誰かに呼ばれた気がして、意識がゆっくりと浮かんだ。
 最初に視界いっぱいに映ったのは闇だった。かろうじて自分の手が見える程度の光が、木漏れ日のように頭上高くから私をちろちろと照らしていた。
 体を慎重に起こしながら目を凝らす。硬い床に寝そべっていたのに不思議と体は強張っていなかった。
 次第に暗闇に慣れてきた目で、私は周りの様子に驚く。
 何もかも一つのもので出来ている部屋。床も、壁も、天井すらも。
 まるで、ガラスのプラネタリウム。大きなガラス玉の中心に、私はいたのだった。
 傍らで靴音が聞こえて、私は顔を上げる。暗闇の中であるはずなのに、その人の姿は内側から光っているようにはっきりと見えた。
 年は二十歳くらいで、淡いブラウンの長い髪に、鼻筋の通った整った顔立ちの女の人。体の線をくっきりと見せる赤いワンピースが、すらりとした長身とスタイルを飾っていて、モデルみたいに綺麗だった。
「ここは?」
 その人と私を包む奇妙な空間をみつめながら、私は疑問を投げかけた。彼女は少しだけ沈黙して、長い睫毛を伏せた。
 そっと私の前にしゃがみこんで、彼女は言った。
「……死へ向かう世界」
 私にはその優しい瞳が、泣いているように見えた。
「私、死ぬんですか」
 私の口から、拍子抜けするくらい波の無い言葉が漏れた。
 胸に落ちた死という言葉は、やっとそこに行けるという安心があった。
「死にたいのか、お前」
 床のガラスに僅かに反響して、別の声が届いた。
 振り返ると、壁にもたれて立っている男の人が目に映る。女の人と同年代くらいで、簡単に袖が通されているだけの白い服を着ていた。
「やり残したことも、惜しむこともないってか?」
 投げつけるような、苛立たしげな言葉だった。なんて馬鹿なやつと、彼は厳しい目で私をにらみつけた。
 その鋭く強い目つきに怯む。
「生きていた頃……は」
 ぽつりと思わず口に出してから、私は気づく。
「……何も思い出せなくて」
 二人がはっと息を呑む気配がした。
 頭を軽く押さえて思い出そうとしたけど、すぐにその手を下ろす。
「穏やかで、静かな気持ちなんです」
 男の人はわずかに眉をひそめたけど、今度は私を睨むことはなかった。私はゆるゆると首を横に振って、ぼんやりとガラスの天球を仰ぐ。
 天頂から差し込む光は私の頬を掠めていたけど、温かさも冷たさも感じない。
「どこも痛くもなくて、苦しくもないのは、久しぶりのような気がして……」
「だから死ぬのか」
 その男の人の声を聞いて、私の喉の奥が痛んだ。
 責めている口調じゃなかった。目も、もう私を睨んではいない。
 それなのに言い返す気力がなかった。悔しげに唇を噛み締めた彼を見て、うなずくのはあまりに悲しくて。
「やめなさい。決めるのは美朱(みあか)よ」
 女の人が短く挟んだ言葉に、私も彼も振り返る。
 美朱という名前に私は胸の奥を引っかかれた。
 そう、これは私の名前。すとんと体の中に入るように、記憶が蘇る。
「決めるってどういうことだ?」
 私が自分の名前を口の中で繰り返していると、男の人が問い返す。女の人の方がゆっくりと答えた。
「死へ向かう世界と言ったでしょう? 放っておけば死に飲み込まれるけれど、まだ戻れるの」
 彼は険しい目を微かに和らげて、私を一瞥する。
「よかったな。お前、帰ればいいんだよ」
 私は困ったような顔をすることしかできなかった。
 生きること、それはいいことのようで、なんだか暗い気持ちがつきまとう。
「あなたもよ。ここは死を待つ船着場、待合所のようなものなの」
 男の人をすっと指差して、彼女は告げる。
「でもそれぞれここへ来た目的を果たさないと、進むことも戻ることもできない」
 厳しい目で私と彼を順々にみつめた後、彼女はふわりと両手を前へと差し出した。
 その両手の間に光が現れた。それはガラスの万華鏡のように輝きながら、やがて透明な光の結晶になって球体を形作る。
「これに覚えはある? 美朱」 
 彼女の腕にすとんと落ちたその大きなガラス玉を見て、私は迷わず頷いていた。
「それ、「硝子の虹」。私……それを追ってきた」
「そうよ」
 ガラスは弧を描くようにして私の腕へと降りてきた。私はそれを、そっと包み込むようにして抱きしめる。
 ガラス玉は内部に屈折した切れ目が幾重にも入っていて、わずかな光でも多彩な反射で色を生み出す。心を落ち着かせてくれるような、柔らかな透明の光だった。
 私はゆっくりと撫でたその感触に息を呑む。
「このガラス玉、欠けてる」
「ええ」
 女性を見上げて問いかけた。
「どうして?」
 自分の口調が必死になっていたことに気づいた。何か大事なものを失くしてしまった、そんな思いが胸をぎゅっと掴む。
 女の人は少し屈みこんで、私の頭をそっと撫でる。
「あなたはあまりに強くそれを抱きしめていたから、ガラスと一緒にあなたの記憶まで欠けてしまったの」
