真っ黒だった空から光が洩れる。夜明けまではまだ遠いけれど、ガラスのドームの中に色が生まれた。
 私はガラスの床を眺めて首を傾げた。土などないのに、一輪の花が咲いている。
「これは?」
 数歩前へ進み出て、花の前にかがむ。ガラスの床から伸びているのに、それは驚くほど自然に生えて花を咲かせていた。
 花は今の空と同じ色をしていた。黒ではない、けどそれに近い混じり合った複雑な色、深い紫の花だった。
 手を伸ばして、私は花に触れた。その瞬間に辺りが明るくなって、ドーム一面にどこかの建物の内部が映る。
「映画館みたいだな」
 ドームの四方八方に光景が浮かぶので、その場に直接立っているような臨場感がある。大地さんが呟いた通り、全方向に広がる映画館みたいだ。
「明? あいつ、どこ行ったんだ?」
 気づけばどこにも、明さんの姿は見えなかった。人は私と、大地さんだけ。
 どこか懐かしさを感じさせる、大きな鉄筋コンクリートの廊下だった。タイル張りの床、汚れて灰色になった壁。どこを見ても四角で形作られていて、閉じ込められているような息苦しさを感じる空間。
 スピーカーから鐘の音がした。にわかに騒がしくなり、廊下につながる部屋からたくさんの子供達が我先にと飛び出していく。
 みんなが思い思いに動いている。けれど一目散に外へ飛び出していく様子は、何かに強制されているようにも見えた。
 しばらくして、その場に数人の女の子たちが歩いてきた。五、六人で固まり、私たちの周りを取り囲む。
 女の子たちがみていたのは、私や大地さんではなかった。いつのまにか側には横長の手洗い場があり、視線は私たちより少し前に集中している。
「あ……」
 そこに、両手で絵の具とパレットを持った小柄な女の子が、水道に押し付けられるようにして立っていた。
「この子」
 肩にかかるくらいの黒髪に、俯いた表情が隠れる。何か言おうとしては口をつぐんで、小さくかぶりを振る。
「小学校の頃の……私だ」




 女の子たちはじりじりと、私の方へ寄ってきた。つい、視線を地面に落とす。
「ねぇ、なんで一緒に遊ぼうって言ってるのに断るの?」
 誰かがそう言った。私は視線を上げることができない。そんな自分が情けないって、わかってるけど変えられない。
「だって……い、一緒って、本当は一緒じゃなくて……。私はいつも、輪の外で、チームに入れて、もらえな……」
「でも、美朱ちゃんは病気なんでしょ?」
 勇気をもって言った言葉も尻すぼみで、彼女たちに響くことはなかった。
「そうそう。先生が美朱ちゃんも入れてあげなさいって言うから一緒に行こうって言ってるのに」
「でも美朱ちゃん、私たちと一緒に遊ぶなんて無理でしょ。病気なんだから入ったって上手く遊べないでしょ」
 病気じゃなかった。ただ、喘息と貧血持ちで、みんなより足も遅かった。
 けど、遊びたくないわけでもなかった。
「ほら、やっぱり。何も答えないよ、この子」
「無視してんのそっちじゃん」
 ひときわ冷たい声がとんできた。みんなが黙ってる。視線が突き刺さる。
 何か、何か言わなきゃいけない。聞いてもらえなくっても、無視されてもいいから何か言わなくては。
 痛い。肌がちりちりする。喉が焼ける。
「なんとか言いなさいよ」
 軽く突き飛ばされた。たいした力ではなかったんだろう。でもそれは元気な子の場合で、私はそうじゃなかった。
 パレットと絵の具が飛び、私は人形みたいにその上に倒れこむ。服が汚れて、顔に絵の具がつく。
 顔についた絵の具は、紫色だった。嫌いな色じゃなかったけど口に入ったそれはひどく不味くて、溶かしたゴムみたいな匂いが広がった。
「う……」
 気持ち悪くて、水道に向かって吐いた。絵の具以外のものも出て、苦しかった。
「せんせー、美朱ちゃんが吐いてますー」
 遠くで声が聞こえる。
 視界が紫で染まる。どろどろと渦巻いては流れていく。だけど水はいつまでたっても濃い紫で、まとわりついてくるようなその色が怖くて、私は目を開けることができなかった。
 気持ち悪さはひかなかったけど、吐くものがなくなって恐る恐る振り返った。そこには先ほどの女の子たちがいた。
 でも、どうしてなのかわからないけど。
 ……どんなに姿を見ようとしても、水彩画のように輪郭がぼやけて、誰が誰かわからない。涙は浮かんでないのに、視界に映らない。
 睨んでいるように見られたくなかったから、すぐに目を逸らす。
 その時、横に立っている子が目に映る。その子だけは、はっきりと姿がわかった。
 男の子のように短いぱさぱさとした髪と、動きやすそうな半ズボンにティーシャツで、健康的に焼けた肌だった。
 黒い瞳が不安げに揺れていて、口々に何か言う彼女らの中でひたすら黙りこくっていた。
 その女の子は長い間、私の方を見ていた。何か言おうとしては口を閉じる。それを繰り返していた。
「気に、しないで」
 喉の奥でつまっていた言葉がこぼれた。
「あなたは、なんにも悪くないよ」
 みんなも、悪くない。私みたいなのがいたら、腹が立っても仕方ないんだから。ろくに話せなくて、おどおどしてて、扱いづらい。
 先生がやってきて、私の腕をつかんで引っ張っていった。一瞬感じられた穏やかな気持ちは、もうどこかへ行ってしまった。
 あの子の名前、なんだったかな。ええと、そう。
 あやめちゃんって、みんなに呼ばれてたっけ。
 あの、何本もの集団でかたまりながらも、すっくと気高く立って咲く、紫色の花の名前。
 小学校で覚えた名前は、その子だけだった。
 




「いじめか」
 ふいに大地さんが言葉をこぼしたので、私は小さく頷く。
 ガラスの映画館は場面が変わって、保健室になっていた。
 保健医の先生が困っている。下校時刻はとうに過ぎているのに、私は気持ち悪さに動けなくて、一人で帰すことのできる状態にない。
 親を呼んだのか、先生は電話の受話器を指で叩いている。
 映像をみつめながら、私は眉を寄せる。
「私が悪いんです」
 大地さんはちらっと私を横目で見て、感情の読めない無表情で言った。
「自虐はやめろよ」
 保健医の先生の迷惑そうな視線を画面の向こうから受けて、私は首を横に振る。
 ふいに画面の中で扉が乱暴に開かれた。