迎えにきたのは兄だった。仕事場の父から連絡が届いたんだろう、高校の制服のままで、慌しく彼はやってきた。
「美朱、吐いたって聞きましたけど」
私が目を逸らすので、彼は先生に話を聞こうとする。
「病院行ったんですか?」
「いや、そういうものじゃなくってね。美朱ちゃんも話してくれないからわからないの」
言葉を濁す先生に、兄は一瞬黙って腕を組む。
「とにかく、連れて帰ります」
「うん。そうしてちょうだい」
私は兄に呼ばれる前に、黙って側へと駆け寄った。
彼の後を追って、学校の駐車場へと出る。兄は自転車の鍵を慣れた手つきで外し、私はその間ずっとうつむいていた。
ふいに兄の靴先が私の方へと方向転換した。
黒いシューズが近づいてくる。私は心臓をばくばくといわせながら、少しあとずさる。
怒られると思った。
部活があったはずなのに、こんな中途半端な時間に呼び出された兄。それが迷惑以外の何物でもないことくらい、私も知っていた。
「美朱」
兄はただ私の前にしゃがんだだけだった。しゃがんで、うつむいたままの私の顔をのぞきこんだ。ただ一言、私の名前を呼んだだけで。
いくら視線を外そうとしても、さすがに何も見ないわけにはいかない。兄の顔が見えるはずだった。
でも、見えなかった。
……顔の部分が、マジックで塗りつぶしたように、真っ黒になっていたのだ。
もちろん現実にはそんなこと、あるはずもない。ただ、私にはそう映っただけ。兄がどんな顔をしているのかを見るのが、あんまりに怖くて。
私はわっと泣き出す。涙で視界が真っ白になる前に、兄がうろたえたのがわかった。それを感じたら、申し訳無くてますます涙が流れてきた。どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
兄はしばらく呆然とその場に立ち竦んでいたけど、やがてぎこちない動きで私を抱えて、自転車の後ろに乗せた。
「家に帰ろう」
彼は前に乗って、こぎだした。私は泣きながら、兄の背中にすがりつくこともできなかった。
家に帰るまで、兄も、私も、何も言わなかった。
田園の中にはちょうど、一本の紫の花が咲いていた。天に向かって咲く、私の好きな花。
けれど今日のその花は、しょんぼりと頭を垂れていた。
私はそっと、ガラスの床から伸びる紫の花を摘み取った。手に取った途端微かに花びらが光ると、一枚のガラスの欠片になっていた。
かけらをガラス玉に乗せると、溶けるように吸いつく。同時に、ガラス玉全体が紫色を帯びる。
私はガラスの床に座り込んで、天井のドームを見上げた。上からも横からも、下からも差し込んでくる紫の光を見ないように、目を閉じた。
「……今の、お前の兄、顔が見えなかった」
呆然としたように、大地さんが呟いた。
「人があんな風に見えるのか」
私は目を閉じたまま、ぎゅっとガラス玉を抱いて頷く。
「顔を見ることが、怖くて」
冷たいガラス玉を、手で擦るようにして暖める。
「兄は、優秀な人でした。私を怒ったこともありません。呼ばれたらすぐ、学校から迎えに来てくれたくらい、面倒見のいい人で。黙って私を家に連れ帰ってくれて」
熱など帯びるはずがないのに、私はガラス玉に手を添えることをやめなかった。
「その度に、悲しくて、やるせなくて……」
どうして自分は、こんな情けない子なんだろうと思った。それに付き合わされる兄はどんな気持ちがするんだろうと。
「いつの間にか、ああやって見ることを拒否してました」
ただ、怖くて怖くて。どうしてあんなに拒否したかったのか、今では思い出せない。
「あやめちゃんだって、一度も話しかけたことがない子だったけど、優しい子だって知ってました。だからあんな不安げな目で見て欲しくなかった」
ガラス玉をぎゅっと抱きしめ、私はそれに額をつけた。
「……二人とも、不安にさせて、困らせてごめんって、言いたかっただけなんです」
最後の方の声は、消え入るような小さな声になってしまった。忘れていた自己嫌悪が、霧のように私を包み始めていた。
ため息みたいに息を長くついて、大地さんは言う。
「そんなこと、言われる方が惨めだ」
まただと思う。この人は、厳しい言葉でありながら、口調は全然冷たさを感じない。
「嫌いじゃなかったんだな」
独り言のように大地さんは言葉を浮かべて、苦笑した。
大地さんは蹲る私の前に座って、怪訝そうに顔を上げた私を見返す。
「あの、あやめちゃんのこと。お前は嫌いじゃなかったんだろ?」
「……はい」
「それを伝えればいいだけだよ。ごめんなんて要らない」
鋭い目つきの奥にある落ち葉色の瞳に、私は目が離せなかった。
「約束な。戻ったらそうやって言うんだ」
どうしてこの人は、私に生きることを望んでるんだろう。
それがわからなくて、私は困惑顔のまま曖昧に頷くことしかできなかった。
