赤の光が消えうせて、ガラス玉の中は闇に包まれた。
その中で、姉の姿だけがくっきりと浮かび上がる。
「美朱」
静かな声で姉が私の名を呼ぶ。
「お別れよ。今度こそ、本当の」
「あ……」
手を伸ばして触れようとしても、私の手は空を切るばかり。もう触れることも、頭を撫でてもらうことも叶わない。
私は激しく首を振る。
「いや……嫌だ!」
「美朱はまだ帰るところがある。声、聞こえるでしょう?」
それは前から聞こえていた。帰って来いって、薄い膜の向こうから言ってるのは知ってたけど、私はずっと聞こえていないふりをしていた。
「あやめちゃん、藍花先生、葵君、父さん、そしてお兄さん。欠けた思い出を見て、どう思った?」
姉はドームの天井を見上げてから目を閉じる。
「みんなはただ美朱とどう接していいかわからなかっただけ。まだ間に合う」
何かがきしむ音がして、彼女はそっと目を閉じる。
瞬間、ガラスのドームが粉々に砕け散る。破片は花びらのようにゆっくりと、辺りに散らばっていく。
ガラスの向こうにあった漆黒の闇に、姉が飲まれて行く。
「ま、待って! 私もお母さんのところに行く!」
――だめよ。
姉の声だけは、闇に溶け合うようにして聞こえた。
――母さんには私だけで満足してもらう。よく一人で来たねって、今度こそ褒めてもらうの。
「お姉ちゃん!」
――父さんに謝っておいて。私も父さんも、不器用すぎただけなの。
必死で闇に手を伸ばす私に、姉はどこまでも優しい声で囁いた。
――大丈夫。あなたたちならできるわ。
姉が微笑むのを感じた途端、私は強い力で後ろに引っ張られた。
辺りを見まわすともうどこにもガラスは散らばっておらず、ただ滝のような勢いで流れる大きな川が横たわっていた。
「渡ろう。向こう岸に着けば帰れるから」
肩を掴まれて、後ろを向かされる。大地さんがそこに立っていた。
「大地さん? どうして、まだ帰って……」
「話してる暇はない。増水しきる前に渡らないと帰れなくなるぞ」
短く答えて、大地さんは私の手を引く。
「明が優しいやつだなんて思ったことはない。滅茶苦茶なやつだ」
睨むように私を強くみつめて、彼は少しだけ口元を歪めた。
「けど、命を賭けてお前を助けたんだろう?」
私は一度、姉が消えて行った先を振り返った。
そこは、混沌の闇。苦しみも悲しみも、何もないところ。
生の世界の方を見る。岸辺には何も見えない。喜びも幸せも、一見しては何もわからない。
私はどうだったんだろう。生きていた間、楽しかった、嬉しかった?
辛い事が多かった気がする。数えるほどしか楽しい思い出なんてない。
私は首を横に振る。
……楽しい思い出はあまりに大切で、神聖で、蓋を閉じて見ないようにしてきただけ。
私は足を前に踏み出した。慎重に、濁流に飲まれないように歩く。
足場のすぐ下、足の裏の下をごうごうと急流が流れて行く。ゆっくり、ゆっくり、ごつごつした岩の上を進む。
「大地さん」
「ん?」
ふいに訊いてみたくなった。
「お姉ちゃんのこと、好きだった?」
大地さんは沈黙した。しかめ面で、口元は無愛想に歪んでいた。
「ああ」
だけど言葉は、私の想像していた通りだった。
「よかった」
思わず笑みが零れる。大地さんが驚いたように一瞬瞬きをしたのが面白かった。
姉を大切だと思っている人は私だけじゃなかった。思い出を共有してくれる人がいるということが、今の私はとても嬉しかった。
足取りが軽くなったとたん、足を滑らせた。すぐに大地さんに腕を引っ張られたから私は落ちずにすんだけど、ガラス玉は腕から滑り落ちて水しぶきをあげる。
「あっ!」
前の足場に引っかかって、とりあえず流れていくのは止まる。けれどその足場はもう水に侵食され始めていて、取りに行くには水に入るしかなかった。
もし深みに足を取られたら、戻れなくなる。
「命の方が大事だろ」