 私はぐるりと辺りを見回した。
 薄闇で、どの程度の広さがあるのかはっきりしないガラスのプラネタリウム。けれど時折蛍のように小さな光が宿る。
「欠片はすべてこの中にあるはず。行くか帰るかは、それを集めてから決めなさい」
 頷くと、彼女は慈しむようにして私に微笑んだ。
「……教えてくれ、(あかり)
 音もなく男の人が女性の後ろに立った。彼は裸足で、被るだけの簡単な白い服は、手術で着る病人服のようだった。
「あなたの記憶は欠けてない。自分で、どうすべきかわかるでしょう」
「違う。俺のことじゃない」
 男の人は硬い表情で、彼女に早口で問いかける。
「どうしてお前がここにいる?」
 彼女、明さんは少しだけ目をかげらせた気がした。
 次の瞬間にはもう穏やかな表情に戻っていて、何でもないことのように言葉を継ぐ。
大地(だいち)
 それが、彼の名前のようだった。
「何もかもわかってやって来たあなたに、私の案内は必要ないでしょう」
 立ち上がって、明さんは私の肩に手を置きながら片方の腕を上げる。
「空の色が変わってきたわね。美朱、あの川が見える?」
 明さんの指差した先、ガラス玉の外には、丘のような起伏があった。
「今は水がないけれど、日が昇ると増水する川なのよ」
 そこは、川とは思えないほど高低差の多い岩場だった。
 ところどころ突出している足場を使えば歩けないことはないけれど、それを囲むのは底の見えない深い谷底のような溝。暗い闇のように深いくぼみは、果てしなくガラス玉の向こうに横たわっていた。
「夜になったら水位が上がって、この辺り一帯が飲み込まれてしまう。だから、ここで私たちが存在できるのはあと一日」
 彼女は私と大地さんをそれぞれみつめて言う。
「だけどあの向こうに辿り着けたなら。また生きることができるわ」
 真っ黒だった空から光が洩れる。夜明けまではまだ遠いけれど、ガラスのドームの中に色が生まれた。
 私はガラスの床を眺めて首を傾げた。土などないのに、一輪の花が咲いている。
「これは?」
 数歩前へ進み出て、花の前にかがむ。ガラスの床から伸びているのに、それは驚くほど自然に生えて花を咲かせていた。
 花は今の空と同じ色をしていた。黒ではない、けどそれに近い混じり合った複雑な色、深い紫の花だった。
 手を伸ばして、私は花に触れた。その瞬間に辺りが明るくなって、ドーム一面にどこかの建物の内部が映る。
「映画館みたいだな」
 ドームの四方八方に光景が浮かぶので、その場に直接立っているような臨場感がある。大地さんが呟いた通り、全方向に広がる映画館みたいだ。
「明? あいつ、どこ行ったんだ?」
 気づけばどこにも、明さんの姿は見えなかった。人は私と、大地さんだけ。
 どこか懐かしさを感じさせる、大きな鉄筋コンクリートの廊下だった。タイル張りの床、汚れて灰色になった壁。どこを見ても四角で形作られていて、閉じ込められているような息苦しさを感じる空間。
 スピーカーから鐘の音がした。にわかに騒がしくなり、廊下につながる部屋からたくさんの子供達が我先にと飛び出していく。
 みんなが思い思いに動いている。けれど一目散に外へ飛び出していく様子は、何かに強制されているようにも見えた。
 しばらくして、その場に数人の女の子たちが歩いてきた。五、六人で固まり、私たちの周りを取り囲む。
 女の子たちがみていたのは、私や大地さんではなかった。いつのまにか側には横長の手洗い場があり、視線は私たちより少し前に集中している。
「あ……」
 そこに、両手で絵の具とパレットを持った小柄な女の子が、水道に押し付けられるようにして立っていた。
「この子」
 肩にかかるくらいの黒髪に、俯いた表情が隠れる。何か言おうとしては口をつぐんで、小さくかぶりを振る。
「小学校の頃の……私だ」




 女の子たちはじりじりと、私の方へ寄ってきた。つい、視線を地面に落とす。
「ねぇ、なんで一緒に遊ぼうって言ってるのに断るの?」
 誰かがそう言った。私は視線を上げることができない。そんな自分が情けないって、わかってるけど変えられない。
「だって……い、一緒って、本当は一緒じゃなくて……。私はいつも、輪の外で、チームに入れて、もらえな……」
「でも、美朱ちゃんは病気なんでしょ?」
 勇気をもって言った言葉も尻すぼみで、彼女たちに響くことはなかった。
「そうそう。先生が美朱ちゃんも入れてあげなさいって言うから一緒に行こうって言ってるのに」
「でも美朱ちゃん、私たちと一緒に遊ぶなんて無理でしょ。病気なんだから入ったって上手く遊べないでしょ」
 病気じゃなかった。ただ、喘息と貧血持ちで、みんなより足も遅かった。
 けど、遊びたくないわけでもなかった。
「ほら、やっぱり。何も答えないよ、この子」
「無視してんのそっちじゃん」
 ひときわ冷たい声がとんできた。みんなが黙ってる。視線が突き刺さる。
