夏休みに入ってからは、葵君と会う機会が増えた。絵を描きつづける私に話しかけてくる。
「また喧嘩した」
誰ととは聞くまでもない。
「あいつ見てると腹立つ。兄さん元気出してって、よく言うよ。俺がいつ落ち込んだっての」
苛々している時の葵君は、吐き出すように言葉を零していた。
「いつも馬鹿にして。こんな体じゃなきゃ、あいつに慰められることなんてないのに」
私は返事を多くしない。時々頷くだけだったけど、葵君はそれで構わないらしかった。
独白が途切れると、今度は逆だった。私に問い掛けてきて、私に話すことを求める。
「お前の父親、再婚したんだって?」
「……うん。六年、前」
私が沈んだ声を出したので、葵君は少し困った顔で目をそらした。自分の家族のことは散々言っているのに、他人に対しては気を使うらしい。
「それで兄ちゃんができたんだろ」
「うん。どうして知ってるの?」
不安げな顔でもしていただろうか。葵君は励ますように声のトーンを上げて笑ってみせた。
「なんだよ。兄ちゃん、ここへいつもお前迎えに来てるじゃん。真面目そうでちょっと怖いけどさ。でも俺みたいに殴ったりはしないだろ?」
「うん」
「俺よりずっと出来た兄貴だよ、な?」
同意を求められても、私は困ってしまう。まともに話しかけたことがない兄で、彼のことは六年経っても全然理解できなかった。
仰向けにひっくり返って葵君は天井を眺めてから、両腕で顔を覆った。
沈黙が始まったので、私は絵を描く作業を再開する。黙っている時の葵君は、邪魔をしてはいけないと決めていたから。
絵の具を薄く溶かして、ふき取るようにして広げる。私は色を融合させていく水彩画が絵の中では一番好きだったから、一日中そればかり描いていた。
「……俺、このまま死ぬのかな」
葵君がうめくようにつぶやいた。
「最後は白に、なっていくんだろうか……」
私は筆を動かす。無心のその作業は、そこに感情を挟まないでいられる。
「お前、完全無視だよな」
「え? き、聞いてるよ」
慌てて現実世界に戻ってくると、葵君は苦笑して首を横に振った。
「いいけどさ。今日は何描いてんの?」
葵君の精神状態は上がっては下がるものらしい。私との会話は淡々としたものだった。
どうしてこの部屋へやってくるのか。葵君は隣の小部屋の住人であるはずなのに。
そう聞いたら、彼は部屋をぐるっと見まわして言った。
「青色が好きなんだ」
言われて始めて気づいた。この部屋は壁紙も床も天井も、すべて青だった。
「青色は、心を静める効果があるらしいよ」
「ふうん。じゃあ美朱には全然必要ないじゃん。お前はもっと興奮した方がいいぞ」
「そ、そう」
お友達を作って遊ぶ。咲子さんに言われたのとはちょっと違うと思うけど、少なくとも私にとって葵君は唯一、友達といえる存在だったと思う。話した内容はほとんど忘れてしまったけど、でも静かな、穏やかな時間を葵君は作ってくれた。
夏休み最後の日のことだった。
昼過ぎ、いつも通りに病院の中にある私の小部屋へ向かうと、いつもとは違って葵君はもうそこにいた。
真剣な顔をしている葵君にちょっと気圧されながら、私は葵君の斜め前に座る。
「手術を受けることにしたんだ。ここを出て専門の病院に行く」
固い表情を崩さないまま、葵君は短く言う。
「うまくいっても、何年もリハビリが要るんだってさ」
「なんで?」
もう俺なんて死ねばいいんだと、いつも言っていたのに。
「美朱は、前に葵について話してたろ」
「え、うん……」
私は花の絵をよく描いていたから、時々葵君と花について話していた。
――何これ。本当に花?
――うん、これは水葵。小さい花だけど、綺麗な水色をしてるの。
葵は身近にあるものじゃない。幼い頃からよく植物図鑑を広げて見て、私は気に入っていた。
――私は葵の葉っぱが好き。みんな、太陽に向けてぱぁって葉を広げてて。花びらみたいに華やかじゃないけど、力強いの。
「所詮俺なんて家に閉じこもってるだけだから、誰も俺のいいとこなんて見つけてくれないし、自分でもわからない。遠い太陽を横目にしてぶつくさ言ってるだけだってわかってるよ」
葵君は空色の目を吊り上げて言った。
「でも俺は死にたくない。何もできないまま死ぬなんて冗談じゃない」
「……うん」
「部活がしたいし。友達とくだらない話がしたいし。走りたいし」
言葉を切った葵君の目は、やっぱり綺麗な空色だった。
私はこくんと頷く。
「いいと思う」
気の利いた言葉を探したけど、話し慣れていない私が零したのはその一言だった。
しばらく葵君と二人、黙りこくる。先に沈黙を破ったのは葵君の方だった。
「そういえば、美朱の絵はけっこう上手いと思う」
「え?」
突然の言葉に目を瞬かせると、葵君は苦笑して言った。
「葵の絵くれよ。記念に持ってく」
「私の……?」
私はスケッチブックを握り締めながら視線をさ迷わせる。
「あ、あんまり丁寧に描いてない、と思う。本当に」
「いいから」
力を緩めた瞬間に、葵君はひょいっと私の手からスケッチブックを取り上げた。慌てて取り戻そうとしたけれど、私より背が高い葵君の手までは届くはずもなく。
スケッチブックを開いたまま固まっている葵君。急に恥ずかしくなって、私は目を伏せた。
下書き段階でボツにした絵もたくさんある。とても見れたものではない絵でいっぱいなのはわかっている。
「……やっぱり」
いらない?
