緑の木々が消え、輝く太陽の光がガラスの中を照らした。太陽自体はどこにも見えないけれど、その光は私の心も照らしてくれたようで気分が晴れた。
「美朱」
明さんが突然現れるのにも慣れてしまった。彼女はスカートをふわりと流しながら、私の横に座って微笑む。
「どうしたの?」
その優しい声は痺れるような懐かしさを感じて、私は一瞬彼女がとても大切な人だったと思い出す。
でも次の瞬間にはもう、ほんの少し合わなかったパズルのピースのように、記憶から剥がれ落ちてしまった。
「大地さんはどこに?」
「ああ。大地はね、向こうに呼ばれてるの」
視線をガラスのドームの外へ投げかけながら、明さんは言う。
「その気になれば、大地はいつだって帰れるのに。ほんと、馬鹿なんだから」
最後の方は独り言みたいだった。地面に一滴落ちた雨のように胸に残る響きだった。
「私はちゃんと最後まで美朱のことを見守るからね」
「……うん」
自然と、私の言葉が砕けた。
ずっと昔から一緒にいたように、明さんの側にいると安心できる。自分のことを何でも理解してくれる、そんな思いさえ抱ける。
「明さん、聞いてほしいことがあるの」
「なぁに?」
優しく問い返してくれたその言葉に心を楽にして、私は続ける。
「私は、たくさんの言葉を飲みこんできた気がする。言っても届くかどうか不安で、無視されたらどうしようって思うと……喉の奥に言葉がひっかかって、重苦しい思いだけが積み重なって。その度にどうしようもなくなって、周りがどんどん歪んで、見えなくなった」
明さんは頷き返してくれる。
「でもね、一応見えてたし、声も聞こえてた。……あの時までは」
日の光が強くなり、辺り一面が真昼の色になった。
地面から一斉に草が芽吹き、花が咲いた。それは日の光を浴びて金色に輝いた。
「見なくてもわかる。本当は思い出したくない記憶なんだよ」
私は深呼吸して、一番近くに咲く背の高い金の花に触れた。
「これは私が中学二年になったばかりの、春。大切な、お母さんの記憶」
春は、始まりの季節。草花が芽吹き、子どもたちはひとつ成長して大人に近づく。
両親に今日学校であったことを少しでも早く話そうとでも思っているのか、元気に走りぬけていく小学生を、私は家の中から目で追っていた。
一年生の黄色の帽子がやけに眩しい。ただ新しいからではなくて、前に向かって走り出す、躍動感の表れのような気がした。
最近はめったに話すことがなくなった私を心配して、咲子さんは仕事をやめようかとまで言っている。父は反対したし、私も必死でやめないでと頼んだから話は流れたけど、咲子さんをそこまで追い詰めていたのを悲しまずにはいられなかった。
仕事は続けているけど、咲子さんは何かにつけて会社を休むことが増えた。今日だって平日なのに、咲子さんは家にいるのだ。
鍵のかかる音がした。咲子さんは買い物にでも出かけたらしく、家の中から人気が消える。
私はそっと部屋から出て、トイレへ向かった。実は今朝から調子が悪い。外に出ることが少なくなったせいか、体力が落ちているのだと思う。
それ以上に咲子さんから隠れてこそこそ部屋を出る自分の方が、酷く惨めでつらかった。
トイレから出て部屋へ戻ろうとした時、不吉な違和感を抱いた。立ち止まってその感覚を追う。
つうっと足を何かが伝う感じがした。
ぎくしゃくと体を動かしてトイレに戻り、恐る恐る確かめた途端、全身から血の気がひく。
足を伝って赤い筋を作っていたのは、血だった。
頭が真っ白になって、そのまま家を飛び出した。よくわからないこの恐怖から、誰かに救い出してもらいたかった。
とっさに頭に浮かんでいたのは、母のことだけだった。
「美朱」
明さんが突然現れるのにも慣れてしまった。彼女はスカートをふわりと流しながら、私の横に座って微笑む。
「どうしたの?」
その優しい声は痺れるような懐かしさを感じて、私は一瞬彼女がとても大切な人だったと思い出す。
でも次の瞬間にはもう、ほんの少し合わなかったパズルのピースのように、記憶から剥がれ落ちてしまった。
「大地さんはどこに?」
「ああ。大地はね、向こうに呼ばれてるの」
視線をガラスのドームの外へ投げかけながら、明さんは言う。
「その気になれば、大地はいつだって帰れるのに。ほんと、馬鹿なんだから」
最後の方は独り言みたいだった。地面に一滴落ちた雨のように胸に残る響きだった。
「私はちゃんと最後まで美朱のことを見守るからね」
「……うん」
自然と、私の言葉が砕けた。
ずっと昔から一緒にいたように、明さんの側にいると安心できる。自分のことを何でも理解してくれる、そんな思いさえ抱ける。
「明さん、聞いてほしいことがあるの」
「なぁに?」
優しく問い返してくれたその言葉に心を楽にして、私は続ける。
「私は、たくさんの言葉を飲みこんできた気がする。言っても届くかどうか不安で、無視されたらどうしようって思うと……喉の奥に言葉がひっかかって、重苦しい思いだけが積み重なって。その度にどうしようもなくなって、周りがどんどん歪んで、見えなくなった」
明さんは頷き返してくれる。
「でもね、一応見えてたし、声も聞こえてた。……あの時までは」
日の光が強くなり、辺り一面が真昼の色になった。
地面から一斉に草が芽吹き、花が咲いた。それは日の光を浴びて金色に輝いた。
「見なくてもわかる。本当は思い出したくない記憶なんだよ」
私は深呼吸して、一番近くに咲く背の高い金の花に触れた。
「これは私が中学二年になったばかりの、春。大切な、お母さんの記憶」
春は、始まりの季節。草花が芽吹き、子どもたちはひとつ成長して大人に近づく。
両親に今日学校であったことを少しでも早く話そうとでも思っているのか、元気に走りぬけていく小学生を、私は家の中から目で追っていた。
一年生の黄色の帽子がやけに眩しい。ただ新しいからではなくて、前に向かって走り出す、躍動感の表れのような気がした。
最近はめったに話すことがなくなった私を心配して、咲子さんは仕事をやめようかとまで言っている。父は反対したし、私も必死でやめないでと頼んだから話は流れたけど、咲子さんをそこまで追い詰めていたのを悲しまずにはいられなかった。
仕事は続けているけど、咲子さんは何かにつけて会社を休むことが増えた。今日だって平日なのに、咲子さんは家にいるのだ。
鍵のかかる音がした。咲子さんは買い物にでも出かけたらしく、家の中から人気が消える。
私はそっと部屋から出て、トイレへ向かった。実は今朝から調子が悪い。外に出ることが少なくなったせいか、体力が落ちているのだと思う。
それ以上に咲子さんから隠れてこそこそ部屋を出る自分の方が、酷く惨めでつらかった。
トイレから出て部屋へ戻ろうとした時、不吉な違和感を抱いた。立ち止まってその感覚を追う。
つうっと足を何かが伝う感じがした。
ぎくしゃくと体を動かしてトイレに戻り、恐る恐る確かめた途端、全身から血の気がひく。
足を伝って赤い筋を作っていたのは、血だった。
頭が真っ白になって、そのまま家を飛び出した。よくわからないこの恐怖から、誰かに救い出してもらいたかった。
とっさに頭に浮かんでいたのは、母のことだけだった。