 何か、何か言わなきゃいけない。聞いてもらえなくっても、無視されてもいいから何か言わなくては。
 痛い。肌がちりちりする。喉が焼ける。
「なんとか言いなさいよ」
 軽く突き飛ばされた。たいした力ではなかったんだろう。でもそれは元気な子の場合で、私はそうじゃなかった。
 パレットと絵の具が飛び、私は人形みたいにその上に倒れこむ。服が汚れて、顔に絵の具がつく。
 顔についた絵の具は、紫色だった。嫌いな色じゃなかったけど口に入ったそれはひどく不味くて、溶かしたゴムみたいな匂いが広がった。
「う……」
 気持ち悪くて、水道に向かって吐いた。絵の具以外のものも出て、苦しかった。
「せんせー、美朱ちゃんが吐いてますー」
 遠くで声が聞こえる。
 視界が紫で染まる。どろどろと渦巻いては流れていく。だけど水はいつまでたっても濃い紫で、まとわりついてくるようなその色が怖くて、私は目を開けることができなかった。
 気持ち悪さはひかなかったけど、吐くものがなくなって恐る恐る振り返った。そこには先ほどの女の子たちがいた。
 でも、どうしてなのかわからないけど。
 ……どんなに姿を見ようとしても、水彩画のように輪郭がぼやけて、誰が誰かわからない。涙は浮かんでないのに、視界に映らない。
 睨んでいるように見られたくなかったから、すぐに目を逸らす。
 その時、横に立っている子が目に映る。その子だけは、はっきりと姿がわかった。
 男の子のように短いぱさぱさとした髪と、動きやすそうな半ズボンにティーシャツで、健康的に焼けた肌だった。
 黒い瞳が不安げに揺れていて、口々に何か言う彼女らの中でひたすら黙りこくっていた。
 その女の子は長い間、私の方を見ていた。何か言おうとしては口を閉じる。それを繰り返していた。
「気に、しないで」
 喉の奥でつまっていた言葉がこぼれた。
「あなたは、なんにも悪くないよ」
 みんなも、悪くない。私みたいなのがいたら、腹が立っても仕方ないんだから。ろくに話せなくて、おどおどしてて、扱いづらい。
 先生がやってきて、私の腕をつかんで引っ張っていった。一瞬感じられた穏やかな気持ちは、もうどこかへ行ってしまった。
 あの子の名前、なんだったかな。ええと、そう。
 あやめちゃんって、みんなに呼ばれてたっけ。
 あの、何本もの集団でかたまりながらも、すっくと気高く立って咲く、紫色の花の名前。
 小学校で覚えた名前は、その子だけだった。
 




「いじめか」
 ふいに大地さんが言葉をこぼしたので、私は小さく頷く。
 ガラスの映画館は場面が変わって、保健室になっていた。
 保健医の先生が困っている。下校時刻はとうに過ぎているのに、私は気持ち悪さに動けなくて、一人で帰すことのできる状態にない。
 親を呼んだのか、先生は電話の受話器を指で叩いている。
 映像をみつめながら、私は眉を寄せる。
「私が悪いんです」
 大地さんはちらっと私を横目で見て、感情の読めない無表情で言った。
「自虐はやめろよ」
 保健医の先生の迷惑そうな視線を画面の向こうから受けて、私は首を横に振る。
 ふいに画面の中で扉が乱暴に開かれた。
 迎えにきたのは兄だった。仕事場の父から連絡が届いたんだろう、高校の制服のままで、慌しく彼はやってきた。
「美朱、吐いたって聞きましたけど」
 私が目を逸らすので、彼は先生に話を聞こうとする。
「病院行ったんですか?」
「いや、そういうものじゃなくってね。美朱ちゃんも話してくれないからわからないの」
 言葉を濁す先生に、兄は一瞬黙って腕を組む。
「とにかく、連れて帰ります」
「うん。そうしてちょうだい」
 私は兄に呼ばれる前に、黙って側へと駆け寄った。
 彼の後を追って、学校の駐車場へと出る。兄は自転車の鍵を慣れた手つきで外し、私はその間ずっとうつむいていた。
 ふいに兄の靴先が私の方へと方向転換した。
 黒いシューズが近づいてくる。私は心臓をばくばくといわせながら、少しあとずさる。
 怒られると思った。
 部活があったはずなのに、こんな中途半端な時間に呼び出された兄。それが迷惑以外の何物でもないことくらい、私も知っていた。
「美朱」
 兄はただ私の前にしゃがんだだけだった。しゃがんで、うつむいたままの私の顔をのぞきこんだ。ただ一言、私の名前を呼んだだけで。
 いくら視線を外そうとしても、さすがに何も見ないわけにはいかない。兄の顔が見えるはずだった。
 でも、見えなかった。
 ……顔の部分が、マジックで塗りつぶしたように、真っ黒になっていたのだ。
 もちろん現実にはそんなこと、あるはずもない。ただ、私にはそう映っただけ。兄がどんな顔をしているのかを見るのが、あんまりに怖くて。
 私はわっと泣き出す。涙で視界が真っ白になる前に、兄がうろたえたのがわかった。それを感じたら、申し訳無くてますます涙が流れてきた。どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