残念な気持ちとほっとした気持ちが同時に押し寄せてきた私に、葵君は絵を指し示しながら言った。
「こっちにする。いいだろ?」
スケッチブックの見開きに大きく描かれていたのは、葉が細長く、すらりとした背の高い花だった。
菖蒲だ。美しい紫の花。
「……両方持っていって」
こうして葵君は病院から姿を消すことになった。
葵の花びらを一枚、ガラス玉にくっつけると、ガラス玉は青い光を帯びた。
「ふーん」
いきなり耳元で声がしたので、私はびっくりして腰が浮きあがるほど跳ねた。
「あ、明さん。いつからそこに?」
「うん? ずっといたわよ」
明さんは楽しそうに小さく声を上げて笑う。
「やるじゃない。美朱」
「え、えと」
「純愛よ、純愛」
「え、そ、そんなこと」
ないと思う。
そう続ける前に、後ろから声がかかった。
「友達だろ」
振り向いて確認すると、大地さんだった。慌てて私も激しく頷いて同意する。
見上げると、いつの間にか上空には青空が広がっている。淡い、空に溶けていきそうだった葵君の瞳の色に似ている。
大地さんの言う通りだ。あれは恋というにはあまりに儚くて稚拙なもの。
でも、かけがえのない、思い出の夏休み。
風も無いのに木々がゆらめく。木々の間からは微かな金色の光が見えるのに、ガラスの床は緑色に染まっている。
時刻は正午過ぎくらいだろうか。
目を閉じれば木々の匂いが、音が、暖かさが感じられた。外から感じるのではなくて、体の内部から湧き上がってくるようだった。
木々の揺れる音が少しおさまったところで、私は口を開いた。
「明さん。大地さん」
木々に眠気を誘われていたのだろう。少しぼんやりとした顔を上げて、私と目を合わせる。
「二人はお互いのこと、よく知ってるように見えるんですけど。どうして?」
「ああ」
そんなことかというように明さんは笑って言った。
「大地は私の彼氏だし。元、だけどね」
大地さんも、面倒そうに頷く。私はつい不思議そうな顔をして問いかけた。
「元?」
「そう」
そっけなく大地さんが答える。
「もう別れたから、今はただの他人」
「ひどいわね」
明さんが意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「ただのって、ねぇ。いつも私のこと見てたじゃない」
「嘘言うな」
大地さんは鋭く明さんを睨みつけた。けど明さんは動じた様子もなく、目を細めて笑うだけ。
「まぁいいけどね。私もそれなりに楽しかったわよ」
「黙ってろ」
大地さんは本気で怒っているようだった。明さんは軽く肩をすくめて、ちらっと私の方を見る。
気遣わしげな目に私の意思が通じたらしい。明さんは苦笑いして私に諭した。
「気にしなくっていいのよ。なんとなく付き合ってただけだから。ね、大地」
明さんの答えはあっさりとしていて、未練とは無縁に思えた。
私は首を傾げて、ぽつりとつぶやく。
「別れるというのは辛いことですよね」
「さあ。普通に付き合ってたら辛いんじゃないか?」
俺に聞くなよと言わんばかりに顔をしかめる。あまり触れて欲しくない話題らしい。
「なんでそんなこと訊く?」
私は一瞬迷ったけど、ここまで問い詰めたのなら仕方ないと思い直す。
「私のお父さんとお母さん、私が小学校に入る前に離婚したんです。明さんたちみたいにお互い割り切れるならいいけど、二人の場合は違った」
私は覆い被さるような大木を見上げながら、くしゃりと顔を歪める。
「原因は私だった。私のせいで、二人はバラバラになっちゃった」
きらめく金色の光は、まだ遠いところにある。
「けどお父さんは強かったから、新しい家庭を築けた。……私が上手く溶け込めなかっただけで」
力強く脈動する幹にそっと触れる。
「次の記憶は中一の冬。私のお父さんと新しいお母さん、義理のお兄ちゃんと迎えた、お正月の記憶」
お正月の朝は苦手だった。
「美朱。好き嫌いしないで食べなさい」
いつもは家にいない父が、朝食に必ずいるから。
幼い頃の父の印象は、厳しそうな人だった。断定できないのは、家にいないことが多くて、ほとんど言葉を交わしたことがなかったからだった。
「大変な準備をして、毎年咲子が作るんだから」
けれど再婚してからはよく私に目を光らせることになったから、本当に厳しい人だと知った。
角張った顔に、少しつり上がった細い目。がっしりとした体格ということもあって、ただそこに座っているだけで威圧感を感じる。
生まれつきというより、今まで歩んできた人生によるものだと思う。お父さんは、社長らしい。大学生の時に母と一緒に建設会社を企業して、以来家の裏手にある事務所で営業をしているそうだ。
「いいの、宏葉さん」
私は直接お父さんに話しかけられない。つい、避けてしまう。
「どれが食べられそう? 私が取るから言ってちょうだい。美朱ちゃん」
父にさえ何も言えない私に、いつも優しい言葉を掛けてくれるのが、新しい奥さんの咲子さんだった。
年はよく知らないけれど、たぶんお父さんの十歳下くらい。少し癖毛の、おっとりした目元の人だった。
私の向かい側に座るお父さんの隣から、私のお皿を取りながら咲子さんは微笑む。
「小中学校の内でお節が好きな子なんていないもの。お兄ちゃんだって何も食べなかったから、代わりにエビフライを作ってたのよ」
