夏はもう終わりだった。風の匂いが、静かな秋を運んできていた。
 堤防の上に着いた時はもう、日が沈む直前になっていた。血に濡れたような赤い夕焼けへと変わり、後はただ消えるだけの時だった。
「咲子さんは仕事をやめるそうよ」
 夕陽をみつめながら突然言い出した姉に、私は訝しげに振り返る。
「だから美朱はもう退院。ちゃんと様子を見ててくれる咲子さんと一緒にいれば、あなたは大丈夫なんだって」
 姉の長い髪を涼しげな風が梳いていく。
「でも、私は駄目」
 明るい茶色の髪が清流のように、きらきらと光を反射して輝いていた。
「私、感情の抑えがきかないの。また爆発したら今度こそ大変なことになるから、別の病院で治療を受けることになった」
 はっと私は息を呑む。
「遠い所だし、父さんたちも止めるだろうからもう会えないわ」
「な……!」
 感情を抑えた声で姉は言って、手に持っていた紙袋を地面に下ろした。
 自由になった自分の手をじっとみつめながら、彼女は顔をくしゃりと歪める。
「わかって、美朱。私は恐いのよ。美朱が近くにいたら、私、美朱を傷つけるもの。異常なの。一緒にはいられないのよ。だからお別れを……」
「……い、いや、だ。嫌だ!」
 声は、喉の奥から爆ぜるように出てきた。
 腕を力いっぱい握り締めて、姉を見上げる。彼女は目を見開いて、少し痩せた顔に驚きの表情を浮かべていた。
「やだっ! い、一緒って言った! お母さん、だめでも、お姉ちゃんは一緒!」
 思考がひどく子供じみているのがわかったけど、止められなかった。
「やだよぉ……」
 姉の胸に頭を押しつける。腕はまだしっかりと握ったままだ。離すつもりなんてなかった。
 涙で滲んだ目の先に、オレンジに光る何かが見えた。彼女はポケットからそれを取り出す。
「私だって嫌……」
 暗い響きの言葉を姉がつぶやく。
 橙色は、太陽の光を反射しているからだった。
 本来は銀の冷ややかな色。……いつか見た、銀の刃。
 ナイフだと理解した瞬間、私はむしろ安心していた。穏やかな気持ちで目を閉じる。
 姉が望むのなら、それでいい。
 ザクっとどこかでナイフの刺さる音が聞こえた。だけどいつまでたっても痛みは襲ってこない。
 私は目を開いて、驚いた。私のほんの数センチ目の前で、誰かがナイフを掴んでいたから。
「何、してんだよ」
 黒いジャケットと揺れる声で、すぐに兄だとわかった。
「お前、何てことしやがる!」
 鈍い音がして、姉が突き飛ばされた。追いかけようとした私はすぐさま、兄に襟首をつかまれる。
 ぽたぽたっと、兄の右手から血が滴った。
「ち……」
 兄はすっと右手を体の後ろに隠して、地面に転がったナイフを踏みつける。
 姉は既に立ちあがっていた。じっと地面をみつめたまま、兄も私も見ようとはしなかった。
「大事だから、好きだから、離れたくないから。だったら何してもいいのか!」
 普段の冷静な声とは違う、怒りを露わにした兄の言葉に、私は体が竦んだ。
「あんたに、私の気持ちなんてわからないわよ」
「わかんねぇよ。わかりたくもない!」
 疲れたように呟く姉に、兄は苛立たしげに叫ぶ。
 兄はキッとこちらを睨みつけて言った。
「お前もだよ。美朱」
 射るような眼差しを受けて、思わず目をそらす。黒く、深い闇がそこにある。
「お前が何考えてるかなんて、俺にはさっぱりわからない。何なんだよ。お姉ちゃん、お姉ちゃんって。いつまで言ってる気だよ」
 兄の声は、混乱しきった悲痛な響きだった。
「わからない……わからない! 七年だ。明より、ずっと一緒にいたはずだ……!」
 口調が段々と荒々しくなっていく。
「だめだよ、もう……」
 この瞬間まで、私は兄にどう思われていても甘んじて受けようと決めていた。
「もう帰って来るな!」
 でも感じたのは、心の中にぽっかりと穴ができたような、空虚な気持ちだけだった。
 もうおしまいだ。お前なんて要らない。
 そんな言葉がふいに頭に浮かんだ。
「あ……」
「落ち着いて。あなたの気持ちはわかったわ」
 何か言おうとした兄を遮るようにして姉が言う。
「美朱は私がちゃんと送っていくから。先に行ってて」
 彼女が手を伸ばしたので、私は無言で、それに自分の手を重ねた。