「うわ、なんじゃこやつは」
「なんじゃ、騒がしい」
「まぁた、迷い込んで来たみたいじゃ。しかも今度は若い女子じゃ」
「またか! もうそろそろこの山も、呪いか何かの悪い噂が出回るぞ」
耳元で、変わった声がぼそぼそと会話していた。やたら「じゃ」という言葉の多さに、少し耳が痒くなる。
私はゆっくりと重たい瞼をこじ開けた。
「全く、困ったものじゃ。標様はどこに行かれた?」
「馬鹿者。標様が行かれる場所など、あやかし商店街以外なかろう」
「ああ全く、あの方はこういう肝心な時に……」
目の前の生き物の言葉が途切れる。
それもそのはず。薄暗い中、私とその二体はバッチリ視線を交えていたのだから……。
「ぎょえ!」
「ぎゃっ!」
「きゃあ!」
汚く濁った叫び声の中に、私の悲鳴が混ざる。しかも、三人の声がエコーにかけられたように、この空間に響き渡った。
声の主は、暖かそうな白い毛並みで覆われた、犬のような生き物だった。
「お……起きとったんなら、はよ言わんかい!」
体を少しピクピク震えさせながら、一匹が私を責めてきた。
いや、それよりどうして犬と会話できてるの⁉
「えっと……犬さんたち、喋れるんだね」
「馬鹿者! ワシらは狐じゃ!」
「そうじゃ! 神様にお仕えする白狐じゃぞ!」
焦りを紛らわすために訊いてしまった、とんちんかんな質問に、白狐たちは頭からプンプンと空気を出しながら怒ってしまった。
でも、神様ってどういうこと?
それにここはどこなんだろう。
頭が混乱していて、白狐たちに謝罪も忘れ、スマートフォンで時間を確認した。
「え、つかない。なんで」
いくら電源ボタンを押しても、画面に光が灯ることはない。充電はほぼ百パーセントだったはずだ。いきなり切れるわけがないのに。
「お前、この山がどういうところか知らずに来たのか?」
いきなり真剣そうな声のトーンで話しかけられた。背筋がスッと冷たくなって、鳥肌が立つ。
なに? 確かにそこまで調べてないけど、まさか、心霊スポット的な何かなんじゃ……。
「はっはっは! 見ろ右狐、怖がっとるぞ」
いきなり一匹が笑い出した。
なんなのこの狐は。
『右狐』と呼ばれる白狐は、今まで二匹とも調子がそっくりだったのに、今回はやれやれとした様子でため息をつく。
「なぜこんな奴の方が上なのかわからぬ。白狐が人をだましてどうする! ただの狐と同じレベルに落ちても良いのか⁉」
「なっ。お主、また言ったな⁉ ワシの方が役立つ狐じゃからに決まっておろう! それに騙してはおらぬぞ!」
「なんじゃとお!」
つい数秒前まで仲良さげに見えていたのに、今にも取っ組み合いが始まりそうな勢いで、睨みをきかせていた。
狐にも上下関係のようなものがあるのかな。そういえば、人間にも左大臣や右大臣があったし、それに似たものなのかもしれない。
『チリーン────』
まただ。
その音は白狐たちにも聞こえたようで、耳をピクリとさせ、口を閉ざした。騒がしかった空間は、まるで追っ手から身を隠すように、静まり返る。
チリン、チリンと次第に音は近づいてくる。強く、激しく、透き通って―――。
「たっだいまー!」
バーンと扉に体当たりするようにして入ってきたのは、陽気な声を弾かせた人だった。
その人が入ってくるなり、薄暗かったこの空間に、光が駆け抜ける。いきなり明るくなったせいで目がくらみ、思わず瞼を閉じた。
数秒経って光が落ち着き、ゆっくりと光を取り入れると、辺りは日がさしている。顔を上げると、意識が途切れる前に見た白い鳥居と、その手前に、いくつもの紙袋を腕にかけた大学生くらいの男の人がいた。
「見よ、右狐、左狐! 今日も掘り出し物ばかりだ!」
白狐たちがひょこひょこと男のもとへ走る。
その人は、染めたのか天然なのかわからないけれど、鳥居と同じ白い髪が特徴で、耳には風鈴のような大きなイヤリングが付いていた。
「ああもう、まぁたこんなに買われたんですか」
「そうだ! 良いだろう!」
何の気なしに白狐たちと会話をする男。子供のように目を輝かせながら、二カッと笑った時、イヤリングが『チリン』と音を立てた。
「あ、それ……」
「ん?」
やっと音の正体がわかった私は、思わず指をさして声を出してしまった。
ようやく私の存在に気付いたらしい謎の男と視線が絡まる。吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に、私はしばらく魅了されていた。
「あ、迷子?」
「え?」
男の人はそう言って、耳についた風鈴にそっと触れる。
「これ、うるさかっただろう? ごめんな」