 兄はしばらく呆然とその場に立ち竦んでいたけど、やがてぎこちない動きで私を抱えて、自転車の後ろに乗せた。
「家に帰ろう」
 彼は前に乗って、こぎだした。私は泣きながら、兄の背中にすがりつくこともできなかった。
 家に帰るまで、兄も、私も、何も言わなかった。
 田園の中にはちょうど、一本の紫の花が咲いていた。天に向かって咲く、私の好きな花。
 けれど今日のその花は、しょんぼりと頭を垂れていた。

 


 私はそっと、ガラスの床から伸びる紫の花を摘み取った。手に取った途端微かに花びらが光ると、一枚のガラスの欠片になっていた。
 かけらをガラス玉に乗せると、溶けるように吸いつく。同時に、ガラス玉全体が紫色を帯びる。
 私はガラスの床に座り込んで、天井のドームを見上げた。上からも横からも、下からも差し込んでくる紫の光を見ないように、目を閉じた。
「……今の、お前の兄、顔が見えなかった」
 呆然としたように、大地さんが呟いた。
「人があんな風に見えるのか」
 私は目を閉じたまま、ぎゅっとガラス玉を抱いて頷く。
「顔を見ることが、怖くて」
 冷たいガラス玉を、手で擦るようにして暖める。
「兄は、優秀な人でした。私を怒ったこともありません。呼ばれたらすぐ、学校から迎えに来てくれたくらい、面倒見のいい人で。黙って私を家に連れ帰ってくれて」
 熱など帯びるはずがないのに、私はガラス玉に手を添えることをやめなかった。
「その度に、悲しくて、やるせなくて……」
 どうして自分は、こんな情けない子なんだろうと思った。それに付き合わされる兄はどんな気持ちがするんだろうと。
「いつの間にか、ああやって見ることを拒否してました」
 ただ、怖くて怖くて。どうしてあんなに拒否したかったのか、今では思い出せない。
「あやめちゃんだって、一度も話しかけたことがない子だったけど、優しい子だって知ってました。だからあんな不安げな目で見て欲しくなかった」
 ガラス玉をぎゅっと抱きしめ、私はそれに額をつけた。
「……二人とも、不安にさせて、困らせてごめんって、言いたかっただけなんです」
 最後の方の声は、消え入るような小さな声になってしまった。忘れていた自己嫌悪が、霧のように私を包み始めていた。
 ため息みたいに息を長くついて、大地さんは言う。
「そんなこと、言われる方が惨めだ」
 まただと思う。この人は、厳しい言葉でありながら、口調は全然冷たさを感じない。
「嫌いじゃなかったんだな」
 独り言のように大地さんは言葉を浮かべて、苦笑した。
 大地さんは蹲る私の前に座って、怪訝そうに顔を上げた私を見返す。
「あの、あやめちゃんのこと。お前は嫌いじゃなかったんだろ?」
「……はい」
「それを伝えればいいだけだよ。ごめんなんて要らない」
 鋭い目つきの奥にある落ち葉色の瞳に、私は目が離せなかった。
「約束な。戻ったらそうやって言うんだ」
 どうしてこの人は、私に生きることを望んでるんだろう。
 それがわからなくて、私は困惑顔のまま曖昧に頷くことしかできなかった。
 ガラスの世界の色が変わってゆく。紫の光から、だんだんと赤の光が抜けていった。
 赤と青の混じっていた紫の光は消え、灰に似た光が辺り一面に立ち込めていた。
 はっとして床を見下ろす。先ほどまで確かに、地面は冷たいガラスで出来ていたはずだった。ところが今は、野原に座っているような感触がある。
 ゆっくりと立ちあがると、床は刈り取って並べたかのような、何本もの長い草が辺り一面に広がっていた。それは何の変哲もないただの乾いた牧草にしか見えなかったけれど、よく見ると変色しているものもあった。
「なぁに、これ?」
 いつの間にか明さんもいて、私の傍らでその草をじっと見つめている。私は思い切って、草の一本を手に取った。
「あ……」
 周り一体の壁が歪み、何かの映像が映し出された。
 今度も、学校だ。ただ、前の記憶の小学校とは様子が異なる。
 そこは小学校よりは少し広い教室だった。整然と机列通りに生徒たちが座っている。黒板の前には委員長らしき生徒と書記の子が立っており、脇の机には担任と思われる教師が座っていた。
 どこにでもありそうな風景である。けれど、ありふれすぎていてどこか奇妙な感じもする。
 一人一人の区別がつかない。あまりに皆が、同じ色だから。
 生徒たちは次々と立ちあがっては短く何か言い、書記はそれを時々記録する。スムーズな学級会だった。
 ふいに音が聞こえるようになる。チョークが黒板と擦れる音がする。それがやんだ時、委員長が言った。
「次。綺崎(きざき)さん」
 一人の女の子が、恐る恐る立ちあがった。髪を二つに結んだ、小柄な子。おどおどと、机の上に視線をさまよわせている。
