菜の花の花びらを一枚手にとってガラス玉に乗せると、金の光を放ってそれは消える。代わりにガラス玉にあったくぼみが一つ消えて、残る欠片は二つだけになった。
顔を上げると、そこには私にとって誰より大切な人が、泣きそうな顔で座っていた。
「お姉ちゃん」
唇を震わせて体を縮こまらせている。幼い子どものように心細げな姉に、言い聞かせるように言葉をかける。
「私の怪我は大したことなかったんだよ。ちょっと瞼を切っただけで、失明したわけじゃない」
姉は首を横に振って言う。
「でも、美朱の視力はそのせいで随分と落ちたじゃない。私が、私が美朱を傷つけたの……」
「お姉ちゃんは悪くないよ」
その綺麗な瞳をみつめながら、私は首を横に振る。
「傷ついてほしくなかっただけ。お父さんにも、お姉ちゃんにも、お互いを傷つけて泣いてほしくなかっただけ」
仕方なかったんだと思う。姉はもう、父に怒りを向けることでしか、行き場のない感情を外へ出すことができなかった。
「傷つかないで、お姉ちゃん。もういいから」
姉の肩に頭を寄りかからせて、私はその心地よさに目を閉じる。
「いつだって、お姉ちゃんは私の側にいてくれたんだから」
父の記憶も母の記憶も辛くて、本当は思い出したくなかった。けれど最後までちゃんとみつめることができたのは、姉が一緒にいてくれたから。
ふと私は眉を寄せる。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃんはどうしてここに……?」
一瞬、最悪の考えがよぎったけど、姉が笑いながら立ちあがったので私はすぐにそれを振り払った。
時刻は夕方、少し前。美しい橙色に空が染まる頃。
晴れやかな、一日の内でもっとも壮大な空のパレードが始まる時間。
「次の記憶は?」
「うん」
私はガラスの空を見上げて、私が一番好きな、オレンジの光に包まれた。
「中二の夏の終わり。私に光を与えてくれた、お姉ちゃんの記憶」
目の治療を受けた後まもなく、私はどこかの病院に収容されたらしい。その頃にはもう、私は人と話すことがほとんどできなくなっていたせいだ。
病院がどこにあるのかもわからない。日夏先生の病院じゃないことは確かだった。葵君の手術のため、家族総出で引っ越したのは知っていた。
日がな一日、絵を描いた。去年は一緒だった葵君も今はもういない。でも絵を描くのはやめなかった。
目が悪くなったせいだろうか。視界がおかしい。
父や咲子さんが頻繁に様子を見に来てくれているのはわかるのに、人の姿が人として捉えられなくなっていた。薄ぼんやりとした、水に溶かした絵の具を広げた靄のようになってしまう。
かろうじてその色のイメージで、誰であるかはわかった。表情や、時には言葉でさえ、よくわからないこともあった。
一番多く来てくれたのは兄だった気がする。いつも特定の時間になると現れた。
今もそこにいる。扉から入って右に曲がったところに、彼がいる。黒い影のような、捉え所のない色を示している人。
ただし、今日も一言もしゃべらないままだった。
小さな音と、扉の閉まる音が聞こえた。
何かがテーブルに置かれた気がしたので、私は兄が出ていった後にそのテーブルに近寄った。
置かれていたのは絵の具のセットだった。毎日絵を描きつづけると案外すぐ切らすものだから、それの補充らしかった。
どうして私を嫌っているはずのお兄ちゃんが?
