わあい、僕の魔法菓子! 弾んだ子どもの声が『魔法菓子店ピロート』の店内に響く。
「僕ね、六歳になったから魔法菓子食べるの! だから、このケーキ僕のなの!」
 満面の笑みでケーキの箱を抱える幼い子どもは、カウンターに立つ蒼衣と八代にうれしそうに言う。
 ケーキの箱を大事に抱える子どもを眺めたのち、二人はほぼ同じタイミングで微笑みを向けた。
「お誕生日おめでとう。家族のみんなで、楽しんでね」
 蒼衣は目を細め、穏やかな笑みを浮かべる。誕生日ケーキを渡すときの醍醐味は、お客のうれしそうな顔を見たときだ。
「初めての魔法菓子がうちのケーキでよかったな、ぼうず! ここのケーキは世界一おいしくて楽しいぞ!」
「ほんと?」
「ホントのホントだ、おっちゃんは嘘つかないぞ」
 カウンターから出た八代は、子どもの前でしゃがんで肩をたたいた。歯を見せて笑う姿は、目の前の子どもと変わらない無邪気さであふれている。子ども慣れしている八代の姿を見た蒼衣は、さすが一児の父は違うな、と思わずにいられない。
「うわーい! お菓子屋のおじちゃんたち、ありがとう!」
 こら、お兄さんたちでしょ、という母親の声などおかまいなしに喜ぶ子どもの様子は、微笑ましい。
 ありがとー、と手を振って帰る後ろ姿を見送り、二人はカウンターの中に戻った。
「やっぱり誕生日ケーキっていいよな。特にデコレーションのホールケーキ! 特別感半端ないんだよな。子どもに魔法菓子を食べさせ始めるのも五、六歳の誕生日からって人が多いし、需要があってなによりなにより」
 レジ横のホールケーキ予約ノートをめくり、お渡し完了のチェックを入れながら、八代は言った。
 一般的に、魔法菓子は『ハレの日』に使われることが多い。ピロートの魔法菓子は、日常的に食べてもらえるカジュアルなものがメインだが、特別な日のケーキにも力を入れている。
 可能な限りお客様の要望をヒアリングし、理想のケーキを作る、オーダーメイドのホールケーキ。それは、魔法菓子だからこそできることだった。
 ショーケースの中には、今日お渡し予定のホールケーキが並んでいる。どれもお客様の要望をできる限り実現させた、大切なものばかりだ。
 残っているのは、きれいなワックスペーパーで包まれ、中身の見えないケーキ。サイズが大・中・小と違うが、同じ種類のものだ。
 蒼衣は八代の持つノートをのぞき込む。予約者の欄に並ぶ「間宮《まみや》紗枝《さえ》様」「間宮壮太(そうた)様」「間宮梨々子(りりこ)様」の名前――三人とも同じ『バルーン・バースデー』を注文している――を見た蒼衣は、少し緊張した面持ちになった。
 

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 どうしてこんな人と結婚してしまったんだろう。間宮紗枝(さえ)の頭の中はそんなことでいっぱいだった。
 布団のそばに置かれた脱ぎっぱなしの服や、つけっぱなしの電気、そのたびに紗枝の頭を駆け巡り、そのたびにとげのある言葉が口をついて出る。
 自分の服がなんで洗濯物かごに入れられないの、電気くらい消してよ。ほんと、ダメなひと! ひとしきりヒステリックに叫べば、露骨にイヤな顔をして無視を決め込む夫に、さらに怒りが増す。
 休日、自分の機嫌のいいときに子供の相手をするだけで「いい父親」ぶった顔をする夫が憎たらしくてたまらなかった。
 少し前まではここまでではなかった。一応恋愛結婚なのだし、それなりに仲良くやってきたはずだった。しかし、夫の仕事が忙しくなり、専業主婦だった紗枝もパートの仕事を始め、若干環境が変化したことも原因かもしれない。
 さらに紗枝を怒らせたのは、十歳になる娘の誕生日になにをするか、すっかり考えていなかったことだった。ずいぶん前からケーキはどうしよう、プレゼントはなにがいいか、どんなご馳走を用意しようか。そう話を持ち掛けても、仕事が忙しいだの今日は疲れただのと言い訳ばかりで、話にならない。
