後悔のない人生なんて本当に存在するのだろうか。いい人生だった、と誇れる人間なんてごくわずかに決まっている――。
 その日の午後はなんとも不明瞭な思考のまま過ごしていた。
 結局あの死神はなんだったのか、夢だったのではないか。そんなふうに思いながらも、あの男が言っていた『死神の力に触れた人間は、この世のものでないものまで見えてしまいます』という言葉は本当らしく、俺の視界にはどこかもやもやした、恐らくこの世にはもう存在していないものがたびたび映っていた。
 まあ、ただのもやつきであることが救いだ。俺はそんなに霊感がないのだろう。
 それにしても、『あなたは死にます』なんて宣言されても実感がわかない。生まれた時から心臓に疾患を抱えて生きてきた俺は、常に死と隣り合わせだったから、人より死に対する恐怖や焦りという感覚が麻痺しているのかもしれない。
 なにもかもが今さらに感じた。いっそ今、命を狩ってくれれば、悩み疲れずに済むんだけど。
 残りの日数、いったいなにをしたらいいんだ。例えば一年後、半年後、とかならまだなにか思いついていたかもしれない。それが一週間なんて、正直そんな微妙な日数ではなにも浮かばない。
 普段通りに過ごす……それでは生産性がないな。どうせ死ぬのだから、いっそ命を懸けられるような……。
『死ぬつもりで生きてきたなら、最期くらい死ぬ気で生きてみてください』
 不意に死神の言葉が頭をよぎり、首を振った。
 なんで、こんな言葉を思い出すんだよ。ああでもそうか。七日後よりも先に死んでやるというのはどうだろう? あの死神がイレギュラーな死を嫌がっていたのを思えば、勝手に死ぬことだって可能なはずだ。
 誰かに余命宣告なんてされて死んでたまるか。俺の終わりは、俺が決める。
 死神が俺に謝罪する姿が目に浮かぶ。
 せいぜい俺を生かしたことを後悔して、あの涼しげな顔を崩せばいい。俺は自分の意志で、潮見渚を終わらせてやる。最期くらい、〝死ぬ気〟で死んでやるよ。
 本日最後の予鈴が鳴る。俺は教科書の入っていないぺたんこのカバンを持ち、誰と会話を交わすわけでもなく教室を出た。そのまま昇降口に向かおうとした時、屋上の鍵を清掃室に返し忘れていることに気づいた。
 誰かにバレる前に戻さなくては。見つかってしまったら、きっと無駄な時間を食うだろう。その間に考えが変わる可能性だってゼロではない。大体、せっかく死ぬ気満々なのに、気分が削がれてしまってはうまく死ねそうもない。
 早足に廊下を歩いて、清掃室へ向かう。
 清掃室に出入りする人間は少なく、たまに見かけても外部委託されている掃除のおばちゃんかおじちゃんくらい。だけど用心に越したことはないので、俺は清掃室の扉をそろりと開けて、壁に設置された鍵かけのひとつに屋上の鍵を戻す。
 昇降口に引き返して廊下を歩いていたら、くすくすと女子生徒の笑い声が窓の外から聞こえた。
「ちょっとはおとなしくなるでしょ、これで」
 女子特有の高さとかすれた音が特徴的で、これは四組にいる木原明(きはらめい)の声だろうとなんとなしに思った。三組の俺からしたら隣のクラスなので、あの声をよく耳にしていた。
 窓の外に金髪の派手な姿の女子生徒が見えた。やっぱりだ。やたら目立つから見たくなくても勝手に視界に入ってくる。
 目が合うと軽く睨まれたので、俺は知らないふりをして顔を逸らした。面倒事はごめんだ。
 靴を履き替えながら、どこで死のうか考える。
 少し離れたところにある高架橋から川に飛び込むのはどうだろう。この時間帯は人通りが多そうだけど問題ない。最後くらい注目を浴びたっていいじゃないか。
 校舎を出て、しばらく無心のまま歩く。よく知った道をこうして眺めるのもこれで最後になるだろうが、正直どうでもいい気分だった。
 高架橋に向かう際、大きな川を挟む土手沿いの道を進む。
 こっち側まで来たのは小学校以来だな。
 緩やかな風が道脇に咲く野花を揺らしている。夕日の落ちる空に目を向けようと横に顔を向けたら、土手の少し下のところで制服を着た女の子がひとり、川のほうを向いて佇んでいた。
 虫襖色(むしあおいろ)のチェックスカートはうちの学校の制服だ。華奢な背中にかかる絹糸のような線の細い黒髪は、なでるように風に吹かれている。合わせて紺青色のセーラー襟が後ろに向かってなびいた。
 絵になるくらい綺麗な佇まいをした彼女になんだか心がざわついた。なぜなら、あの背中に見覚えがあるからだ。早く行こう、そう気持ちが急いても足が動かなかった。
