なんとなく、死ぬときには壮大な走馬灯が目紛しく脳内を駆け巡るのだろうと想像していた。
けれど、実際はとても地味だ。全体的にあっさりしていて味気がない。
そういえば死ぬ間際に聞いたあの「げっ」という声は何だったのか。生魚を素足で踏みつぶしたような、忘れがたい声だった。
何もかもスローモーションで、靄がかかったみたいな音しか聞こえなかった中で、あの声だけは輪郭を持ったようにはっきりと聞こえた。
その声を思い出しているうちに、だんだんあの男の外見がはっきりとよみがえってくる。そうだ、見た目もそうとう変だった。それに私の上を飛んでいた気がする……。
まるで悪魔のような、いや死神のような……?とにかくおかしい外見だった。
遠ざかる意識の中でそんな事を思いながら、私は深い深い闇の中へ落ちて……。
「お……ろ……おいって」
「……ん?」
誰かに肩を揺すられていた。あれ、私もしかして死んでないのか?
「起きろ!」
頬を潰されるように叩かれた。うっすらと瞼を開けた先に、暗い空間の中で赤みがかかった薄茶色の目がぎょろりと私を見ていた。ただ、それはなぜか逆さまに映っている。
「起きたな? よし、まだ『うつし世』と繋がってるはずだからこのまま戻るぞ。まだ間に合う」
なんだかずいぶん焦っているようだ。何を言っているのかよくわからないけど、早口にまくしたてられて少しむっとする。
「あんた……だれ?」
まだ定まらぬ意識の中で怪訝そうに問うと、その男は「あ?」と形の整った眉を不機嫌そうに寄せていた。
「お前に名乗る名はない」
艶やかな黒髪に、赤色の角のような突起がふたつ。
赤にも見える薄茶色の目に長い睫毛と白い肌。唇を開くと見える、尖った八重歯。
顔立ちは整っているけど、妙な角やどこか禍々しい黒い服を着ているから、ただコスプレしている痛い人って感じだ。何者なんだこの男は。
「……わかった。じゃあとりあえず寝かせてくれない? 私、なんだかすっごくねむくて……」
「寝るな!とにかく急ぐぞ!」
「わっ!」
身体が弧を描くように海老反った。
そこで初めて気付いたけど、身体が逆さになっていたのはこの妙な男ではなくどうやら私だったみたいだ。
背中側から身体がもの凄いスピードで降下していく。落ちているという感覚とはまた違うけど、まさに私は『下』に向かっていた。
まるでペットのリードでも引くかのように、男が私の服の首元を引っ張っていく。
「見えた、うつし世の門!」
そう言って男がさらにスピードを上げる。男のしゅるりとしなやかな尻尾も、速さに合わせて揺れていた。
「頼む、閉まってくれるなよ」
同時に、ギィィィッと大仰な音がこの奇妙な空間に響き始める。
「待ってくれ! うつし世へ行く!」
男が叫ぶ。いい加減服が引きちぎれるんじゃないかと思った。
ギィッ、とその派手な音が止まることはない。合わせて「チッ」と舌打ちが聞こえる。
そして、ガシャンッとなんだか大きな門の閉まったような音がどこまでも反響した。
そこで男がようやく止まり、服を離される。
その間わずか一分足らずだろうか、怒りが振り切れるには十分すぎる長さだった。
「ちょっといきなり何!? 見てよこの襟! ヨレヨレになった! もう学校で着れないじゃん!」
わけもわからないまま猛スピードで引っ張られて、思わず文句が出る。
「はあ⁉ お前が急がなかったからいけねえんだろ⁉ 見ろよ! もう門が閉じちまった、学校どころかお前はうつし世にすら戻れないんだよ! 馬鹿が!」
「さっきから、うつし世だの門だのうるさいんだよ! 何のことかちっとは説明したらどうなの!? このコスプレ自己中男!!」
「うつし世は現世の事に決まって……つうか、コスプレだと!?」
どうやらこの妙な世界にいるこの妙な男は『コスプレ』という言葉を知っているらしい。顔を歪ませ、口元をひくひくと引き攣らせている。
というか、本当にここはどこなんだ。
制服を整えながら、私はそいつをまじまじと見上げた。年齢は私より少し上か同じくらいに見える。
大人というには子供っぽいけど、子供というには大人っぽい。黒い靴に黒いパンツに黒いシャツ。そしてやや光沢感のある尻尾に、赤い角。
ほぼ全身が黒ずくめで見るからに怪しい。……見るからにやばい奴だ。
「チッ、これだから子供は嫌いなんだ」
「え、あなた大人なの? 大人なのにそんなコスプレしてるの?」