ね、と咲子さんが相槌を求める先は私の隣。咲子さんの前婚の子どもである、兄が座って食事を勧めていた。
「まあね。でも昔の母さんは、お節下手だったし」
「あら、ひどい子」
苦笑する兄に、咲子さんは軽くおどけてみせた。
咲子さんが取ってくれたものは確かに、私くらいの年の子なら気に入りそうなものたちだった。卵焼きとか里芋を柔らかく煮たもの、さっき言ったエビフライなんかも入っている。
けど、私は好き嫌いというよりたくさんの量を食べることができない。油っこいものも苦手だったから、添えるようについていたかまぼこをかじっていた。
「昼からは出かけるか?」
「さすがの宏葉さんも仕事には行かないんだね」
「正月に顔なんて出しても誰もいないさ」
父と咲子さんの夫婦仲がいいのと同じくらい、兄も父に冗談を言えるくらいに馴染んでいる。だから会話に参加しない私は、早く食事を片付けて部屋にこもることばかり考えていた。
「初詣に行くなら早めに出かけた方がいいわね」
「そうだな。どうする?」
兄と私に父が目を向けたので、私はどうしようと逸らす。
「母さんたちは仕事で疲れてるだろうし、今日はゆっくり家で休んでなよ」
兄がこちらを見下ろしたので、私は慌てて目を逸らした。相変わらず兄の顔は黒く塗りつぶされたようで、私には表情なんて見えなかったけれど。
「じゃあお兄ちゃん。美朱ちゃんを連れて初詣に行ってきたらどう?」
何気なくそう言った咲子さんの言葉に私は思わず背筋を引きつらせていた。
「ちょっと外に出してやってくれないか。美朱は家に篭ってばかりだ」
父も便乗するので、私はどうしようと視線をさまよわせる。
友達と用があるかもしれないし、私を連れて初詣に行くなんて兄に悪かったから、何とか止めたかった。
「いいよ。行ってくる」
けど私が何か言葉を返す前に、兄はあっさりと頷いてしまっていた。
親孝行な彼が父たちの頼みを断ることなんてないとわかっていたけど、私はばつの悪さにかまぼこを慌てて飲み込んでいた。
昼近くになっても外は寒くて、近所の神社は地面が凍っていた。
私は兄に遅れないように一生懸命後をつける。さすがお正月で、参拝客の多さは私を飲み込んでしまいそうだった。
凍るような水で手を洗って、本堂の方へと足を進める。人混みに揉まれて目を回している私の腕を掴んで、背の高い兄はするすると前へと進んでいった。
やっとのことで辿り着いたお堂の鐘を鳴らして願ったことは、毎年同じだった。
この内気な性格が、少しでも治りますように。
そして、大好きな「あの人」に、会いに行けますように。
顔を上げて振り向くと、兄はまだ何か願をかけていた。私はそれが終わるのを、じっと待っていた。
「おみくじでも買っていくか?」
兄が声を掛けてきたので、私は驚いて、慌てて首を横に振った。
それ以後は何も話しかけてこないで、兄は方向転換して裏手の参道に出る。そちらは人がまばらで、人混みを苦手にしていた私を気に掛けてくれたのかもしれない。
ざわめきが少ない中で、兄が雪を踏みしめる靴音と、私の呼吸音だけが耳に響いていた。白い息が規則正しく出て、少し前を歩く兄の姿をおぼろげにしていた。
ふと兄が足を止める。それに、私はぶつかりそうになる。
「よう、村瀬」
三人ほどの男の人たちが、兄の旧姓を呼びながら向こうから歩いてくるのが見えた。ポケットに手を突っ込んで、顔は靄が掛かったようにはっきりとしないけど、どこか嫌な笑いを含んだ声だった。
近寄ってくる彼らに一度舌打ちをして、兄は私を振り返って小声で言う。
「表の道から先に帰ってな。美朱」
すぐに前を向き直る兄に逆らいがたいものを感じて、私は慌てて踵を返した。
「僕に何か用か?」
いつものように淡々と言葉を紡ぐ兄の声が聞こえる。
「お前の母親、再婚したんだってな。今のは妹か」
「違う。関係ない」
兄はまるでそうしなければいけないかのように否定する。
「お前らとも、もう関係ない」
ちらりと振り返った兄の背中は、いつもと雰囲気が違っていた。不快と、苛立たしさと、焦りが透けて見える。
れ以上私はその場に留まることができなくて、逃げるようにしてそこを去った。
その日の夜のことだった。
ひどく苦しげな声を聞いた気がして、私は目を覚ました。目を開けた瞬間は真っ暗で、天井さえも闇に溶けていた。
耳も閉じられたらいいのにと思っても、こういう時はやたらと耳を澄ましてしまう。キィという蝶番の掠れる音に、私はぎくりとした。
うるさい心臓の音をなるべく聞かないようにしながら、私は隣の部屋から出て行く静かな足音を聞いた。
兄がトイレにでも行ったんだろう。ほっと安堵して、寝返りを打ちながら毛布を引き寄せる。
でも目を覚ました時にきいた呻き声のようなものが頭にひっかかった。あれは確かに兄の声だった。
冴えてきた目をベッドの脇の時計に移す。
時刻は深夜三時。家族は全員寝静まっている時間帯だ。
遠くで水が流れる音が聞こえる。私はするりとベッドから抜け出す。
眩しい光を手で遮りながら、私は部屋の外へ足を踏み出した。
洗面所では、まだ水が流れ続けていた。おそるおそる中を覗きこむと、黒い毛のスリッパが見えて、やっぱり兄だった。
彼は水を飲んでいたのではなかった。頭を洗面台におしつけて、水をかぶっていた。
