。
 いや、初めて知ったというのは嘘になる。魔法菓子の世間的なイメージは、自分たちが思っているほど、いいものではないことを、蒼衣はすっかり忘れていたのだ。
 食品業界では、魔法菓子の華美な部分だけが一人歩きしていると聞いたことがあった。実際、一昔前は見栄えを重視するあまり、味は二の次が当たり前だったらしい。魔力、という目に見えない力があれば、たいした技術がなくとも作れる、というイメージも蔓延している。
 さらに、過去には知識不足からや、逆に華美と奇抜さを求めるあまり、魔力由来での事故や不祥事も起きている。自治体に存在する魔法菓子条例は、それが原因で作られたものだ。
 本当のところ、組み合わせや含有率の調整など、それなりに難しい面はある。そもそもベースになる製菓技術や知識もある程度なければ、商品どころか『食品』にすらならない。
 しかし、魔法菓子職人になるには魔力を感じ、扱える人間に限られている。魔力を感じられなければ、どれだけ知識があっても、魔力含有食材を扱うことが不可能だからだ。
 魔力を感じられる人間の『感性』にゆだねられる、曖昧模糊としたブラックボックスの世界。製菓のせの字も知らなかった素人が、瞬く間に『魔法使い』になれる奇跡――と、思われている。
 努力と経験を重んじる五村のような職人には、煩わしい存在だろう。
 駅に向かう途中、ぽつり、ぽつりと頭を叩くのは、冷たい雨だった。やがて本降りになり、傘を持ち合わせない蒼衣は、あっという間にびしょ濡れになる。
 自分の見ている世界と違うひとの群れにいるのは、息苦しい。
 湿気で張り付いてくる長い髪。それを、初めて心からうっとうしいと思った。
 

 蒼衣が戻ってきたのは、定休日の静まりかえったピロートの厨房だった。
 低くうなる冷蔵庫の駆動音、書きかけの工程表、常に残り続ける、甘い香り。
 そして、かすかに辺りを漂う魔力の気配。
 九年前、自分をよみがえらせてくれた魔法菓子。八代やいろんなお客が受け入れてくれたはずの魔法菓子。
 自分を支えてくれたもののそばにいるはずなのに、いっこうに心は落ち着かない。
 そしてついに、蒼衣は声も出さずに泣き出した。何年も見ないふりをしていた、自分の中の暗い感情が、大きな魔物の形をして現れる。
 魔物は、口を開けて「見ろ」と叫んでいるようだった。
 膨れ上がった自己愛と虚栄心がぐちゃぐちゃにつぶれて腐った中身――本当の自分を見ろと、泣きながら叫んでいた。
 製菓専門学校を卒業し、蒼衣が初めて就職した店は『パルフェ』だ。
 小さい店ながらも、正統派のフランス菓子を作るパルフェにあこがれる職人志望は多く、蒼衣もその一人だった。学校での真面目な態度や熱意が通じたのか、晴れて採用。期待に胸を膨らませ、四月の本採用まで待てず、秋からアルバイトとしていち早く店の門をくぐった。
 職人の世界は蒼衣の想像していたよりも、遙かにマルチタスクが要求される場所だった。効率の良い作業の順番や、複数の職人と狭い調理場で仕事をする知恵や工夫。ルセット以外はマニュアルなどなく、職人の経験がものをいう世界だった。
 最初は、見習いということもあり、ひたすら洗い場にいるか、材料の計量で日々が過ぎていった。生真面目なところのある蒼衣にとって、先輩やシェフのあいまいな指示や、言葉の本意を察しないといけないところでうまく行かず、何度も怒られてばかり。
 おまけに技術も拙いので、自分は職人に向いていないのかもしれない、とその度悩んだが、修行の一環だと思ってやり過ごした。
 四月、正社員登用になった頃、やっと仕込みの一部に関わるようになった。ほんの少しだけでも、職人らしいことができるようになって、自身が付き始めた。
 蒼衣の運命を変える出来事が起こったのは、季節が冬になった頃だった。
 就職して一年目のクリスマス終了後、蒼衣以外の先輩や同僚がいきなり店を「ばっくれ」た。つまり、逃げたのだ。
 パルフェは小さな店だが、五村の方針でケーキの種類は多い。さまざまなメディアで取材されているおかげで知名度が高く、休日平日問わずお客がひっきりなしに来る人気店だ。作っても作ってもショーケースからケーキが消える。連日深夜まで残業は続き、週六日仕事をする先輩たちはいつも疲れた顔だった。
 蒼衣も同様だったが、当時はは若さと業界に入れたという熱でなんとか乗り切れてしまった。
 五村は「職人などそんなものだ」と言い切る体育会系の人間だった。五村は一睡もせずに仕事に来ることは珍しくなく、それでいて体調を崩すこともないという、鉄の体を持つ男である。
 先輩たちは、蒼衣という新人が入ってきたことにより「逃げよう」という気になったのだろう。思えば、入って半年くらいから「もう仕事を覚えたか」「この先頑張っていけるか」と尋ねられることが多かった。あれは共に頑張ろうという意味ではなく、生け贄にできるか判断するための質問だったのだと今ならわかる。
 当時の蒼衣は馬鹿正直に「早く覚えます」「頑張ります」と前向きに答えてしまったため、見事生け贄の判断を下されのだ。
 その結果、蒼衣は五村と二人きりで厨房を回さなくてはいけなくなった。連日早朝から深夜まで、ときには休みも返上で働く過酷な労働条件に加え、経験も技術も未熟なままの蒼衣と、根性論を信望し、感情的な五村との相性は最悪だった。
 指示はやはり蒼衣にはあいまいでわかりづらく、かといって何度も質問できる雰囲気でもなかった。
 五村の気に入らないミスをすれば機嫌は悪くなり、厨房内の空気は険悪になる。忙しい最中なら、怒りが頂点に達した五村が調理器具をこれでもかと投げつけてくるのはお決まりになりつつあった。
 それでも蒼衣は一人残された職人として、精一杯働いた。残された自分がどうにかしなければならない、そんな義務感にも駆られていた。
 たとえ、だんだんと食事がのどを通らなくなり、数少ない休日は一日眠りに落ちるだけの時間を過ごしていたとしても。深夜に突然目が覚めて訳もなく泣き出したり、帰りの車の中、エンジンすらかけずに四時間も黙りこくったままだったりしても。 
 何度か八代に連絡を取ろうか考えたが、相手は大学四年生。卒業と就職を控えて忙しいのはわかっていたし、なによりも、華々しい大学生活を送っているであろう八代と顔を合わせたくなかった。
 そして迎えた二年目のクリスマスイブ、寝不足と疲労の中仕事を終えた。しかし五村は、
「おまえがもっと使えるようになっていたら、去年と同じくらいの売り上げがあったはずだ」
 と、言い捨てられるだけだった。
 頭を殴られたような衝撃が、蒼衣に走った。
 一年間、蒼衣はできるだけのことをやってきたつもりだった。しかし、五村の望む職人にはなれなかった。これ以上、なにをどうがんばれというのだろうか。
 失意の中、蒼衣は帰りの車を走らせ、思う。――ここで車のハンドルを手放したら、楽になれるだろうか。
 頭に浮かんで消えた、ほんの数秒の出来事。気がついたときには車を電柱にぶつけていた。
 前方不注意の、衝突事故だった。
 その後のことは、あまりよく覚えていない。ただ、ぶつけた車や自分のことよりも、空にあるオリオン座がやたら輝いていたことが印象に残っている。
 きちんと仕事ができなかった。上司にほめられもしなかった。死ぬことすらかなわなかった。
 今までの自分がサラサラと音を立てて崩れてなくなっていくような感覚だった。