ガラスの世界の色が変わってゆく。紫の光から、だんだんと赤の光が抜けていった。
「美朱、吐いたって聞きましたけど」
私が目を逸らすので、彼は先生に話を聞こうとする。
「病院行ったんですか?」
「いや、そういうものじゃなくってね。美朱ちゃんも話してくれないからわからないの」
言葉を濁す先生に、兄は一瞬黙って腕を組む。
「とにかく、連れて帰ります」
「うん。そうしてちょうだい」
私は兄に呼ばれる前に、黙って側へと駆け寄った。
彼の後を追って、学校の駐車場へと出る。兄は自転車の鍵を慣れた手つきで外し、私はその間ずっとうつむいていた。
ふいに兄の靴先が私の方へと方向転換した。
黒いシューズが近づいてくる。私は心臓をばくばくといわせながら、少しあとずさる。
怒られると思った。
部活があったはずなのに、こんな中途半端な時間に呼び出された兄。それが迷惑以外の何物でもないことくらい、私も知っていた。
「美朱」
兄はただ私の前にしゃがんだだけだった。しゃがんで、うつむいたままの私の顔をのぞきこんだ。ただ一言、私の名前を呼んだだけで。
いくら視線を外そうとしても、さすがに何も見ないわけにはいかない。兄の顔が見えるはずだった。
でも、見えなかった。
……顔の部分が、マジックで塗りつぶしたように、真っ黒になっていたのだ。
もちろん現実にはそんなこと、あるはずもない。ただ、私にはそう映っただけ。兄がどんな顔をしているのかを見るのが、あんまりに怖くて。
私はわっと泣き出す。涙で視界が真っ白になる前に、兄がうろたえたのがわかった。それを感じたら、申し訳無くてますます涙が流れてきた。どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
兄はしばらく呆然とその場に立ち竦んでいたけど、やがてぎこちない動きで私を抱えて、自転車の後ろに乗せた。
「家に帰ろう」
彼は前に乗って、こぎだした。私は泣きながら、兄の背中にすがりつくこともできなかった。
家に帰るまで、兄も、私も、何も言わなかった。
田園の中にはちょうど、一本の紫の花が咲いていた。天に向かって咲く、私の好きな花。
けれど今日のその花は、しょんぼりと頭を垂れていた。
私はそっと、ガラスの床から伸びる紫の花を摘み取った。手に取った途端微かに花びらが光ると、一枚のガラスの欠片になっていた。
かけらをガラス玉に乗せると、溶けるように吸いつく。同時に、ガラス玉全体が紫色を帯びる。
私はガラスの床に座り込んで、天井のドームを見上げた。上からも横からも、下からも差し込んでくる紫の光を見ないように、目を閉じた。
「……今の、お前の兄、顔が見えなかった」
呆然としたように、大地さんが呟いた。
「人があんな風に見えるのか」
私は目を閉じたまま、ぎゅっとガラス玉を抱いて頷く。
「顔を見ることが、怖くて」
冷たいガラス玉を、手で擦るようにして暖める。
「兄は、優秀な人でした。私を怒ったこともありません。呼ばれたらすぐ、学校から迎えに来てくれたくらい、面倒見のいい人で。黙って私を家に連れ帰ってくれて」
熱など帯びるはずがないのに、私はガラス玉に手を添えることをやめなかった。
「その度に、悲しくて、やるせなくて……」
どうして自分は、こんな情けない子なんだろうと思った。それに付き合わされる兄はどんな気持ちがするんだろうと。
「いつの間にか、ああやって見ることを拒否してました」
ただ、怖くて怖くて。どうしてあんなに拒否したかったのか、今では思い出せない。
「あやめちゃんだって、一度も話しかけたことがない子だったけど、優しい子だって知ってました。だからあんな不安げな目で見て欲しくなかった」
ガラス玉をぎゅっと抱きしめ、私はそれに額をつけた。
「……二人とも、不安にさせて、困らせてごめんって、言いたかっただけなんです」
最後の方の声は、消え入るような小さな声になってしまった。忘れていた自己嫌悪が、霧のように私を包み始めていた。
ため息みたいに息を長くついて、大地さんは言う。
「そんなこと、言われる方が惨めだ」
まただと思う。この人は、厳しい言葉でありながら、口調は全然冷たさを感じない。
「嫌いじゃなかったんだな」
独り言のように大地さんは言葉を浮かべて、苦笑した。
大地さんは蹲る私の前に座って、怪訝そうに顔を上げた私を見返す。
「あの、あやめちゃんのこと。お前は嫌いじゃなかったんだろ?」
「……はい」
「それを伝えればいいだけだよ。ごめんなんて要らない」
鋭い目つきの奥にある落ち葉色の瞳に、私は目が離せなかった。
「約束な。戻ったらそうやって言うんだ」
どうしてこの人は、私に生きることを望んでるんだろう。
それがわからなくて、私は困惑顔のまま曖昧に頷くことしかできなかった。
ガラスの世界の色が変わってゆく。紫の光から、だんだんと赤の光が抜けていった。