大地さんの言うことはもっともだった。それでもあれが最後の姉との思い出だと思うと、私は顔を歪める。
「わかったよ」
なおなごり惜しそうに眺めていると、大地さんが一つため息をついてゆっくりと水の中に足を踏み込んだ。
「あ、あぶな……」
「すぐ取れる。動くなよ」
岩肌に片手を預けながら、大地さんは浮かんでいるガラス玉を手にとる。
それを慎重に引き寄せて、器用に片手で私にガラス玉を渡す。
大地さんは腕力があるらしく、両手を足場について水の中からぐいっと体を抜こうとした。
けど、今まさに大地さんが足場に足を出すという時、急に水の流れが増した。
「うわっ!」
濁流にさらわれそうになった大地さんの左手を、私はガラス玉を抱えていない方の手で慌ててとらえる。
怒涛のように流れが速くなっていく。ずるずると大地さんの掴んだ手が滑っていく。
さっきまで大地さんの腰ほどしかなかった水がもう首まで来ていた。辺りに飛び石はないから、今手を離したらもう流されるしかない。
小柄な私の体も水の中へ徐々に引っ張られていく。
「美朱!」
水しぶきに顔を打たれながら、大地さんは問いかける。
「明は、ここへ来た目的を果たさないと帰れないって言ったよな?」
どうどうと流れる水の音にかき消されそうになりながらも、大地さんは叫ぶのをやめない。
「お前、本当に帰りたいと思ってるか?」
「えっ……」
突然の言葉に私は言葉を失う。大地さんはもう片方の手をなんとか岩に辿りつかせようともがきながら、じっと私を見上げてきた。
「帰りたいって思うなら、もう帰れるはずなんだ。迷い込む原因だった記憶の欠片だって、全部取り戻したんだから」
私の胸の奥に、迷いの感情が生まれる。
帰ることができる。記憶だって、全部取り戻した。
……本当に?
「ちっ!」
水はますます激しくなっていた。必死でもがきながら、大地さんは私を見上げた。
「……手を離せ、美朱」
その落ち葉色の瞳は、急流の中でもなお穏やかな色だった。
「俺はいいんだ。俺は、お前の世界に迷い込んだだけで、本来はここに来るべきじゃなかった存在なんだから」
笑ってみせるその優しい目に、私は目が離せなかった。
「お前は帰れ。大丈夫、できるよ」
瞬間、私は理解した。
この人がここに来た理由。それは今、こうやって私に言うためだったんじゃないかと。
何度も遠まわしに私へ言い続けたメッセージ。帰る理由を作れ、何もまだ終わってない……生きろって。
「ぐっ……っ!」
大地さんの手が私の手から離れた。
私は左腕に抱えていたガラス玉を水の中に放りこみ、空いた左手で大地さんのもう片方の手を掴む。
大地さんの右手に傷があるのを感じて、ああやっぱり、と思った。
「お前、なんで、ガラス玉……」
「いい。もういい! 大地さんの命ほど大事なものじゃない!」
そうだ。彼が、最後の記憶の一ピース。
周りのやかましいほどの轟音が、一瞬何も聞こえなくなった気がした。
「帰る! 一緒に帰る!」
頭の中で何かが弾ける音がして、視界が真っ白になった。黒々とした川も、ガラス玉も、大地さんもどこにも見えない。
代わりに、薄暗い視界いっぱいに人影が映る。
七色で彩られた壮大な一日の舞台は、いつも黒い夜が来た途端に終わる。けれど今日は少しだけ続きがあるらしかった。
「ごめん……違う、そうじゃないんだ……!」
血に染まり、視界が閉ざされていく中で私が見た光景が映し出される。
「嘘だからっ……帰ってくるななんて、俺は思ってないから……!」
長い前髪で隠れた目から、雫が零れ落ちる。ぽたぽたと、それは私の頬を掠めて落ちていく。
「美朱、死ぬなよ……帰ってこいよ……!」
暗い夜は、見えない影は、本当に恐れるものだっただろうか。
それは私が目を覆っていたから、わからなかっただけではないのか。
……だってこの人は、こんなに温かい。
ごめんね。今まで気づかなくて。
