翌日、気だるい朝を迎え、ひなげしはゆっくりと瞼を持ち上げた。
思ったよりも、精神的にまいっているのだと、自覚した。
眠りから覚めて、状況は何も変わっておらず、これから先、どうやって生活していこうかと考えるばかりだ。
またバイト探しをしなくてはならない。
しかし、スマホでまたアルバイト情報を検索することが、とてもつらく思えた。
高校を卒業できていない。そのことだけで、こうも社会的にハンデを背負うものなのかと思い知るからだ。
こんなことなら、自分の純潔を犠牲にしてでも、あの教師に従って高校卒業まで耐え抜くべきだったのだろうかと、頭に過る。
そんなばかな、と歯噛みして、また嫌な気分が心を黒く染めていく。
今日一日は、心と体を休めるために、何もしない方がいいだろうか。
だが、こんなにも先行きが見えない状態で、一日を丸々潰すのはもっと恐ろしい気もした。
とりあえず、身を起こす。
顔を洗って、歯を磨く。
時刻は朝の八時だった。
朝食を食べたいとは思えなかった。
重い気分が胃の中で渦巻いていて、空腹感なんてまるで感じなかった。
(そう言えば……、昨夜のあの外国人、変なやつだったな)
何も喉を通らないと言っていたくせに、腹は空かせていたようだ。
そんな感覚が、ひなげしには理解ができなかった。
何も食べたくないと、今感じているけれど、腹の虫が鳴くようなこともない。
食事が喉を通らないなんて言っていたわりに、ひなげしのおにぎりを全部食べてしまったのも、なんだか思い出すと滅茶苦茶だと思った。
もしかしたら、ばかにされたのだろうか。
「はぁ」
らしくもなく、暗い溜息が吐き出された。
学生の頃は我武者羅にぶつかっていって何とかなっていたように思うが、こうして一歩社会に出てみると、自分は丸裸で、なんの武器も持っていないのだと思い知らされる。
「ご飯、食べるか」
サイフの中身を確認するも、やはり大した額は入っていない。
まだ仕事が決まっていないから、節約しなくてはならない。
朝は抜くにしても、昼はなにか腹に入れたい。
駅前のスーパーはかなり安くて頼りにしていた。あそこで数日分の食材を買っておくべきだろう。
その店は朝九時から開店し、九時半から十時半くらいまで、タイムセールを行う。
今から支度して行けば、十分間に合うだろう。
そのタイムセールを狙って、色々と食材を買っておこう。
十八歳の少女の発想よりも、完全に主婦みたいなそれになっていて、ひなげしは自虐していた。
きっと、同年代のみんなは、今頃春休みだろう。
毎日楽しく過ごしているのだろうなと、自嘲の笑みを浮かべてしまう。
ラフなパンツスタイルを好むひなげしは、すらりとしたラインの服装に身を包み、スーパーマーケットへと向かった。
特売セールの始まる十分ほど前に到着できたので、籠を抱えて、野菜コーナーへと向かう。
最近は野菜が随分と高くなってしまっている。
だからこそ、タイムセールで野菜、そして卵は獲得しておきたいところだ。
年配の女性が沢山いて、十代はここにひなげししかいないのではないかと思えた。
やがてセールが始まると、次々と商品がおば様がたの籠に吸い取られていく。
ひなげしも、眼を付けていた野菜類と卵は確保し、ウインナーのパック売りとマヨネーズが安くなっていたので、これを買っておいた。
米はまだあるし、特に安くなっているわけでもない。こちらは今ある分を使い切るために、まだ買わないことにした。
周りを見ると、おば様がたは、籠に溢れんばかりの食材を詰め込んでいる。
色々と値引きされているので、買いだめしているのだろうが、ひなげしはそうしない。
家族が居るのならまだしも、一人暮らしの生活は、逆に沢山買い過ぎると、損をするのだ。
食材を腐らせてしまうし、大量に料理を作るわけでもない。
必要なものを必要なだけ、籠にいれる。
