小さい頃の母のイメージは、強い人だった。さばさばとした性格で、優しいと感じることはなかった。
 でも、お母さんなのだ。
 心のどこかで信じている。最後には、母は自分を守ってくれると。
 電車に乗った覚えはないから、たぶん歩いていったのだと思う。昼過ぎに家を出たはずなのに、そこに着いたのは日が沈みかけた時だった。
 『夕部』の表札の前でふと立ち止まる。
 よく考えれば今の時間、母は仕事に行っているはずだ。姉も大学に行っている時間だからいない。
 じゃあ大学へと足を向けたが、すぐにやめた。大学には兄もいる。中一の時勇気を出して姉に会いに行って、偶然隣の学部にいた兄に会ってしまった。それを思い出して、やっぱりここで母を待とうと思った。
 古びた門を開けて中に入ったその時、庭に誰かいるのが見えた。
 ショートにした癖毛の茶髪に、化粧っけのない顔。気の強そうな眉の下で黒の双眸が光っていて、口は一文字に結ばれている。
 離婚して以来一回も会ってはいなかったけど、見間違えるはずがない。まぎれもなく母だった。
 母は縁側に座ってぼんやりと塀の外を見ていたけど、足音でこちらに気づいたらしい。五十近い年齢を感じさせない強い光を持った目で私を一瞥すると、軽く手招きした。
 おずおずと私が側に寄っていくと、母はすっと庭を指差す。
「座って。ほら、綺麗な花でしょう?」
 そこにはたくさんの黄色の花が咲き乱れていた。私の身長くらいのものもあれば、踏み潰してしまいそうな小さな花まで、大小様々だ。
 夕陽の中でも金色の光はまだ輝き続けていて、眩しいくらいだった。
「世話なんてしなくても咲くから好きなのよ、この花。あたしみたいで。死ぬ時は菜の花に囲まれて死にたいわ」
 母はそこで言葉を切り、私の目を見据えて言った。
「家出してきたんだって?」
 咲子さんとは全く違う、柔らかさとは無縁な言い方。だけどそれが懐かしくてたまらなくて、かえって私を安心させた。
「咲子さんを困らせちゃだめよ。いい人なんだから、本当に」
 母はふっと息を抜いた。少し黙り、眉を寄せる。
「……なんでかな。考える前に仕事を抜けてた。美朱が絶対ここに来るって思ったの」
 私を真っ直ぐにみつめた母の顔を、私は食い入るように見返した。
「何があったの? ちゃんと聞くから、ゆっくり話して」
 私の目から涙がぽろっと落ちた。
 母は私の顔を見ただけで、私の気持ちを見抜いてくれた。ちゃんと聞くと言ってくれた。
 それが嬉しくて、恐怖で硬直していた心が溶けて、涙が止まらなかった。
「お、お母さん。あ、あの……」
 私は奇妙な血について話した。ちゃんとした言葉になっていたかは疑わしい。
 だけど母は時々相槌を挟みながら、黙って聞いてくれた。優しい言葉をかけるわけじゃないけど、先を急がせず、真剣に耳を傾け続けた。
「……そう。あたし、美朱にそんなことも教えてなかったんだ……」
 母は複雑な表情をしながら、苦い口調で呟く。
「中へおいで。ちゃんと全部説明する」
 腰を上げて、母は家の中へ入っていく。私も慌てて後に続いた。
 私はろくに学校に行っていなかったし、友達もいなかったから知らなかったけど、それは生理というものだと母は言った。
「病気でも、怖いことでもないのよ。当たり前のことなの」
 母は時間をかけて説明してくれたから、私の混乱していた頭は次第に落ち着きを取り戻していった。
 私はなんとかしてありがとうの言葉だけは伝えられたけど、母は首を横に振って悲しそうな目をするだけだった。
「連絡はしたから、もう少しいても大丈夫よ」
 そう言って縁側に座ったまま、しばらく沈黙が流れた。
 母はじっと何かを考えているようだった。ただならぬ雰囲気を感じ取って、私も黙っていた。
 ふいに小さな声が、母の口から洩れた。
「美朱」
 私から目をそらしながら言う。母は人の目を見て話す人なのに、ひどく緊張した様子で俯いていた。
「あたし、ようやく生活も落ち着いて、収入も安定してきたの。時間は随分とかかってしまったけど」
 早口でまくしあげて、また母は黙った。
「だから、その……美朱がいいなら」
 私はお母さんを見上げてじっと次の言葉を待つ。
 母は私の目を食い入るようにみつめた。
「あたしと明の三人で、暮らそうよ」
 その言葉は切実な響きを持って、私に届いた。
 母の瞳が揺れている。いつも強気で、ぐいぐい人を引っ張って行く人なのに、縋るような目をしている。
 どうして?
 じわりと視界がにじむのがわかった。
 ……ずっと待ってた。その言葉を。
「……うん、うん。お母さんと、お姉ちゃんと一緒に住む」
 母の手が伸びて、両手で私の頭を包み込む。
 ああ、やっぱりお母さんだ。お父さんは母親の役目など少しも果たさなかった奴と罵っていたけど、そんなことはない。
 母は優しい人だった。私を守ってくれる。
「ごめんね、美朱」
 私の頭に額をつけて、母は声を震わせる。
「ごめん。いつも仕事仕事で構ってやれなくて、ごめんなさい……」
 いつも向上心に溢れていて、仕事を次々とこなしていった母。意思が強くて、積極的に人の上に立つ母。母にとって、小さな子供というのは足かせでしかなかった。
 でも私も大きくなったこれからなら、きっと違う。
 私は母の腕に顔を押し付けながら、湧き上がる安息に目を閉じた。