洗面所では、まだ水が流れ続けていた。おそるおそる中を覗きこむと、黒い毛のスリッパが見えて、やっぱり兄だった。
 彼は水を飲んでいたのではなかった。頭を洗面台におしつけて、水をかぶっていた。
 私は水がするすると兄の真っ黒な髪を伝って落ちていくのを、じっと見つめていた。
 ずいぶん長い時間、そのまま立っていたような気がする。
 やがて兄は水を止め、洗面台に手を置いたままずるずると座り込んだ。頭を垂れて、何かに耐えるように体を硬くしていた。
 彼は真冬なのに上に何も着ていなかった。その背中中に、傷と痣があった。
 鋭い刃物でつけたような切り傷。角材か何かで叩きつけたようなみみず腫れ。タバコを押し付けたような火傷。そして殴られた感じの、赤黒い痣。
 彼の小さな声が私の耳に入った。
「……くそ」
 聞き漏らしてしまうような、小さな嗚咽がもれた。
「なんでだ……もう終わったってのに、あいつらなんて出てくるから……!」
 最後は激しい怒りの感情で、兄は震えていた。
 兄はゆらりと私の方を振りかえった。私は全身を硬直させる。
 兄は無言でこちらを見ている。髪から雫が滴り落ちて奇妙なほど一定のリズムを刻み、時の流れがゆっくりになったような錯覚を覚える。
 私は何も言えなかった。下を向いて、自分のスリッパのつま先をじっと見ていた。
 どれくらい長い沈黙だっただろうか。兄が口を開いた。
「……美朱には関係ないよ」
 ひどく疲れた声だった。彼は軽く頭を振って水気を飛ばすと、側にあったバスタオルをかぶった。
「別に昼間のやつらに負わされた怪我ってわけでもないし……もう終わったことだから。気にするな」
 兄は心細そうだった。口調が少し幼く感じた。
 でも私は何も言えなくて、そっと廊下に出ていった。部屋へ向かおうと足を一歩踏み出した時、その体勢で足が止まった。
 寝間着に軽く上着を羽織っただけの父がいた。
 私は気まずさに目を逸らして、そっと横をすり抜けた。
 自室の扉を閉める音だけをたてて、外へ出る。
 盗み聞きはよくないと思ったけれど、気になって廊下の影で私は立っていた。
「まだ痛むのか?」
「……え」
 静かな父の問いかけと、兄の動揺した声が聞こえる。
「咲子に聞いてる。前の夫に、お前が虐待されてたと」
 兄が何か言いかける気配がした。
「お前は知られたくなさそうだったから、知らない振りをしてただけなんだ。……でもな、まだ苦しい思いをしているなら、病院に行け」
「嫌だ」
 いつもの冷静な声とは違って、兄は焦燥感に駆られたように早口で言う。
「大丈夫、傷自体は治ってるんだし。僕がしっかりしないと」
「そう簡単に子どもが強くなるか。全然説得力なんてない」
 言葉自体は厳しかったけれど、穏やかな声だった。
「外聞のことを気にしてるなら、そんなこと子どもが気に病むな。その程度で倒れるような仕事はしてない」
 二人とも、そこで黙った。私は息をつめて次の言葉を待っていた。
 父はふとため息をつく。
「何か、お前には妙な気を使われているようでいつも疲れる」
「……ごめん」 
「謝るくらいなら使うな。特に」
 一度言葉を切って、父はぼそりと零す。
「子どもに宏葉さんなんて呼ばれてるのが」
「父さんと呼んでもいいの?」
 それに答えた父の声は、たぶん今までで一番優しかったと思う。
「それでいい」
 途端、氷の刃で体を貫かれたような気がした。
 でも体は勝手に動いて、音をたてないようにしながらその場を後にする。
 部屋の扉を背中で閉め、その場でうずくまる。体をできるだけ小さく丸めて、両手で顔を覆った。その隙間から涙が零れ落ちるのを、ぼんやりした思いで見ていた。
 一人ぼっちになったような気がした。
 どこかで私はずるいことを考えていた。兄は家族だけど、でも、本当の子供じゃない分私のほうが父に近いと、安心していた。醜い考えに吐き気がする。
 兄は父にとって大切な子供なのだ。
――あんたね、少しは美朱のこと何とかしなさいよ。
――どういう育て方をしたんだ。お前のせいじゃないのか。
 だとしたら父と母を離婚させてしまった、私は何なんだろう?
 私は窓の外にそびえたつ大樹を見上げた。冬でも手のひらほどの葉を広げて、家を守ってきた名も知らない樹。
 建築士である父がこの家を建てた時、私にとって本当の母と父が結婚した時に植えられたものだ。裏側に建つ父の会社からもここはつながっていて、この木がよく見えることを知っている。
 ずいぶん大きくなったんだと思った。
 両親が離婚してから、そう長い間には感じられなかったのに。まだ幼稚園だったあの頃の、姉とやった遊びの一つ一つが思い出せるのに、小学校からの記憶は数えるほどしか残っていない。
 毎年願っていた。大好きな、お姉ちゃんに会いたいと。
 そう言うとお父さんは必ず駄目だと言った。
 姉の所へ行きたい。家に帰れば、姉がいつも一緒にいてくれた。年が離れてるからつまらないに違いないのに、私と遊んでくれた。楽しかった。
 もう離婚したからお母さんの家には行けないし、会っちゃいけないんだと教えられても、どうしても姉と離れるのが辛かった。
 姉は私にとって父で、母で、何にも代えられないたった一人の存在だったのだから。
 寂しさに顔をくしゃくしゃにして、姉のことを思う。よくこの木の下で遊んだと、涙で滲んだ目でそれを食い入るようにみつめる。
 ちらほらと白い雪が窓を掠めていく。
 あの頃、私の世界には姉しかいなかった。
 一人、あの木の下で、ひどく寂しそうな目をした男の子に会ったことだけを覚えている。
――おきゃくさん?
 その子は、ぎこちなく頷いた。
――おねえちゃんとかくれんぼしてるの。おにいちゃんもやる?
 彼は沈黙したけれど、私はじっと答えを待っていた。
――……みあか?
 やっと口を開いてくれたことに安堵して、私はにっこり笑った。
――そうだよ。みあかだよ。おにいちゃんは?
 ためらいがちな声で、でも少しだけはにかんで言ったその男の子。
――おれ、大地。