幸いなことに、このスーパーは平日、毎朝タイムセールをしてくれる。
慌てて買いだめをする必要はない。
なにより、財布の中身がそんな一気にものを買えるほどの余裕がない。
ひなげしは今日の分食べるものだけを買うつもりで、スーパーのタイムセール品をチェックしていく。
インスタントラーメンも安くなっていた。
チキンラーメンだ。五食パックで四〇〇円は安いと思った。
ひなげしはそれを籠に入れて、レジへと向かう。
キャベツともやし、それから卵。ウインナーとマヨネーズにインスタントラーメン。
家に調味料は揃えてあるが、マヨネーズはなかった。色々と便利なのでマヨネーズが安くなっていたのは嬉しかった。
お昼はチャーハンにしようと思った。
マヨネーズで和えると、パラパラしたチャーハンにできあがるのだ。
夕食はチキンラーメンで良いだろう。
今日はのんびりして、明日、またバイトを探そう。
会計を済ませて持参した手提げ袋に詰め込み、家まで帰る。
おんぼろのアパートは家賃月々五万三全円。駅から近くてこの値段はかなり安い。
尤も部屋は狭いし、キッチンも小さい。お風呂とトイレは一緒だしで、なんともみすぼらしい外見をしているのだ。
そんな部屋だが、自分だけの空間だ。それにどこか自分に似合っているようにも思った。
分相応、というやつだ。
アパートの二階がひなげしの部屋だ。
錆びついた階段を上っていくと、ぎょっとした。
自分の部屋の前に、高身長の男性が立っていた。
一目見て、昨夜の外国人と分かった。金色の髪が太陽に照らされ、煌めいていたからだ。
「……」
しかし、どういうわけでここにいるのだろう。
自分の素性はあの時いっさい口にしていないはずだ。
なのに、自分の部屋の前で家主の帰りを待っている様子というのは、ある意味ぞっとする。
ストーカー的な想像をしてしまうのは、ひなげしもそれなりに、学生時代に酷い目にあった経験があるからだ。
だが、ここで怯えて慌てないのが、ひなげしでもある。
ひなげしは、そのままつかつかと、部屋の前で待ち構えていた男性のまえに歩み出ていった。
「ああ、よかった。おかえりなさい」
「なんだよ、あんた。何か用?」
外国人の男性は、昨夜とはまた違うキッチリしたスーツ姿で、白い歯を見せてひなげしに手を振った。
しかし、ひなげしはわざと突っぱねるように言葉を強くした。
女だと思ってナメるなよ、と凄味を利かせてやったつもりだ。
「昨夜のお礼がしたかった」
「別にいいって言っただろ、迷惑だよ」
馴れ馴れしいと思うのは、彼が海外の感性でこちらに接触してこようとしているためだろうか。
ひなげしは、鋭くその男を睨みつけてやる。
家の住所まで調べてここに来た、というのは、少々恐ろしいものがあるからだ。
「どうか、話を聞いてもらえないだろうか」
流ちょうな日本語で語るので、ひなげしは相手がどこか現実を帯びていない幻のようにも思えた。
顔立ちは完全に日本人離れしたものなのに、そこから、スラスラと卓越した日本語が飛び出してくるのは、妙な違和感がある。
ひなげしは、そこでもスッパリと断るつもりだったが、彼の顔を見て、少し考えを改めた。
その西洋風の顔立ちをした男性は、妙に真剣な表情でひなげしをみていたからだ。
まるで海外ドラマのワンシーンみたいなその顔は、ひなげしを惹きつけた。
「なに、話って」
ぶっきらぼうな態度で応えて見せたが、男はそのひなげしの反応に、また笑顔になる。
「私は、こういうものだ」
彼は名刺を差し出して来た。
しかし、その名刺は英語で書かれていて、ひなげしは直ぐに内容が読み解けなかった。
思わず眉をひそめてしまうと、彼は自身の口でも自己紹介をしてくれた。
「私の名前は、コナー・シュロスバーグ。今は日本に療養のために来ているが、アメリカでリッチコンテンツクリエイターをしているよ」
「リッチコン……なにそれ」
