それは、二月も終わりにさしかかったある日のことだった。
「鈴の音?」
鈴の形をしたサブレを割った瞬間、チリリン、と鈴の音がした。サブレを手に持った男性が静かに首をかしげる。
「はい。割ったとき、鈴のような音がするんです」
「ふむ」
五十代後半、強面の男性は太い眉をかすかに動かし、ベルサブレを口に運ぶ。一見無表情のまま咀嚼しているが、接客中で近くに立つ蒼衣には、確かに彼の感情が伝わってくる。
驚きと興味深さ。魔法菓子への関心があることがわかるだけで、蒼衣は安心する。そして、改めてこの能力に感謝するのだった。
本来の蒼衣は、察しのいい人間ではない。所謂「空気の読めない」タイプなのだ。他人の意図や要望がくみ取れず、それで苦労をした過去を持っている。
だから魔法菓子職人になってこの能力が身についたとき、蒼衣は少しだけ生きやすくなったと思った。少なくとも、自分がお菓子を売るときは、相手のことがわかる。
蒼衣が穏やかに接客できるのは、そういった事情があった。
「音はこんななのに、食感はほろほろしてるんだな。口の中で溶けていく」
「ええ。そのギャップもお楽しみいただけたでしょうか」
「魔法菓子ってのはもっとこう、派手なものかと思っていたが……なんだか手品のようだな」
そうですね、と蒼衣は笑った。確かに、彼くらいの年齢のひとが想像する『魔法菓子』は、結婚式などの祭典で使われる派手な演出のものだろう。この辺り――名古屋周辺――は、派手好きと言われる土地柄もある。しかし『ピロート』の魔法菓子は、身近な小さな魔法、まさに手品のようなものだ。
「面白い。これならあいつの気も晴れるかもしれん」
ベルサブレを食べ終えた男性は、声のトーンを落としてつぶやく。瞬間、男性の気持ちに影が落ちたのを感じた。
「お見舞いですか?」
彼は自分のためではなく、誰かのためのケーキを選びにきたのだ。
「家内が入院していてな。少し気落ちしているものだから、甘いものでも持っていこうかと」
そう言いながら男性はショーケースを覗く。しかし「俺は甘いものは得意じゃないから、いったいなにがいいのやら」とぼやいた。
「奥様がお好きなケーキは、ご存じですか?」
蒼衣が尋ねると、男性はしばらく考えてから「確か、チーズケーキだ」と答えた。
「それなら、こちら『ブルーミング・チーズケーキ』です。下はベイクドチーズ、上にもレアチーズ風のクリームをのせた、二つのチーズケーキが楽しめる一品です」
蒼衣はショーケースの中の一つを手で案内する。真っ白なチーズクリームの乗ったベイクドチーズケーキ。
男性はケーキをじっと見つめた。
「これにはどんな魔法が?」
一見すればシンプルなケーキである。男性が不思議に思うのも無理はない。
「それは――」
蒼衣は魔法効果を説明した。それを聞いた男性は目を見開く。
「ぴったりだ。それを一ついただけないか」
そして男性はお店を後にした。彼の心には『期待』と『願い』が浮かんでいた。蒼衣はそれを感じながら、彼の思いが届きますようにと祈らずにはいられなかった。
***
病院の一室、窓際のベッドにいるのは、四〇代の女性だった。口を一文字にきゅっと結び、不安げなまなざしで窓を眺めている。
サイドテーブルに置かれているのは『魔法菓子店 ピロート』の箱。先ほどピロートを訪れた男性が『ブルーミング・チーズケーキ』を取り出し、紙皿に乗せた。
「土産だ」
ぶっきらぼうにベッドテーブルに置くと、女性が男性の顔を見た。
「珍しい、庄一《しょういち》さんがケーキを買ってきてくれるなんて」
「景気づけだ」
「魔法菓子ピロート? 最近、近所にできたところじゃないの。お高くなかった?」
箱の店名を見て、女性……安藤知子は尋ねた。
「いや、見た目も値段も普通の菓子屋で、びっくりした。とりあえず食べてみろ」
「もう。急かさなくても、おいしく頂きます」
知子がフォークをケーキに近づける。白いクリームに触れた瞬間、クリームの上に紫と赤のグラデーションが美しい、花の模様がにじみ出るように現れた。
「この形、ゼラニウムだわ。すごくきれい」
知子の目が輝き、口元に笑みが浮かぶ。花の部分を切らないようにして、フォークを差し入れ、口に運んだ。
「……白いクリームはローズゼラニウムの香りがほんの少ししてる。甘みは蜂蜜かしら? 下のベイクドチーズケーキはレモンの風味がさわやかで、それが花の香りのクリームと合ってる。不思議なケーキ、とってもおいしい」