 まもなく、蒼衣の体に変化が起こり始めた。
 事故後の静養中、突然足がうまく動かせなくなった。医学的には健康そのものだが、精神的なものだと医者は診断した。
 そして、コックコートを見れば吐き気を催し、市販のお菓子の甘いにおいでさえ、嫌になるようになった。
 パルフェの厨房へ赴くことを、体全体が拒否しているようだった。
 そこでようやく、お菓子や仕事への情熱や執着などが、みじんも消えていることに気づいた。自分が空っぽになってしまったようなむなしさと同時に、そもそもなんの力もなかったのだと理解した。
 食べることも、動くこと、今後を考えることすらおっくうになり、部屋から出ることもできなくなった。
 ようやく様子を見に来た両親が「仕事はどうするの」と言い出したのをきっかけに、蒼衣はパルフェを退職することを決めた。一月の終わりだった。
 なんとか退職の意思を伝えると、それはあっさりと承諾された。しかし五村は、
「どうせ辞めると思った。期待外れだった」
 と、言い放っただけで、これまでの労いや優しい言葉は一切かけてくれなかった。
 美味しい菓子を作るひとが、いいひととは限らない。
 冷たい現実を今一度飲み込んだ蒼衣は、更に自己の闇に深く落ちていくことになったのだった。

:::

 翌日起きると、足が重かった。
 昨日はしばらく泣き続けた後、どうにも体が辛くなって部屋に駆け込み、食事も取らず風呂にも入らず、そのまま寝てしまったからかもしれない。
 泣きはらした顔もひどいもので、なんとかシャワーだけは浴びて厨房に赴いたが、気分は沈んだままだった。
 久しぶりにパルフェ時代の夢を見たからだろうか。それから数日、気持ちの重い日が続いた。
 咲希の残していった百貨店の催事の返事もする気になれず、八代が話題を出すたびにはぐらかし続けた。気持ちが重い原因はなんとなくわかってはいたが、かといってそれを解消できる術など思いつかず、口数の少ない日々を過ごした。
 時折、ヨキ・コト・キクのおばあちゃんたちに「あおちゃん、元気がないな」「きれいな顔にまたクマができとるわい」「八っちゃんになんとかしてもらえ」と言われても、あいまいな笑みを浮かべてはぐらかし続けた。
 八代は頻繁に、なにかあったか、と声をかけるが、その度に「なんでもない」とそっけなく返すことが多くなっていった。八代には心配をかけたくなかった。またパルフェがらみで落ち込んでいると知られるのが、恥ずかしかった。
 成長していない自分をさらけ出すのが、怖かった。

 事件が起きたのは、講習会から四日経った土曜日だった。
 その日は朝からまた雨で、どんよりとした空が更に蒼衣の憂鬱さを加速させていた。
 重たい体をなんとか動かし、開店前の仕込みを始める。今日は『プラネタリウム』のグラサージュかけがあるのだ。
 しかし不思議なことに、いつもならツヤの出るはずのグラサージュが、きれいなものにならない。再度、火を通してなめらかにしたり、ほんの少しだけ星のかけらを増やしてみたり、最後には一から作り直してみた。
 しかし、ツヤが出るどころか、かけると空気の穴でブツブツになり、とても商品になる代物ではない。
 あまりの不調ぶりに、蒼衣はいらだち、頭を抱える。原因が全くわからない。
 なぜ、どうして。
「あれ……?」
 そのとき、いつもならかすかに感じている魔力が、あまりにも小さいことに思い至った。
 一つの可能性が頭をよぎる。蒼衣が考えうる限り、最悪の可能性だった。
 急いで店頭のカウンターに向かうと、八代がシュークリームを試食していた。
「どうした、蒼衣?」
 毎日、当日仕上げのシュークリームは効果の確認もかねて試食することになっている。蒼衣は無言で八代に近づいた。
「なんで、まさか」
 蒼衣の声が震える。すかさずシュークリームを持つ八代の手を乱暴につかんだ。
「おい、いきなりなんだよ」
「……八代、今、なに考えてる?」
「はぁ? そんなの言わなくても、蒼衣には」
「わからないんだ」
 八代の声を遮って、蒼衣は言った。
「え?」
「君の感情が、僕に伝わってこない」
 蒼衣はゆっくりと手を離し、一歩、二歩と後ずさる。
「八代の体、浮いてないだろ」
 八代は今気づいたという雰囲気で、己の体を見た。足はしっかりと床に着いている。『ふわふわシュークリーム』は、体がセンチ単位ではあるが、宙に浮かぶ魔法効果があるはずだった。
「まさか、魔法効果が……魔力が消えてる?」
 顔をこわばらせた八代の言葉に、蒼衣は顔面蒼白になってうなずいた。