今、帰るから。
その中で、姉の姿だけがくっきりと浮かび上がる。
「美朱」
静かな声で姉が私の名を呼ぶ。
「お別れよ。今度こそ、本当の」
「あ……」
手を伸ばして触れようとしても、私の手は空を切るばかり。もう触れることも、頭を撫でてもらうことも叶わない。
私は激しく首を振る。
「いや……嫌だ!」
「美朱はまだ帰るところがある。声、聞こえるでしょう?」
それは前から聞こえていた。帰って来いって、薄い膜の向こうから言ってるのは知ってたけど、私はずっと聞こえていないふりをしていた。
「あやめちゃん、藍花先生、葵君、父さん、そしてお兄さん。欠けた思い出を見て、どう思った?」
姉はドームの天井を見上げてから目を閉じる。
「みんなはただ美朱とどう接していいかわからなかっただけ。まだ間に合う」
何かがきしむ音がして、彼女はそっと目を閉じる。
瞬間、ガラスのドームが粉々に砕け散る。破片は花びらのようにゆっくりと、辺りに散らばっていく。
ガラスの向こうにあった漆黒の闇に、姉が飲まれて行く。
「ま、待って! 私もお母さんのところに行く!」
――だめよ。
姉の声だけは、闇に溶け合うようにして聞こえた。
――母さんには私だけで満足してもらう。よく一人で来たねって、今度こそ褒めてもらうの。
「お姉ちゃん!」
――父さんに謝っておいて。私も父さんも、不器用すぎただけなの。
必死で闇に手を伸ばす私に、姉はどこまでも優しい声で囁いた。
――大丈夫。あなたたちならできるわ。
姉が微笑むのを感じた途端、私は強い力で後ろに引っ張られた。
辺りを見まわすともうどこにもガラスは散らばっておらず、ただ滝のような勢いで流れる大きな川が横たわっていた。
「渡ろう。向こう岸に着けば帰れるから」
肩を掴まれて、後ろを向かされる。大地さんがそこに立っていた。
「大地さん? どうして、まだ帰って……」
「話してる暇はない。増水しきる前に渡らないと帰れなくなるぞ」
短く答えて、大地さんは私の手を引く。
「明が優しいやつだなんて思ったことはない。滅茶苦茶なやつだ」
睨むように私を強くみつめて、彼は少しだけ口元を歪めた。
「けど、命を賭けてお前を助けたんだろう?」
私は一度、姉が消えて行った先を振り返った。
そこは、混沌の闇。苦しみも悲しみも、何もないところ。
生の世界の方を見る。岸辺には何も見えない。喜びも幸せも、一見しては何もわからない。
私はどうだったんだろう。生きていた間、楽しかった、嬉しかった?
辛い事が多かった気がする。数えるほどしか楽しい思い出なんてない。
私は首を横に振る。
……楽しい思い出はあまりに大切で、神聖で、蓋を閉じて見ないようにしてきただけ。
私は足を前に踏み出した。慎重に、濁流に飲まれないように歩く。
足場のすぐ下、足の裏の下をごうごうと急流が流れて行く。ゆっくり、ゆっくり、ごつごつした岩の上を進む。
「大地さん」
「ん?」
ふいに訊いてみたくなった。
「お姉ちゃんのこと、好きだった?」
大地さんは沈黙した。しかめ面で、口元は無愛想に歪んでいた。
「ああ」
だけど言葉は、私の想像していた通りだった。
「よかった」
思わず笑みが零れる。大地さんが驚いたように一瞬瞬きをしたのが面白かった。
姉を大切だと思っている人は私だけじゃなかった。思い出を共有してくれる人がいるということが、今の私はとても嬉しかった。
足取りが軽くなったとたん、足を滑らせた。すぐに大地さんに腕を引っ張られたから私は落ちずにすんだけど、ガラス玉は腕から滑り落ちて水しぶきをあげる。
「あっ!」
前の足場に引っかかって、とりあえず流れていくのは止まる。けれどその足場はもう水に侵食され始めていて、取りに行くには水に入るしかなかった。
もし深みに足を取られたら、戻れなくなる。
「命の方が大事だろ」