「ええと……そうだな、なんというべきか……。最先端の演出家、とでも言うべきかな」
「ふうん。立派なんだね。で、あたしに何の用?」
到底自分には縁のなさそうな仕事をしている人間だと思った。
そんな人物が、態々昨夜のおにぎりのお礼のためだけに、家を訪ねてきたというのが不可解極まりない。
「どうか、私に食事を作って欲しい」
「……はぁ?」
至極真面目な顔で、コナーはそう言ったが、ひなげしは呆れたような顔をして、口をあんぐり開いてしまう。
何の義理があって、この西洋人に食事を作ってやる必要があるのだろう。
「ぶしつけなお願いなのは理解しているんだ。ただ、私にも事情があって……。昨夜も話したが、私は今、食事が出来なくなってしまったんだよ」
「昨日、しっかりおにぎり食べたじゃないか」
「だからなんだ! 今まで私は、なにも喉を通らなかったのに、あのおにぎりだけは食べることができた! だから私はあなたに、料理を作って欲しいんだ」
「……ええ? どうしてそうなるんだよ」
と、そこで自分が手に提げている買い物袋の重みが煩わしくなってきた。
早く買ったものを冷蔵庫にも入れておきたい。
事情はよく分からないが、彼はどうも真剣に話をしているというのは理解できた。
「とりあえず、そこどいてくれる?」
「あ……すまない……」
コナーは申し訳なさそうな顔をして、一歩引いた。
素直に哀しそうな顔をするのが、なんだか可愛らしいと思った。海外の人だから、どこか現実離れしたせいもあるかもしれない。
ひなげしは、ドアの鍵を開けると、玄関をくぐっていく。
そして、くるりと振り向いて、コナーを見た。
彼は狭いドアの向こう側で、ぽつんと突っ立っていて、こちらに捨てられた犬のような眼を向けている。
「ったく、見ての通り狭いけど……。話くらいは聞いてやるよ。入れば?」
「いいのかい?」
「そんな顔して、そこに立ってられたらたまんないんだよ」
そう言って、ひなげしは冷蔵庫を開けて、買って来たものをそこに詰め込んでいく。
コナーは表情を輝かせ、狭い玄関に潜り込んでくると、靴を脱いで部屋に上がって来た。
「ありがとう、ヒナゲシ」
「……な、名前まで知ってんの? まず、そこも妙なんだけど」
「すまない。調べさせたんだ」
「調べさせたって……」
何者なんだ、この男は。
昨日の夜出逢って、今は十時半だ。
そんな短時間で、ひなげしのことを調べて住所と名前を特定したというのは、ただ事ではない。
「改めて自己紹介をさせてくれ。私はコナー。アメリカの財閥シュロスバーグの御曹司って言うと、大抵の人は分かってくれるんだが」
「……何の冗談だ?」
「冗談ではないよ。本当のことだ」
そう言うと、コナーはスマホを取り出し、インターネットで記事の画面を見せてくれた。
そこには、コナーの顔写真と、その詳細が描かれていた。
アメリカの財閥の一人息子が、ノイローゼのために日本に休養で来ているといった内容だった。
「ノイローゼ?」
そう言えば、昨夜の話にも合ったように、食事が喉を通らなくなったとか。
「私は、アメリカで度重なる重圧から、ノイローゼになってしまってね。食事を食べても吐いてしまうようになったんだ」
よくよく見れば、彼は随分とやつれているようにも見えた。
肌が白いのは彼が白人だからというわけでもないかもしれない。
コナーが語ったのは簡単にまとめると、以下のようなものだった。
財閥の一人息子として、常に最高の姿を周囲に見せていないとならなかったコナーは、日々の重圧に徐々にストレスを溜めていったのだとか。
彼自身も仕事にしているリッチコンテンツの制作業にも支障が出始め、彼はある日を境に『料理』が食べられなくなったそうだ。
エネルギー補給用のドリンクや、スティックバーなどは食べることができたものの、食卓に並ぶ『料理』が食べられなくなったらしい。
