数週間後、けぶるような雨が降っていた。
 曇天の空をじっと見上げてから、私は中へ入った。
 入れ違いに参列客が出て行き、私はいくらかの言葉を受けながら無言で歩く。言葉の内容は覚えていないけど、かわいそうにね、とか、辛いけど頑張ってね、とかそういう言葉だったと思う。
「美朱。こっち」
 姉に呼ばれて、私は小走りで駆け寄った。
 二十畳くらいの和室に父と咲子さん、兄、そして姉が円を描くようにして座っている。
 母だけがその中にいない。……お母さんだけが。
「こういう時にこんな話もなんだが」
 父が重い口を開いて姉を見る。
「鈴菜がいない今、お前は私たちのところに……」
「私は自分で生活していけるわ」
 姉は父を真っ直ぐに見据える。
「美朱も一緒に暮らすの」
 姉の瞳は決して揺れなかった。父は一瞬言葉を失ったけれど、すぐに落ち着きはらって言った。
「気に食わないのはわかるが、お前も美朱も子どもだ。放っておけるわけないだろう。美朱はお前じゃ面倒なんてみられない」
 姉の目に感情が一瞬だけ宿って、氷のように冷たい声が飛ぶ。
「美朱を全然育てられなかったのは、あんたじゃない」
「……何?」
 父の目に鋭さが増す。
「明ちゃん。宏葉さんはそんなつもりじゃ……」
「美朱のことに他人が口を出さないで」
 ぴしゃりと言われて、咲子さんは肩を落とした。昔から大人顔負けに頭の回転が速い姉に、そう簡単に太刀打ちできる人はいなかった。
 この時の姉の剣幕にはすさまじいものがあった。
「母さんは過労だったのよ。あんたの会社から追い出された時にはもう若くなかったのに無理して、別の所に就職して。働きづめで」
「金で解決したくはないと言ったのはあいつだ」
 父の低い声にも口調を変えず、姉は淡々と続ける。
「お金より大事なものを奪ったのは誰?」
 姉は、視線を決して父から外さなかった。全く無表情で、それがかえって姉の内心が激しく揺れているのを想像させた。
「あんた、母さんが美朱によこした連絡手段、全部、握り潰したわね」
「……離婚するときにそういう約束だったからだ」
「母さんはちゃんと電話番号も仕事先の住所も送ってたらしいわ。手紙だって月に一度は送り続けたって聞いた。でも、美朱に届いたことなんて一度もないんじゃないの?」
 それは私も知らなかった。お父さんが会ってはいけないと言ったのはお母さんたちの生活があるからで、私に連絡を取ろうとしていたことなど考えていなかった。
「まあ、あんたと同じくらい母さんも子育て向きの人じゃなかった。どうせ美朱を最初から引き取ってたって、何が違ったってこともなかったのかもね」
「……明」
「誕生日のお祝いなんてしてもらったことないし、行事でプレゼントしてもらったこともないし。母さんも、あんたも」
 傍目にもわかるほど、父は青ざめていた。けど、姉はその乾いた言葉をやめようとはしなかった。
「悲しくなんてなかったわ。母さんがいたっていなくたって……」
 そこで、姉は初めて黙った。言葉を、喉の奥でごくりと飲み込んで。
「明、もういい。わかったから」
 視線を落としてぴくりとも動かない姉に、父が懸命に言う。
「悪かった。私たちが悪かったんだ。理解してやれなかった。お前が」
「……私が?」
 姉は、奇妙にゆっくりと問い返す。
「私が傷ついたとでも言うの?」
 誰も言葉を挟めなかった。感情なんて何もない姉の口調は、心の芯を凍らせるような冷たさがあった。
「何も期待されてなかったから、私の方だって何も期待してなかった」
 人形みたいに、姉は口以外何も動かしていなかった。
「何がわかるのよ。できるわけないじゃない。二十年近く何も知ろうとしなかった人が、今更どんなことしたって無駄じゃない」
 姉は顔を覆って呟く。
「……風邪だって、母さんは言ったもの」
 小さな子どもが言い訳をするように、姉は幼い調子で言う。
「すぐ治るって。治ったら三人で暮らすんだって、言って。私たち子どものことなんて全然眼中にもなかったのに、これからは一緒だって笑って……」
 畳の上に、ぽたりと水滴が落ちた。
「ほら、やっぱり。結局、何もしてくれなかった」
 姉は俯いたままだった。ただ次々と涙が畳に染みを作っていくだけだった。
 雨音が天井を叩く中で、姉の嗚咽の声だけが部屋の中に響く。私は姉の前に回って、そっと肩に手を置いた。姉は握り締めた両手を上げて、私の頭をぎゅっと抱きしめた。
 綺麗な姉の茶色の瞳が、今は真っ赤に歪んでいた。
「……あんたのせいよ」
 一度きつく目を閉じ、彼女は立ち上がる。父を睨みつけたその瞳には、もう姉が内に秘めていた激しい感情が露になっていた。
 彼女はポケットから銀色に光るものを取り出す。
「母さんの代わりにあんたが……あんたが、死ねばよかったのに!」
 姉が初めて見せた、理屈をかなぐり捨てた激情と、純粋な悲しみ。激痛のような心のせめぎあい。