 開店するはずだったピロートのドアには『臨時休業』の張り紙が貼られた。
 店に出ているものを含め、在庫の魔法効果をできる限り確認すると、ほぼすべてのケーキから魔力が消えていた。ストックの材料からは消えていないが、朝一番で作ったはずの雲のクリームは消えていた。
「僕が作ったものから、魔力が消えているってこと、かもしれない」
「魔力がなくなるとか、あるのか」
「わからない。今までに経験がない。なんでこんなことに」
 厨房で、蒼衣は調理台に両手をつき、うつむきながら答えた。調理台の向こう側、蒼衣と向き合う形で立っている八代は、黙ったままだった。
「お菓子にすると、魔力が消える? それじゃあ魔法菓子なんかじゃない。お店として、商品として成り立たないのに!」
 蒼衣がこぼれるように出した言葉は、最後に悲鳴に近くなった。
「落ち着け、蒼衣」
「魔法菓子すら作れなくなったら、僕は本当に、だめな人間でしかなくて、ここにいられなくなるのに、なんで、魔力が……」
 脳裏に昔の記憶がぐるぐると巡る。なにもできない昔の自分にすっかり戻ってしまったようで、蒼衣は子どものように頭をかぶった。
 うわごとのように「だめなんだ」と「ごめん」を繰り返し、前後不覚に陥る。
 そのときだった。
「ああ、もう、黙って落ち着けって! おまえもいい大人だろうが!」
 怒声が響く。顔を上げれば、はっとした顔をして固まる八代がいた。自分の出した怒声に、びっくりしているようにも見えた。
 それはまた蒼衣も同じだった。この陽気な友人は、賑やかいことはあれど、むやみやたらに乱暴なことは言わないと思っていたからだった。
 蒼衣の口からうわごとが止まる。
 自分のしていたことが、彼から見たら子どものかんしゃくと変わらないことに気づいた。
「あ……」
 どうすればいいのか。頭の中が真っ白になった蒼衣は、厨房をなにも言わずに飛び出した。
 パルフェを辞めてから、蒼衣はなにもできない日々を過ごした。体が動かない、なにも食べたくない。見かねた両親が半ば強引に実家に連れ戻したあとも、それは変わらなかった。
 最初こそ変わり果てた長男の姿に両親は心痛めた様子だったが、生活を共にしていれば、気持ちは風化してくるのが家族というものだ。
 日がな一日引きこもる長男を重たく感じ始める両親に、あからさまにいやがる妹。まれにのどの渇きを癒やすために冷蔵庫の前に現れれば、母親からも父親からも苦言がぼろぼろこぼれ始める。
「これからどうするの」「就活をそろそろはじめたらどう」「仕事のいやなことなんて、社会人なら誰もが感じることだ」「八代くんはきちんと就職したんでしょう」「やっぱり大学に行けばよかったんだ」「正しい道に戻らないと」
 突き刺さる言葉には、黙り込むことしかできなかった。
 
 やがて春も過ぎ、ついに八代からのメールや電話も無視するようになった。彼は春から大きな会社の営業職に就いたようで、忙しいながらも充実した日々を送っているようだ。引きこもっている自分とは対極の様子に、ますます惨めさを感じたからだった。
 夏頃になり、母親は沈黙を選んだ。父親は顔を見れば「親不孝者が」と蒼衣を罵るようになった。妹は遊び歩いて家に帰ることが少なくなった。家族のバランスがいびつになっていることに気づいてはいた。これもまた自分が呼び込んだ不幸なのだと思うと申し訳なさと同時に、動けない自分を呪った。
 途中でなんとか気分が良くなった折に、衝動的に職安に行ってみたりもしたが、用紙になにか書く際、ほんの些細な間違いの指摘だけでも自分のすべてを否定されたように感じて、怖くて行けなくなった。
 本当に些細なことなのだ。書く欄を間違えただとか、提出する窓口が違っただとか、誰にでもあるような単純な間違い。
 そして、受付の男性――特に五村と似た雰囲気の、気難しそうなひと――に、言いようのない恐怖心を抱くようにすらなった。しまいには、通りすがる赤の他人でも似たような風貌のひとを見かければ怯える始末で、結局、一回も面接すら行くことができなかった。
 そして冬がやってきた。冬の空気を感じるたびに、更に蒼衣の憂鬱は増した。布団から出られない上、なにかを無理矢理口に入れれば即座に吐き出した。長い引きこもりの間に緩やかに動きを取り戻した足も、また動かなくなってきた。
 もう無理だ、と思ったとき窓から見えたのが、オリオン座だった。
 そのときに悟った。あの空の下で死ぬべきだったのだと。
 二十一歳、十二月も下旬の頃だった。

:::

 雨の音で目が覚めた。
 夢で見ていたのは、引きこもっていた時期のことだった。
 厨房から飛び出して、一目散に逃げた先は自分の部屋。結んでいた髪を乱暴にほどき、電気もつけずに布団にくるまって、ひたすら気持ちが落ち着くのを待つうちに、眠り込んでしまった。
 真っ暗な部屋、布団の上で、蒼衣は考える。眠る前よりも、気持ちは幾分か落ち着いていた。ただ、夢の中で感じていた恐怖や憂鬱感は、今も蒼衣の心から消えていない。
 魔力の消えた魔法菓子と、なにもできなかった過去の自分が重なる。
 あの頃よりも、自分は少しはマシな人間になれたと思っていた。それは、魔法菓子職人になれたことや、八代とピロートを開店させたこと、八代や客の「おいしい」の気持ちが根拠になっていたはずだった。
 しかし、一歩店から出てしまえば、そんな『魔法』は消えてしまう。
 不調の原因は、すでにわかっていた。咲希の来店と催事の出店、講習会のときのショックで過去を思い出し、引きずり過ぎているせいだ。
 自分でも情けない原因なのは自覚したが、治める術を見失っている。ただただ、泣いて喚くしかできない。その弱さにまた自分がみじめに思えた。
 取り乱した原因がわかったものの、目下の問題は魔力の消えた魔法菓子。そして、八代へ見せた醜態。
「さすがにもう、見放される、よね」
 自嘲気味に笑うしかできなかった。十代や二十歳そこそこの若者ならいざ知らず、今の蒼衣は三十一歳の社会人。しかも、今の立場は、八代がいなければなし得なかったもの。
 そんな八代に見放されたら。考えるだけで辛かった。
 ではどうすればいいだろうか? 蒼衣はしばし、暗い部屋の中で考える。
 ――口をぽっかり開けた魔物と、真正面から対峙しなければならない。だれかに牙を向けるのは、もう辞めよう。それが大事なひとならば、なおさらだ。
「そう。きちんと始末はしないとね」
 せめて、問題から逃げたことの始末はつける。蒼衣は、ざんばらになっていた髪の毛をくくった。
「大人だからさ」
 せめて、少しの間でも職人としての天竺蒼衣の心持ちでいようと決心して。