私は水がするすると兄の真っ黒な髪を伝って落ちていくのを、じっと見つめていた。
ずいぶん長い時間、そのまま立っていたような気がする。
やがて兄は水を止め、洗面台に手を置いたままずるずると座り込んだ。頭を垂れて、何かに耐えるように体を硬くしていた。
彼は真冬なのに上に何も着ていなかった。その背中中に、傷と痣があった。
鋭い刃物でつけたような切り傷。角材か何かで叩きつけたようなみみず腫れ。タバコを押し付けたような火傷。そして殴られた感じの、赤黒い痣。
彼の小さな声が私の耳に入った。
「……くそ」
聞き漏らしてしまうような、小さな嗚咽がもれた。
「なんでだ……もう終わったってのに、あいつらなんて出てくるから……!」
最後は激しい怒りの感情で、兄は震えていた。
兄はゆらりと私の方を振りかえった。私は全身を硬直させる。
兄は無言でこちらを見ている。髪から雫が滴り落ちて奇妙なほど一定のリズムを刻み、時の流れがゆっくりになったような錯覚を覚える。
私は何も言えなかった。下を向いて、自分のスリッパのつま先をじっと見ていた。
どれくらい長い沈黙だっただろうか。兄が口を開いた。
「……美朱には関係ないよ」
ひどく疲れた声だった。彼は軽く頭を振って水気を飛ばすと、側にあったバスタオルをかぶった。
「別に昼間のやつらに負わされた怪我ってわけでもないし……もう終わったことだから。気にするな」
兄は心細そうだった。口調が少し幼く感じた。
でも私は何も言えなくて、そっと廊下に出ていった。部屋へ向かおうと足を一歩踏み出した時、その体勢で足が止まった。
寝間着に軽く上着を羽織っただけの父がいた。
私は気まずさに目を逸らして、そっと横をすり抜けた。
自室の扉を閉める音だけをたてて、外へ出る。
盗み聞きはよくないと思ったけれど、気になって廊下の影で私は立っていた。
「まだ痛むのか?」
「……え」
静かな父の問いかけと、兄の動揺した声が聞こえる。
「咲子に聞いてる。前の夫に、お前が虐待されてたと」
兄が何か言いかける気配がした。
「お前は知られたくなさそうだったから、知らない振りをしてただけなんだ。……でもな、まだ苦しい思いをしているなら、病院に行け」
「嫌だ」
いつもの冷静な声とは違って、兄は焦燥感に駆られたように早口で言う。
「大丈夫、傷自体は治ってるんだし。僕がしっかりしないと」
「そう簡単に子どもが強くなるか。全然説得力なんてない」
言葉自体は厳しかったけれど、穏やかな声だった。
「外聞のことを気にしてるなら、そんなこと子どもが気に病むな。その程度で倒れるような仕事はしてない」
二人とも、そこで黙った。私は息をつめて次の言葉を待っていた。
父はふとため息をつく。
「何か、お前には妙な気を使われているようでいつも疲れる」
「……ごめん」
「謝るくらいなら使うな。特に」
一度言葉を切って、父はぼそりと零す。
「子どもに宏葉さんなんて呼ばれてるのが」
「父さんと呼んでもいいの?」
それに答えた父の声は、たぶん今までで一番優しかったと思う。
「それでいい」
途端、氷の刃で体を貫かれたような気がした。
でも体は勝手に動いて、音をたてないようにしながらその場を後にする。
部屋の扉を背中で閉め、その場でうずくまる。体をできるだけ小さく丸めて、両手で顔を覆った。その隙間から涙が零れ落ちるのを、ぼんやりした思いで見ていた。
一人ぼっちになったような気がした。
どこかで私はずるいことを考えていた。兄は家族だけど、でも、本当の子供じゃない分私のほうが父に近いと、安心していた。醜い考えに吐き気がする。
兄は父にとって大切な子供なのだ。
――あんたね、少しは美朱のこと何とかしなさいよ。
――どういう育て方をしたんだ。お前のせいじゃないのか。
だとしたら父と母を離婚させてしまった、私は何なんだろう?
私は窓の外にそびえたつ大樹を見上げた。冬でも手のひらほどの葉を広げて、家を守ってきた名も知らない樹。
建築士である父がこの家を建てた時、私にとって本当の母と父が結婚した時に植えられたものだ。裏側に建つ父の会社からもここはつながっていて、この木がよく見えることを知っている。
ずいぶん大きくなったんだと思った。
両親が離婚してから、そう長い間には感じられなかったのに。まだ幼稚園だったあの頃の、姉とやった遊びの一つ一つが思い出せるのに、小学校からの記憶は数えるほどしか残っていない。
毎年願っていた。大好きな、お姉ちゃんに会いたいと。
そう言うとお父さんは必ず駄目だと言った。
姉の所へ行きたい。家に帰れば、姉がいつも一緒にいてくれた。年が離れてるからつまらないに違いないのに、私と遊んでくれた。楽しかった。
もう離婚したからお母さんの家には行けないし、会っちゃいけないんだと教えられても、どうしても姉と離れるのが辛かった。
姉は私にとって父で、母で、何にも代えられないたった一人の存在だったのだから。
寂しさに顔をくしゃくしゃにして、姉のことを思う。よくこの木の下で遊んだと、涙で滲んだ目でそれを食い入るようにみつめる。
ちらほらと白い雪が窓を掠めていく。
あの頃、私の世界には姉しかいなかった。
一人、あの木の下で、ひどく寂しそうな目をした男の子に会ったことだけを覚えている。
――おきゃくさん?