ケーキを味わう知子は、先ほどの憂いさが嘘のように生き生きとしていた。それを庄一は無言で眺める。しかし、彼の顔にはわずかだが安堵の表情が浮かんでいた。
しかし、次の一口を切ろうとする知子の手が止まった。じっと浮かび上がった花の模様を見つめている。やがて、フォークをテーブルに置いた。
「久しぶりに、花の香りを感じた。……早く、お店に戻りたい」
真剣なまなざしと、絞り出すような声に、庄一は悟られないように奥歯をかんだ。
知子は、この街にある花屋のベテラン店員だ。好きな仕事に就いているおかげか、病気知らずの健康体だった。しかし、四〇代に入ったころから、体の不調が多くなり、入退院を繰り返すようになった。
そんな知子は、先日、手術を受けたばかりだった。無事成功はしたが、経過観察とリハビリのため、しばらくの間は入院生活が続く。
このまま予後がよければ元通りの生活ができるが、そうでなければ、今後の治療と体への負担を考えて、仕事を辞めざるを得なくなるだろう。花屋の仕事は華やかではあるが、体力勝負な面もある。
すぐに命を奪う病気ではないと医者は言う。体を気遣えば、普通の生活ができる……ただし、仕事は制限がかかると付け加えて。しかし、仕事を失うというのは、知子にとっては自分を失うのと同義語だ。
仕事が生きがいの彼女は、それを恐れている。
生きていてくれさえばいい、と伴侶である庄一は思う。しかし、自分も突然今の仕事を奪われ、それでもあなたは生きるのだと言われたら、今まで通りに生きられる自信はない。
「戻れるさ、絶対」
庄一はそれだけ言い、知子の肩を優しく抱いた。普段は硬派を気取っている庄一だが、この数年病気に振り回されている知子が心配でたまらない。少しでも元気になるのなら、どんなことでもやってやろうと思っているのだ。
知子もそれを知っているのか、しばらくの間身を寄せた。
「……ねえ庄一さん、ゼラニウムはね、昔は、薬に使われていたのを知ってる?」
不意に知子が口を開いた。
「知らん、が、職人がそんなことを言っていた気がする」
職人から『花』をモチーフにしたお菓子だと聞いたとき、運命の巡り合わせかと庄一は思った。
チーズケーキが好きな彼女が、人生を捧げているのは花。これほど彼女に合うものはないだろう。
「気分を落ち着かせたり、鎮痛作用があるの。花言葉は、尊敬、信頼、真の友情。昔からひとを癒やし、元気づけてくれる花。だから、これを選んでくれてありがとう。私、リハビリもがんばるわ」
「ああ」
穏やかに庄一が答えると、知子は再びフォークを手に取った。「花の部分を切るのは忍びないわね」と言いながら、二口目を口に運ぶ。
「それにしても、魔法菓子って不思議ねえ。真っ白だったクリームに、花の模様が浮き出るなんて。ほら、フォークの触れかたで花の大きさが違う。不思議~。どうやってるのかしら、魔法ってすごい、不思議!」
「そりゃ魔法菓子だから不思議だろう。あと、何回不思議と言えば気が済む」
「ロマンのないひとね。そういえば、庄一さんの分はないの?」
「俺はいい」
「そんなこと言わずに、ほら、あーん」
「やめろ、大人げない」
一口大に切られたケーキを差し出される。しかし、庄一は首を振ってそれを避けた。
「庄一さんが食べてくれたら、私、もっと元気になれるかも。ほら、誰もいないわよ、ね?」
にっこりと知子にほほえまれ、根負けした庄一は、辺りの様子をうかがう。同室の患者はどこかに行っているようで、知子の言うように誰もいない。
カーテンを閉めた庄一は、口を開いてケーキをほおばろうとした。舌先にクリームが触れる。
そのときだった。
「安藤さん、お加減はいかがですか?」
「うわっ!」
閉じていたカーテンが開かれた。看護師が顔を覗かせ、驚いた表情で二人を見た。
庄一は素早く口を閉じ、黙ったまますっくと椅子から立ち上がった。その間ほんの三秒もない。「あらやだ」と知子がおもしろそうにつぶやくのも無視して、帰り支度を始めた。
あんなところを他人に見られるのはあまりにも恥ずかしい。今すぐにでも消えたかった。
「あれ、ご主人、もうお帰りですか?」
「聞いてくださいな、彼、私のためにケーキを……庄一さん、帰っちゃうの? 気をつけてね~」