 それがわかってしまったから……私は姉を止めてしまった。
「美朱!」
「美朱ちゃん!」
 皆が一斉に立ちあがる。救急車とか、とりあえず寝かせて、とか様々な声が聞こえる。
 何が起こったのかはわからなかった。ただ右の視界が真っ赤に染まり、がんがんと響くような激痛が顔全体に走っている。
 どうしたんだろう。何も見えない。
「美朱、なんで、お前……っ!」
 父の声が聞こえて安心した。よかった。姉だってきっと本気で、父を傷つけようなんて考えないのだから。
 私は気が遠くなるような痛みの中で思いだす。
 せっかく取ってきたのに、忘れるところだった。
 起き上がろうとすると、それを制止する漆黒の影があった。激痛で感覚が痺れた今なら、彼も怖くなかった。私は影を、兄を振り払って部屋の奥へと這うようにして向かう。
 白い木で作られた、母の棺があった。手探りで蓋を開けて、私は俯く。
 私は母が亡くなったと知った時、悲しむことができなかった。母に何もすることができなかった私に、そんな子どもらしい感情を抱いてはいけないんだと思った。
 だけど一生懸命考えて、たった一つだけ、母に私ができることがあると気づいた。
 死ぬ時は菜の花に囲まれて死にたい。母は私に言い残してくれたから。
 私は外で摘んできた菜の花を一つ、棺に収める。囲むほど花を入れられないのが残念だったけど、これで母の心が少しでも満たされてほしいと、切に願った。
 菜の花の花びらを一枚手にとってガラス玉に乗せると、金の光を放ってそれは消える。代わりにガラス玉にあったくぼみが一つ消えて、残る欠片は二つだけになった。
 顔を上げると、そこには私にとって誰より大切な人が、泣きそうな顔で座っていた。
「お姉ちゃん」
 唇を震わせて体を縮こまらせている。幼い子どものように心細げな姉に、言い聞かせるように言葉をかける。
「私の怪我は大したことなかったんだよ。ちょっと瞼を切っただけで、失明したわけじゃない」
 姉は首を横に振って言う。
「でも、美朱の視力はそのせいで随分と落ちたじゃない。私が、私が美朱を傷つけたの……」
「お姉ちゃんは悪くないよ」
 その綺麗な瞳をみつめながら、私は首を横に振る。
「傷ついてほしくなかっただけ。お父さんにも、お姉ちゃんにも、お互いを傷つけて泣いてほしくなかっただけ」
 仕方なかったんだと思う。姉はもう、父に怒りを向けることでしか、行き場のない感情を外へ出すことができなかった。
「傷つかないで、お姉ちゃん。もういいから」
 姉の肩に頭を寄りかからせて、私はその心地よさに目を閉じる。
「いつだって、お姉ちゃんは私の側にいてくれたんだから」
 父の記憶も母の記憶も辛くて、本当は思い出したくなかった。けれど最後までちゃんとみつめることができたのは、姉が一緒にいてくれたから。
 ふと私は眉を寄せる。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃんはどうしてここに……?」
 一瞬、最悪の考えがよぎったけど、姉が笑いながら立ちあがったので私はすぐにそれを振り払った。
 時刻は夕方、少し前。美しい橙色に空が染まる頃。
 晴れやかな、一日の内でもっとも壮大な空のパレードが始まる時間。
「次の記憶は?」
「うん」
 私はガラスの空を見上げて、私が一番好きな、オレンジの光に包まれた。
「中二の夏の終わり。私に光を与えてくれた、お姉ちゃんの記憶」





 目の治療を受けた後まもなく、私はどこかの病院に収容されたらしい。その頃にはもう、私は人と話すことがほとんどできなくなっていたせいだ。
 病院がどこにあるのかもわからない。日夏先生の病院じゃないことは確かだった。葵君の手術のため、家族総出で引っ越したのは知っていた。
 日がな一日、絵を描いた。去年は一緒だった葵君も今はもういない。でも絵を描くのはやめなかった。
 目が悪くなったせいだろうか。視界がおかしい。
 父や咲子さんが頻繁に様子を見に来てくれているのはわかるのに、人の姿が人として捉えられなくなっていた。薄ぼんやりとした、水に溶かした絵の具を広げた靄のようになってしまう。
 かろうじてその色のイメージで、誰であるかはわかった。表情や、時には言葉でさえ、よくわからないこともあった。
 一番多く来てくれたのは兄だった気がする。いつも特定の時間になると現れた。
 今もそこにいる。扉から入って右に曲がったところに、彼がいる。黒い影のような、捉え所のない色を示している人。
 ただし、今日も一言もしゃべらないままだった。
 小さな音と、扉の閉まる音が聞こえた。
 何かがテーブルに置かれた気がしたので、私は兄が出ていった後にそのテーブルに近寄った。
 置かれていたのは絵の具のセットだった。毎日絵を描きつづけると案外すぐ切らすものだから、それの補充らしかった。
 どうして私を嫌っているはずのお兄ちゃんが?