 確かに、生まれたばかりの頃より盛り上がらないのは、紗枝にもわかる。しかし、小学生の娘は、今でも誕生日を心待ちにしているのだ。
 娘が生まれてからだんだんと少なくなっていった夫婦の会話が、完全に途切れたのは一週間前だった。母としての連絡事項は話しても、それ以外では口を利かなくなった。顔も見たくなくて、視線もそらしてしまう。それは、娘の誕生日一週間前になっても変わらなかった。

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 なんであんなのと結婚してしまったんだろう。間宮壮太(そうた)の頭の中はそんなことでいっぱいだった。
 疲れでうっかり放置してしまった服で小言を言われ、消し忘れた電気をこれ見よがしに消されたりしただけなのに、鬼の首を取ったように騒がれるのは、壮太にとってストレスそのものだった。
 子供の前で喧嘩する姿を見せたくないので黙るが、それでさらに怒るのだから手に負えない。
 だからせめて、壮太は体の調子のよいときには娘の相手をして頑張っていた。しかし、嫌味たっぷりに「あなたは本当に調子のいいときだけ、いい父親やってるのね」と言われれば、やる気がそがれてしまうのだった。
 ついに妻を怒らせたのは、十歳になる娘の誕生日のことだった。運悪く仕事の繁忙期と重なり、家で話をするのもおっくうだった。疲れて重たい頭で、妻の金切り声を聞くのはとても辛い。
 正直なところ、生まれたときは子どもがいることが物珍しく、一通りの行事を張り切って行った。しかし、さすがに十歳ともなると、感慨が薄くなったのは否めない。
 そして普段から少なかった夫婦の会話が、完全に途切れたのは一週間前だった。父としての連絡事項は話しても、それ以外では口を利かなくなった。顔も見たくなくて、視線もそらしてしまう。それは、娘の誕生日一週間前になっても変わらなかった。


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「ですからね、間宮さん。いい加減、こんなことで間違えないでください」
 五十代の食品課係長は、紗枝のことを見ずに言い放つ。コツコツコツ、と事務机を叩く音が煩わしい。
 勤務途中に係長に呼び出され、数日前に起こしたトラブルとミスについて説教されてから、すでに十五分が経っていた。
「申し訳ありません」
「もう入って半年ですよね? 普通はとっくにできることなんですよ、レジの打ち直しなんて。それでモタモタして、お客様を怒らせてクレームを増やすなんて。もういいです、仕事に戻ってください」
「はい」
 クレームの発端であったレジの打ち直しは、めんどくさいクレームを付けたお客のもので、対応にとても苦労したものだったのに。事務室から出た紗枝は、口まで出かかった文句をすんでのところで飲み込んだ。
 店に戻ると、同じ係の同僚たちがを無表情で紗枝を見て、そしてなにも言わずに仕事に戻った。
(他人のミスのフォローなんてどうでもいい、ってことね)
 紗枝も同じように無表情で「ご迷惑かけました」と一言いうだけで、自分も仕事に戻る。
 百貨店の食品売り場のパートを始めて半年。個人経営店とは違う、複雑な仕事の仕方に慣れてきた矢先のミスだった。始めは大きいお店で女性が多く、気楽かと思ったが、入ってみれば責任の押し付け合いとなれ合いの世界で、紗枝の神経はすり減っていった。
(みんな私のことなんて、どうでもいい。そうよね、そんなもんよ。だいたい、あの客に怒鳴られてるときだって、だれも助けてくれようとしなかった)
 家でも職場でも、だれも助けてはくれない。大人としてはあまりにも子供じみた恨みを、紗枝は腹の中に閉じ込めることしかできなかった。


「お先に失礼します、お疲れさまでした」
 型通りのあいさつを通りすがる従業員に言いながら、紗枝は従業員出入り口を出た。今日は娘の学校が六時間目まであり、家事などの雑務をしても、自由になる時間が少しある日だった。
(そうだ、梨々子の誕生日ケーキを選びに行こう)