「幼いころから、最高級の食材で作られた、最上級の技術を持つコックが、私に料理をふるまってくれた。そんな料理を、急に食べることが出来なくなったのさ」
聞きようによっては嫌味のような言葉ではあったが、それこそ金持ちが持つ、金持ちならでは苦悩なのかもしれない。
最底辺のひなげしには、贅沢な悩みだと思えたが、彼が本当にろくな食事を摂れていないというのは、伝わった。
「昨夜は、あの公園で気を失ってしまったほどに、限界がきていたようだ」
味気ないカロリーメイトも、食べたくなくなってしまって、ついに昨日限界を超えてベンチで倒れてしまっていた、という経緯らしい。
「……じゃあ、コンビニでおにぎりでも買ったらどうだ? おにぎりなら食べられたんだし」
「ダメなんだ。工場で生産されたものやコックが作る料理が、喉を通らないんだよ」
「……厄介なノイローゼだな」
「だから、私は昨日ヒナゲシが食べさせてくれたおにぎりに感激した。君の料理なら、私は食べることができると思うんだ」
がしっとひなげしの両手を掴み、熱い視線を向けてくる碧眼の青年は、どこまでも本気の様子だった。
ひなげしは少し狼狽えながら、彼の顔を真正面から見て、どきりと胸を鳴らした。
「私にとっては死活問題なんだ。だから、君のことを一晩で調べ上げた。ここまで図々しくも足を運んだ無礼は詫びるが、どうか私のために料理を作ってもらえないか」
そう言うと、コナーは深々と頭を下げた。
手を握られたまま、ひなげしは眉を寄せてしまう。
こんな話、にわかには信じがたい。
だが、どうやらこれは本当にコナーの真摯な想いが込められたお願いのようだ。
「分かったよ。どうせ、もうすぐ昼飯作るつもりだったし。それでいいなら……」
「ほ、本当か!? ありがとう、ヒナゲシ!」
そう言うと、コナーはひなげしを熱烈にハグしてきた。
大きな彼の身体に抱きすくめられ、流石の不良少女だったひなげしも、頬を真っ赤にして、黙り込んでしまうのだった。
思ったよりも、精神的にまいっているのだと、自覚した。
眠りから覚めて、状況は何も変わっておらず、これから先、どうやって生活していこうかと考えるばかりだ。
またバイト探しをしなくてはならない。
しかし、スマホでまたアルバイト情報を検索することが、とてもつらく思えた。
高校を卒業できていない。そのことだけで、こうも社会的にハンデを背負うものなのかと思い知るからだ。
こんなことなら、自分の純潔を犠牲にしてでも、あの教師に従って高校卒業まで耐え抜くべきだったのだろうかと、頭に過る。
そんなばかな、と歯噛みして、また嫌な気分が心を黒く染めていく。
今日一日は、心と体を休めるために、何もしない方がいいだろうか。
だが、こんなにも先行きが見えない状態で、一日を丸々潰すのはもっと恐ろしい気もした。
とりあえず、身を起こす。
顔を洗って、歯を磨く。
時刻は朝の八時だった。
朝食を食べたいとは思えなかった。
重い気分が胃の中で渦巻いていて、空腹感なんてまるで感じなかった。
(そう言えば……、昨夜のあの外国人、変なやつだったな)
何も喉を通らないと言っていたくせに、腹は空かせていたようだ。
そんな感覚が、ひなげしには理解ができなかった。
何も食べたくないと、今感じているけれど、腹の虫が鳴くようなこともない。
食事が喉を通らないなんて言っていたわりに、ひなげしのおにぎりを全部食べてしまったのも、なんだか思い出すと滅茶苦茶だと思った。
もしかしたら、ばかにされたのだろうか。
「はぁ」
らしくもなく、暗い溜息が吐き出された。
学生の頃は我武者羅にぶつかっていって何とかなっていたように思うが、こうして一歩社会に出てみると、自分は丸裸で、なんの武器も持っていないのだと思い知らされる。
「ご飯、食べるか」
サイフの中身を確認するも、やはり大した額は入っていない。
