家に帰って居間に座り込む。ため息をついて鞄を下ろし、ぼんやりとうずくまっていた。
 玄関が開く音がして、私は身を竦ませる。やがて足音が聞こえてきて、居間に人が入ってきた。
 帰ってきたのは兄だった。学校の荷物を部屋の隅に置いて、制服を脱ごうとする。ベルトを緩めた所で手を止めてこちらを凝視した。
 今初めて私の存在に気づいたらしい。いつも私はこんな時間にいないのだから。
 兄は着替えを中断して荷物ごと部屋へと引き上げて行った。部活に行く準備をするのだろう。
 そんな時に玄関のチャイムが鳴る。
 私が立ちあがる前に二階から足音が聞こえてきたので、私はその場に留まることにした。
 まもなく兄が誰かを連れて入ってくる。予想通り、それは東条先生だった。
「綺崎さん。学校はまだ終わってないんですよ」
 またあの視線と色の交錯する空間に戻るのかと、思っただけで吐き気がした。
「後で親御さんにもお話しますが、すぐに戻りなさい」
「先生。待ってください」
 意外だったのは、兄が私の肩を取って後ろに戻したことだった。東条先生が訝しげに兄の方を見る。
「両親は今日も遅いと思います。何があったか僕が聞いても構いませんか?」
 椅子を勧めながら兄が言う。
 兄は、部活に行くところだったのに。また私は、迷惑を掛けてしまった。
「大したことじゃありません。学級会の途中で妹さんが学校を抜け出しただけです」
 兄が黙る。東条先生が難しい顔をして私の方に視線を向ける。
「綺崎さんが、人前での発表が苦手なのはわかってます」
 一度言葉を切って、先生は淡々と続ける。
「でもそれは小学校からの積み重ねがないからでしょう? 皆に追いつこうとしないでどうするんですか。これから進学しても就職しても、このままでいいわけがないでしょう」
「東条先生。担任だった頃からお変わりないようですね」
 強い口調で兄が言葉を遮った。東条先生は驚いた顔で兄を見つめた後、はっと気づいて言う。
「あなた、村瀬君……」
「今は綺崎です」
 ぴしゃりと言い放った後、兄は続ける。
「僕が小学生の頃はよくご存知でしょうけど、今の僕は無事高校生にもなれましたし、部活も楽しんでます」
 兄らしい、感情の読めない静かで丁寧な言葉遣いで告げる。
「クラスとか、学校がたまたま合わないこともあります。美朱もそうかもしれない」
 彼がどんな思いで、それを言ったのかはわからない。
「私は学校に行けない事情もある子がいる中で、行けるのに来ないのは許せないだけで……」
「行けない、行けるの区切りをどこでつけているんですか」
 兄は椅子から立ちあがる。それもまた、静かな動作だった。
「お帰りください。母たちには僕から話しておきます」
 声を荒げることはなかったけれど、それ以上の追求は許さない口調だった。
 兄は言葉を切り、先生を見る。先生は一度スーツの襟を正し、一つため息をつく。
「早く戻りなさいね。綺崎さん」
 私はもう、先生に声を掛けることができなかった。
 藍と紺の空間に閉じ込められて、息をしていられる自信がなかったのだ。