本人に訊いてみないことにはわからない。けど、咲子さんにすら話しかけられない今では、兄に声をかけることはできなかった。
水を汲んで、パレットに絵の具を取り出して混ぜ合わせる。ほどよく混ざったところで紙に試してからキャンバスへ向かった。
自分がこんなに弱い人間だとは思っていなかった。
声が出せないくらいならまだいい。けど今は人との交流に恐怖を感じて、体が勝手に竦んでしまう。誰かが頭に触れただけで視界が真っ暗になる。
そうでなくとも人が様々な色の混ざりあった霧に見えてしまうなんて、明らかに異常だ。たびたび咲子さんや父が家に連れて帰ろうとしてくれるけど、私は扉にすがりついて拒否していた。
私が家にいたら、せっかく築かれた家族の輪を、崩してしまう気がした。もう私のせいで誰かが別れたり傷つけあったりしてほしくなかった。
ズッ……と掠れた音が聞こえる。
いつの間にか絵の具が切れていた。兄が新しいものを持ってきてくれたけど、今回のキャンバスに使われているのはほとんど赤と黄色だけ。当然その二つだけすぐに切らす。
黄色は既に下に塗りこんでいるから、後は上に赤をたくさん薄めて被せていくだけなのに。
ふとアイディアが浮かんで、私は頷く。
無いなら代用すればいい。いくらでも私は色の元を持っている。
筆を置き、右手を自由にしてからその親指をキャンバスの角に引っかけて爪をはがす。
鋭い痛みは走ったものの、そこから赤い色が流れ出したことに安心して、私は再びキャンバスへ向かった。
赤を薄めて黄色に上乗せすると、オレンジになる。夕方の空の色だ。
どうして夕焼けの絵など描いたのか。夕暮れは一日で一番、太陽が輝く時。一番華やかで優しい、光満ちる時。
扉が開く。いつもこの時間帯は誰も来ないのに。
この西に面した扉から、夕暮れが覗く時には。
「美朱」
私にとって光の象徴であったその人が顔を覗かせた時、私はやっぱり彼女には夕陽が一番似合っていると思った。
「ちょっと、外に出ない? 話したいことがあるのよ」
迷う理由はなかった。隔離されていたせいで、姉には病院に来てから一度も会っていなかったから。
頷く私に、姉は微笑んで手を差し伸べる。
「行きましょう」
どこへと姉は言わなかった。
扉の外に鍵をこじ開けた跡が見えた。今回ばかりは怒られるどころではすまない。姉が、父たちの知らないところへ私を連れて行こうとしていることくらいわかっていた。
それでも姉と一緒なら怖くない。
これが最後になると、わかっていても。
顔を上げると、そこには私にとって誰より大切な人が、泣きそうな顔で座っていた。
「お姉ちゃん」
唇を震わせて体を縮こまらせている。幼い子どものように心細げな姉に、言い聞かせるように言葉をかける。
「私の怪我は大したことなかったんだよ。ちょっと瞼を切っただけで、失明したわけじゃない」
姉は首を横に振って言う。
「でも、美朱の視力はそのせいで随分と落ちたじゃない。私が、私が美朱を傷つけたの……」
「お姉ちゃんは悪くないよ」
その綺麗な瞳をみつめながら、私は首を横に振る。
「傷ついてほしくなかっただけ。お父さんにも、お姉ちゃんにも、お互いを傷つけて泣いてほしくなかっただけ」
仕方なかったんだと思う。姉はもう、父に怒りを向けることでしか、行き場のない感情を外へ出すことができなかった。
「傷つかないで、お姉ちゃん。もういいから」
姉の肩に頭を寄りかからせて、私はその心地よさに目を閉じる。
「いつだって、お姉ちゃんは私の側にいてくれたんだから」
父の記憶も母の記憶も辛くて、本当は思い出したくなかった。けれど最後までちゃんとみつめることができたのは、姉が一緒にいてくれたから。
ふと私は眉を寄せる。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃんはどうしてここに……?」
一瞬、最悪の考えがよぎったけど、姉が笑いながら立ちあがったので私はすぐにそれを振り払った。
時刻は夕方、少し前。美しい橙色に空が染まる頃。
晴れやかな、一日の内でもっとも壮大な空のパレードが始まる時間。