明るい知子の声を背中に受け、庄一は無言のまま病室を出た。口の中にころんと転がってきたケーキのひとかけらが溶ける。甘酸っぱさが、自分の恥ずかしさのように思えた。
***
「うん? 蒼衣、どうしたんだ、その花束」
四月の始めのこと。
外出していた八代が店に戻ると、蒼衣がピンクや赤の花がある、小さな花束を抱えていた。
「ああ、これ、先ほどお客様から頂いたんだ。前、うちのケーキを食べて、元気になれたからそのお礼だって」
「へえ、いいお客様だなあ。……あれ、この花、見たことあるぞ」
八代が花束をのぞき込み、小首をかしげた。
「そう、これは『ブルーミング・チーズケーキ』の花、ゼラニウム。ケーキを気に入ってくださったんだって」
一緒に来店した男性は、二月の終わりに来店した、入院している妻を想ってケーキを買っていったひとだった。
「うれしいね、こういうことがあると」
喫茶のお客であれば、そっと近づけば気持ちがわかる。しかし、持ち帰りのお客がどう感じたかまではわからない。自分の作ったものが受け入れられるかどうかが不安な蒼衣には、心の底からうれしい出来事だった。
「そうだな」
蒼衣は適当な空の洋酒の瓶に生けると、ショーケースの上に置いた。普段、きらびやかな装飾はしない店だが、花があるだけでも雰囲気が明るくなる気がした。
「しばらく飾らせてもらおう」
「おう」
厨房に戻ろうとした蒼衣は、八代に気づかれないように、ちらりと花束を見る。蒼衣は「わかっちゃったのかな」と小さくつぶやいた。
男性の妻であるそのひとは、花屋に勤めているのだという。彼女は蒼衣のコック服に刺繍された名前を見て、薄くほほえんだ。
それが少し恥ずかしかったことは、八代には秘密にしておこう。
ゼラニウムの和名は、天竺葵《テンジクアオイ》。
どんな効果にするかを考えていたとき、眺めていた植物図鑑で目についたのがゼラニウムだった。和名が自分の名前と一緒だという親近感と、リラックスさせる効果が気に入ったのだが、お客に知られてしまうとそれはそれで恥ずかしくなるのは、予想外だった。
こんなことがあの八代に知られたら、話のネタにされるに違いない。くわばらくわばら、蒼衣は心の中だけでつぶやいた。
「鈴の音?」
鈴の形をしたサブレを割った瞬間、チリリン、と鈴の音がした。サブレを手に持った男性が静かに首をかしげる。
「はい。割ったとき、鈴のような音がするんです」
「ふむ」
五十代後半、強面の男性は太い眉をかすかに動かし、ベルサブレを口に運ぶ。一見無表情のまま咀嚼しているが、接客中で近くに立つ蒼衣には、確かに彼の感情が伝わってくる。
驚きと興味深さ。魔法菓子への関心があることがわかるだけで、蒼衣は安心する。そして、改めてこの能力に感謝するのだった。
本来の蒼衣は、察しのいい人間ではない。所謂「空気の読めない」タイプなのだ。他人の意図や要望がくみ取れず、それで苦労をした過去を持っている。
だから魔法菓子職人になってこの能力が身についたとき、蒼衣は少しだけ生きやすくなったと思った。少なくとも、自分がお菓子を売るときは、相手のことがわかる。
蒼衣が穏やかに接客できるのは、そういった事情があった。
「音はこんななのに、食感はほろほろしてるんだな。口の中で溶けていく」
「ええ。そのギャップもお楽しみいただけたでしょうか」
「魔法菓子ってのはもっとこう、派手なものかと思っていたが……なんだか手品のようだな」
そうですね、と蒼衣は笑った。確かに、彼くらいの年齢のひとが想像する『魔法菓子』は、結婚式などの祭典で使われる派手な演出のものだろう。この辺り――名古屋周辺――は、派手好きと言われる土地柄もある。しかし『ピロート』の魔法菓子は、身近な小さな魔法、まさに手品のようなものだ。
「面白い。これならあいつの気も晴れるかもしれん」
ベルサブレを食べ終えた男性は、声のトーンを落としてつぶやく。瞬間、男性の気持ちに影が落ちたのを感じた。
「お見舞いですか?」
彼は自分のためではなく、誰かのためのケーキを選びにきたのだ。
「家内が入院していてな。少し気落ちしているものだから、甘いものでも持っていこうかと」
そう言いながら男性はショーケースを覗く。しかし「俺は甘いものは得意じゃないから、いったいなにがいいのやら」とぼやいた。
「奥様がお好きなケーキは、ご存じですか?」