 本人に訊いてみないことにはわからない。けど、咲子さんにすら話しかけられない今では、兄に声をかけることはできなかった。
 水を汲んで、パレットに絵の具を取り出して混ぜ合わせる。ほどよく混ざったところで紙に試してからキャンバスへ向かった。
 自分がこんなに弱い人間だとは思っていなかった。
 声が出せないくらいならまだいい。けど今は人との交流に恐怖を感じて、体が勝手に竦んでしまう。誰かが頭に触れただけで視界が真っ暗になる。
 そうでなくとも人が様々な色の混ざりあった霧に見えてしまうなんて、明らかに異常だ。たびたび咲子さんや父が家に連れて帰ろうとしてくれるけど、私は扉にすがりついて拒否していた。
 私が家にいたら、せっかく築かれた家族の輪を、崩してしまう気がした。もう私のせいで誰かが別れたり傷つけあったりしてほしくなかった。
 ズッ……と掠れた音が聞こえる。
 いつの間にか絵の具が切れていた。兄が新しいものを持ってきてくれたけど、今回のキャンバスに使われているのはほとんど赤と黄色だけ。当然その二つだけすぐに切らす。
 黄色は既に下に塗りこんでいるから、後は上に赤をたくさん薄めて被せていくだけなのに。
 ふとアイディアが浮かんで、私は頷く。
 無いなら代用すればいい。いくらでも私は色の元を持っている。
 筆を置き、右手を自由にしてからその親指をキャンバスの角に引っかけて爪をはがす。
 鋭い痛みは走ったものの、そこから赤い色が流れ出したことに安心して、私は再びキャンバスへ向かった。
 赤を薄めて黄色に上乗せすると、オレンジになる。夕方の空の色だ。
 どうして夕焼けの絵など描いたのか。夕暮れは一日で一番、太陽が輝く時。一番華やかで優しい、光満ちる時。
 扉が開く。いつもこの時間帯は誰も来ないのに。
 この西に面した扉から、夕暮れが覗く時には。
「美朱」
 私にとって光の象徴であったその人が顔を覗かせた時、私はやっぱり彼女には夕陽が一番似合っていると思った。
「ちょっと、外に出ない? 話したいことがあるのよ」
 迷う理由はなかった。隔離されていたせいで、姉には病院に来てから一度も会っていなかったから。
 頷く私に、姉は微笑んで手を差し伸べる。
「行きましょう」
 どこへと姉は言わなかった。
 扉の外に鍵をこじ開けた跡が見えた。今回ばかりは怒られるどころではすまない。姉が、父たちの知らないところへ私を連れて行こうとしていることくらいわかっていた。
 それでも姉と一緒なら怖くない。
 これが最後になると、わかっていても。
 夏はもう終わりだった。風の匂いが、静かな秋を運んできていた。
 堤防の上に着いた時はもう、日が沈む直前になっていた。血に濡れたような赤い夕焼けへと変わり、後はただ消えるだけの時だった。
「咲子さんは仕事をやめるそうよ」
 夕陽をみつめながら突然言い出した姉に、私は訝しげに振り返る。
「だから美朱はもう退院。ちゃんと様子を見ててくれる咲子さんと一緒にいれば、あなたは大丈夫なんだって」
 姉の長い髪を涼しげな風が梳いていく。
「でも、私は駄目」
 明るい茶色の髪が清流のように、きらきらと光を反射して輝いていた。
「私、感情の抑えがきかないの。また爆発したら今度こそ大変なことになるから、別の病院で治療を受けることになった」
 はっと私は息を呑む。
「遠い所だし、父さんたちも止めるだろうからもう会えないわ」
「な……!」
 感情を抑えた声で姉は言って、手に持っていた紙袋を地面に下ろした。
 自由になった自分の手をじっとみつめながら、彼女は顔をくしゃりと歪める。
「わかって、美朱。私は恐いのよ。美朱が近くにいたら、私、美朱を傷つけるもの。異常なの。一緒にはいられないのよ。だからお別れを……」
「……い、いや、だ。嫌だ!」
 声は、喉の奥から爆ぜるように出てきた。
 腕を力いっぱい握り締めて、姉を見上げる。彼女は目を見開いて、少し痩せた顔に驚きの表情を浮かべていた。
「やだっ! い、一緒って言った! お母さん、だめでも、お姉ちゃんは一緒!」
 思考がひどく子供じみているのがわかったけど、止められなかった。
「やだよぉ……」