まだ仕事が決まっていないから、節約しなくてはならない。
朝は抜くにしても、昼はなにか腹に入れたい。
駅前のスーパーはかなり安くて頼りにしていた。あそこで数日分の食材を買っておくべきだろう。
その店は朝九時から開店し、九時半から十時半くらいまで、タイムセールを行う。
今から支度して行けば、十分間に合うだろう。
そのタイムセールを狙って、色々と食材を買っておこう。
十八歳の少女の発想よりも、完全に主婦みたいなそれになっていて、ひなげしは自虐していた。
きっと、同年代のみんなは、今頃春休みだろう。
毎日楽しく過ごしているのだろうなと、自嘲の笑みを浮かべてしまう。
ラフなパンツスタイルを好むひなげしは、すらりとしたラインの服装に身を包み、スーパーマーケットへと向かった。
特売セールの始まる十分ほど前に到着できたので、籠を抱えて、野菜コーナーへと向かう。
最近は野菜が随分と高くなってしまっている。
だからこそ、タイムセールで野菜、そして卵は獲得しておきたいところだ。
年配の女性が沢山いて、十代はここにひなげししかいないのではないかと思えた。
やがてセールが始まると、次々と商品がおば様がたの籠に吸い取られていく。
ひなげしも、眼を付けていた野菜類と卵は確保し、ウインナーのパック売りとマヨネーズが安くなっていたので、これを買っておいた。
米はまだあるし、特に安くなっているわけでもない。こちらは今ある分を使い切るために、まだ買わないことにした。
周りを見ると、おば様がたは、籠に溢れんばかりの食材を詰め込んでいる。
色々と値引きされているので、買いだめしているのだろうが、ひなげしはそうしない。
家族が居るのならまだしも、一人暮らしの生活は、逆に沢山買い過ぎると、損をするのだ。
食材を腐らせてしまうし、大量に料理を作るわけでもない。
必要なものを必要なだけ、籠にいれる。
幸いなことに、このスーパーは平日、毎朝タイムセールをしてくれる。
慌てて買いだめをする必要はない。
なにより、財布の中身がそんな一気にものを買えるほどの余裕がない。
ひなげしは今日の分食べるものだけを買うつもりで、スーパーのタイムセール品をチェックしていく。
インスタントラーメンも安くなっていた。
チキンラーメンだ。五食パックで四〇〇円は安いと思った。
ひなげしはそれを籠に入れて、レジへと向かう。
キャベツともやし、それから卵。ウインナーとマヨネーズにインスタントラーメン。
家に調味料は揃えてあるが、マヨネーズはなかった。色々と便利なのでマヨネーズが安くなっていたのは嬉しかった。
お昼はチャーハンにしようと思った。
マヨネーズで和えると、パラパラしたチャーハンにできあがるのだ。
夕食はチキンラーメンで良いだろう。
今日はのんびりして、明日、またバイトを探そう。
会計を済ませて持参した手提げ袋に詰め込み、家まで帰る。
おんぼろのアパートは家賃月々五万三全円。駅から近くてこの値段はかなり安い。
尤も部屋は狭いし、キッチンも小さい。お風呂とトイレは一緒だしで、なんともみすぼらしい外見をしているのだ。
そんな部屋だが、自分だけの空間だ。それにどこか自分に似合っているようにも思った。
分相応、というやつだ。
アパートの二階がひなげしの部屋だ。
錆びついた階段を上っていくと、ぎょっとした。
自分の部屋の前に、高身長の男性が立っていた。
一目見て、昨夜の外国人と分かった。金色の髪が太陽に照らされ、煌めいていたからだ。
「……」
しかし、どういうわけでここにいるのだろう。
自分の素性はあの時いっさい口にしていないはずだ。
なのに、自分の部屋の前で家主の帰りを待っている様子というのは、ある意味ぞっとする。
ストーカー的な想像をしてしまうのは、ひなげしもそれなりに、学生時代に酷い目にあった経験があるからだ。
だが、ここで怯えて慌てないのが、ひなげしでもある。
