誰かに呼ばれた気がして、意識がゆっくりと浮かんだ。
最初に視界いっぱいに映ったのは闇だった。かろうじて自分の手が見える程度の光が、木漏れ日のように頭上高くから私をちろちろと照らしていた。
体を慎重に起こしながら目を凝らす。硬い床に寝そべっていたのに不思議と体は強張っていなかった。
次第に暗闇に慣れてきた目で、私は周りの様子に驚く。
何もかも一つのもので出来ている部屋。床も、壁も、天井すらも。
まるで、ガラスのプラネタリウム。大きなガラス玉の中心に、私はいたのだった。
傍らで靴音が聞こえて、私は顔を上げる。暗闇の中であるはずなのに、その人の姿は内側から光っているようにはっきりと見えた。
年は二十歳くらいで、淡いブラウンの長い髪に、鼻筋の通った整った顔立ちの女の人。体の線をくっきりと見せる赤いワンピースが、すらりとした長身とスタイルを飾っていて、モデルみたいに綺麗だった。
「ここは?」
その人と私を包む奇妙な空間をみつめながら、私は疑問を投げかけた。彼女は少しだけ沈黙して、長い睫毛を伏せた。
そっと私の前にしゃがみこんで、彼女は言った。
「……死へ向かう世界」
私にはその優しい瞳が、泣いているように見えた。
「私、死ぬんですか」
私の口から、拍子抜けするくらい波の無い言葉が漏れた。
胸に落ちた死という言葉は、やっとそこに行けるという安心があった。
「死にたいのか、お前」
床のガラスに僅かに反響して、別の声が届いた。
振り返ると、壁にもたれて立っている男の人が目に映る。女の人と同年代くらいで、簡単に袖が通されているだけの白い服を着ていた。
「やり残したことも、惜しむこともないってか?」
投げつけるような、苛立たしげな言葉だった。なんて馬鹿なやつと、彼は厳しい目で私をにらみつけた。
その鋭く強い目つきに怯む。
「生きていた頃……は」
ぽつりと思わず口に出してから、私は気づく。
「……何も思い出せなくて」
二人がはっと息を呑む気配がした。
頭を軽く押さえて思い出そうとしたけど、すぐにその手を下ろす。
「穏やかで、静かな気持ちなんです」
男の人はわずかに眉をひそめたけど、今度は私を睨むことはなかった。私はゆるゆると首を横に振って、ぼんやりとガラスの天球を仰ぐ。
天頂から差し込む光は私の頬を掠めていたけど、温かさも冷たさも感じない。
「どこも痛くもなくて、苦しくもないのは、久しぶりのような気がして……」
「だから死ぬのか」
その男の人の声を聞いて、私の喉の奥が痛んだ。
責めている口調じゃなかった。目も、もう私を睨んではいない。
それなのに言い返す気力がなかった。悔しげに唇を噛み締めた彼を見て、うなずくのはあまりに悲しくて。
「やめなさい。決めるのは美朱よ」
女の人が短く挟んだ言葉に、私も彼も振り返る。
美朱という名前に私は胸の奥を引っかかれた。
そう、これは私の名前。すとんと体の中に入るように、記憶が蘇る。
「決めるってどういうことだ?」
私が自分の名前を口の中で繰り返していると、男の人が問い返す。女の人の方がゆっくりと答えた。
「死へ向かう世界と言ったでしょう? 放っておけば死に飲み込まれるけれど、まだ戻れるの」
彼は険しい目を微かに和らげて、私を一瞥する。
「よかったな。お前、帰ればいいんだよ」
私は困ったような顔をすることしかできなかった。
生きること、それはいいことのようで、なんだか暗い気持ちがつきまとう。
「あなたもよ。ここは死を待つ船着場、待合所のようなものなの」
男の人をすっと指差して、彼女は告げる。
「でもそれぞれここへ来た目的を果たさないと、進むことも戻ることもできない」
厳しい目で私と彼を順々にみつめた後、彼女はふわりと両手を前へと差し出した。
その両手の間に光が現れた。それはガラスの万華鏡のように輝きながら、やがて透明な光の結晶になって球体を形作る。
「これに覚えはある? 美朱」
彼女の腕にすとんと落ちたその大きなガラス玉を見て、私は迷わず頷いていた。
「それ、「硝子の虹」。私……それを追ってきた」
「そうよ」
ガラスは弧を描くようにして私の腕へと降りてきた。私はそれを、そっと包み込むようにして抱きしめる。
ガラス玉は内部に屈折した切れ目が幾重にも入っていて、わずかな光でも多彩な反射で色を生み出す。心を落ち着かせてくれるような、柔らかな透明の光だった。
