規則的な電子音が耳元で聞こえる。
 そろそろ朝だと意識の上澄みの方で考えて、俺は体の感覚を掴もうとする。
 体全体の感覚が鈍っているのが不思議だったが、とりあえず目だけを開く事にした。
「……あ」
 視界に映ったのは眩しいほどの白い天井。鼻をつくような消毒液の匂いに、大型の機械が横で規則正しい電動音を吐き出している。
「大地君。まだ寝てなさい」
 首を動かして横を見ると、白衣を着た見慣れない医師が立っていた。
「しばらく頭がぼんやりするでしょうけど、じきに良くなります。ナースコールはここ。ゆっくり休んでるんですよ」
 ここ、病院。ぼんやりとそんなことを思った。
 しばらくは医師が去った扉を眺めていたが、ふいにその扉が開いたので、思わず瞬きをする。
「おー、久しぶり。元気?」
「病院に来て元気なわけないだろ」
 相手はだよな、と苦笑いして横のパイプ椅子に座った。
 立たせた茶髪に白い肌。小さなピアスにバスケチームの袖なしシャツを皺を作りながら着込み、大きめのサングラスはわりと繊細に出来ている顔立ちには不釣合いだ。
「そっちは意外と元気らしいな、葵」
「ん」
 黒いサングラスの向こうに映る空色の瞳は、昔より随分と晴れやかな色を湛えていた。
「血液みんなやっちゃったんだって? やるなぁ」
 そう言われて、俺はなぜここに自分が寝ているかを思い出す。考えてみれば、今まで忘れていたことの方が不思議だ。
「俺しか輸血できる人間がいなかったんだよ。俺は貧血の気があるから、本当はまずかったんだけどさ」
 トラックに跳ね飛ばされて無残に倒れていた女の子が目の前に蘇る。かばうようにしてその子を包んでいた彼女はもっと奥に飛ばされていて、がっくりと力が無くなってしまっていた。
 夢中だった。俺が助けなきゃと思った。
 挟まれている子供を引っ張り出して、救急車を呼んで、その子は特殊な血液型だからとても今あるものでは足りませんと言われた。
――お、俺の血液型合います。だから助けてください。お願いします。なんでもします……!
 今考えると信じられない。俺は人のために命をかけるような人間じゃなかったはずなのに、つい、必死になってしまった。
「馬鹿みたいだ」
 でも、そんな馬鹿でもいいじゃないかと思えた。
 俺は明みたいに何でもスマートにこなせるやつじゃない。格好悪くても、惨めでも、精一杯もがいて大切なものを守ればいい。
「美朱は?」
 心は穏やかだ。だって信じているから。
 絶対に、戻ってきていると。
 葵は頷いて、待っていたように早口で話し始める。
「あちこち怪我はしてるけど、状態は落ち着いたってさ。向かい側の個室にいて、今はおじさんたちがついてる。……よかったよな。ほんと」
「そっか」
 葵のほっとした声に同意して、俺は体を起こした。
「あれ、もういいのか?」
「たぶんな」
 別に俺は怪我をしたわけじゃないし、体の自由もほぼ戻ってきていた。
「様子見てくる。もう目覚めるころだから」
「わかるのか」
「ああ」
 確信を持って頷くと、葵はからかうように笑う。
「いつの間にそんな通じ合ったのかね」
 まあいいけど、と言って、葵もまた立ち上がる。
「あ、俺今日はもう帰るけど、今度あやめと見舞いにくるから。高校に編入できたこと、伝えたいし」
 病室を後にして、病院服のまま廊下を渡る。頭は血液不足でくらくらしたが、足取りはしっかりしていた。
 向かい側の扉に辿り着いて手をかけたまま、ふとその手を止める。
「すまなかった。お前だけでも無事でよかった。本当に……」
 宏葉さんの声が震えているのが聞こえた。もしかしたら泣いているのかもしれないと思って、俺は立ち竦んだ。
 その後に小さな、本当に耳を澄ませないと聞こえないような声が届いた。
「お父さん。私、向こうで、お姉ちゃんに会ったよ」
 久しぶりのようで久しぶりでない、美朱の声だ。
「お姉ちゃんはお父さんのこと、好きだったよ。でももうそっちへ帰れないから、私によろしくって」
 沈黙が扉の向こうを包む。
 俺は思いきって、扉を横に引くことにした。
 カーテンを閉めきった部屋に光が入っていく。美朱が眩しそうに目を細めるのがわかった。
「父さん、母さん。二人とも少し休んでおいでよ。僕が見てるから」
「そう。じゃあお願いね、大地」
 目を擦りながら、母と父は部屋から出て行く。
 パタンと扉が閉まった。
 軽く息を吸って心を落ちつける。
「おかえり」
 一瞬の間の後、美朱が少し照れながら言った。
「ただいま。お兄ちゃん」