 紗枝はそう思い、スマホで近くのケーキ屋を調べ出した。職場にもケーキ屋はあるが、職場で居心地の悪さを感じている紗枝としては、プライベートで使いたいとは思えなかった。
 誕生日ケーキ、子ども、などキーワードを入れて検索すれば、近くにあるケーキ屋が候補に挙がる。しかし、どこも一通り利用したばかりの店で、面白味が感じられない。そんな中一軒だけ、見たことのない店があった。
「魔法菓子店、ピロート?」
(そういえば、梨々子にはまだ魔法菓子を食べさせたこと、なかったわね)
 魔法菓子のような高価な嗜好品は、庶民の自覚を持つ紗枝が買うことは稀だった。最後に食べたのは、友人の披露宴でのデザートだっただろうか。なんだかキラキラしていた印象がある。
 店の数も普通のお菓子屋に比べれば少なく、こんな地方都市にあることすら、珍しい。
 店名を検索して、口コミサイトを見る。四、五ヵ月前にできたお店らしいが、比較的好意的なコメントがついていた。品数は少なく、売り切れることもあるが、魔法菓子なのに安価でおいしい。店員さんが親切で、理想のケーキを作ってくれた、実はパティシエがとんでもなく優しいイケメンだ……などなど。職人(パティシエ)がイケメン、は口コミとしていかがなものかとは思いつつも、優しくて親切ならば、行ってみてもよいだろう。
 地図を見れば、商店街に近い住宅街の中にあり、自宅からもそこまで遠くはない。帰り道に寄っていけるとわかった紗枝は、足早に駐輪所へ向かった。


『魔法菓子店 ピロート』の看板が掲げられていたのは、単身者用アパートの一階部分だった。
 パステルカラーの青と白、優しい木目で統一された親しみやすい外観に、入りにくそうな高級店を想像していた紗枝は安堵する。
 ドアを開ければ、洋菓子屋特有の甘い香りが満ちていた。
 内装も外装と同じ配色で、小さめのショーケースには、生菓子が五、六種類。横には、焼き菓子のディスプレイがあり、マドレーヌやパウンドケーキ、クッキーなどが綺麗にディスプレイされていた。
(ふうん、魔法菓子っていっても、見た目は普通のお菓子屋さんと変わんないのね)
 もっと神秘的で、不思議な場所かと思っていた紗枝が雰囲気に拍子抜けしていると、「いらっしゃいませ」と、コック服を着た男性に声をかけられた。人の好さそうな笑顔に、店に入る前のささくれ立っていた気分が和らいだ。
 それに、きれいに並んだケーキは色とりどりで、おいしそうだ。
 ショーケースの商品説明には、魔法菓子らしい不思議な効果が書かれていた。いわく、ドーム型のチョコレートケーキには「星が浮かびます」音符の描かれたロールケーキは「声が変わります」カラフルなカップケーキは「変装できます」といった具合だ。
(本当かしら?)
 魔法菓子のことをよく知らない紗枝は、思わず小首をかしげる。
「お客様、アレルギーや、魔力アレルギーがなければ、ご試食はいかがですか? 金のミニフィナンシェと銀のミニマドレーヌです。どちらがよろしいでしょうか」
 いつの間にか、紗枝の隣にはパティシエらしき男性がいた。両手にそれぞれ、金の光を放つフィナンシェと、銀の光を放つマドレーヌが乗った皿を持っている。
「光ってる。これ、どんな魔法が?」
 まじまじと見つめ、期待に胸を膨らませながら、紗枝はパティシエに尋ねた。
「たまに、中身から金や銀の粒が出てくることがあるんです。運試しのようなものですね」
 紗枝は金のミニフィナンシェを一粒つまむと、半分に割った。中にはなにも入っていない。
「残念でしたね。マドレーヌならどうでしょう」
 どちらか一つだけだと思っていたら、パティシエが手のひらにマドレーヌを載せてくれた。どうぞ、と促されたので、同じように割ってみる。
「ああ、これもダメ……ツイてないわ」
 なにも入っていない断面を見て、紗枝は思わずぼやいた。せめて食べてしまおう、と口に入れれば、レモンの皮のさわやかな香りと甘さが口いっぱいに広がった。ふんわりとやわらかい生地の感触も優しく、おいしい、と素直な気持ちが口をついて出た。フィナンシェを食べると、こちらはマドレーヌよりも濃厚なバターの風味と、どこか甘く酔うようなバニラの香りがした。少しざらりとした生地のしっとりとした感触も、マドレーヌとは違う味わいだ。