その子は、ぎこちなく頷いた。
――おねえちゃんとかくれんぼしてるの。おにいちゃんもやる?
彼は沈黙したけれど、私はじっと答えを待っていた。
――……みあか?
やっと口を開いてくれたことに安堵して、私はにっこり笑った。
――そうだよ。みあかだよ。おにいちゃんは?
ためらいがちな声で、でも少しだけはにかんで言ったその男の子。
――おれ、大地。
水面に映る影を追っていた。それがいつのまにか過去の記憶になっていた。
懐かしくて寂しい、遠い記憶。
「ねえ、かくれんぼしよ。最初は私が鬼ね」
「うん!」
長い睫毛にぱっちりした目の、大人びた少女がぱたぱたと家の中へと入っていく。
彼女のことをよく知っていた。可愛くて活発な子で、いつもクラスで一番目立っていた。俺では、話しかけることもできないくらいに。
それに比べてと、俺は塀の一番上に手を掛けて視線を移す。
塀の上から身を乗り出すようにして見下ろすと、保育園くらいの小さな女の子がいた。
似ていないわけではないけど、姉に比べると地味な子だった。いかにも内気で、鈍そうに見えるその子は、先程から庭先をうろうろとしていた。
この子なんだと俺は緊張する。
会いに来たんだから挨拶くらいしなきゃいけないのに、俺はどうやって言葉を掛ければいいのかわからなかった。
「おきゃくさん?」
びっくりして、思わず塀からずり落ちてしまった。土を払って慌てて立ちあがると、突然の侵入者に何の疑問も持っていないらしい女の子を見下ろす。
「おねえちゃんとかくれんぼしてるの。おにいちゃんもやる?」
そう言って、その子は笑った。
彼女は楽しそうで、自分は今世界で一番幸せなんだと信じているように、晴れやかだった。
その子の全身から生まれる幸せの空気が、凝り固まっていた緊張を解かして、自然と優しい気持ちにさせてくれた。
「あの……みあか?」
問いかけると、こくこくと頷いて肯定する。
「そうだよ、みあかだよ。おにいちゃんは?」
「あ、え、と……おれ」
名前一つにどうしてこんなに時間がかかるのだと思うくらい、俺は必死に言った。
「……大地。その、俺、これから……」
「美朱。こっちにおいで」
縁側に先ほど去っていった美朱の姉が現れる。
その目に氷のような光が宿っていた。
正面から向かい合うと、その迫力に思わずひるんだ。それはまるで、殺意のような憎悪だった。
――出て行け。
それ以上紡がれる言葉に、俺は耐え切れなくて固く目を閉じる。
救いは大樹の陰から現れた。
「美朱、明。中に入ってなさい。この子に話がある」
揺るぎない存在感を持った男の人。それが彼女らの父親だった。
さらさらと水が流れていく。岩に腰掛けた俺の足首を、透明な水が掠めていく。
鏡のような水面に映る記憶は、そこで途切れていた。随分前のことだったが、昨日のようにずっと覚えていた記憶だった。
思い出すたびに、幸福感と悲しみが一緒に沸きあがってくるから、いつも複雑な気持ちで回想したものだった。
水面がゆらめき、俺の後ろに見覚えのある人影が映った。
「私、あなたのこと今でも嫌いよ」
振り向かない俺に、彼女は淡々と続ける。
「美朱に会うためにあなたに近づいたけど、全然美朱に会わせてくれなかったもの」
俺は水面から足を上げると、逆さまに彼女を見上げた。
「俺も嫌いだった。お前は、いつでも俺より出来たからな」
勉強も、スポーツも、何もかも。顔立ちさえ彼女は他の誰よりも綺麗で、俺とは長い間言葉を交わすこともなかった。
彼女はあらゆる面で俺の劣等感を煽った。嫉みと羨望。それが彼女への思いだった。
その瞳に宿る冷たい光と、寂しげな色はあの時と変わらない。
彼女はゆっくりと首を振って言った。
「でも両親に褒められたことが一度もなかったから、私は自分を知らなかった。……美朱が生まれるまで」
小さく微笑んで、彼女は優しい表情になる。
「美朱はどんな時でも、お姉ちゃんはすごいと言ってくれた。お姉ちゃんはかっこよくて、優しくて、一番好きだって。かけがえのない子なのよ」
「……明」
どこか恍惚とした表情で彼女は言う。
あの時からもう、気づいてた。明と美朱の間にはもう、誰も入ることができない。たとえ両親が二人への無関心を改めても、取り返しのつかない状態になっているということを。
「でも、それが美朱を一人にした」
うめくように言葉を絞り出す。
「お前が離れてやらないと、あの子はいつまでも自立できない」
「そうね」
明はうなずいて言った。
「でも聞いて。父は仕事が一番だった。母は自分が一番だった。美朱の同級生たちは協調が大事で、どこにも美朱が入る隙間がなかった」
淡々と、明は言葉を紡ぐ。
「私の中以外に、あの子はどこにも自分の居場所をみつけられなかった」
俺の両肩に、明は優しささえ感じる仕草で手を掛ける。
「私から美朱を奪うの?」
このまま明が力をこめれば、俺はどこに辿り着くかわからない川に流されて、やがて死ぬかもしれない。
一瞬の逡巡の後、肩にこめられた力がすっと抜ける。
「だから」
俺の手を引いて、明は俺を岩の上に立たせた。
「……帰って。命ある世界へ」
憎まれていると知っていても、俺はずっと彼女を憎むことができなかった。彼女が小さな甘さを持っているからだった。