私はゆっくりと撫でたその感触に息を呑む。
「このガラス玉、欠けてる」
「ええ」
女性を見上げて問いかけた。
「どうして?」
自分の口調が必死になっていたことに気づいた。何か大事なものを失くしてしまった、そんな思いが胸をぎゅっと掴む。
女の人は少し屈みこんで、私の頭をそっと撫でる。
「あなたはあまりに強くそれを抱きしめていたから、ガラスと一緒にあなたの記憶まで欠けてしまったの」
私はぐるりと辺りを見回した。
薄闇で、どの程度の広さがあるのかはっきりしないガラスのプラネタリウム。けれど時折蛍のように小さな光が宿る。
「欠片はすべてこの中にあるはず。行くか帰るかは、それを集めてから決めなさい」
頷くと、彼女は慈しむようにして私に微笑んだ。
「……教えてくれ、明」
音もなく男の人が女性の後ろに立った。彼は裸足で、被るだけの簡単な白い服は、手術で着る病人服のようだった。
「あなたの記憶は欠けてない。自分で、どうすべきかわかるでしょう」
「違う。俺のことじゃない」
男の人は硬い表情で、彼女に早口で問いかける。
「どうしてお前がここにいる?」
彼女、明さんは少しだけ目をかげらせた気がした。
次の瞬間にはもう穏やかな表情に戻っていて、何でもないことのように言葉を継ぐ。
「大地」
それが、彼の名前のようだった。
「何もかもわかってやって来たあなたに、私の案内は必要ないでしょう」
立ち上がって、明さんは私の肩に手を置きながら片方の腕を上げる。
「空の色が変わってきたわね。美朱、あの川が見える?」
明さんの指差した先、ガラス玉の外には、丘のような起伏があった。
「今は水がないけれど、日が昇ると増水する川なのよ」
そこは、川とは思えないほど高低差の多い岩場だった。
ところどころ突出している足場を使えば歩けないことはないけれど、それを囲むのは底の見えない深い谷底のような溝。暗い闇のように深いくぼみは、果てしなくガラス玉の向こうに横たわっていた。
「夜になったら水位が上がって、この辺り一帯が飲み込まれてしまう。だから、ここで私たちが存在できるのはあと一日」
彼女は私と大地さんをそれぞれみつめて言う。
「だけどあの向こうに辿り着けたなら。また生きることができるわ」
最初に視界いっぱいに映ったのは闇だった。かろうじて自分の手が見える程度の光が、木漏れ日のように頭上高くから私をちろちろと照らしていた。
体を慎重に起こしながら目を凝らす。硬い床に寝そべっていたのに不思議と体は強張っていなかった。
次第に暗闇に慣れてきた目で、私は周りの様子に驚く。
何もかも一つのもので出来ている部屋。床も、壁も、天井すらも。
まるで、ガラスのプラネタリウム。大きなガラス玉の中心に、私はいたのだった。
傍らで靴音が聞こえて、私は顔を上げる。暗闇の中であるはずなのに、その人の姿は内側から光っているようにはっきりと見えた。
年は二十歳くらいで、淡いブラウンの長い髪に、鼻筋の通った整った顔立ちの女の人。体の線をくっきりと見せる赤いワンピースが、すらりとした長身とスタイルを飾っていて、モデルみたいに綺麗だった。
「ここは?」
その人と私を包む奇妙な空間をみつめながら、私は疑問を投げかけた。彼女は少しだけ沈黙して、長い睫毛を伏せた。
そっと私の前にしゃがみこんで、彼女は言った。
「……死へ向かう世界」
私にはその優しい瞳が、泣いているように見えた。
「私、死ぬんですか」
私の口から、拍子抜けするくらい波の無い言葉が漏れた。
胸に落ちた死という言葉は、やっとそこに行けるという安心があった。
「死にたいのか、お前」
床のガラスに僅かに反響して、別の声が届いた。
振り返ると、壁にもたれて立っている男の人が目に映る。女の人と同年代くらいで、簡単に袖が通されているだけの白い服を着ていた。
「やり残したことも、惜しむこともないってか?」
投げつけるような、苛立たしげな言葉だった。なんて馬鹿なやつと、彼は厳しい目で私をにらみつけた。
その鋭く強い目つきに怯む。
「生きていた頃……は」
ぽつりと思わず口に出してから、私は気づく。
「……何も思い出せなくて」
二人がはっと息を呑む気配がした。
頭を軽く押さえて思い出そうとしたけど、すぐにその手を下ろす。
「穏やかで、静かな気持ちなんです」
男の人はわずかに眉をひそめたけど、今度は私を睨むことはなかった。私はゆるゆると首を横に振って、ぼんやりとガラスの天球を仰ぐ。
