1人の老婆が羅生門の下で雨止みを待っていた。
何もかも絶望した老婆が宛もなく歩き続けた先が、この羅生門である。まるでこの老婆の心象を表すかのような空模様で、空が老婆の代わりに泣いているような雨だった。
いや、老婆にはもはや泣くような水分も残されていなかった。
というのも、老婆の夫だった男はとてつもない遊び人であり、ありとあらゆる事を老婆に押し付け、その末結核で死んだ。五日前の事である。残ったのはあの男が遺した借金だけであった。生前から金貸しが催促に来ていたが、男が死んだのを期に、取っ掛りが取れたようにストンと心の中が落ち着いた。
それから、四日としないうちに家を出て来た。
檜皮色の着物を着ただけであったのでさすがに寒さに耐えきれなくなり、上に上がることにした。雨が落ちる音がどこまでも響いていた。
息を切らしてやっとの思いで上がると、そこはとてつもなく異臭の溜まった死体置き場と化していた。噂には聞いていたがまさかここまでとは思っていなかった。蛆が湧き、骨が見え、中には内蔵が見えていた死体もあった。
どの道近くには死ぬつもりだったので、ここで死のうと老婆は決心した。
死のうとしただけであったので、何か行動を起こす訳でもなく、ただ、何もせず、今まであの男のせいで蔑ろにされた人生のツケを、この世の誰でもない誰かに払わせているだけであった。
鼻も慣れた頃、この広い羅生門を歩いてみることにした。等間隔ではない幅で死体が置いてあったので、逆に芸術的な気がした。とくにすることは無かったので直ぐ暇になった。その内、かつて生きていた彼らがどんな人生を送っていたのか想像してみることにした。
あの男はまだ綺麗ななままなのでここへ捨てられてまだ間もないだろう。きっと楽しい人生を歩んだに違いないと思ったが、その考えはすぐ修正した。楽しい人生を歩んでいたのなら、こんな所に捨てられるはずがないからである。
そしてこう思った。そうか、ここにいる死体共は自分と同じなのか、と。
みんなありとあらゆる苦痛を受け、結果ここに捨てられた。そう思うと、当てもなく歩いた末に着いたのが羅生門なのが一気に理解出来た。4人目の人生を想像し終えて、次の死体を見つけた途端、少し衝撃だった。この女は見たことがあった。蛇を切って干したのを魚だと偽って売っていたあの女だ、自分も夫の借金を返すために働きに出ていたため、このことを知っていた。そうしたらここにこの女がいるのは当たり前だと思った。
あたりも暗くなり、女も見飽きたので、元いた場所に戻ると、火打ち石が置いてあった。
前居た誰かが置いていった。もしくは置いたまま逝ったものだろう。日は出ていなかったが、傾くにつれ、寒さが増したので、それを使って火を起こした。床がボロボロになっていたため、火をつけるものは苦労しなかった。
そして松明をかけるところがあったのでかけて座っていた。1人になると嫌でも脳は考えることを辞めなかった。考えたのはあの女のことであった。嘘をついたからこんな場所に捨てられたのだ、自業自得だ、死んで当然だったんだ。そんなことを考えるともう止まらなくなり、気がつくと女の枕元に立っていた。そして徐にしゃがみこみ、髪の毛を抜き始めた。一本一本恨みを込めて抜いていたが、女が自分に害を与えたかと言われるとそうではなく、完全な八つ当たりであった。この世の全ての不条理に。
心の八割が憎悪に変わったころ、すぐ夢から覚めるような出来事があった。
ここには命がある者は自分しかいない。と言うことは火を見るより明らかであり、考えもしてみなかったことだった。
若い男が目の前に立っていたのである。
見られたと思った。しかし、もう羅生門に上がる前の善心は無くなっており、もう自分は死ぬ身なのだから、ワガママは許されると思ったからである。そしてその引き金を引かせたのは、倒れて禿げ上がったそこの女だった。だが、羅生門で死ぬと決めた手前、検非違使に引き渡されてはやり切れない、だから逃げようとした。しかし力関係は瞭然だった。腕を掴まれ、倒され、首筋に太刀を当てられ、何をしてたかを聞かれた。
聖柄なのを見ると、暇を出された下人だろうかと考えた。最初こそ驚いたものの心は不思議と冷然としていた。そうしているうちに、若い下人にこの女の過去を説明してやった。
だが、男は吃驚もせず、聞いた。長い間沈黙が続いた。先に口を開いたのは下人のほうであった。きっとそうか、そう言うと男は老婆に詰め寄りなら俺が引剥ぎをしようと恨むまいな、俺もそうしないと飢え死にする体なのだ。そう言うと老婆の胸ぐらを掴み女死体へ蹴倒した。下人なら、私を殺してくれるかもしれないという期待を寄せて足首を掴んだ、しかし男は逃げるように梯子を降りていき、息を整えるようにゆっくりと歩いていった。
永遠とも取れる長い時間死体の上にいた老婆が身を起こしたのは、自分の中で全てを決めた時であった。前に、もう羅生門を登る前にいた善心は無くなったと書いたが、無くなるどころでも無ければ死ぬ気さえ無くなっていた。その代わりに考えたのは、人に迷惑をかけ続け、誰に縋ってでも生き続けることであった。雨はもう止んでいた。