 視界が黒に近い色を帯びてくる。
 明さんはその子をみつめながら、静かに言った。
「美朱ね」
 私はため息をつきながら、頷いた。
「はい。中学校に入って間もない頃の、私です」





 私は立ちあがったまま視線を忙しく動かす。
 学級目標の案を求められているのだが、いい言葉が浮かんでこないのだ。
「考えてきていないんですか? 宿題ですよ」
 きびきびとした口調で私に言うのは、東条先生。みんなは影で藍花(あいか)ちゃんと名前で呼んでいるけど、実際先生を目の前にして口にすることはできない。
 癖のある黒髪をひっつめてバレッタで留めている。引き締まった口元に、紺色のスーツが似合う。紺色の細長い眼鏡は、先生の厳しい眼光を更に強く見せていた。
「目標も持たずに学校生活を送る気ですか? 綺崎さん」
「そ、その……いい案が浮かばなくて……」
 考えたけど、浮かばなかった。仲間の輪に入れずに小学校を卒業してしまった私には、自分で考え出せるほど学校のことを知らない。
 ああ、くすくす笑いが聞こえる。
 私は要領が悪いとわかっていた。この中で実際に新しい学級目標を提示したのは一人か二人で、後の人たちはそれに少し手を加えて発表しているだけだったのだから。
 加えて、引いて、その繰り返し。最初の学級目標を提示した人も、余所のクラスを真似たか、先輩に聞いたのかもしれない。
「新しい案でなくともいいんです。今言った意見から良いと思われるものを自分の言葉で表現してください」
「あ、の……」
 かくんと喉が引きつった。
「他の人の発表を聞いていなかったんですか?」
 眼鏡の奥の目が鋭く光る。
 頭痛がする。鈍い痛みで体が痺れていく。
 早く発表してよ。ホームルーム延長になるじゃない。藍花ちゃんこういうの煩いんだから。
 さっさと考えてませんでしたって言えよ。いっつもあいつの所で止まるんだからさぁ。
 早く早く。早く早く早く。
 ぐるぐる、視界が回る。教室が、同級生が、先生が回転する。
 目に染みるのは中学の証。紺の制服。
 人の声が痛い。人の色も痛いということを、今知った。
 みんな同じ色、中学校という世界。
 紺と、藍の渦の空間に、私は飲まれていった。
 家に帰って居間に座り込む。ため息をついて鞄を下ろし、ぼんやりとうずくまっていた。
 玄関が開く音がして、私は身を竦ませる。やがて足音が聞こえてきて、居間に人が入ってきた。
 帰ってきたのは兄だった。学校の荷物を部屋の隅に置いて、制服を脱ごうとする。ベルトを緩めた所で手を止めてこちらを凝視した。
 今初めて私の存在に気づいたらしい。いつも私はこんな時間にいないのだから。
 兄は着替えを中断して荷物ごと部屋へと引き上げて行った。部活に行く準備をするのだろう。
 そんな時に玄関のチャイムが鳴る。
 私が立ちあがる前に二階から足音が聞こえてきたので、私はその場に留まることにした。
 まもなく兄が誰かを連れて入ってくる。予想通り、それは東条先生だった。
「綺崎さん。学校はまだ終わってないんですよ」
 またあの視線と色の交錯する空間に戻るのかと、思っただけで吐き気がした。
「後で親御さんにもお話しますが、すぐに戻りなさい」
「先生。待ってください」
 意外だったのは、兄が私の肩を取って後ろに戻したことだった。東条先生が訝しげに兄の方を見る。
「両親は今日も遅いと思います。何があったか僕が聞いても構いませんか?」
 椅子を勧めながら兄が言う。
 兄は、部活に行くところだったのに。また私は、迷惑を掛けてしまった。
「大したことじゃありません。学級会の途中で妹さんが学校を抜け出しただけです」
 兄が黙る。東条先生が難しい顔をして私の方に視線を向ける。
「綺崎さんが、人前での発表が苦手なのはわかってます」
 一度言葉を切って、先生は淡々と続ける。
「でもそれは小学校からの積み重ねがないからでしょう? 皆に追いつこうとしないでどうするんですか。これから進学しても就職しても、このままでいいわけがないでしょう」
「東条先生。担任だった頃からお変わりないようですね」
 強い口調で兄が言葉を遮った。東条先生は驚いた顔で兄を見つめた後、はっと気づいて言う。
「あなた、村瀬君……」
「今は綺崎です」
 ぴしゃりと言い放った後、兄は続ける。
「僕が小学生の頃はよくご存知でしょうけど、今の僕は無事高校生にもなれましたし、部活も楽しんでます」
 兄らしい、感情の読めない静かで丁寧な言葉遣いで告げる。
「クラスとか、学校がたまたま合わないこともあります。美朱もそうかもしれない」
 彼がどんな思いで、それを言ったのかはわからない。
「私は学校に行けない事情もある子がいる中で、行けるのに来ないのは許せないだけで……」
「行けない、行けるの区切りをどこでつけているんですか」
 兄は椅子から立ちあがる。それもまた、静かな動作だった。
