数週間後、けぶるような雨が降っていた。
 曇天の空をじっと見上げてから、私は中へ入った。
 入れ違いに参列客が出て行き、私はいくらかの言葉を受けながら無言で歩く。言葉の内容は覚えていないけど、かわいそうにね、とか、辛いけど頑張ってね、とかそういう言葉だったと思う。
「美朱。こっち」
 姉に呼ばれて、私は小走りで駆け寄った。
 二十畳くらいの和室に父と咲子さん、兄、そして姉が円を描くようにして座っている。
 母だけがその中にいない。……お母さんだけが。
「こういう時にこんな話もなんだが」
 父が重い口を開いて姉を見る。
「鈴菜がいない今、お前は私たちのところに……」
「私は自分で生活していけるわ」
 姉は父を真っ直ぐに見据える。
「美朱も一緒に暮らすの」
 姉の瞳は決して揺れなかった。父は一瞬言葉を失ったけれど、すぐに落ち着きはらって言った。
「気に食わないのはわかるが、お前も美朱も子どもだ。放っておけるわけないだろう。美朱はお前じゃ面倒なんてみられない」
 姉の目に感情が一瞬だけ宿って、氷のように冷たい声が飛ぶ。
「美朱を全然育てられなかったのは、あんたじゃない」
「……何?」
 父の目に鋭さが増す。
「明ちゃん。宏葉さんはそんなつもりじゃ……」
「美朱のことに他人が口を出さないで」
 ぴしゃりと言われて、咲子さんは肩を落とした。昔から大人顔負けに頭の回転が速い姉に、そう簡単に太刀打ちできる人はいなかった。
 この時の姉の剣幕にはすさまじいものがあった。
「母さんは過労だったのよ。あんたの会社から追い出された時にはもう若くなかったのに無理して、別の所に就職して。働きづめで」
「金で解決したくはないと言ったのはあいつだ」
 父の低い声にも口調を変えず、姉は淡々と続ける。
「お金より大事なものを奪ったのは誰?」
 姉は、視線を決して父から外さなかった。全く無表情で、それがかえって姉の内心が激しく揺れているのを想像させた。
「あんた、母さんが美朱によこした連絡手段、全部、握り潰したわね」
「……離婚するときにそういう約束だったからだ」
「母さんはちゃんと電話番号も仕事先の住所も送ってたらしいわ。手紙だって月に一度は送り続けたって聞いた。でも、美朱に届いたことなんて一度もないんじゃないの?」
 それは私も知らなかった。お父さんが会ってはいけないと言ったのはお母さんたちの生活があるからで、私に連絡を取ろうとしていたことなど考えていなかった。
「まあ、あんたと同じくらい母さんも子育て向きの人じゃなかった。どうせ美朱を最初から引き取ってたって、何が違ったってこともなかったのかもね」
「……明」
「誕生日のお祝いなんてしてもらったことないし、行事でプレゼントしてもらったこともないし。母さんも、あんたも」
 傍目にもわかるほど、父は青ざめていた。けど、姉はその乾いた言葉をやめようとはしなかった。
「悲しくなんてなかったわ。母さんがいたっていなくたって……」
 そこで、姉は初めて黙った。言葉を、喉の奥でごくりと飲み込んで。
「明、もういい。わかったから」
 視線を落としてぴくりとも動かない姉に、父が懸命に言う。
「悪かった。私たちが悪かったんだ。理解してやれなかった。お前が」
「……私が?」
 姉は、奇妙にゆっくりと問い返す。
「私が傷ついたとでも言うの?」
 誰も言葉を挟めなかった。感情なんて何もない姉の口調は、心の芯を凍らせるような冷たさがあった。
「何も期待されてなかったから、私の方だって何も期待してなかった」
 人形みたいに、姉は口以外何も動かしていなかった。
「何がわかるのよ。できるわけないじゃない。二十年近く何も知ろうとしなかった人が、今更どんなことしたって無駄じゃない」
 姉は顔を覆って呟く。
「……風邪だって、母さんは言ったもの」
 小さな子どもが言い訳をするように、姉は幼い調子で言う。
「すぐ治るって。治ったら三人で暮らすんだって、言って。私たち子どものことなんて全然眼中にもなかったのに、これからは一緒だって笑って……」
 畳の上に、ぽたりと水滴が落ちた。
「ほら、やっぱり。結局、何もしてくれなかった」
 姉は俯いたままだった。ただ次々と涙が畳に染みを作っていくだけだった。
 雨音が天井を叩く中で、姉の嗚咽の声だけが部屋の中に響く。私は姉の前に回って、そっと肩に手を置いた。姉は握り締めた両手を上げて、私の頭をぎゅっと抱きしめた。
 綺麗な姉の茶色の瞳が、今は真っ赤に歪んでいた。
「……あんたのせいよ」
 一度きつく目を閉じ、彼女は立ち上がる。父を睨みつけたその瞳には、もう姉が内に秘めていた激しい感情が露になっていた。
 彼女はポケットから銀色に光るものを取り出す。
「母さんの代わりにあんたが……あんたが、死ねばよかったのに!」
 姉が初めて見せた、理屈をかなぐり捨てた激情と、純粋な悲しみ。激痛のような心のせめぎあい。
 それがわかってしまったから……私は姉を止めてしまった。
「美朱!」
「美朱ちゃん!」
 皆が一斉に立ちあがる。救急車とか、とりあえず寝かせて、とか様々な声が聞こえる。
 何が起こったのかはわからなかった。ただ右の視界が真っ赤に染まり、がんがんと響くような激痛が顔全体に走っている。
 どうしたんだろう。何も見えない。
「美朱、なんで、お前……っ!」
 父の声が聞こえて安心した。よかった。姉だってきっと本気で、父を傷つけようなんて考えないのだから。
 私は気が遠くなるような痛みの中で思いだす。
 せっかく取ってきたのに、忘れるところだった。
 起き上がろうとすると、それを制止する漆黒の影があった。激痛で感覚が痺れた今なら、彼も怖くなかった。私は影を、兄を振り払って部屋の奥へと這うようにして向かう。
 白い木で作られた、母の棺があった。手探りで蓋を開けて、私は俯く。
 私は母が亡くなったと知った時、悲しむことができなかった。母に何もすることができなかった私に、そんな子どもらしい感情を抱いてはいけないんだと思った。
 だけど一生懸命考えて、たった一つだけ、母に私ができることがあると気づいた。
 死ぬ時は菜の花に囲まれて死にたい。母は私に言い残してくれたから。
 私は外で摘んできた菜の花を一つ、棺に収める。囲むほど花を入れられないのが残念だったけど、これで母の心が少しでも満たされてほしいと、切に願った。