「次の記憶は?」
「うん」
私はガラスの空を見上げて、私が一番好きな、オレンジの光に包まれた。
「中二の夏の終わり。私に光を与えてくれた、お姉ちゃんの記憶」
目の治療を受けた後まもなく、私はどこかの病院に収容されたらしい。その頃にはもう、私は人と話すことがほとんどできなくなっていたせいだ。
病院がどこにあるのかもわからない。日夏先生の病院じゃないことは確かだった。葵君の手術のため、家族総出で引っ越したのは知っていた。
日がな一日、絵を描いた。去年は一緒だった葵君も今はもういない。でも絵を描くのはやめなかった。
目が悪くなったせいだろうか。視界がおかしい。
父や咲子さんが頻繁に様子を見に来てくれているのはわかるのに、人の姿が人として捉えられなくなっていた。薄ぼんやりとした、水に溶かした絵の具を広げた靄のようになってしまう。
かろうじてその色のイメージで、誰であるかはわかった。表情や、時には言葉でさえ、よくわからないこともあった。
一番多く来てくれたのは兄だった気がする。いつも特定の時間になると現れた。
今もそこにいる。扉から入って右に曲がったところに、彼がいる。黒い影のような、捉え所のない色を示している人。
ただし、今日も一言もしゃべらないままだった。
小さな音と、扉の閉まる音が聞こえた。
何かがテーブルに置かれた気がしたので、私は兄が出ていった後にそのテーブルに近寄った。
置かれていたのは絵の具のセットだった。毎日絵を描きつづけると案外すぐ切らすものだから、それの補充らしかった。
どうして私を嫌っているはずのお兄ちゃんが?
本人に訊いてみないことにはわからない。けど、咲子さんにすら話しかけられない今では、兄に声をかけることはできなかった。
水を汲んで、パレットに絵の具を取り出して混ぜ合わせる。ほどよく混ざったところで紙に試してからキャンバスへ向かった。
自分がこんなに弱い人間だとは思っていなかった。
声が出せないくらいならまだいい。けど今は人との交流に恐怖を感じて、体が勝手に竦んでしまう。誰かが頭に触れただけで視界が真っ暗になる。
そうでなくとも人が様々な色の混ざりあった霧に見えてしまうなんて、明らかに異常だ。たびたび咲子さんや父が家に連れて帰ろうとしてくれるけど、私は扉にすがりついて拒否していた。
私が家にいたら、せっかく築かれた家族の輪を、崩してしまう気がした。もう私のせいで誰かが別れたり傷つけあったりしてほしくなかった。
ズッ……と掠れた音が聞こえる。
いつの間にか絵の具が切れていた。兄が新しいものを持ってきてくれたけど、今回のキャンバスに使われているのはほとんど赤と黄色だけ。当然その二つだけすぐに切らす。
黄色は既に下に塗りこんでいるから、後は上に赤をたくさん薄めて被せていくだけなのに。
ふとアイディアが浮かんで、私は頷く。
無いなら代用すればいい。いくらでも私は色の元を持っている。
筆を置き、右手を自由にしてからその親指をキャンバスの角に引っかけて爪をはがす。
鋭い痛みは走ったものの、そこから赤い色が流れ出したことに安心して、私は再びキャンバスへ向かった。
赤を薄めて黄色に上乗せすると、オレンジになる。夕方の空の色だ。
どうして夕焼けの絵など描いたのか。夕暮れは一日で一番、太陽が輝く時。一番華やかで優しい、光満ちる時。
扉が開く。いつもこの時間帯は誰も来ないのに。
この西に面した扉から、夕暮れが覗く時には。
「美朱」
私にとって光の象徴であったその人が顔を覗かせた時、私はやっぱり彼女には夕陽が一番似合っていると思った。
「ちょっと、外に出ない? 話したいことがあるのよ」
迷う理由はなかった。隔離されていたせいで、姉には病院に来てから一度も会っていなかったから。
頷く私に、姉は微笑んで手を差し伸べる。
「行きましょう」
どこへと姉は言わなかった。
扉の外に鍵をこじ開けた跡が見えた。今回ばかりは怒られるどころではすまない。姉が、父たちの知らないところへ私を連れて行こうとしていることくらいわかっていた。
それでも姉と一緒なら怖くない。
これが最後になると、わかっていても。