「お帰りください。母たちには僕から話しておきます」
 声を荒げることはなかったけれど、それ以上の追求は許さない口調だった。
 兄は言葉を切り、先生を見る。先生は一度スーツの襟を正し、一つため息をつく。
「早く戻りなさいね。綺崎さん」
 私はもう、先生に声を掛けることができなかった。
 藍と紺の空間に閉じ込められて、息をしていられる自信がなかったのだ。
 ぱらぱらと指の隙間から藍色の粉がこぼれおちる。
 粉はそのままガラス玉に振りかかり、紫を帯びていた球体は藍色に輝き始めた。
「あの先生が駄目だったんだな」
 大地さんが何気なく言ったことに、私は慌ててかぶりを振る。
「そんなことありません。今までで一番好きでした」
「え?」
 意外そうに眉を上げる彼に、私は懸命に伝える。
「東条先生は真面目な人で、真剣に生徒にも向き合ってくれていた人でした。厳しかったけど……私は嫌いじゃなかった」
「そうなのか?」
 大地さんは、もう消えてしまった映像を探すように視線を動かす。
「嫌ってるようにしか見えなかった」
「それは、その」
 ぐっと、私は口をつぐむ。
 本来なら慕っているその人にもう一度声を掛ける勇気が私にはなくて。呆れられてるのも面倒だと思われているのも、わかっていたけど、確認したくなかった。
「つまり怖かったのか」
「……はい」
 私は小さく頷いて、顔を伏せる。
 何か言われると思ったけれど、大地さんも黙ったままだった。私はその沈黙にどうすればいいかわからなかったけれど、やがて目を上げる。
 大地さんは難しい顔をしていた。ぶっきらぼうな口調で、少し冷たい印象もある人なのに、どうしてかこの人は私のことで困っているらしい。
「その、申し訳なくて」
 気まずい沈黙を破るために、私は詰まりながら言葉を繰り出す。
「こ、これ以来、私は登校拒否になって。東条先生はよく様子を見に来てくれましたが、私は直接会うことすらできなくて、いつも逃げてて」
 私が、ちゃんと向き合えていたのなら。学校が苦手でも、勇気を持って向かうことができたのなら、先生を困らせずに済んだ。
「悪いのは……」
「やめろ」
 ぴしゃりと言葉を遮られた。
 私の額を片手で押さえて顔を上げさせる。
「帰ってからやること。あの先生に会いに行く」
「で、でも」
 先生は一年生の頃の担当だったから、今も同じとは限らない。
 それに、私のことなんてもう、忘れてるかもしれない。
「お前にとっての学校ってのは、ろくでもない記憶ばかりかもしれないけど。いいって思える先生に会えることなんて、めったにないんじゃないか?」
 押さえられた額が、痛いくらいだった。
「そういう少しのいい事だって、全部捨てていいのか」
 途端、風が下から上へ吹き抜けて、辺り一面に青の花が咲き乱れた。大きな葉に包まれて、一見すると見逃してしまいそうな、小さな小さな花。
 屈んで、すくいあげるようにして青の花に触れる。
 周りの壁が一面、青く鮮やかに染まった。
「大地さん」
 ちょっとだけ声が弾んだ。
「私にも楽しかった思い出、ちゃんとありました」
 自然と表情がほころんで、私は大地さんの方を見た。
「学校に行けなくなって、近所の病院にカウンセリングを受けに行った時。そこで会った、男の子の記憶です」
 登校拒否になってからほぼ毎日通っている病院があった。
 疾患の重さは様々で、年齢層も広い精神病院だったけれど、学校に通えない子供が多く通院しているという点が、お父さんたちには良かったらしい。
――気楽にお友達を作って遊んでおいで。
 というのは義理のお母さんである咲子(しょうこ)さんの言葉。
「美朱ちゃん、何か必要なものある?」
「……あ、い、いいです。自分で持ってきてます」
 看護師さんにそう伝えると、パタンと部屋の扉が閉められる。
 咲子さんやお父さんに悪いと思いながらも、私はここへきて他の子と遊んだことは一度もない。学校に通えない子同士、気が合うこともあるのかもしれないけれど、私は駄目だった。
 人の視線の前に出ると体が竦んでしまう。話す以前に、逃げてしまう。
 それはカウンセリングを何回か受けた今でも変わっていない。だからこうして小部屋で大人しく、自分の趣味に浸っている。時々担当の日夏(ひなつ)先生とだけ話した。
 でも、気楽だった。学校に通っている頃よりは、ずっと気持ちが落ち着いていた。
 ぼんやりしていて気づかなかったけど、なんだか外が騒がしい。
 手を休めて顔を上げたら、入口の扉が内側に叩きつけられて潰れた。
「……え」
 さすがに無視はできなかった。私は立ち上がって後ずさる。
 開いた向こうの小部屋には、ノートやらテーブルやらがボロボロになって一面に散らばっていた。なんともいえない表情で固まっている日夏先生と、倒れている女の子と、彼女に慌てて駆け寄って助け起こしている看護師さん。