明は俺に背を向ける。
「あなたは待っている人がいるでしょう」
言葉が終わると同時に、明が煙のように消える。
誰かの声を聞いた気がして、俺は川の向こう岸を振り返った。
その声は確かに、大地、帰ってきてと、ずっと俺に呼び続けているのだった。
緑の木々が消え、輝く太陽の光がガラスの中を照らした。太陽自体はどこにも見えないけれど、その光は私の心も照らしてくれたようで気分が晴れた。
「美朱」
明さんが突然現れるのにも慣れてしまった。彼女はスカートをふわりと流しながら、私の横に座って微笑む。
「どうしたの?」
その優しい声は痺れるような懐かしさを感じて、私は一瞬彼女がとても大切な人だったと思い出す。
でも次の瞬間にはもう、ほんの少し合わなかったパズルのピースのように、記憶から剥がれ落ちてしまった。
「大地さんはどこに?」
「ああ。大地はね、向こうに呼ばれてるの」
視線をガラスのドームの外へ投げかけながら、明さんは言う。
「その気になれば、大地はいつだって帰れるのに。ほんと、馬鹿なんだから」
最後の方は独り言みたいだった。地面に一滴落ちた雨のように胸に残る響きだった。
「私はちゃんと最後まで美朱のことを見守るからね」
「……うん」
自然と、私の言葉が砕けた。
ずっと昔から一緒にいたように、明さんの側にいると安心できる。自分のことを何でも理解してくれる、そんな思いさえ抱ける。
「明さん、聞いてほしいことがあるの」
「なぁに?」
優しく問い返してくれたその言葉に心を楽にして、私は続ける。
「私は、たくさんの言葉を飲みこんできた気がする。言っても届くかどうか不安で、無視されたらどうしようって思うと……喉の奥に言葉がひっかかって、重苦しい思いだけが積み重なって。その度にどうしようもなくなって、周りがどんどん歪んで、見えなくなった」
明さんは頷き返してくれる。
「でもね、一応見えてたし、声も聞こえてた。……あの時までは」
日の光が強くなり、辺り一面が真昼の色になった。
地面から一斉に草が芽吹き、花が咲いた。それは日の光を浴びて金色に輝いた。
「見なくてもわかる。本当は思い出したくない記憶なんだよ」
私は深呼吸して、一番近くに咲く背の高い金の花に触れた。
「これは私が中学二年になったばかりの、春。大切な、お母さんの記憶」
春は、始まりの季節。草花が芽吹き、子どもたちはひとつ成長して大人に近づく。
両親に今日学校であったことを少しでも早く話そうとでも思っているのか、元気に走りぬけていく小学生を、私は家の中から目で追っていた。
一年生の黄色の帽子がやけに眩しい。ただ新しいからではなくて、前に向かって走り出す、躍動感の表れのような気がした。
最近はめったに話すことがなくなった私を心配して、咲子さんは仕事をやめようかとまで言っている。父は反対したし、私も必死でやめないでと頼んだから話は流れたけど、咲子さんをそこまで追い詰めていたのを悲しまずにはいられなかった。
仕事は続けているけど、咲子さんは何かにつけて会社を休むことが増えた。今日だって平日なのに、咲子さんは家にいるのだ。
鍵のかかる音がした。咲子さんは買い物にでも出かけたらしく、家の中から人気が消える。
私はそっと部屋から出て、トイレへ向かった。実は今朝から調子が悪い。外に出ることが少なくなったせいか、体力が落ちているのだと思う。
それ以上に咲子さんから隠れてこそこそ部屋を出る自分の方が、酷く惨めでつらかった。
トイレから出て部屋へ戻ろうとした時、不吉な違和感を抱いた。立ち止まってその感覚を追う。
つうっと足を何かが伝う感じがした。
ぎくしゃくと体を動かしてトイレに戻り、恐る恐る確かめた途端、全身から血の気がひく。
足を伝って赤い筋を作っていたのは、血だった。
頭が真っ白になって、そのまま家を飛び出した。よくわからないこの恐怖から、誰かに救い出してもらいたかった。
とっさに頭に浮かんでいたのは、母のことだけだった。
小さい頃の母のイメージは、強い人だった。さばさばとした性格で、優しいと感じることはなかった。
でも、お母さんなのだ。
心のどこかで信じている。最後には、母は自分を守ってくれると。
電車に乗った覚えはないから、たぶん歩いていったのだと思う。昼過ぎに家を出たはずなのに、そこに着いたのは日が沈みかけた時だった。
『夕部』の表札の前でふと立ち止まる。
よく考えれば今の時間、母は仕事に行っているはずだ。姉も大学に行っている時間だからいない。
じゃあ大学へと足を向けたが、すぐにやめた。大学には兄もいる。中一の時勇気を出して姉に会いに行って、偶然隣の学部にいた兄に会ってしまった。それを思い出して、やっぱりここで母を待とうと思った。
古びた門を開けて中に入ったその時、庭に誰かいるのが見えた。
ショートにした癖毛の茶髪に、化粧っけのない顔。気の強そうな眉の下で黒の双眸が光っていて、口は一文字に結ばれている。
離婚して以来一回も会ってはいなかったけど、見間違えるはずがない。まぎれもなく母だった。