 後ろめたさからか、音を立てないように勝手口を開ける。朝からそのままの作業台を通り過ぎ、店へと入り込んだ。
 入り口のシャッターを閉めているから、店の中は薄暗い。
 カウンターの中で、パイプ椅子に座ってスマホとタブレットを駆使する八代の背中があった。
 どう声をかけたらいいかわからず戸惑っていると、八代が振り向く。心臓が飛び跳ねるほどの動悸がした。
「おかえり、蒼衣」
 いつもと変わらぬ声音。それでも蒼衣の緊張は解けなかった。
 しどろもどろになっていると、八代は椅子から立ち上がり、喫茶用の棚からマグカップを二つ、取り出す。手早くコーヒーを淹れ始めるのを、蒼衣は黙って見ているしかできなかった。
 店内に立ちこめるコーヒーのふくよかな香りが、鼻をかすめる。
「よかったらどう?」
 穏やかに差し出されたマグカップを、おそるおそる受け取った。いつの間にか用意されたパイプ椅子に腰掛けるよう促された。
 時計を見ればすでに十五時も過ぎている。
「ずっと君はここに?」
「臨時休業にはしたけど、問い合わせの電話があったらと思ってね。魔法効果が出ないことは今日わかったことだから、念のため」
 八代はそこで言葉を切り、マグに口をつける。
「お互い、少しは落ち着いた、ってところかな」
 表情をゆるめ、八代は言った。責める意図はないとわかり、蒼衣は堰を切ったように話し始めた。まずは取り乱し、衝動的に逃げ出した詫びと、原因について。
 咲希の横暴に見える態度と、催事への出店への不安。パルフェのシェフが放った決めつけの言葉に、過去のトラウマを刺激をされたこと。ケーキから魔力が消えたことで、自分の存在意義も消えてしまったような気持ちになったこと。それらが重なり合って、パニックになったこと。
 子どもの言い訳のような稚拙な言葉だったが、八代は静かに「そうなんだ」「蒼衣はそう思ったんだな」「悲しかったろう」と、怒りも否定もしない相づちを打ってくれた。うまく言葉にできなかった自分の中の不安を共有してくれたことが、うれしかった。
 ひとしきり話が終わると、俺の話をしてもいいか、と前置きをされたので、うなずいた。
「今回のこと、俺も予想外で、パニクってる蒼衣見たら余裕なくなっちゃって。ごめん。ああいうとき、怒鳴ったって意味ないのはわかってるつもりだったのに。……正直、戻ってこないと思った」
「僕が?」
 そう、と八代は答えた。
「おまえのいいところはたくさんある。純粋で、真面目で、まっすぐ素直で、正直で、誠実だ。信じてるものへの愛情と信念、プライドの誇り高さは尊敬してる。俺もこんなふうに生きてみたいって思えるくらい。でも、この世の中で『大人』として生きてくときに、辛いだろうなって思うことがある。たいていの人間なら美味いもん食って寝て忘れるようなことが、いつまでもトゲのように刺さって抜けないことがあるだろうって。トゲの傷が膿んで腫れて、どうしようもなく痛いことがあるだろうって」
 前半の褒め殺しはともかく、後半は八代の言うとおりだった。
 この世界で辛いと思うことは、他の人ならやすやすと乗り越えられることで、それができない自分は欠陥品なんだろう、と常に思っている節がある。それは情けないことに、この年になっても消えてはくれない。
「一度目の就職のとき、長野の山に逃げたとき、どっちもちゃんと助けに行けなかった。俺、あんときすごく後悔したんだ。へらへら笑って就職決めて、ヨッシーにもプロポーズして、新しい仕事にワクワクして、浮かれてる最中に、大事な奴が苦しんでることに気づけなかった。だから、なるべくそばにいて、守って、支えていこう。いっそのこと一緒に店をやれば、それができるって思ってた。そんな俺が追い打ちかけるようなことして、あ、だめかもって。仕事だって育児だって、怒鳴ったところで上手く行かないこと、知ってたくせに。俺が蒼衣をつぶしたかもって。最近も、様子が変だったのに、それを聞けなかった。うまく、フォローできなかった」
 八代には似合わない、弱気な物言いだった。
 それ以上に、八代が九年前のことを今でも気にかけていること、店を一緒にやろうと思った本当の理由に、驚いていた。
「そんなこと考えてたのか、君は」
「言わなかったっけ」
 聞いてないよ、と首を横に振る。
「いい年した大人が、妻子までいるのに、なんでこんな、僕なんかに」
「前にも言っただろ、欲しいものは全部手に入れたいタイプだって」
 なにがおかしい、と言わんばかりの態度で、八代はコーヒーを舐める。
「だから、俺がおまえを手放すことはない。たとえ魔法菓子に魔力がなくなっても、部屋でベソベソ泣いてても、ハイ店やめる、友だちやめる、なんて絶対にないから。頃合いを見て、引っ張り出しにいくから」
 八代は笑う。自分の気持ちを信じて疑わず、きちんと言葉にして伝えてくれる、大事で大好きな友人。
「君って、やつは――」
 後は声にならず、涙だけがこぼれた。いつまでも自分一人で泣きわめく必要なんてなかった。今まで彼と店でやってきたように、きちんと言葉にすればいい。八代だって完璧じゃないから、怒ったり不機嫌にもなるだろう。それは誰でも当たり前のことで、その都度きちんと向き合えばいい。
「戻ってきてくれて、俺はうれしかったよ、蒼衣」
 ぼろぼろ涙を流す蒼衣の肩に、八代の手が置かれる。うん、と短く答えた。
 あの頃とは違う。信じられるひとがいる安心感と、信じてくれたという事実が、土砂降り続きだった蒼衣の心を明るく照らした。
 