蒼衣が尋ねると、男性はしばらく考えてから「確か、チーズケーキだ」と答えた。
「それなら、こちら『ブルーミング・チーズケーキ』です。下はベイクドチーズ、上にもレアチーズ風のクリームをのせた、二つのチーズケーキが楽しめる一品です」
蒼衣はショーケースの中の一つを手で案内する。真っ白なチーズクリームの乗ったベイクドチーズケーキ。
男性はケーキをじっと見つめた。
「これにはどんな魔法が?」
一見すればシンプルなケーキである。男性が不思議に思うのも無理はない。
「それは――」
蒼衣は魔法効果を説明した。それを聞いた男性は目を見開く。
「ぴったりだ。それを一ついただけないか」
そして男性はお店を後にした。彼の心には『期待』と『願い』が浮かんでいた。蒼衣はそれを感じながら、彼の思いが届きますようにと祈らずにはいられなかった。
***
病院の一室、窓際のベッドにいるのは、四〇代の女性だった。口を一文字にきゅっと結び、不安げなまなざしで窓を眺めている。
サイドテーブルに置かれているのは『魔法菓子店 ピロート』の箱。先ほどピロートを訪れた男性が『ブルーミング・チーズケーキ』を取り出し、紙皿に乗せた。
「土産だ」
ぶっきらぼうにベッドテーブルに置くと、女性が男性の顔を見た。
「珍しい、庄一《しょういち》さんがケーキを買ってきてくれるなんて」
「景気づけだ」
「魔法菓子ピロート? 最近、近所にできたところじゃないの。お高くなかった?」
箱の店名を見て、女性……安藤知子は尋ねた。
「いや、見た目も値段も普通の菓子屋で、びっくりした。とりあえず食べてみろ」
「もう。急かさなくても、おいしく頂きます」
知子がフォークをケーキに近づける。白いクリームに触れた瞬間、クリームの上に紫と赤のグラデーションが美しい、花の模様がにじみ出るように現れた。
「この形、ゼラニウムだわ。すごくきれい」
知子の目が輝き、口元に笑みが浮かぶ。花の部分を切らないようにして、フォークを差し入れ、口に運んだ。
「……白いクリームはローズゼラニウムの香りがほんの少ししてる。甘みは蜂蜜かしら? 下のベイクドチーズケーキはレモンの風味がさわやかで、それが花の香りのクリームと合ってる。不思議なケーキ、とってもおいしい」
ケーキを味わう知子は、先ほどの憂いさが嘘のように生き生きとしていた。それを庄一は無言で眺める。しかし、彼の顔にはわずかだが安堵の表情が浮かんでいた。
しかし、次の一口を切ろうとする知子の手が止まった。じっと浮かび上がった花の模様を見つめている。やがて、フォークをテーブルに置いた。
「久しぶりに、花の香りを感じた。……早く、お店に戻りたい」
真剣なまなざしと、絞り出すような声に、庄一は悟られないように奥歯をかんだ。
知子は、この街にある花屋のベテラン店員だ。好きな仕事に就いているおかげか、病気知らずの健康体だった。しかし、四〇代に入ったころから、体の不調が多くなり、入退院を繰り返すようになった。
そんな知子は、先日、手術を受けたばかりだった。無事成功はしたが、経過観察とリハビリのため、しばらくの間は入院生活が続く。
このまま予後がよければ元通りの生活ができるが、そうでなければ、今後の治療と体への負担を考えて、仕事を辞めざるを得なくなるだろう。花屋の仕事は華やかではあるが、体力勝負な面もある。
すぐに命を奪う病気ではないと医者は言う。体を気遣えば、普通の生活ができる……ただし、仕事は制限がかかると付け加えて。しかし、仕事を失うというのは、知子にとっては自分を失うのと同義語だ。
仕事が生きがいの彼女は、それを恐れている。
生きていてくれさえばいい、と伴侶である庄一は思う。しかし、自分も突然今の仕事を奪われ、それでもあなたは生きるのだと言われたら、今まで通りに生きられる自信はない。
「戻れるさ、絶対」
庄一はそれだけ言い、知子の肩を優しく抱いた。普段は硬派を気取っている庄一だが、この数年病気に振り回されている知子が心配でたまらない。少しでも元気になるのなら、どんなことでもやってやろうと思っているのだ。
知子もそれを知っているのか、しばらくの間身を寄せた。
「……ねえ庄一さん、ゼラニウムはね、昔は、薬に使われていたのを知ってる?」
不意に知子が口を開いた。
「知らん、が、職人がそんなことを言っていた気がする」