 姉の胸に頭を押しつける。腕はまだしっかりと握ったままだ。離すつもりなんてなかった。
 涙で滲んだ目の先に、オレンジに光る何かが見えた。彼女はポケットからそれを取り出す。
「私だって嫌……」
 暗い響きの言葉を姉がつぶやく。
 橙色は、太陽の光を反射しているからだった。
 本来は銀の冷ややかな色。……いつか見た、銀の刃。
 ナイフだと理解した瞬間、私はむしろ安心していた。穏やかな気持ちで目を閉じる。
 姉が望むのなら、それでいい。
 ザクっとどこかでナイフの刺さる音が聞こえた。だけどいつまでたっても痛みは襲ってこない。
 私は目を開いて、驚いた。私のほんの数センチ目の前で、誰かがナイフを掴んでいたから。
「何、してんだよ」
 黒いジャケットと揺れる声で、すぐに兄だとわかった。
「お前、何てことしやがる!」
 鈍い音がして、姉が突き飛ばされた。追いかけようとした私はすぐさま、兄に襟首をつかまれる。
 ぽたぽたっと、兄の右手から血が滴った。
「ち……」
 兄はすっと右手を体の後ろに隠して、地面に転がったナイフを踏みつける。
 姉は既に立ちあがっていた。じっと地面をみつめたまま、兄も私も見ようとはしなかった。
「大事だから、好きだから、離れたくないから。だったら何してもいいのか!」
 普段の冷静な声とは違う、怒りを露わにした兄の言葉に、私は体が竦んだ。
「あんたに、私の気持ちなんてわからないわよ」
「わかんねぇよ。わかりたくもない!」
 疲れたように呟く姉に、兄は苛立たしげに叫ぶ。
 兄はキッとこちらを睨みつけて言った。
「お前もだよ。美朱」
 射るような眼差しを受けて、思わず目をそらす。黒く、深い闇がそこにある。
「お前が何考えてるかなんて、俺にはさっぱりわからない。何なんだよ。お姉ちゃん、お姉ちゃんって。いつまで言ってる気だよ」
 兄の声は、混乱しきった悲痛な響きだった。
「わからない……わからない! 七年だ。明より、ずっと一緒にいたはずだ……!」
 口調が段々と荒々しくなっていく。
「だめだよ、もう……」
 この瞬間まで、私は兄にどう思われていても甘んじて受けようと決めていた。
「もう帰って来るな!」
 でも感じたのは、心の中にぽっかりと穴ができたような、空虚な気持ちだけだった。
 もうおしまいだ。お前なんて要らない。
 そんな言葉がふいに頭に浮かんだ。
「あ……」
「落ち着いて。あなたの気持ちはわかったわ」
 何か言おうとした兄を遮るようにして姉が言う。
「美朱は私がちゃんと送っていくから。先に行ってて」
 彼女が手を伸ばしたので、私は無言で、それに自分の手を重ねた。
「美朱。これ」
 紙袋から姉が取り出したのは、バスケットボールほどのガラス玉だった。複雑な形に内部がカットされており、中心部分から光が様々に乱反射する。
 今は夕焼けの赤に染まっているけど、周りの色によって独特に変化するのだろう。毎日毎日、その日の光によって。
「綺麗でしょ? 「硝子の虹」っていうの。私デザイン科にいたから、こういう創作は得意なのよ。これ、あげる」
「お、ねえちゃ……」
 姉は泣き笑いのような表情を浮かべて、私の肩に手を置いてしゃがみこんだ。
「美朱。よく聞いて」
 私の頬を両手でそっと守るように触れながら、姉は優しい声で話しかける。
「美朱のお兄ちゃんは私より……ううん、もしかしたら美朱よりも繊細かもしれないの。彼はね、どうしていいかわからないだけ」
 光は、姉の整った顔立ちを見惚れるくらい鮮やかに飾っていた。
「でもね、とても優しい人。信じてあげて、美朱」
 さよなら、と彼女は手を離す。
 私は俯いて、ぎゅっとガラス玉を抱きしめる。
 だめだよ、お姉ちゃん。お兄ちゃんがたとえどんなにいい人でも、私はもうずいぶん前から嫌われてて、どうしようもなくなってる。だっていつも私を見る度に困ってるのが、気配で感じるんだ。
 美朱はいい子って言ってくれるのは、お姉ちゃんしかいないんだよ。
 もう家の前だった。永遠に続いて欲しいと思った時間もこれで終わり。
 夕陽が最後の力とばかりに真っ赤に輝いて沈んで行く。
 帰る家、帰る場所。待っていてくれる人。
 どこにいるの? どこに、私は行けばいい?