 魔物の声は今だに聞こえる。中身も腐ったままだ。
 でも、それも僕だよね。蒼衣は心の中で思う。
 認めてもらいたい、誰かに必要だと言われたい。欲しがりの感情は消えてなくならない。
 大丈夫。治めるから。魔物のそばでささやけば、少しだけ叫び声が遠のいた気がした。
 九年前の一二月のことだ。
 数ヶ月ぶりに財布を持って、蒼衣は家を出た。動かないかもしれない、と思った足は、意外にも元気に歩き出す。携帯は置いていこうと思ったが、最期に八代からのメールだけでもみたいと考えてしまった。仕方が無いので電源をオフにしてポケットに入れた。夜中のコンビニで、口座から有り金を全部引き出した。予想していたよりもお金があったことに安心して、まずは線路沿いにずっと歩いた。ただただそうしたかっただけだった。いつ柵を越えて線路に行ってもいいという、不思議な安心感があった。
 そうしているうちに夜が明けたので、今度は一番遠くまで行ける切符を買って電車に乗ろうとした。ふと見上げた路線図の上にある、ローカル線が目に止まったので、最終地の金額まで買った。
 頭の中にあるはずの目的は、霞が掛かったようにわからなくなっていた。ただ、いなくなるなら知らない場所のほうがいい。電車に揺られている間、漠然と考え続けていた。
 浅い眠りを繰り返し、気づいたら夜はとっぷりと暮れていた。そろそろ降りようと考えて、止まった駅でふらりと降りた。
 そこは今にも消えそうな電球だけが付いている、無人駅だった。
 駅から出て、しばらく当てずっぽうに歩いてみた。しかし、駅以外は建物も街灯すらまばらで、道路沿いを歩いているというのに、どこにいるのか、蒼衣にはわからなくなっていた。
 そんな景色がずっと続いた後、ようやく、今まで感じていなかったはずの寒さを強く感じ、蒼衣はその場にうずくまった。高校時代から使っているぺらぺらのコートでは、この寒さに耐えることはできない。
 凍てつく空気が、気持ちを徐々に冷静にさせていく。ここは何県だろうか、どこかお店はあるだろうか、帰りの電車は――そこまで考えて、はっとする。
 帰るつもりなど、なかったはずだった。
「しぬ、つもりだったのに」
 こぼれ落ちた言葉は情けないものだった。死ぬならまず線路に飛び込んだってよかった。どこでもいいから車の前に飛び出したってよかったはずだ。川に身投げもできたはずだし、そもそも外になんか出なくなって、死ぬ方法はたくさんあったはずだ。
 結局自分は、なにもかもきちんとやれない人間だった。自分の言う死にたいというのは逃げたいという意味だったのか、と思い至る。
「にげたかった」
 自分を受け入れてくれない世界から。ともすれば、世界の役に立たない「自分」から。今までため込んだ惨めさと情けなさが胸の中でいっぱいになって、体をかき抱いて泣いた。
「じゃあ、一回逃げてみればいいのよ」
 不意に誰かの声がして、顔を上げる。
 満天の星空を背景に、ひとが一人立っている。
「星が騒いでるから、なんだろうって思って見にきたら。なるほどね、そういうこと」
 間延びしているようにも聞こえるが、なぜか心が落ち着く、優しい女性の声。女性は蒼衣に近づき、その場に膝をついた。辺りに漂ったのは、甘く、香ばしい、蒼衣には懐かしくも憎い焼き菓子の香り。思わず、身を引いた。
「あら、まるで手負いの猫みたい。でも、ウチの敷地内で死体になられるのは、ちょっと困るかな」
 困る、と言いつつも、どこかおもしろそうな声音なところが不思議だった。そのときの蒼衣は、しきちない、と復唱するのが精一杯だった。どうやら他人様の土地に、不法侵入してしまったらしい。詫びようとしても、すでにろれつが回らなかった。
「逃げるんだったらせめてウチにしなさいな、迷子さん」
 クスクスと笑いながら差し出されたのは、手袋に包まれた手。甘い香りがさらに増したのに、不思議と嫌な気持ちにならなかった。
 不思議なひとだな、と思いながら、蒼衣は差し出された手をそっとつかんだ。 

 これが、魔法菓子職人としての師匠である、三蔵《さんぞう》広江《ひろえ》との出会いだった。
 
 :::