 小さく声を上げた。腕に擦り傷を作りながらも自分で起きあがった女の子は、私の知った顔だった。
 私が小学生の時、一緒のクラスだったあやめちゃん。今は泣きそうな顔でじっと前を見つめている。
 あやめちゃんの目は、困惑と悲しみで揺れていた。
 部屋の中心に、その男の子はいた。淡い茶色の細い髪は乱れて額に張りつき、東洋系の顔立ちなのに雪みたいな白い肌だった。
 水色の瞳が顔の中心で剣呑な色を湛えている。
(あおい)。あやめに当り散らすのはやめなさい」
 ため息混じりに日夏先生が言う。
「うるさい。じゃあこいつをどっかやれよ。大嫌いなんだよ!」
 あやめちゃんを指差して叫んだその子の不思議な瞳を、私はじっとみつめていた。
 葵君を落ち着かせて別室に移した後、私は日夏先生に少しだけ彼のことを聞いた。
「あれは私の長男で、葵という子なんだ。極度の虚弱体質でね、太陽の下に出ることもできない」
「あやめちゃんの……」
「兄だよ。同い年くらいに見えるだろうけど、実際は二つ年上だ」
 だったら、今十六歳ということになる。でも、彼はあやめちゃんよりも背が低かった。
「健康なあやめを見ると許せないんだろう。すぐ殴ったり怒鳴ったりする。といっても握力もあやめより弱いくらいだから、そう心配もいらないんだけど」
 近寄ってきても、放っておいてくれれば害はないから。
 そう言って日夏先生は自分の仕事に戻っていった。白髪混じりの髪を撫で付け、少しきつそうな白衣を揺らしながら。
 あやめちゃんにお兄さんがいたということは初めて知った。だから彼女は男の子とも気軽に話ができていたんだと思う。男兄弟がいるとなんとなく扱い方がわかるらしいから。
「おい」
 でも、兄がいるはずの私は、男の子どころか女の子ともまともに会話ができないけれど。
「無視かよ」
 人の声を間近に感じて、私は視線を上げた。
 私がもたれかかっている壁の向こう側に、葵君が足を投げ出して座っていた。吐き出したような言葉とは違って特に機嫌が悪いわけではないらしい。
 じっと私の手元を見て、彼は首を傾げる。
「何してんの? 一人で」
「……絵を、描いてるの」
 ぽつりと言うと、彼はふうんと興味なさそうに頷いただけで私から目を外した。ぼんやりと部屋の中に視線をさ迷わせた後、窓の外を見つめる。
 横から見るとますます、水色の瞳が空に溶けそうに見えた。
「綺麗な目。コンタクト?」
 すると葵君はぎこちなく首を動かして私の方を向き直り、奇妙なものを見るように眉を寄せた。
「いや、地の色だけど」
「白目が綺麗だから、ちょうど良いコントラストだね」
 白と水色は溶け合う色なのだ。彼のように両方淡い色だと晴れた青空を連想する。
 葵君は少し口をつぐんで、ぐっと俯いた。
「うん、そうだろ?」
 それは先程とは違って荒々しさの欠片もない、沈んだ口調だった。
「俺も実はそう思ってるけど、じじいもあやめも気味悪がるし」
 病的な色だもんなと彼は言った。
 その日葵君と交わした会話はそれだけだったけれど、その日から私と葵君はぽつぽつと話をするようになった。
 夏休みに入ってからは、葵君と会う機会が増えた。絵を描きつづける私に話しかけてくる。
「また喧嘩した」
 誰ととは聞くまでもない。
「あいつ見てると腹立つ。兄さん元気出してって、よく言うよ。俺がいつ落ち込んだっての」
 苛々している時の葵君は、吐き出すように言葉を零していた。
「いつも馬鹿にして。こんな体じゃなきゃ、あいつに慰められることなんてないのに」
 私は返事を多くしない。時々頷くだけだったけど、葵君はそれで構わないらしかった。
 独白が途切れると、今度は逆だった。私に問い掛けてきて、私に話すことを求める。
「お前の父親、再婚したんだって?」
「……うん。六年、前」
 私が沈んだ声を出したので、葵君は少し困った顔で目をそらした。自分の家族のことは散々言っているのに、他人に対しては気を使うらしい。
「それで兄ちゃんができたんだろ」
「うん。どうして知ってるの?」
 不安げな顔でもしていただろうか。葵君は励ますように声のトーンを上げて笑ってみせた。
「なんだよ。兄ちゃん、ここへいつもお前迎えに来てるじゃん。真面目そうでちょっと怖いけどさ。でも俺みたいに殴ったりはしないだろ?」
「うん」
「俺よりずっと出来た兄貴だよ、な?」
 同意を求められても、私は困ってしまう。まともに話しかけたことがない兄で、彼のことは六年経っても全然理解できなかった。
 仰向けにひっくり返って葵君は天井を眺めてから、両腕で顔を覆った。
 沈黙が始まったので、私は絵を描く作業を再開する。黙っている時の葵君は、邪魔をしてはいけないと決めていたから。
 絵の具を薄く溶かして、ふき取るようにして広げる。私は色を融合させていく水彩画が絵の中では一番好きだったから、一日中そればかり描いていた。
「……俺、このまま死ぬのかな」