天頂から差し込む光は私の頬を掠めていたけど、温かさも冷たさも感じない。
「どこも痛くもなくて、苦しくもないのは、久しぶりのような気がして……」
「だから死ぬのか」
その男の人の声を聞いて、私の喉の奥が痛んだ。
責めている口調じゃなかった。目も、もう私を睨んではいない。
それなのに言い返す気力がなかった。悔しげに唇を噛み締めた彼を見て、うなずくのはあまりに悲しくて。
「やめなさい。決めるのは美朱よ」
女の人が短く挟んだ言葉に、私も彼も振り返る。
美朱という名前に私は胸の奥を引っかかれた。
そう、これは私の名前。すとんと体の中に入るように、記憶が蘇る。
「決めるってどういうことだ?」
私が自分の名前を口の中で繰り返していると、男の人が問い返す。女の人の方がゆっくりと答えた。
「死へ向かう世界と言ったでしょう? 放っておけば死に飲み込まれるけれど、まだ戻れるの」
彼は険しい目を微かに和らげて、私を一瞥する。
「よかったな。お前、帰ればいいんだよ」
私は困ったような顔をすることしかできなかった。
生きること、それはいいことのようで、なんだか暗い気持ちがつきまとう。
「あなたもよ。ここは死を待つ船着場、待合所のようなものなの」
男の人をすっと指差して、彼女は告げる。
「でもそれぞれここへ来た目的を果たさないと、進むことも戻ることもできない」
厳しい目で私と彼を順々にみつめた後、彼女はふわりと両手を前へと差し出した。
その両手の間に光が現れた。それはガラスの万華鏡のように輝きながら、やがて透明な光の結晶になって球体を形作る。
「これに覚えはある? 美朱」
彼女の腕にすとんと落ちたその大きなガラス玉を見て、私は迷わず頷いていた。
「それ、「硝子の虹」。私……それを追ってきた」
「そうよ」
ガラスは弧を描くようにして私の腕へと降りてきた。私はそれを、そっと包み込むようにして抱きしめる。
ガラス玉は内部に屈折した切れ目が幾重にも入っていて、わずかな光でも多彩な反射で色を生み出す。心を落ち着かせてくれるような、柔らかな透明の光だった。
私はゆっくりと撫でたその感触に息を呑む。
「このガラス玉、欠けてる」
「ええ」
女性を見上げて問いかけた。
「どうして?」
自分の口調が必死になっていたことに気づいた。何か大事なものを失くしてしまった、そんな思いが胸をぎゅっと掴む。
女の人は少し屈みこんで、私の頭をそっと撫でる。
「あなたはあまりに強くそれを抱きしめていたから、ガラスと一緒にあなたの記憶まで欠けてしまったの」
私はぐるりと辺りを見回した。
薄闇で、どの程度の広さがあるのかはっきりしないガラスのプラネタリウム。けれど時折蛍のように小さな光が宿る。
「欠片はすべてこの中にあるはず。行くか帰るかは、それを集めてから決めなさい」
頷くと、彼女は慈しむようにして私に微笑んだ。
「……教えてくれ、明」
音もなく男の人が女性の後ろに立った。彼は裸足で、被るだけの簡単な白い服は、手術で着る病人服のようだった。
「あなたの記憶は欠けてない。自分で、どうすべきかわかるでしょう」
「違う。俺のことじゃない」
男の人は硬い表情で、彼女に早口で問いかける。
「どうしてお前がここにいる?」
彼女、明さんは少しだけ目をかげらせた気がした。
次の瞬間にはもう穏やかな表情に戻っていて、何でもないことのように言葉を継ぐ。
「大地」
それが、彼の名前のようだった。
「何もかもわかってやって来たあなたに、私の案内は必要ないでしょう」
立ち上がって、明さんは私の肩に手を置きながら片方の腕を上げる。
「空の色が変わってきたわね。美朱、あの川が見える?」
明さんの指差した先、ガラス玉の外には、丘のような起伏があった。
「今は水がないけれど、日が昇ると増水する川なのよ」
そこは、川とは思えないほど高低差の多い岩場だった。
ところどころ突出している足場を使えば歩けないことはないけれど、それを囲むのは底の見えない深い谷底のような溝。暗い闇のように深いくぼみは、果てしなくガラス玉の向こうに横たわっていた。
「夜になったら水位が上がって、この辺り一帯が飲み込まれてしまう。だから、ここで私たちが存在できるのはあと一日」
彼女は私と大地さんをそれぞれみつめて言う。
「だけどあの向こうに辿り着けたなら。また生きることができるわ」