「久しぶりに蒼衣くんが顔を見せたと思ったら、トラブルを手土産にするなんて」
 ログハウスの中には、あの頃と同じ甘い焼き菓子の香りと、さわやかな木の香りが漂っている。
 ペンション宿泊のためのカウンターの隣には、ケーキのショーケースが並ぶ。お客はおらず、蒼衣と三蔵広江はその横に設けられたレストスペースで向かい合う形で座っていた。
 師匠である広江がどんなときもクスクスと笑う癖は、最後に会った数年前と変わらない。その度に、ウェーブの掛かったボブヘアが揺れ、焼き菓子の香りも漂う。年季の入った変わらぬコックコート姿も、懐かしかった。
「申し訳ないです」
「いいのよ。むしろ私を頼ってくれるなんて、成長したわ~。昔は自分で抱えるだけ抱えて感情爆発させちゃって逃げる喚く挙げ句の果てに部屋に引きこもるとか、あったじゃない。今回もそんなところなのかなって」
 事情を話す前から、師匠には見破られていた。
「……お察しの通りです」
 気恥ずかしさに頬をかく。それを見て、広江はまた笑った。
「大変だったのね、私のかわいいお弟子さん。さてと、お菓子から魔力、消えちゃったんだって?」
 魔力が消えた翌日、蒼衣は長野県の山奥にある、広江の経営するペンション『リベルテ』に訪れた。一泊二日の小旅行のようなものだ。八代は留守番で、蒼衣一人の旅。店は開けていないが、万が一連絡があっても動けるように、店に残ってもらっている。
「そうなんです」
 蒼衣はかいつまんで経緯を説明する。結局、今もお菓子に魔力は戻っていない。悩んだ末、蒼衣が取った行動は、魔法菓子職人の師匠に相談することだった。
 広江は、この道三十年のベテラン魔法菓子職人だ。ホテルや資産家のお抱え魔法職人としての経験後、魔力含有食材狩人である夫とこの地に移住。ペンションと魔法菓子店を営んでいる。
 そして九年前、敷地内に迷い込んだ蒼衣を介抱し、魔法菓子と出会わせてくれたのが、広江であった。
「魔法菓子の魔力に関しては、まだまだわからないことが多いのよね。たとえば、私たちのような職人が長く接することで、ちょっと不思議な力が備わったりするでしょ。あれも、ひとによってまちまちだし、必ずそうなるわけでもないし。私は、魔力含有食材の『声』を感じることができるけど、蒼衣くんは、たしか」
「お菓子を食べたひとの感情が『伝わって』きます」
「そうだったわね」
 用意したカップのお茶を一口含み、広江は思案顔になる。
「私の経験でしかないけど、ごくまれにそういうことは起きる。とても珍しいケース。蒼衣くんみたいに感受性の強いひとが、そういうことに巻き込まれることは多い」
 感受性、と蒼衣は繰り返した。
「本来、魔力の影響は、蒼衣くんみたいにひとの感情に関わることは少ないの。その数少ないトラブルの一つに、魔力の消失がある。蒼衣くんが取り乱せば取り乱すほど、魔力の効果が消えていく。今回は、件のオーナーシェフのことでトラウマが刺激されたってところかしら」
 トラウマ、の言葉に、蒼衣は口に手を当て、思案する。魔物の中身を取り出して、きちんと見つめるための作業だった。
「……せっかく手に入れたものを、認めてもらえなくて、僕はすねてしまったんだと思います。魔法菓子を「味のロクにないもの」って言われて。それを作ってる自分を、ないがしろにされた気がして。まやかしのものに頼る、情けない人間だと言われた気がしたんです」
 だから、自分の存在も危ういと感じた。蒼衣は胸の内を素直に吐露する。出会ったときから、広江には素直に自分の気持ちが言える、不思議な間柄だった。それは、広江の纏うふわふわとした、どこか浮き世離れした雰囲気が、蒼衣の感覚と合っているからだ。
「蒼衣くんは、そう思ってるの?」
「え?」
「蒼衣くんも、魔法菓子がまやかしで、味がロクになくて、くだらないものっていうのが、正解だと思ってるの?」
「そんな! そんなことないです」
 蒼衣は即座に否定した。蒼衣をもう一度職人の道に導いたのは、広江が教えてくれた魔法菓子だ。
「僕は、あなたから魔法菓子を教えてもらわなかったら、今ここにいないんです。自分に魔力適正があるってわかったとき、あんなにうれしかったことはないです」
 約九年前、広江に介抱された蒼衣は、勝手に敷地内に入ったペナルティとして、魔法菓子の製造を手伝うことになった。そのときに、魔力を扱えることが判明したのだ。
 初めて触れた魔法菓子の不思議さと、なぜか不思議となじむ食材に、蒼衣のすり減った心は癒やされていった。
「一度は嫌いになりそうだったお菓子に、もう一度向き合えた。楽しさや不思議さが、心を明るくしてくれる。だから僕は、魔法菓子が好きです。それを知ってもらえたらって、思ってます」
 いつの間にか熱っぽく語ってしまっていた。それを見た広江は、目を細める。
「あなたのそういう、真っ直ぐなところが、魔力と結びついたんでしょうね。魔法菓子への同一化……だからこそ、色濃く影響もされる。感情が伝わってくるのも、魔力が消えるのも、きっとそう。……感受性の豊かさは、この世界で生きるときは邪魔なこともあるから」
 魔力は、現代社会の理とはまた違うものなのよと付け加えた。
 広江は、八代と同じようなことを言っているのだ、と気づいた。
「蒼衣くんのその気持ちは、貫いてほしいな、と私は思うの。確かに、五村シェフの作るお菓子は、魔法の力に頼らなくてもきれいで繊細で美味しいんでしょうね。評価されるべきことだと思う。でも、そうやって評価される彼の言うことが、世界のすべてではないわ」
「世界の、すべて……ですか」
 広江は、蒼衣の見て、感じることを当然のように受け取ってくれる。世界、という言葉を、蒼衣と同じような意味で使うひとだった。
「あなたの世界――あなたと大事なお友だちのお店は、他のだれでもない、あなたたちだけのものよ。作ってきたものを、思い出して」
 キャンドル・ショートケーキ、ボイスロッカー・ロール、ふわふわシュークリーム、バルーン・バースデー、金のミニフィナンシェに銀のミニマドレーヌ。ブルーミング・チーズケーキに、お好みプリン。そして、プラネタリウム。
 どれもこれも、自分が食べたい、食べてもらいたいと思って考えたものばかりだ。 では、食べてもらいたいと思ったのは誰だろう?
 かつての自分のような、生きることに疲れたひと、さみしいと思ってるひと、どこか心にひっかかりのあるひと、だれかに助けて欲しいひと――人生のつまづきに疲れ、戸惑うひとへの、ひとときの癒やしとなるような、甘くてやさしい、おいしいお菓子。
 きれいさや繊細さ、有名な賞もなにもとらないけれど、だれかを一瞬でも幸せにできる。そんなお菓子を作ろうと。
「作ってきたお菓子は、あなた自身の軌跡。蒼衣くんにしかなし得なかったこと。だから、きちんと前を向いて、自分の世界を信じなさい。あなたは、魔法菓子店ピロートのシェフパティシエ、天竺蒼衣でしょう?」
 広江は、今までの悠然とした雰囲気をすっと消して、言い放つ。鋭い視線に、蒼衣は思わず背筋を伸ばす。
 彼女は、普段の雰囲気こそおっとり、のんびりしているが、仕事には人一倍真剣なひとだ。人生の半分近くを、厳しい職人の世界で生き抜いてきた気迫は伊達じゃない。相手の立場や心情を慮り、叱咤激励する手腕には、いつも感服するほかなかった。感情のままに不満を叩きつける五村と違う。蒼衣は広江のそういう部分に惚れ込み、弟子になったのだ。
 蒼衣はしばし、無言になる。
 魔法菓子と自分が強固に結びついている……結びつきが強すぎて、影響が強すぎることを自覚できた。
 つまり、自分の気持ちひとつで、状況を打破できる。そして、自分にはそれを支えてくれる友人や、お菓子がある。
「……師匠、ありがとうございます。少し、先が見えてきました」
 広江は、返事をした蒼衣を見やると、相好を崩した。そして、壁に掛けられた時計を見て、そろそろか、とつぶやく。
「よろしい。では、少し気分を変えて……今日はちょっと勉強していかない? どうせ、泊まっていくんでしょ」
 唐突な『勉強』という言葉の意味を問おうとしたそのとき、ログハウスの扉が開いた。入ってきたのは、杖をついた老年男性と、同じような年格好の女性だった。
 広江が席を立った。手持ちぶさたになった蒼衣が様子を眺めていると、男性の顔に見覚えがあることに気づく。
「万寿さん、お待ちしておりました」
 広江が二人に近づき、にこやかに対応する。知っている名前が飛び出し、蒼衣の記憶と結びついた。
 椅子から離れ、彼らに近寄る。男性が、ゆっくりと蒼衣のいるほうへ体を向けた。無理しないで、と女性が声をかけるのが聞こえる。
「蒼衣くんは知ってると思うけど、こちらは『万寿』の万寿勝さん。私も若い頃にお世話になったの。万寿さん、彼が電話でお話した、弟子の天竺蒼衣です」
 広江の紹介で蒼衣は頭を下げたが「お話した」という表現が引っかかる。さっきから含みのある師匠に、視線で疑問を投げる。しかし、広江は薄い笑みを浮かべ黙ったままだ。
 男性――万寿勝は目をぱっと見開き、口元に笑みを浮かべた。
「そうか、君が、クリスマスに助けてくれたお店の若い職人さんか」
 好々爺の笑みを浮かべた勝の言葉に、蒼衣は、口をぽかんと開けた。
 万寿夫婦がリベルテに訪れたのは偶然だったらしい。
「十二月にちょっと具合が悪いからって医者に掛かったら、脳梗塞なりかけですよなんて言われてさあ。いつ倒れてもおかしくねえってんで、あれよあれよという間に完全引退させられちってよ。しばらくリハビリだのなんだのやってたんだが、つまんねえもんで。医者の許可をもらって、昔からの知り合いを訪ねて回ってるって具合だ。ま、俺たち自営の職人が長旅なんて、現役だったころはなかなかできないからね」
「連絡もらったときに、クリスマスの話が出てね。そのときに彩遊市の魔法菓子店に助けてもらったってきいたの。それ、私の弟子の店ですよって」
「弟子の弟子が、学校で面倒見た子だとは思わなんだ。世間は狭いな」
 まったくです、と広江が勝と笑い合う。あのあと、広江は万寿夫妻(連れの女性は奥様だった)をレストスペースに案内し、四人で歓談する流れになった。
「それはともかく、天竺くんよ、その節は世話になった」
 頭を下げられ、蒼衣はただただ恐縮するしかできない。
「とんでもないことです。それよりも、先生が少しでもお元気になったことのほうが、僕はうれしいです。でも、驚きました。万寿先生は、和菓子の世界の方だと思っていたので」
 話を聞いたときから疑問だったことを尋ねてみた。
「魔法菓子だけじゃなくて、洋菓子も若い頃にかじったんだ。興味があったし、魔力への適性もあった。公表しなかったのは、和菓子一徹の先代が許さなかったもんでさ。ところが、いざ自分が店主になったら、忙しくてそれどころじゃなくなった。年取って、息子に店を譲って、半ば隠居の身で知り合いの依頼だけ受けて作っとったと。まあ、そんな経緯だ。それも今では、厨房にすら入れなくなっちまったけどな。あの頑固息子、魔法菓子なんてバブルの名残だの、職人の努力を無視したまやかしだの言いやがって」
 ぼやく勝の横顔に、一抹のさみしさがよぎる。同時に、五村や山本に言われた言葉が、蒼衣の中でよみがえった。
「息子さんは、魔法菓子がお嫌いなんでしょうか」
「あいつは、いろんなことやってきた俺よりも、親父……息子にとってはじいさんだが……の、伝統的なやりかたに入れ込んでてよ。あいつに適性があるかは知らんが、知識だけでもあれば、幅も広がるだろうに」
 うなだれる勝の横で、奥さんが苦笑する。
「この人、自分の知ってることを教えたくて仕方ないの。専門学校の講師業も、それでお受けして。それも、体のことがあって今は辞めているんです。日に日に元気がなくなってくので、それならいっそ、旅にでもと誘いました。でも、行く先々の職人さんにあれもこれもと教えるものだから、もう、ご迷惑じゃないかと」
 そんな言いかたはないだろう、反論する勝を涼しい顔で「モーロクじじいなんだから黙りなさいな」といなす様は、どこか八代と良子のやりとりを思い出させ、蒼衣の口に笑みが浮かぶ。
「でも、僕だったら喜んでご教授願いたいです」
「じゃあ、今から教えてもらえばいいじゃない」
 広江の言葉に、蒼衣は目を丸くし、勝は「なるほどな」となぜか得心のいった顔をする。
「これも星の巡り合わせよ」
 広江は含み笑いを浮かべる。蒼衣はやっと『勉強』の意味を理解した。