 もしかしたらその願いが、この偶然を引き起こしたのかもしれない。
 ガラス玉が私の腕の中から滑り落ちたのはその瞬間だった。ためらいなく私はそれを追う。
「美朱、いけない!」
 姉が振り向いて、飛び込んでくる。私を、全身で庇うようにして。
 けたたましいブレーキ音の後、私の視界は真紅に染まった。
 赤の光が消えうせて、ガラス玉の中は闇に包まれた。
 その中で、姉の姿だけがくっきりと浮かび上がる。
「美朱」
 静かな声で姉が私の名を呼ぶ。
「お別れよ。今度こそ、本当の」
「あ……」
 手を伸ばして触れようとしても、私の手は空を切るばかり。もう触れることも、頭を撫でてもらうことも叶わない。
 私は激しく首を振る。
「いや……嫌だ!」
「美朱はまだ帰るところがある。声、聞こえるでしょう?」
 それは前から聞こえていた。帰って来いって、薄い膜の向こうから言ってるのは知ってたけど、私はずっと聞こえていないふりをしていた。
「あやめちゃん、藍花先生、葵君、父さん、そしてお兄さん。欠けた思い出を見て、どう思った?」
 姉はドームの天井を見上げてから目を閉じる。
「みんなはただ美朱とどう接していいかわからなかっただけ。まだ間に合う」
 何かがきしむ音がして、彼女はそっと目を閉じる。
 瞬間、ガラスのドームが粉々に砕け散る。破片は花びらのようにゆっくりと、辺りに散らばっていく。
 ガラスの向こうにあった漆黒の闇に、姉が飲まれて行く。
「ま、待って! 私もお母さんのところに行く!」
――だめよ。
 姉の声だけは、闇に溶け合うようにして聞こえた。
――母さんには私だけで満足してもらう。よく一人で来たねって、今度こそ褒めてもらうの。
「お姉ちゃん!」
――父さんに謝っておいて。私も父さんも、不器用すぎただけなの。
 必死で闇に手を伸ばす私に、姉はどこまでも優しい声で囁いた。
――大丈夫。あなたたちならできるわ。
 姉が微笑むのを感じた途端、私は強い力で後ろに引っ張られた。
 辺りを見まわすともうどこにもガラスは散らばっておらず、ただ滝のような勢いで流れる大きな川が横たわっていた。
「渡ろう。向こう岸に着けば帰れるから」
 肩を掴まれて、後ろを向かされる。大地さんがそこに立っていた。
「大地さん? どうして、まだ帰って……」
「話してる暇はない。増水しきる前に渡らないと帰れなくなるぞ」
 短く答えて、大地さんは私の手を引く。
「明が優しいやつだなんて思ったことはない。滅茶苦茶なやつだ」
 睨むように私を強くみつめて、彼は少しだけ口元を歪めた。
「けど、命を賭けてお前を助けたんだろう?」
 私は一度、姉が消えて行った先を振り返った。
 そこは、混沌の闇。苦しみも悲しみも、何もないところ。
 生の世界の方を見る。岸辺には何も見えない。喜びも幸せも、一見しては何もわからない。
 私はどうだったんだろう。生きていた間、楽しかった、嬉しかった?
 辛い事が多かった気がする。数えるほどしか楽しい思い出なんてない。
 私は首を横に振る。
 ……楽しい思い出はあまりに大切で、神聖で、蓋を閉じて見ないようにしてきただけ。
 私は足を前に踏み出した。慎重に、濁流に飲まれないように歩く。
 足場のすぐ下、足の裏の下をごうごうと急流が流れて行く。ゆっくり、ゆっくり、ごつごつした岩の上を進む。
「大地さん」
「ん?」
 ふいに訊いてみたくなった。
「お姉ちゃんのこと、好きだった?」
 大地さんは沈黙した。しかめ面で、口元は無愛想に歪んでいた。
「ああ」
 だけど言葉は、私の想像していた通りだった。
「よかった」
 思わず笑みが零れる。大地さんが驚いたように一瞬瞬きをしたのが面白かった。
 姉を大切だと思っている人は私だけじゃなかった。思い出を共有してくれる人がいるということが、今の私はとても嬉しかった。
 足取りが軽くなったとたん、足を滑らせた。すぐに大地さんに腕を引っ張られたから私は落ちずにすんだけど、ガラス玉は腕から滑り落ちて水しぶきをあげる。
「あっ!」
 前の足場に引っかかって、とりあえず流れていくのは止まる。けれどその足場はもう水に侵食され始めていて、取りに行くには水に入るしかなかった。
 もし深みに足を取られたら、戻れなくなる。
「命の方が大事だろ」
 大地さんの言うことはもっともだった。それでもあれが最後の姉との思い出だと思うと、私は顔を歪める。
「わかったよ」
 なおなごり惜しそうに眺めていると、大地さんが一つため息をついてゆっくりと水の中に足を踏み込んだ。
「あ、あぶな……」
「すぐ取れる。動くなよ」
 岩肌に片手を預けながら、大地さんは浮かんでいるガラス玉を手にとる。
 それを慎重に引き寄せて、器用に片手で私にガラス玉を渡す。
 大地さんは腕力があるらしく、両手を足場について水の中からぐいっと体を抜こうとした。
 けど、今まさに大地さんが足場に足を出すという時、急に水の流れが増した。
「うわっ!」
 濁流にさらわれそうになった大地さんの左手を、私はガラス玉を抱えていない方の手で慌ててとらえる。
 怒涛のように流れが速くなっていく。ずるずると大地さんの掴んだ手が滑っていく。
 さっきまで大地さんの腰ほどしかなかった水がもう首まで来ていた。辺りに飛び石はないから、今手を離したらもう流されるしかない。
 小柄な私の体も水の中へ徐々に引っ張られていく。
「美朱!」
 水しぶきに顔を打たれながら、大地さんは問いかける。
「明は、ここへ来た目的を果たさないと帰れないって言ったよな?」
 どうどうと流れる水の音にかき消されそうになりながらも、大地さんは叫ぶのをやめない。
「お前、本当に帰りたいと思ってるか?」
「えっ……」
 突然の言葉に私は言葉を失う。大地さんはもう片方の手をなんとか岩に辿りつかせようともがきながら、じっと私を見上げてきた。
「帰りたいって思うなら、もう帰れるはずなんだ。迷い込む原因だった記憶の欠片だって、全部取り戻したんだから」
 私の胸の奥に、迷いの感情が生まれる。
 帰ることができる。記憶だって、全部取り戻した。
 ……本当に?