母は縁側に座ってぼんやりと塀の外を見ていたけど、足音でこちらに気づいたらしい。五十近い年齢を感じさせない強い光を持った目で私を一瞥すると、軽く手招きした。
おずおずと私が側に寄っていくと、母はすっと庭を指差す。
「座って。ほら、綺麗な花でしょう?」
そこにはたくさんの黄色の花が咲き乱れていた。私の身長くらいのものもあれば、踏み潰してしまいそうな小さな花まで、大小様々だ。
夕陽の中でも金色の光はまだ輝き続けていて、眩しいくらいだった。
「世話なんてしなくても咲くから好きなのよ、この花。あたしみたいで。死ぬ時は菜の花に囲まれて死にたいわ」
母はそこで言葉を切り、私の目を見据えて言った。
「家出してきたんだって?」
咲子さんとは全く違う、柔らかさとは無縁な言い方。だけどそれが懐かしくてたまらなくて、かえって私を安心させた。
「咲子さんを困らせちゃだめよ。いい人なんだから、本当に」
母はふっと息を抜いた。少し黙り、眉を寄せる。
「……なんでかな。考える前に仕事を抜けてた。美朱が絶対ここに来るって思ったの」
私を真っ直ぐにみつめた母の顔を、私は食い入るように見返した。
「何があったの? ちゃんと聞くから、ゆっくり話して」
私の目から涙がぽろっと落ちた。
母は私の顔を見ただけで、私の気持ちを見抜いてくれた。ちゃんと聞くと言ってくれた。
それが嬉しくて、恐怖で硬直していた心が溶けて、涙が止まらなかった。
「お、お母さん。あ、あの……」
私は奇妙な血について話した。ちゃんとした言葉になっていたかは疑わしい。
だけど母は時々相槌を挟みながら、黙って聞いてくれた。優しい言葉をかけるわけじゃないけど、先を急がせず、真剣に耳を傾け続けた。
「……そう。あたし、美朱にそんなことも教えてなかったんだ……」
母は複雑な表情をしながら、苦い口調で呟く。
「中へおいで。ちゃんと全部説明する」
腰を上げて、母は家の中へ入っていく。私も慌てて後に続いた。
私はろくに学校に行っていなかったし、友達もいなかったから知らなかったけど、それは生理というものだと母は言った。
「病気でも、怖いことでもないのよ。当たり前のことなの」
母は時間をかけて説明してくれたから、私の混乱していた頭は次第に落ち着きを取り戻していった。
私はなんとかしてありがとうの言葉だけは伝えられたけど、母は首を横に振って悲しそうな目をするだけだった。
「連絡はしたから、もう少しいても大丈夫よ」
そう言って縁側に座ったまま、しばらく沈黙が流れた。
母はじっと何かを考えているようだった。ただならぬ雰囲気を感じ取って、私も黙っていた。
ふいに小さな声が、母の口から洩れた。
「美朱」
私から目をそらしながら言う。母は人の目を見て話す人なのに、ひどく緊張した様子で俯いていた。
「あたし、ようやく生活も落ち着いて、収入も安定してきたの。時間は随分とかかってしまったけど」
早口でまくしあげて、また母は黙った。
「だから、その……美朱がいいなら」
私はお母さんを見上げてじっと次の言葉を待つ。
母は私の目を食い入るようにみつめた。
「あたしと明の三人で、暮らそうよ」
その言葉は切実な響きを持って、私に届いた。
母の瞳が揺れている。いつも強気で、ぐいぐい人を引っ張って行く人なのに、縋るような目をしている。
どうして?
じわりと視界がにじむのがわかった。
……ずっと待ってた。その言葉を。
「……うん、うん。お母さんと、お姉ちゃんと一緒に住む」
母の手が伸びて、両手で私の頭を包み込む。
ああ、やっぱりお母さんだ。お父さんは母親の役目など少しも果たさなかった奴と罵っていたけど、そんなことはない。
母は優しい人だった。私を守ってくれる。
「ごめんね、美朱」
私の頭に額をつけて、母は声を震わせる。
「ごめん。いつも仕事仕事で構ってやれなくて、ごめんなさい……」
いつも向上心に溢れていて、仕事を次々とこなしていった母。意思が強くて、積極的に人の上に立つ母。母にとって、小さな子供というのは足かせでしかなかった。
でも私も大きくなったこれからなら、きっと違う。
私は母の腕に顔を押し付けながら、湧き上がる安息に目を閉じた。
数週間後、けぶるような雨が降っていた。
曇天の空をじっと見上げてから、私は中へ入った。
入れ違いに参列客が出て行き、私はいくらかの言葉を受けながら無言で歩く。言葉の内容は覚えていないけど、かわいそうにね、とか、辛いけど頑張ってね、とかそういう言葉だったと思う。
「美朱。こっち」
姉に呼ばれて、私は小走りで駆け寄った。
二十畳くらいの和室に父と咲子さん、兄、そして姉が円を描くようにして座っている。
母だけがその中にいない。……お母さんだけが。
「こういう時にこんな話もなんだが」
父が重い口を開いて姉を見る。
「鈴菜がいない今、お前は私たちのところに……」
「私は自分で生活していけるわ」
姉は父を真っ直ぐに見据える。
「美朱も一緒に暮らすの」
姉の瞳は決して揺れなかった。父は一瞬言葉を失ったけれど、すぐに落ち着きはらって言った。
「気に食わないのはわかるが、お前も美朱も子どもだ。放っておけるわけないだろう。美朱はお前じゃ面倒なんてみられない」
姉の目に感情が一瞬だけ宿って、氷のように冷たい声が飛ぶ。