 厨房に入った勝は、広江に案内され、魔力含有食材の眠るパントリーを眺める。
「旦那さんが食材狩りを職業にしてるとは聞いていたが、よくこんなにそろえているなあ」
 天井までところ狭しと並べられた食材のストックを眺め、勝は感嘆のため息すら漏らす。
「『乾燥雨粒』こりゃフリーズドライか。『春風一番』まで」
「ウチにくれば大抵のものが揃いますよ。なんでも使ってくださいな」
「ありすぎて、なにを使っていいのやら」
 困ったように頭をかいた勝は、なにやら思いついたらしく、蒼衣の顔を見る。
「天竺くん、なにかリクエストはないかな」
「リクエスト、ですか」
「ほれ、新作で悩んでおるとか、そういうのがあるかと思って」
「新作……」
 五村のこと、魔力消失のことで忘れかけていたが、妹の持ってきた百貨店出店のことに、返事をしていないのを思い出した。
 一度はやると言ったが、リストにパルフェの名前があったことで、一旦怖じ気づいていた。
 不安定な気持ちの原因は、ここから始まったのかもしれない。
 ならばいっそ、向き合ってみるのも一つの手だ。蒼衣は覚悟を決めた。
「百貨店から、夏の催事出店のお誘いを受けています。催事限定の商品を考えたいです。魔法菓子らしい、見た目でも、食べても驚くものを。なにか、ヒントをいただけるようなものをお教え頂けますでしょうか」
「ふむ、夏向けの商品か」
 勝はしばらく考えたのち、
「南極と北極の氷はあるかね。あと、焙炉《ほいろ》は?」
 と、広江に尋ねた。
「氷はまだ去年の残りが冷凍庫で、焙炉は倉庫に。万寿さん、もしかして、アレを?」
 広江の言葉に、勝は自信のこもった表情になる。
「なら、俺のとっておきを教えてあげよう、天竺くん。こいつは相当『冷える』ぞ」
 