 スーパーで買う安い袋菓子とは違う『お菓子屋の焼き菓子』のおいしさに、紗枝の頬がゆるむ。 
「どちらもおいしかったです。金や銀が出なくても、これはこれで満足です」
 するとパティシエは目を細め、口元をほころばせた。ひとを安心させるあたたかな笑みと、几帳面に頭を下げる様子から、彼の真面目さが伝わってくる気がした。
「そういえば、お客様は熱心にショーケースをご覧になられていましたね。なにか、お探しの品物がありましたでしょうか」
「あの、子どもの誕生日ケーキをと思いまして」
 パティシエの穏やかな声音に問われるまま、紗枝は詳しく事情を話した。十歳になる娘のために、初めての魔法菓子を用意したい。すると「過去お受けしたオリジナルケーキの写真がありますので、ご参考になれば」と写真ファイルを見せてくれた。華やかなケーキの横には、魔法効果の説明も書かれている。
 花のケーキには『ナイフを入れると、ドラジェが花開きます』かわいらしい人形が飾られたケーキには『人形たちが動きます。音楽をかければ踊りを見せてくれます』
(いろいろなものがあるのねえ)
 どれもこれも面白そうだと思ってみている中で、紗枝は一つのケーキに目を止めた。それは他の華やかなデコレーションとは違い、包装紙で全体を包まれていた。
 『バルーン・バースデー』と名付けられたケーキだった。説明文には『飴細工の風船を割ると、食べられる小さな風船マシュマロが飛び出し、一定時間宙に浮かびます』
 それを見た紗枝は、梨々子が小さいころ、風船で遊ぶのが好きだったことを思い出した。
(そう思うと、ずいぶん大きくなったのねえ)
 風船とじゃれあって歓声を上げる梨々子の思い出がよみがえり、紗枝は感慨深げになる。
「これ、面白そうですね」
 包装紙で中身が見えないのが、面白そうだった。びっくりして喜ぶだろう梨々子の顔が、紗枝の脳裏に浮かぶ。
(パパが忘れてる分、わたしがちゃんと祝ってあげなくちゃ。梨々子がかわいそうだわ)
 夫婦の関係がこじれていても、子どもにはせめて『親』でありたい。
 早速これを注文することを告げると、娘に魔力アレルギーがあるといけないとのことなので、娘の試食用にミニマドレーヌを一つもらった。もしアレルギーがあれば、魔法菓子ではない普通のケーキも作ることができるし、キャンセルもできるらしい。
 注文を終えた後、パティシエは「お嬢さまへの初めての魔法菓子、心を込めて作らせていただきます。大切な思い出になるように」と笑顔で言ってくれた。その微笑みはテレビの中のイケメン俳優に劣らぬきれいさで、口コミサイトの書き込みを思い出し、年甲斐もなく胸が高鳴る。 
「よ、よろしくお願いします」
 商売文句だとはわかっていても、今の紗枝にはその言葉が心強く思えた。だれかが自分の願いの為に心を砕いてくれる。とても、うれしく感じたのだった。


 帰り道、紗枝は接客してくれたパティシエを思い出す。あの笑顔は、どのお店でも見たことのない、魅力的なものだった。
(心からだれかの幸せを願ってるんだ。きっといいひとなんだろうな。私とは違って)
 同じ接客業の自分と比べ、紗枝は自分の不甲斐なさに落ち込む。
(仕事熱心なんだわ)
 仕事熱心、という言葉が浮かぶと、今度は毎日仕事に明け暮れる夫を思い出した。
(あの人が疲れてるのも、仕事が忙しいからなんだろうな)
 結婚前からの付き合いだから、壮太の性格は知っているつもりだった。仕事に真面目すぎるのに、疲れや不満はなかなか言葉にできず、うまく自分の中で処理できない性格だと。
(私の前ではプライドが高くて、弱音が吐けない。ほんと、どうしようもない人)
 壮太の扱いの難しさや、仕事に真面目になれない自分の気持ちがぐちゃぐちゃになって、紗枝はせっかく浮いた気持ちが沈んでしまったように思えた。