 彼女は靴も履いておらず、ひざ下から足先まで薄汚れている。川の中に入ったのだろうかと思うほど、泥だらけだった。足元に置いてあるカバンは水浸しにも見える。
 彼女の身になにかが起こったのは確かだ。なのに、その後ろ姿は汚れた格好に似合わず凛としていた。ますます俺の胸は落ち着かず、ざわめきが止まらなかった。
 不意に彼女が振り返った。その瞬間、どうして俺は先を急がなかったのだろうと少し後悔した。
「潮見……?」
「牧瀬……」
 相手が俺の名前を呼ぶ。今さらごまかせるはずもないので、俺はそのまま彼女の名前を呼び返した。
 アーモンドのような形をした大きな瞳にはなんだか涙が溜まっているように光が集まっている。目を見張った俺に、彼女はハッと弾かれたように表情を引き締めた。
「なに、してんの」
「そっちこそ、ここ帰り道じゃないのに」
「なんだよ。まさかまた嫌がらせでもされてんの?」
 彼女がひとりで佇んでいる姿を見たのは一度や二度じゃない。こんなふうに学校外では初めてだけど、校内ではよく見かけている。そのたびに声をかけようかためらって結局できずじまい。どんな時も彼女は毅然とした態度を崩さないから、声をかける隙がどうしてもなかったのだ。
「なんのこと? されてないし」
「じゃあなんで――」
 いつもひとりでいるんだ。そう続けようとしてやめた。彼女は強情だから、きっと素直に首を縦に振らないだろう。
「ていうか潮見。すごく久しぶりに話しかけてきた」
「いや、お前が先に俺の名前を呼ぶから」
「先に気づいたのは潮見でしょう?」
 少し潤んだ目を隠すためか、牧瀬は前髪を払うようにして目元を指先で押さえていた。
 どんなに強がっても、やっぱり嫌なことに傷つかないわけじゃない。彼女の姿を前にして、俺は今まで彼女に手を伸ばしもしなかったことを後悔した。でもまた〝あの時〟のように拒絶されてしまっては成す術もないのだけれど。
「そこから私の様子を観察してたんじゃないの?」
「誰が。ただ、うちの制服きた女子が裸足でなんか変な格好してるなって見てたら、たまたまお前だっただけ」
 カバンを肩に持ち直しながら彼女から目を逸らす。夕日に視線を移せば、もう少しで沈んでしまいそうだった。鉛のように重そうな雲が遠くの空からこちらに向かっている。
 そうだ、今日は夕方から夜にかけて雨が降るという予報だった。早く行かなくては。どうせ死ぬなら天気のいいうちがいい。最期くらい縁起よく終わりたい。
 なのに足が動かない。俺はなにか彼女に言いたいことでもあるのだろうか。
「なにそれ、駆け寄って声をかけようともならなかったの?」
 その瞬間、なぜか死神の言葉が呼び起こされた。
『事前宣告をすることで、その人の後悔や未練を減らすことが可能なんです。残りの人生をなるべく効率よく過ごしてほしい』
 どうしてこのタイミングで思い出したのだろう。俺は……彼女にまだなにか未練があるのか。
 は、と息が止まり彼女の顔を食い入るように見つめてしまう。そんな俺に「潮見?」と彼女が首を傾げたので、咄嗟に口を開いた。
「あ、いや」
 彼女に対して後悔が生まれているだなんて……いや、そんなはずはない。後悔することなんてなにもない。ただ、手を伸ばせばよかったな、少しくらい手助けしてあげればよかったなと、うっすら思ったぐらいで別に……。
 振り払うようにして、「牧瀬さ」と口を開いた。
「自分が明日死にますって言われたら、どうする?」
「え? なに、急に」
「いいから。教えてよ」
 訝しげな顔をした牧瀬が、俺の顔を土手の下からこちらを見上げている。そして、少し間を空けたあと。
「……死なない」
 凛とした表情で短く告げた。やけに輪郭がはっきりした音に、俺は「え?」と間の抜けた返事しかできなかった。
「死なない、だってやり残したことたくさんあるもの」
「なに言ってんだよ、そうじゃなくて――」
「私は、後悔なんて残して死にたくない」
 まっすぐと見つめられて、ぎくりとした。まるで説得されているようで、どこか心が苦しかった。
「今のままじゃ死ねないのよ、私は」
 言葉の一つひとつに意志の強さを感じる。牧瀬帆波がいつもどこか地に足がついているように見えるのは、ぶれない信念を持って日々を過ごしているからだ。
 だからこそ、やっぱり彼女に会いたくなかった。いつまでもゆらゆらと定まらない生き方をしている自分が責められている気分になって居心地が悪かった。