「まずは、二つの氷の分量を量る。多すぎると人体に影響が出るし、少なすぎても効果が出ない。基本の比率を教えてあげよう」
 リベルテの厨房内。三人の目の前には、白いブロック状の氷が二つ置かれている。氷を包んでいるビニールにはそれぞれ『北極』『南極』と書かれてあるが、見た目からそれが判別はできかねる。
 しかし、蒼衣を含む三人の魔法菓子職人には、二つの氷が別物であることが感覚でわかっていた。
「今回作るのは『琥珀糖』と呼ばれる干菓子の一種だよ。外はカリカリ、中は寒天らしい柔らかさと、磨りガラスのような涼やかな見た目も楽しい一品だ。魔法菓子では、北極と南極の氷を使うことで、一瞬だが体の体感温度が下がり、清涼感が得られる。俺は『氷琥珀』って名前を付けた。ただし、氷の量が多すぎると、全身が氷に包まれて凍傷になるから、教えた比率を越えないようにすること」
 白衣に着替えた勝は、アイスピックで氷を砕きつつ、丁寧に解説を始めた。
 砕いた氷を計り、水を入れ鍋に入れ、弱火でゆっくりと溶かしていく。溶けきったら粉寒天を入れてかき混ぜ、沸騰させた。
「今日は時間短縮で粉寒天を使うが、糸寒天を使ったほうが透明度や口当たりはいい。沸騰の時間はなるべく短く。魔力が水分と一緒に蒸発してしまうからな」
 手早く新しい鍋に漉しながら移す。今度は計っておいたグラニュー糖と、魔力定着安定剤をひとさじ入れ、かき混ぜながらひたすら煮詰める。
「木べらですくって、糸を引くようになるまで煮詰めたら火を止める。こんな感じだ」
 実際に寒天液をすくい、木べらから落としてみせる。糸のように垂れる液が、ふるふると震えた。
「あら熱を取って、色と味をつけたい数だけ分けて容器に入れる」
「色、どうしますか?」
「色を付けるなら、水面や新緑のかけらがあっただろう。残りは、夏らしく柚子のペーストでも入れようか」
 広江がパントリーから『水面』『新緑』のラベルを貼られた小瓶を二つ持ってきた。冷蔵庫から柚子ペーストの袋も取り出し、それぞれ分量を計った。
「かけらとペーストを入れ、スクレーパーで混ぜる」
『水面』のかけらを入れた液が、湖の水面のように青く染まる。時折、白い雲が流れていったり、魚が泳いでいるのがよぎっていくのが見える。『新緑』を入れた液は、まぶしくも目に優しい、木漏れ日の緑であふれた。
「通常なら五、六時間かかるが、氷の魔力影響で一時間もあれば固まる。その間に焙炉の準備をしよう」
 蒼衣は広江の案内で、ペンション裏の倉庫に赴いた。片隅で埃をかぶっていた、小さな電子レンジのような形をした焙炉をえっちらおっちら厨房まで運ぶ。
 軽く掃除をしてコンセントにつなげば、問題なく作動した。
 準備をしている間に冷えた氷琥珀を取り出し、勝は包丁で器用にカットしていく。
「今回は四角に切るが、この辺りは、職人のセンスやテーマに併せて自由自在だ」
 切った氷琥珀をワックスペーパーの上に並べ、焙炉の中へ入れた。
「明日には完成予定だ。焙炉なら半日で乾く」
 ふう、と勝が一息ついた。
「お疲れ様でした。完成が楽しみです」
「うむ。見ての通り、氷琥珀は材料としてはシンプルだ。だから、一緒に入れる食材の味や魔力効果がストレートに出るだろう……少しは、参考になったかな」
 はい、と蒼衣はうなずく。洋菓子でもコンフィズリーと呼ばれる砂糖菓子があるが、パート・ド・フリュイのような、果物のピューレを使った濃厚なものと、氷琥珀のような透き通ったものとでは、雰囲気が違う。まったく作ったことのなかったものに触れて、蒼衣の創作意欲に火がつき始めていた。それを伝えると勝は、顔をほころばせた。
「氷琥珀は、俺が一番気に入ってるお菓子なんだ。見た目も、効果も、どちらでも楽しめるようになっている。……モーロクじじいとはよく言ったもんだ。今でこそ、こうして体が動くが、この先どうなるか、俺にもわかったもんじゃない。だから、こうして君に伝えることができてよかった」
「先生……」
 勝が旅をして、後進にいろいろと伝えようとしている理由を察した。寒天液を垂らしたときの震えは、体に麻痺が少し残っているからだろう。
 蒼衣がどう声をかけていいのか困っていると、勝は肩を優しく叩いた。
「なにがあったかは聞かないが、君の力と、魔法菓子を信じれば、必ず道は開ける。大丈夫だ」
 

 山と川の近くにあるリベルテの夜は、彩遊市とは違い、虫や鳥、カエルなどの鳴き声であふれている。あてがわれた客室のベッドに寝転がった蒼衣は、ひさびさの喧噪に懐かしさを感じていた。
 今日の宿泊客は、蒼衣と万寿夫婦だけ。広江の夫であり、魔力含有食材狩人でもある勇の作った夕食に舌鼓を打ったのは、つい一時間前だ。あてがわれた客室のベッドに寝転がった蒼衣は、ひさびさの喧噪に懐かしさを感じていた。
 ふと、なにかに呼ばれたような気がして窓を見た。夜空の雲は少なく、きらきらと瞬く星が、空中にあふれている。
 吸い込まれるような夜空を見た蒼衣は、息を飲む。
 そして蒼衣は部屋を出た。今なら、動ける気がしていた。