先ほどまで小学生かと思えた顔つきは一瞬にして掻き消され、まるで兄のような優しい表情で苦笑した。
それにしても、どうして私がその音を探してきたことが分かったのだろう。
「ええ、ワシはもう人間の世話はこりごりじゃ……」
「ワシもじゃ。標様、早うこやつを返してくだされ」
白狐たちはあからさまに嫌な顔をして男に頼む。
いや、世話って何のこと? それに、冷静になってみれば、何なのこの状況。白い狐は喋るし、変な人はいるし。いつから私は夢を見ているのだろう。眠った覚えなんてないのに。
「うーん。まあ、いいじゃないか。それよりそこの人間のお姉さん! この服どう⁉」
全く考える気がなさそうなのは見ていてわかる。くるくると表情を変えながら、紙袋に手を突っ込み、ポイポイと服を引っ張り出す姿を横目に、白狐たちは呆れ顔でため息をついていた。
男の人が紙袋から出すのは、全て洋服。でも、それらはすべて変わったものばかり。
ピエロが着ていそうな、奇抜な色の服。紫色のスパンコールで埋め尽くされたジャージ。大きくて赤い謎の花柄が散りばめられた、青ベースのズボン。その他もろもろ、一体どこで買ってきたのだろうという服が、紙袋五つ分ほどあった。
「えっと……。ちょっと、ない……ですかね」
正直に伝え、ちらりとその表情を見ると、『ガーン』という文字が顔から浮かび上がってきそうなほど、眉は下がり、口は空いている。
すらりと伸びた体つきと整った顔は、ただのしょげた可愛らしい子供のようになっていた。
「で、でも、この服はどうだ⁉ これは最先端でかっこいいって、みんな言ってくれるんだぞ!」
見せてきたのは、彼が今着用している服。
Tシャツにジーンズと、いかにも部屋着感が凄かったが、問題はそれではなかった。
白をベースとしたTシャツに、大きく黒字で『Beef or chicken?』と書かれているにも関わらず、なぜかその下に豚の絵が描かれているのだ。あまりにもバラバラすぎる。
「ふふっ……あはは! そんな服、どこで売ってるんですか!」
笑いをこらえることができず、大笑いをしてしまった。
だって、こんなにも意味が分からない服があること自体が面白いし、それをめちゃくちゃイケメンな人が着ているんだもん。
「あーお腹痛い。久々にこんなに笑ったかも」
私が涙を拭って男の人を見ると、今度はうずくまっていて、白狐たちが背中をさすっている状況だった。明らか沈んでいるのがわかる。
「こりゃ!お前、さっきから仮にも神様に対して、何たる無礼なことを言っとるんじゃ!」
「そうじゃそうじゃ! 見よ、こんなにも落ち込んでいらっしゃるではないか!」
え……神様?
今、白狐たちが発した言葉を、上手く理解できなかった。だって、歳は大学生くらいに見えるし、イケメンなのに子供っぽくて。霊感もない私に見えるわけもないのに。でも白狐は喋ってるし、スマホはいきなりつかなくなるし、ここがどこかもわからないし……。
よし、これは夢だ。夢だと思おう。
とりあえず自分にそう言い聞かせ、神様と言われる彼に近づいた。
「ご、ごめんなさい。だって、神様って着物とか着てそうなイメージだったから……」
瞳の潤んだ顔が私を見上げる。プゥっとほっぺを膨らませ、「神様だって、人間みたいにオシャレしたいのだ! 最先端でかっこいい服を着たいのだ!」と言って、そっぽを向かれてしまった。
「ああもう、言わんこっちゃない」
そっくり白狐の一匹が、疲れた顔で私に言った。
どうしよう。私は完全に神様の地雷を踏んでしまったらしい。
「あ、じゃあ、お詫びにその最先端を教えてあげますよ」
正直、ファッションセンスはそれほどないし、流行りの服も知らないが、神様よりはましなはずだ。
予想通り、神様は勢いよくこちらを向き、目を輝かせて話題に食いついた。
「本当か! 人間の最先端でかっこいい服を選んでくれるのか!」
「あ……まあ、はい。お店がどこにあるのかわかりませんが……」
「来い! 行きつけの商店街にたくさん店があるぞ!」
私は神様に腕を引かれ、鳥居をくぐって外に出た。今度はちゃんと、意識はある。
神様と一緒だから、空でも飛べるのかと思ったけれど、普通の人と何ら変わらず石段を駆け上った。
違うとすれば、この急な石段を走って駆け上っても、疲れないことだろう。
後ろを振り向けば、白狐たちがせっせと追いかけてきていた。
「やっぱり犬みたい」
神様に腕を引かれているという事実に、触れた部分が少しだけ熱く感じる。
その背中も、どこか安心できて、さっきの出来事が記憶から削除されたのではと思うほど、この人になら何を任せても大丈夫な気がしていた。