「ちっ!」
 水はますます激しくなっていた。必死でもがきながら、大地さんは私を見上げた。
「……手を離せ、美朱」
 その落ち葉色の瞳は、急流の中でもなお穏やかな色だった。
「俺はいいんだ。俺は、お前の世界に迷い込んだだけで、本来はここに来るべきじゃなかった存在なんだから」
 笑ってみせるその優しい目に、私は目が離せなかった。
「お前は帰れ。大丈夫、できるよ」
 瞬間、私は理解した。
 この人がここに来た理由。それは今、こうやって私に言うためだったんじゃないかと。
 何度も遠まわしに私へ言い続けたメッセージ。帰る理由を作れ、何もまだ終わってない……生きろって。
「ぐっ……っ!」
 大地さんの手が私の手から離れた。
 私は左腕に抱えていたガラス玉を水の中に放りこみ、空いた左手で大地さんのもう片方の手を掴む。
 大地さんの右手に傷があるのを感じて、ああやっぱり、と思った。
「お前、なんで、ガラス玉……」
「いい。もういい! 大地さんの命ほど大事なものじゃない!」
 そうだ。彼が、最後の記憶の一ピース。
 周りのやかましいほどの轟音が、一瞬何も聞こえなくなった気がした。
「帰る! 一緒に帰る!」
 頭の中で何かが弾ける音がして、視界が真っ白になった。黒々とした川も、ガラス玉も、大地さんもどこにも見えない。
 代わりに、薄暗い視界いっぱいに人影が映る。
 七色で彩られた壮大な一日の舞台は、いつも黒い夜が来た途端に終わる。けれど今日は少しだけ続きがあるらしかった。
「ごめん……違う、そうじゃないんだ……!」
 血に染まり、視界が閉ざされていく中で私が見た光景が映し出される。
「嘘だからっ……帰ってくるななんて、俺は思ってないから……!」
 長い前髪で隠れた目から、雫が零れ落ちる。ぽたぽたと、それは私の頬を掠めて落ちていく。
「美朱、死ぬなよ……帰ってこいよ……!」
 暗い夜は、見えない影は、本当に恐れるものだっただろうか。
 それは私が目を覆っていたから、わからなかっただけではないのか。
 ……だってこの人は、こんなに温かい。
 ごめんね。今まで気づかなくて。
 今、帰るから。
 幼い頃、家に帰るのが怖かった。
 父親は俺を玩具として扱ったし、だからといって帰らなければ母親が代わりに傷つくのがわかってたから帰らないわけにもいかなかった。
 誰にも父親の暴力のことは言わなかった。けど、どうして自分だけがこんな目に遭うんだと心ばかりが乾いていって、学校も行かずに柄の悪い連中とつるむのが日常になった。 
 小学校も卒業という頃になって父親が死んで、母親も虐待に気づいた。けど今更この生活を改められるほど、俺にはもう元気がなかった。
――お母さん、再婚しようと思うの。
 虐待には気づいてくれなくとも、母は俺を育ててくれた、たった一人の親だった。だから俺は、精一杯祝ってあげたかった。
――おめでとう。俺、邪魔しないよ。
 幼くて語彙が少なかったせいもあって、母親は俺の反応にひどく悲しんだ。
 でも他に、どうやって俺の気持ちを伝えればよかったんだろう。
 父親の暴力で植え付けられた恐怖で、俺は夜中に何度も目が覚めて呼吸ができなくなって、道端で動けなくなることもよくあった。そんな俺は、もう新しい家族には邪魔以外の何者でもないと思った。
――あなたも一緒に幸せになれないなら、お母さんは結婚しない。
 ただ、純粋に母親に幸せになってもらいたかった。俺の分の幸せは要らなかったのに、どうしても母はそれを許してはくれなかった。
――新しいお父さんと、妹が出来るの。あなたもその家族になってほしいの。けれどあなたが嫌なら、お母さんと二人でまた頑張りましょう?
 そこまで言われても、俺は家を出ることばかり考えていた。良い人たちなら嬉しい。だけど、俺は外でそれを見守ろうと。
 きっと、俺は諦めていた。迷惑を掛けることはあっても役に立つはずもない俺が、家族に受け入れてもらえるはずなんてないと思った。
 転機は、その新しい家族に出会った時だった。
――再婚をするかどうかは、子どものことを最優先にして決めようと、咲子と話し合って決めたんだ。
 母と再婚するという大柄な男の人は、俺に会うなり言った。
 大樹そのもののようなその人は俺を横に座らせて、暗い表情で話し始める。
――私と妻は、自分たちのことしか考えていなかった。家族は私と妻だけではなかったのに、助けの必要な子どもたちを放って、身勝手に争ってばかりだった。馬鹿な、最低な親だった。
 厳しそうな外見に似合わず、彼は押し込められた優しさが透けて見えた。
――そのせいで、娘たちが互いに依存しすぎた。だからこれからは無理にでも引き離して、自立できるように育てようという話でまとまったんだよ。
 彼は俺の目をじっとみつめて、困惑する俺に言った。
――咲子は私の娘の母親になりたいと言ってくれた。私も、君の父親になりたいと思う。だけど、それは私たちのわがままだから。
 彼の中に、俺は父親を感じた。きっとこの人なら、俺の父親になってくれる。きっと大丈夫と、信じることができた。
 一度会ってみてほしいと言われた。その、俺の妹になる子に。
――おきゃくさん?