ひなげしは、そのままつかつかと、部屋の前で待ち構えていた男性のまえに歩み出ていった。
「ああ、よかった。おかえりなさい」
「なんだよ、あんた。何か用?」
外国人の男性は、昨夜とはまた違うキッチリしたスーツ姿で、白い歯を見せてひなげしに手を振った。
しかし、ひなげしはわざと突っぱねるように言葉を強くした。
女だと思ってナメるなよ、と凄味を利かせてやったつもりだ。
「昨夜のお礼がしたかった」
「別にいいって言っただろ、迷惑だよ」
馴れ馴れしいと思うのは、彼が海外の感性でこちらに接触してこようとしているためだろうか。
ひなげしは、鋭くその男を睨みつけてやる。
家の住所まで調べてここに来た、というのは、少々恐ろしいものがあるからだ。
「どうか、話を聞いてもらえないだろうか」
流ちょうな日本語で語るので、ひなげしは相手がどこか現実を帯びていない幻のようにも思えた。
顔立ちは完全に日本人離れしたものなのに、そこから、スラスラと卓越した日本語が飛び出してくるのは、妙な違和感がある。
ひなげしは、そこでもスッパリと断るつもりだったが、彼の顔を見て、少し考えを改めた。
その西洋風の顔立ちをした男性は、妙に真剣な表情でひなげしをみていたからだ。
まるで海外ドラマのワンシーンみたいなその顔は、ひなげしを惹きつけた。
「なに、話って」
ぶっきらぼうな態度で応えて見せたが、男はそのひなげしの反応に、また笑顔になる。
「私は、こういうものだ」
彼は名刺を差し出して来た。
しかし、その名刺は英語で書かれていて、ひなげしは直ぐに内容が読み解けなかった。
思わず眉をひそめてしまうと、彼は自身の口でも自己紹介をしてくれた。
「私の名前は、コナー・シュロスバーグ。今は日本に療養のために来ているが、アメリカでリッチコンテンツクリエイターをしているよ」
「リッチコン……なにそれ」
「ええと……そうだな、なんというべきか……。最先端の演出家、とでも言うべきかな」
「ふうん。立派なんだね。で、あたしに何の用?」
到底自分には縁のなさそうな仕事をしている人間だと思った。
そんな人物が、態々昨夜のおにぎりのお礼のためだけに、家を訪ねてきたというのが不可解極まりない。
「どうか、私に食事を作って欲しい」
「……はぁ?」
至極真面目な顔で、コナーはそう言ったが、ひなげしは呆れたような顔をして、口をあんぐり開いてしまう。
何の義理があって、この西洋人に食事を作ってやる必要があるのだろう。
「ぶしつけなお願いなのは理解しているんだ。ただ、私にも事情があって……。昨夜も話したが、私は今、食事が出来なくなってしまったんだよ」
「昨日、しっかりおにぎり食べたじゃないか」
「だからなんだ! 今まで私は、なにも喉を通らなかったのに、あのおにぎりだけは食べることができた! だから私はあなたに、料理を作って欲しいんだ」
「……ええ? どうしてそうなるんだよ」
と、そこで自分が手に提げている買い物袋の重みが煩わしくなってきた。
早く買ったものを冷蔵庫にも入れておきたい。
事情はよく分からないが、彼はどうも真剣に話をしているというのは理解できた。
「とりあえず、そこどいてくれる?」
「あ……すまない……」
コナーは申し訳なさそうな顔をして、一歩引いた。
素直に哀しそうな顔をするのが、なんだか可愛らしいと思った。海外の人だから、どこか現実離れしたせいもあるかもしれない。
ひなげしは、ドアの鍵を開けると、玄関をくぐっていく。
そして、くるりと振り向いて、コナーを見た。
彼は狭いドアの向こう側で、ぽつんと突っ立っていて、こちらに捨てられた犬のような眼を向けている。
「ったく、見ての通り狭いけど……。話くらいは聞いてやるよ。入れば?」
「いいのかい?」
「そんな顔して、そこに立ってられたらたまんないんだよ」
そう言って、ひなげしは冷蔵庫を開けて、買って来たものをそこに詰め込んでいく。