職人から『花』をモチーフにしたお菓子だと聞いたとき、運命の巡り合わせかと庄一は思った。
チーズケーキが好きな彼女が、人生を捧げているのは花。これほど彼女に合うものはないだろう。
「気分を落ち着かせたり、鎮痛作用があるの。花言葉は、尊敬、信頼、真の友情。昔からひとを癒やし、元気づけてくれる花。だから、これを選んでくれてありがとう。私、リハビリもがんばるわ」
「ああ」
穏やかに庄一が答えると、知子は再びフォークを手に取った。「花の部分を切るのは忍びないわね」と言いながら、二口目を口に運ぶ。
「それにしても、魔法菓子って不思議ねえ。真っ白だったクリームに、花の模様が浮き出るなんて。ほら、フォークの触れかたで花の大きさが違う。不思議~。どうやってるのかしら、魔法ってすごい、不思議!」
「そりゃ魔法菓子だから不思議だろう。あと、何回不思議と言えば気が済む」
「ロマンのないひとね。そういえば、庄一さんの分はないの?」
「俺はいい」
「そんなこと言わずに、ほら、あーん」
「やめろ、大人げない」
一口大に切られたケーキを差し出される。しかし、庄一は首を振ってそれを避けた。
「庄一さんが食べてくれたら、私、もっと元気になれるかも。ほら、誰もいないわよ、ね?」
にっこりと知子にほほえまれ、根負けした庄一は、辺りの様子をうかがう。同室の患者はどこかに行っているようで、知子の言うように誰もいない。
カーテンを閉めた庄一は、口を開いてケーキをほおばろうとした。舌先にクリームが触れる。
そのときだった。
「安藤さん、お加減はいかがですか?」
「うわっ!」
閉じていたカーテンが開かれた。看護師が顔を覗かせ、驚いた表情で二人を見た。
庄一は素早く口を閉じ、黙ったまますっくと椅子から立ち上がった。その間ほんの三秒もない。「あらやだ」と知子がおもしろそうにつぶやくのも無視して、帰り支度を始めた。
あんなところを他人に見られるのはあまりにも恥ずかしい。今すぐにでも消えたかった。
「あれ、ご主人、もうお帰りですか?」
「聞いてくださいな、彼、私のためにケーキを……庄一さん、帰っちゃうの? 気をつけてね~」
明るい知子の声を背中に受け、庄一は無言のまま病室を出た。口の中にころんと転がってきたケーキのひとかけらが溶ける。甘酸っぱさが、自分の恥ずかしさのように思えた。
***
「うん? 蒼衣、どうしたんだ、その花束」
四月の始めのこと。
外出していた八代が店に戻ると、蒼衣がピンクや赤の花がある、小さな花束を抱えていた。
「ああ、これ、先ほどお客様から頂いたんだ。前、うちのケーキを食べて、元気になれたからそのお礼だって」
「へえ、いいお客様だなあ。……あれ、この花、見たことあるぞ」
八代が花束をのぞき込み、小首をかしげた。
「そう、これは『ブルーミング・チーズケーキ』の花、ゼラニウム。ケーキを気に入ってくださったんだって」
一緒に来店した男性は、二月の終わりに来店した、入院している妻を想ってケーキを買っていったひとだった。
「うれしいね、こういうことがあると」
喫茶のお客であれば、そっと近づけば気持ちがわかる。しかし、持ち帰りのお客がどう感じたかまではわからない。自分の作ったものが受け入れられるかどうかが不安な蒼衣には、心の底からうれしい出来事だった。
「そうだな」
蒼衣は適当な空の洋酒の瓶に生けると、ショーケースの上に置いた。普段、きらびやかな装飾はしない店だが、花があるだけでも雰囲気が明るくなる気がした。
「しばらく飾らせてもらおう」
「おう」
厨房に戻ろうとした蒼衣は、八代に気づかれないように、ちらりと花束を見る。蒼衣は「わかっちゃったのかな」と小さくつぶやいた。
男性の妻であるそのひとは、花屋に勤めているのだという。彼女は蒼衣のコック服に刺繍された名前を見て、薄くほほえんだ。
それが少し恥ずかしかったことは、八代には秘密にしておこう。
ゼラニウムの和名は、天竺葵《テンジクアオイ》。
どんな効果にするかを考えていたとき、眺めていた植物図鑑で目についたのがゼラニウムだった。和名が自分の名前と一緒だという親近感と、リラックスさせる効果が気に入ったのだが、お客に知られてしまうとそれはそれで恥ずかしくなるのは、予想外だった。
こんなことがあの八代に知られたら、話のネタにされるに違いない。くわばらくわばら、蒼衣は心の中だけでつぶやいた。