 葵君がうめくようにつぶやいた。
「最後は白に、なっていくんだろうか……」
 私は筆を動かす。無心のその作業は、そこに感情を挟まないでいられる。
「お前、完全無視だよな」
「え? き、聞いてるよ」
 慌てて現実世界に戻ってくると、葵君は苦笑して首を横に振った。
「いいけどさ。今日は何描いてんの?」
 葵君の精神状態は上がっては下がるものらしい。私との会話は淡々としたものだった。
 どうしてこの部屋へやってくるのか。葵君は隣の小部屋の住人であるはずなのに。
 そう聞いたら、彼は部屋をぐるっと見まわして言った。
「青色が好きなんだ」
 言われて始めて気づいた。この部屋は壁紙も床も天井も、すべて青だった。
「青色は、心を静める効果があるらしいよ」
「ふうん。じゃあ美朱には全然必要ないじゃん。お前はもっと興奮した方がいいぞ」
「そ、そう」
 お友達を作って遊ぶ。咲子さんに言われたのとはちょっと違うと思うけど、少なくとも私にとって葵君は唯一、友達といえる存在だったと思う。話した内容はほとんど忘れてしまったけど、でも静かな、穏やかな時間を葵君は作ってくれた。
 夏休み最後の日のことだった。
 昼過ぎ、いつも通りに病院の中にある私の小部屋へ向かうと、いつもとは違って葵君はもうそこにいた。
 真剣な顔をしている葵君にちょっと気圧されながら、私は葵君の斜め前に座る。
「手術を受けることにしたんだ。ここを出て専門の病院に行く」
 固い表情を崩さないまま、葵君は短く言う。
「うまくいっても、何年もリハビリが要るんだってさ」
「なんで?」
 もう俺なんて死ねばいいんだと、いつも言っていたのに。
「美朱は、前に葵について話してたろ」
「え、うん……」
 私は花の絵をよく描いていたから、時々葵君と花について話していた。
――何これ。本当に花?
――うん、これは水葵。小さい花だけど、綺麗な水色をしてるの。
 葵は身近にあるものじゃない。幼い頃からよく植物図鑑を広げて見て、私は気に入っていた。
――私は葵の葉っぱが好き。みんな、太陽に向けてぱぁって葉を広げてて。花びらみたいに華やかじゃないけど、力強いの。
「所詮俺なんて家に閉じこもってるだけだから、誰も俺のいいとこなんて見つけてくれないし、自分でもわからない。遠い太陽を横目にしてぶつくさ言ってるだけだってわかってるよ」
 葵君は空色の目を吊り上げて言った。
「でも俺は死にたくない。何もできないまま死ぬなんて冗談じゃない」
「……うん」
「部活がしたいし。友達とくだらない話がしたいし。走りたいし」
 言葉を切った葵君の目は、やっぱり綺麗な空色だった。
 私はこくんと頷く。
「いいと思う」
 気の利いた言葉を探したけど、話し慣れていない私が零したのはその一言だった。
 しばらく葵君と二人、黙りこくる。先に沈黙を破ったのは葵君の方だった。
「そういえば、美朱の絵はけっこう上手いと思う」
「え?」
 突然の言葉に目を瞬かせると、葵君は苦笑して言った。
「葵の絵くれよ。記念に持ってく」
「私の……?」
 私はスケッチブックを握り締めながら視線をさ迷わせる。
「あ、あんまり丁寧に描いてない、と思う。本当に」
「いいから」
 力を緩めた瞬間に、葵君はひょいっと私の手からスケッチブックを取り上げた。慌てて取り戻そうとしたけれど、私より背が高い葵君の手までは届くはずもなく。
 スケッチブックを開いたまま固まっている葵君。急に恥ずかしくなって、私は目を伏せた。
 下書き段階でボツにした絵もたくさんある。とても見れたものではない絵でいっぱいなのはわかっている。
「……やっぱり」
 いらない?
 残念な気持ちとほっとした気持ちが同時に押し寄せてきた私に、葵君は絵を指し示しながら言った。
「こっちにする。いいだろ?」
 スケッチブックの見開きに大きく描かれていたのは、葉が細長く、すらりとした背の高い花だった。
 菖蒲だ。美しい紫の花。
「……両方持っていって」
 こうして葵君は病院から姿を消すことになった。




 葵の花びらを一枚、ガラス玉にくっつけると、ガラス玉は青い光を帯びた。
「ふーん」
 いきなり耳元で声がしたので、私はびっくりして腰が浮きあがるほど跳ねた。
「あ、明さん。いつからそこに?」
「うん? ずっといたわよ」
 明さんは楽しそうに小さく声を上げて笑う。
「やるじゃない。美朱」
「え、えと」
「純愛よ、純愛」
「え、そ、そんなこと」
 ないと思う。
 そう続ける前に、後ろから声がかかった。
「友達だろ」
 振り向いて確認すると、大地さんだった。慌てて私も激しく頷いて同意する。
 見上げると、いつの間にか上空には青空が広がっている。淡い、空に溶けていきそうだった葵君の瞳の色に似ている。
 大地さんの言う通りだ。あれは恋というにはあまりに儚くて稚拙なもの。
 でも、かけがえのない、思い出の夏休み。