 そして、美朱に出会った。
 規則的な電子音が耳元で聞こえる。
 そろそろ朝だと意識の上澄みの方で考えて、俺は体の感覚を掴もうとする。
 体全体の感覚が鈍っているのが不思議だったが、とりあえず目だけを開く事にした。
「……あ」
 視界に映ったのは眩しいほどの白い天井。鼻をつくような消毒液の匂いに、大型の機械が横で規則正しい電動音を吐き出している。
「大地君。まだ寝てなさい」
 首を動かして横を見ると、白衣を着た見慣れない医師が立っていた。
「しばらく頭がぼんやりするでしょうけど、じきに良くなります。ナースコールはここ。ゆっくり休んでるんですよ」
 ここ、病院。ぼんやりとそんなことを思った。
 しばらくは医師が去った扉を眺めていたが、ふいにその扉が開いたので、思わず瞬きをする。
「おー、久しぶり。元気?」
「病院に来て元気なわけないだろ」
 相手はだよな、と苦笑いして横のパイプ椅子に座った。
 立たせた茶髪に白い肌。小さなピアスにバスケチームの袖なしシャツを皺を作りながら着込み、大きめのサングラスはわりと繊細に出来ている顔立ちには不釣合いだ。
「そっちは意外と元気らしいな、葵」
「ん」
 黒いサングラスの向こうに映る空色の瞳は、昔より随分と晴れやかな色を湛えていた。
「血液みんなやっちゃったんだって? やるなぁ」
 そう言われて、俺はなぜここに自分が寝ているかを思い出す。考えてみれば、今まで忘れていたことの方が不思議だ。
「俺しか輸血できる人間がいなかったんだよ。俺は貧血の気があるから、本当はまずかったんだけどさ」
 トラックに跳ね飛ばされて無残に倒れていた女の子が目の前に蘇る。かばうようにしてその子を包んでいた彼女はもっと奥に飛ばされていて、がっくりと力が無くなってしまっていた。
 夢中だった。俺が助けなきゃと思った。
 挟まれている子供を引っ張り出して、救急車を呼んで、その子は特殊な血液型だからとても今あるものでは足りませんと言われた。
――お、俺の血液型合います。だから助けてください。お願いします。なんでもします……!
 今考えると信じられない。俺は人のために命をかけるような人間じゃなかったはずなのに、つい、必死になってしまった。
「馬鹿みたいだ」
 でも、そんな馬鹿でもいいじゃないかと思えた。
 俺は明みたいに何でもスマートにこなせるやつじゃない。格好悪くても、惨めでも、精一杯もがいて大切なものを守ればいい。
「美朱は?」
 心は穏やかだ。だって信じているから。
 絶対に、戻ってきていると。
 葵は頷いて、待っていたように早口で話し始める。
「あちこち怪我はしてるけど、状態は落ち着いたってさ。向かい側の個室にいて、今はおじさんたちがついてる。……よかったよな。ほんと」
「そっか」
 葵のほっとした声に同意して、俺は体を起こした。
「あれ、もういいのか?」
「たぶんな」
 別に俺は怪我をしたわけじゃないし、体の自由もほぼ戻ってきていた。
「様子見てくる。もう目覚めるころだから」
「わかるのか」
「ああ」
 確信を持って頷くと、葵はからかうように笑う。
「いつの間にそんな通じ合ったのかね」
 まあいいけど、と言って、葵もまた立ち上がる。
「あ、俺今日はもう帰るけど、今度あやめと見舞いにくるから。高校に編入できたこと、伝えたいし」
 病室を後にして、病院服のまま廊下を渡る。頭は血液不足でくらくらしたが、足取りはしっかりしていた。
 向かい側の扉に辿り着いて手をかけたまま、ふとその手を止める。
「すまなかった。お前だけでも無事でよかった。本当に……」
 宏葉さんの声が震えているのが聞こえた。もしかしたら泣いているのかもしれないと思って、俺は立ち竦んだ。
 その後に小さな、本当に耳を澄ませないと聞こえないような声が届いた。
「お父さん。私、向こうで、お姉ちゃんに会ったよ」
 久しぶりのようで久しぶりでない、美朱の声だ。
「お姉ちゃんはお父さんのこと、好きだったよ。でももうそっちへ帰れないから、私によろしくって」
 沈黙が扉の向こうを包む。
 俺は思いきって、扉を横に引くことにした。
 カーテンを閉めきった部屋に光が入っていく。美朱が眩しそうに目を細めるのがわかった。
「父さん、母さん。二人とも少し休んでおいでよ。僕が見てるから」
「そう。じゃあお願いね、大地」
 目を擦りながら、母と父は部屋から出て行く。
 パタンと扉が閉まった。
 軽く息を吸って心を落ちつける。
「おかえり」
 一瞬の間の後、美朱が少し照れながら言った。