コナーは表情を輝かせ、狭い玄関に潜り込んでくると、靴を脱いで部屋に上がって来た。
「ありがとう、ヒナゲシ」
「……な、名前まで知ってんの? まず、そこも妙なんだけど」
「すまない。調べさせたんだ」
「調べさせたって……」
何者なんだ、この男は。
昨日の夜出逢って、今は十時半だ。
そんな短時間で、ひなげしのことを調べて住所と名前を特定したというのは、ただ事ではない。
「改めて自己紹介をさせてくれ。私はコナー。アメリカの財閥シュロスバーグの御曹司って言うと、大抵の人は分かってくれるんだが」
「……何の冗談だ?」
「冗談ではないよ。本当のことだ」
そう言うと、コナーはスマホを取り出し、インターネットで記事の画面を見せてくれた。
そこには、コナーの顔写真と、その詳細が描かれていた。
アメリカの財閥の一人息子が、ノイローゼのために日本に休養で来ているといった内容だった。
「ノイローゼ?」
そう言えば、昨夜の話にも合ったように、食事が喉を通らなくなったとか。
「私は、アメリカで度重なる重圧から、ノイローゼになってしまってね。食事を食べても吐いてしまうようになったんだ」
よくよく見れば、彼は随分とやつれているようにも見えた。
肌が白いのは彼が白人だからというわけでもないかもしれない。
コナーが語ったのは簡単にまとめると、以下のようなものだった。
財閥の一人息子として、常に最高の姿を周囲に見せていないとならなかったコナーは、日々の重圧に徐々にストレスを溜めていったのだとか。
彼自身も仕事にしているリッチコンテンツの制作業にも支障が出始め、彼はある日を境に『料理』が食べられなくなったそうだ。
エネルギー補給用のドリンクや、スティックバーなどは食べることができたものの、食卓に並ぶ『料理』が食べられなくなったらしい。
「幼いころから、最高級の食材で作られた、最上級の技術を持つコックが、私に料理をふるまってくれた。そんな料理を、急に食べることが出来なくなったのさ」
聞きようによっては嫌味のような言葉ではあったが、それこそ金持ちが持つ、金持ちならでは苦悩なのかもしれない。
最底辺のひなげしには、贅沢な悩みだと思えたが、彼が本当にろくな食事を摂れていないというのは、伝わった。
「昨夜は、あの公園で気を失ってしまったほどに、限界がきていたようだ」
味気ないカロリーメイトも、食べたくなくなってしまって、ついに昨日限界を超えてベンチで倒れてしまっていた、という経緯らしい。
「……じゃあ、コンビニでおにぎりでも買ったらどうだ? おにぎりなら食べられたんだし」
「ダメなんだ。工場で生産されたものやコックが作る料理が、喉を通らないんだよ」
「……厄介なノイローゼだな」
「だから、私は昨日ヒナゲシが食べさせてくれたおにぎりに感激した。君の料理なら、私は食べることができると思うんだ」
がしっとひなげしの両手を掴み、熱い視線を向けてくる碧眼の青年は、どこまでも本気の様子だった。
ひなげしは少し狼狽えながら、彼の顔を真正面から見て、どきりと胸を鳴らした。
「私にとっては死活問題なんだ。だから、君のことを一晩で調べ上げた。ここまで図々しくも足を運んだ無礼は詫びるが、どうか私のために料理を作ってもらえないか」
そう言うと、コナーは深々と頭を下げた。
手を握られたまま、ひなげしは眉を寄せてしまう。
こんな話、にわかには信じがたい。
だが、どうやらこれは本当にコナーの真摯な想いが込められたお願いのようだ。
「分かったよ。どうせ、もうすぐ昼飯作るつもりだったし。それでいいなら……」
「ほ、本当か!? ありがとう、ヒナゲシ!」
そう言うと、コナーはひなげしを熱烈にハグしてきた。
大きな彼の身体に抱きすくめられ、流石の不良少女だったひなげしも、頬を真っ赤にして、黙り込んでしまうのだった。