「美朱を全然育てられなかったのは、あんたじゃない」
「……何?」
父の目に鋭さが増す。
「明ちゃん。宏葉さんはそんなつもりじゃ……」
「美朱のことに他人が口を出さないで」
ぴしゃりと言われて、咲子さんは肩を落とした。昔から大人顔負けに頭の回転が速い姉に、そう簡単に太刀打ちできる人はいなかった。
この時の姉の剣幕にはすさまじいものがあった。
「母さんは過労だったのよ。あんたの会社から追い出された時にはもう若くなかったのに無理して、別の所に就職して。働きづめで」
「金で解決したくはないと言ったのはあいつだ」
父の低い声にも口調を変えず、姉は淡々と続ける。
「お金より大事なものを奪ったのは誰?」
姉は、視線を決して父から外さなかった。全く無表情で、それがかえって姉の内心が激しく揺れているのを想像させた。
「あんた、母さんが美朱によこした連絡手段、全部、握り潰したわね」
「……離婚するときにそういう約束だったからだ」
「母さんはちゃんと電話番号も仕事先の住所も送ってたらしいわ。手紙だって月に一度は送り続けたって聞いた。でも、美朱に届いたことなんて一度もないんじゃないの?」
それは私も知らなかった。お父さんが会ってはいけないと言ったのはお母さんたちの生活があるからで、私に連絡を取ろうとしていたことなど考えていなかった。
「まあ、あんたと同じくらい母さんも子育て向きの人じゃなかった。どうせ美朱を最初から引き取ってたって、何が違ったってこともなかったのかもね」
「……明」
「誕生日のお祝いなんてしてもらったことないし、行事でプレゼントしてもらったこともないし。母さんも、あんたも」
傍目にもわかるほど、父は青ざめていた。けど、姉はその乾いた言葉をやめようとはしなかった。
「悲しくなんてなかったわ。母さんがいたっていなくたって……」
そこで、姉は初めて黙った。言葉を、喉の奥でごくりと飲み込んで。
「明、もういい。わかったから」
視線を落としてぴくりとも動かない姉に、父が懸命に言う。
「悪かった。私たちが悪かったんだ。理解してやれなかった。お前が」
「……私が?」
姉は、奇妙にゆっくりと問い返す。
「私が傷ついたとでも言うの?」
誰も言葉を挟めなかった。感情なんて何もない姉の口調は、心の芯を凍らせるような冷たさがあった。
「何も期待されてなかったから、私の方だって何も期待してなかった」
人形みたいに、姉は口以外何も動かしていなかった。
「何がわかるのよ。できるわけないじゃない。二十年近く何も知ろうとしなかった人が、今更どんなことしたって無駄じゃない」
姉は顔を覆って呟く。
「……風邪だって、母さんは言ったもの」
小さな子どもが言い訳をするように、姉は幼い調子で言う。
「すぐ治るって。治ったら三人で暮らすんだって、言って。私たち子どものことなんて全然眼中にもなかったのに、これからは一緒だって笑って……」
畳の上に、ぽたりと水滴が落ちた。
「ほら、やっぱり。結局、何もしてくれなかった」
姉は俯いたままだった。ただ次々と涙が畳に染みを作っていくだけだった。
雨音が天井を叩く中で、姉の嗚咽の声だけが部屋の中に響く。私は姉の前に回って、そっと肩に手を置いた。姉は握り締めた両手を上げて、私の頭をぎゅっと抱きしめた。
綺麗な姉の茶色の瞳が、今は真っ赤に歪んでいた。
「……あんたのせいよ」
一度きつく目を閉じ、彼女は立ち上がる。父を睨みつけたその瞳には、もう姉が内に秘めていた激しい感情が露になっていた。
彼女はポケットから銀色に光るものを取り出す。
「母さんの代わりにあんたが……あんたが、死ねばよかったのに!」
姉が初めて見せた、理屈をかなぐり捨てた激情と、純粋な悲しみ。激痛のような心のせめぎあい。
それがわかってしまったから……私は姉を止めてしまった。
「美朱!」
「美朱ちゃん!」
皆が一斉に立ちあがる。救急車とか、とりあえず寝かせて、とか様々な声が聞こえる。
何が起こったのかはわからなかった。ただ右の視界が真っ赤に染まり、がんがんと響くような激痛が顔全体に走っている。
どうしたんだろう。何も見えない。
「美朱、なんで、お前……っ!」
父の声が聞こえて安心した。よかった。姉だってきっと本気で、父を傷つけようなんて考えないのだから。
私は気が遠くなるような痛みの中で思いだす。
せっかく取ってきたのに、忘れるところだった。
起き上がろうとすると、それを制止する漆黒の影があった。激痛で感覚が痺れた今なら、彼も怖くなかった。私は影を、兄を振り払って部屋の奥へと這うようにして向かう。
白い木で作られた、母の棺があった。手探りで蓋を開けて、私は俯く。
私は母が亡くなったと知った時、悲しむことができなかった。母に何もすることができなかった私に、そんな子どもらしい感情を抱いてはいけないんだと思った。
だけど一生懸命考えて、たった一つだけ、母に私ができることがあると気づいた。
死ぬ時は菜の花に囲まれて死にたい。母は私に言い残してくれたから。
私は外で摘んできた菜の花を一つ、棺に収める。囲むほど花を入れられないのが残念だったけど、これで母の心が少しでも満たされてほしいと、切に願った。