「ただいま。お兄ちゃん」
 俺はすぐ退院できたが、美朱は怪我もあって入院生活が長引くことになったので、俺はできる限り病院で過ごすようにした。
 天気のいい日は屋上で座り込みながら、二人でのんびりと話をする。
「じゃあ、お兄ちゃんは昔グレてたの?」
「そうだよ。誰だ、真面目だなんてお前に言ったやつ」
 話すことはたくさんあったから、話題が尽きることはなかった。
「でもとても頭がいいって聞いたよ」
「勉強したんだよ。俺、将来は父さんと同じ仕事したいから」
「そうなんだ……」
 それだけじゃない。美朱に賢い兄ちゃんと思われたかった。
 ぐっと喉の奥でその言葉を飲み込んで、俺は口を開いた。
「美朱。俺、お前に嫌われてると思ってた」
 きょとんとする美朱に苦笑して、俺は言う。
「仕方ないんだって諦めてた。昔の不良仲間と一緒のところ見られたり、背中の傷見られたりしてたし、何より……俺が家族になったせいで、お前は明と離れなきゃいけなくなったんだから」
 美朱に初めて会った時に思った。
 俺はこの子から姉を奪おうとしてる。この子を不幸にしてしまうかもしれない。
「でも、でもな。俺、それでも譲りたくなかった」
 でも引けなかったのは、俺のわがままだ。
「家族になりたかった。母さんと宏葉さんと、美朱。その中に俺が入りたいって、どうしても欲が出た」
 頼りにしても揺らがないと信じられる父親。そして……ずっと表情を失っていた俺を初めて笑わせてくれた、温かい妹。
「嫌われても、うっとうしがられてもいいって思って、新しい生活を始めたんだ。兄らしいことできるだけやって、明の代わりになれたらそれでいいと」
 でも、上手くいかなかった。どんどん自分の殻に閉じこもっていく美朱を笑わせることは、たぶん明にしかできないことだったのだから。
「ごめん、美朱。俺、美朱とあの世界に迷い込んで、初めてお前が考えてたことを知ったんだ。俺が見ている世界と美朱が見ている世界は、全然違ったんだって見せ付けられた」
 美朱はふるふると首を横に振って、慌てて言う。
「私が、何にも言わなかったから……」
「言えないことだってあるだろ? 俺だって経験があるのに、わかってなかった」
 黙って待っていられたって、自分で這い上がれない時もある。両手を差し伸べて、引っ張り上げるときだって必要なのだ。
 俺の場合は宏葉さんがそうしてくれた。すぐに治療を受けさせてくれて、俺はようやく最近安らいで眠れるようになった。
「独りにしてごめんな。ちゃんと、美朱のところまで下りてやれなくて」
「ううん、お兄ちゃん、それは」
 おろおろとする美朱の頭を軽く手でぽんぽんと叩いて、俺は苦笑した。
「お前は悪くないんだよ。まずはそこから改めないとな」
 そう言って、俺はポケットから一つの物を取り出した。
 ガラスの小瓶の中で乱反射して、七色の欠片が浮かび上がる。
「これ……」
「明がお前に渡したガラス玉の欠片だよ。あやめちゃんと葵が、大きな部分だけ拾い集めてきてくれたんだ」
 ガラス玉は事故で砕けて欠片になった。必死で美朱が守ろうとしたけれど、結局形は失われた。
「綺麗だろ? こうやって、光に透かしてみると乱反射する」
 でも無くなったわけじゃない。
 美朱は自分の閉じこもっていた一つの世界を、自分の力で打ち壊したんだと思う。この欠片は、その証なのだ。
「あやめちゃんも葵も、元気になったら遊びに来てほしいって言ってた。あの厳しい東条先生だって、復学を考えるのは落ち着いてからでいいって手紙をくれたよ」
 俺は天を仰いでのんびりと寝転がる。
「母さんも父さんも、俺だって、美朱にはちゃんとついてるんだから。ゆっくりでいい。美朱が安心してからでも、外へ出るのは遅くない」
 俺は明みたいに、ぴったり美朱を守るガラスのドームのような世界は作れない。
 けど、崩れたガラスの欠片の後に美朱が築く、新しい道を作る手助けなら、きっとできる。
「がんばる。ありがとう、お兄ちゃん」
 少しだけ笑った美朱に俺は目を細めて、小瓶のガラスを太陽にかざした。
 始まりにしよう。美朱も、俺も、もう一回最初から。
 雨上がりに砕けた虹はいくつもの光を放ち、新たな世界を形成する。その世界にはきっと、もっとたくさんの人物が登場するようになる。
 空の色が変わってきていた。太陽がビルの隙間から空へ浮く。
 無限の光に彩られた一日がまた始まる。

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