大地さんの言うことはもっともだった。それでもあれが最後の姉との思い出だと思うと、私は顔を歪める。
「わかったよ」
なおなごり惜しそうに眺めていると、大地さんが一つため息をついてゆっくりと水の中に足を踏み込んだ。
「あ、あぶな……」
「すぐ取れる。動くなよ」
岩肌に片手を預けながら、大地さんは浮かんでいるガラス玉を手にとる。
それを慎重に引き寄せて、器用に片手で私にガラス玉を渡す。
大地さんは腕力があるらしく、両手を足場について水の中からぐいっと体を抜こうとした。
けど、今まさに大地さんが足場に足を出すという時、急に水の流れが増した。
「うわっ!」
濁流にさらわれそうになった大地さんの左手を、私はガラス玉を抱えていない方の手で慌ててとらえる。
怒涛のように流れが速くなっていく。ずるずると大地さんの掴んだ手が滑っていく。
さっきまで大地さんの腰ほどしかなかった水がもう首まで来ていた。辺りに飛び石はないから、今手を離したらもう流されるしかない。
小柄な私の体も水の中へ徐々に引っ張られていく。
「美朱!」
水しぶきに顔を打たれながら、大地さんは問いかける。
「明は、ここへ来た目的を果たさないと帰れないって言ったよな?」
どうどうと流れる水の音にかき消されそうになりながらも、大地さんは叫ぶのをやめない。
「お前、本当に帰りたいと思ってるか?」
「えっ……」
突然の言葉に私は言葉を失う。大地さんはもう片方の手をなんとか岩に辿りつかせようともがきながら、じっと私を見上げてきた。
「帰りたいって思うなら、もう帰れるはずなんだ。迷い込む原因だった記憶の欠片だって、全部取り戻したんだから」
私の胸の奥に、迷いの感情が生まれる。
帰ることができる。記憶だって、全部取り戻した。
……本当に?
「ちっ!」
水はますます激しくなっていた。必死でもがきながら、大地さんは私を見上げた。
「……手を離せ、美朱」
その落ち葉色の瞳は、急流の中でもなお穏やかな色だった。
「俺はいいんだ。俺は、お前の世界に迷い込んだだけで、本来はここに来るべきじゃなかった存在なんだから」
笑ってみせるその優しい目に、私は目が離せなかった。
「お前は帰れ。大丈夫、できるよ」
瞬間、私は理解した。
この人がここに来た理由。それは今、こうやって私に言うためだったんじゃないかと。
何度も遠まわしに私へ言い続けたメッセージ。帰る理由を作れ、何もまだ終わってない……生きろって。
「ぐっ……っ!」
大地さんの手が私の手から離れた。
私は左腕に抱えていたガラス玉を水の中に放りこみ、空いた左手で大地さんのもう片方の手を掴む。
大地さんの右手に傷があるのを感じて、ああやっぱり、と思った。
「お前、なんで、ガラス玉……」
「いい。もういい! 大地さんの命ほど大事なものじゃない!」
そうだ。彼が、最後の記憶の一ピース。
周りのやかましいほどの轟音が、一瞬何も聞こえなくなった気がした。
「帰る! 一緒に帰る!」
頭の中で何かが弾ける音がして、視界が真っ白になった。黒々とした川も、ガラス玉も、大地さんもどこにも見えない。
代わりに、薄暗い視界いっぱいに人影が映る。
七色で彩られた壮大な一日の舞台は、いつも黒い夜が来た途端に終わる。けれど今日は少しだけ続きがあるらしかった。
「ごめん……違う、そうじゃないんだ……!」
血に染まり、視界が閉ざされていく中で私が見た光景が映し出される。
「嘘だからっ……帰ってくるななんて、俺は思ってないから……!」
長い前髪で隠れた目から、雫が零れ落ちる。ぽたぽたと、それは私の頬を掠めて落ちていく。
「美朱、死ぬなよ……帰ってこいよ……!」
暗い夜は、見えない影は、本当に恐れるものだっただろうか。
それは私が目を覆っていたから、わからなかっただけではないのか。
……だってこの人は、こんなに温かい。
ごめんね。今まで気づかなくて。
今、帰るから。