水面に映る影を追っていた。それがいつのまにか過去の記憶になっていた。
 懐かしくて寂しい、遠い記憶。
「ねえ、かくれんぼしよ。最初は私が鬼ね」
「うん!」
 長い睫毛にぱっちりした目の、大人びた少女がぱたぱたと家の中へと入っていく。
 彼女のことをよく知っていた。可愛くて活発な子で、いつもクラスで一番目立っていた。俺では、話しかけることもできないくらいに。
 それに比べてと、俺は塀の一番上に手を掛けて視線を移す。
 塀の上から身を乗り出すようにして見下ろすと、保育園くらいの小さな女の子がいた。
 似ていないわけではないけど、姉に比べると地味な子だった。いかにも内気で、鈍そうに見えるその子は、先程から庭先をうろうろとしていた。
 この子なんだと俺は緊張する。
 会いに来たんだから挨拶くらいしなきゃいけないのに、俺はどうやって言葉を掛ければいいのかわからなかった。
「おきゃくさん?」
 びっくりして、思わず塀からずり落ちてしまった。土を払って慌てて立ちあがると、突然の侵入者に何の疑問も持っていないらしい女の子を見下ろす。
「おねえちゃんとかくれんぼしてるの。おにいちゃんもやる?」
 そう言って、その子は笑った。
 彼女は楽しそうで、自分は今世界で一番幸せなんだと信じているように、晴れやかだった。
 その子の全身から生まれる幸せの空気が、凝り固まっていた緊張を解かして、自然と優しい気持ちにさせてくれた。
「あの……みあか?」
 問いかけると、こくこくと頷いて肯定する。
「そうだよ、みあかだよ。おにいちゃんは?」
「あ、え、と……おれ」
 名前一つにどうしてこんなに時間がかかるのだと思うくらい、俺は必死に言った。
「……大地。その、俺、これから……」
「美朱。こっちにおいで」
 縁側に先ほど去っていった美朱の姉が現れる。
 その目に氷のような光が宿っていた。
 正面から向かい合うと、その迫力に思わずひるんだ。それはまるで、殺意のような憎悪だった。
――出て行け。
 それ以上紡がれる言葉に、俺は耐え切れなくて固く目を閉じる。
 救いは大樹の陰から現れた。
「美朱、明。中に入ってなさい。この子に話がある」
 揺るぎない存在感を持った男の人。それが彼女らの父親だった。
 

 


 さらさらと水が流れていく。岩に腰掛けた俺の足首を、透明な水が掠めていく。
 鏡のような水面に映る記憶は、そこで途切れていた。随分前のことだったが、昨日のようにずっと覚えていた記憶だった。
 思い出すたびに、幸福感と悲しみが一緒に沸きあがってくるから、いつも複雑な気持ちで回想したものだった。
 水面がゆらめき、俺の後ろに見覚えのある人影が映った。
「私、あなたのこと今でも嫌いよ」
 振り向かない俺に、彼女は淡々と続ける。
「美朱に会うためにあなたに近づいたけど、全然美朱に会わせてくれなかったもの」
 俺は水面から足を上げると、逆さまに彼女を見上げた。
「俺も嫌いだった。お前は、いつでも俺より出来たからな」
 勉強も、スポーツも、何もかも。顔立ちさえ彼女は他の誰よりも綺麗で、俺とは長い間言葉を交わすこともなかった。
 彼女はあらゆる面で俺の劣等感を煽った。嫉みと羨望。それが彼女への思いだった。
 その瞳に宿る冷たい光と、寂しげな色はあの時と変わらない。
 彼女はゆっくりと首を振って言った。
「でも両親に褒められたことが一度もなかったから、私は自分を知らなかった。……美朱が生まれるまで」
 小さく微笑んで、彼女は優しい表情になる。
「美朱はどんな時でも、お姉ちゃんはすごいと言ってくれた。お姉ちゃんはかっこよくて、優しくて、一番好きだって。かけがえのない子なのよ」
「……明」
 どこか恍惚とした表情で彼女は言う。
 あの時からもう、気づいてた。明と美朱の間にはもう、誰も入ることができない。たとえ両親が二人への無関心を改めても、取り返しのつかない状態になっているということを。
「でも、それが美朱を一人にした」
 うめくように言葉を絞り出す。
「お前が離れてやらないと、あの子はいつまでも自立できない」
「そうね」
 明はうなずいて言った。
「でも聞いて。父は仕事が一番だった。母は自分が一番だった。美朱の同級生たちは協調が大事で、どこにも美朱が入る隙間がなかった」
 淡々と、明は言葉を紡ぐ。
「私の中以外に、あの子はどこにも自分の居場所をみつけられなかった」
 俺の両肩に、明は優しささえ感じる仕草で手を掛ける。
「私から美朱を奪うの?」
 このまま明が力をこめれば、俺はどこに辿り着くかわからない川に流されて、やがて死ぬかもしれない。
 一瞬の逡巡の後、肩にこめられた力がすっと抜ける。
「だから」
 俺の手を引いて、明は俺を岩の上に立たせた。
「……帰って。命ある世界へ」
 憎まれていると知っていても、俺はずっと彼女を憎むことができなかった。彼女が小さな甘さを持っているからだった。
 明は俺に背を向ける。
「あなたは待っている人がいるでしょう」
 言葉が終わると同時に、明が煙のように消える。
 誰かの声を聞いた気がして、俺は川の向こう岸を振り返った。
 その声は確かに、大地、帰ってきてと、ずっと俺に呼び続けているのだった。