夏休みに入ってからは、葵君と会う機会が増えた。絵を描きつづける私に話しかけてくる。
「また喧嘩した」
誰ととは聞くまでもない。
「あいつ見てると腹立つ。兄さん元気出してって、よく言うよ。俺がいつ落ち込んだっての」
苛々している時の葵君は、吐き出すように言葉を零していた。
「いつも馬鹿にして。こんな体じゃなきゃ、あいつに慰められることなんてないのに」
私は返事を多くしない。時々頷くだけだったけど、葵君はそれで構わないらしかった。
独白が途切れると、今度は逆だった。私に問い掛けてきて、私に話すことを求める。
「お前の父親、再婚したんだって?」
「……うん。六年、前」
私が沈んだ声を出したので、葵君は少し困った顔で目をそらした。自分の家族のことは散々言っているのに、他人に対しては気を使うらしい。
「それで兄ちゃんができたんだろ」
「うん。どうして知ってるの?」
不安げな顔でもしていただろうか。葵君は励ますように声のトーンを上げて笑ってみせた。
「なんだよ。兄ちゃん、ここへいつもお前迎えに来てるじゃん。真面目そうでちょっと怖いけどさ。でも俺みたいに殴ったりはしないだろ?」
「うん」
「俺よりずっと出来た兄貴だよ、な?」
同意を求められても、私は困ってしまう。まともに話しかけたことがない兄で、彼のことは六年経っても全然理解できなかった。
仰向けにひっくり返って葵君は天井を眺めてから、両腕で顔を覆った。
沈黙が始まったので、私は絵を描く作業を再開する。黙っている時の葵君は、邪魔をしてはいけないと決めていたから。
絵の具を薄く溶かして、ふき取るようにして広げる。私は色を融合させていく水彩画が絵の中では一番好きだったから、一日中そればかり描いていた。
「……俺、このまま死ぬのかな」
葵君がうめくようにつぶやいた。
「最後は白に、なっていくんだろうか……」
私は筆を動かす。無心のその作業は、そこに感情を挟まないでいられる。
「お前、完全無視だよな」
「え? き、聞いてるよ」
慌てて現実世界に戻ってくると、葵君は苦笑して首を横に振った。
「いいけどさ。今日は何描いてんの?」
葵君の精神状態は上がっては下がるものらしい。私との会話は淡々としたものだった。
どうしてこの部屋へやってくるのか。葵君は隣の小部屋の住人であるはずなのに。
そう聞いたら、彼は部屋をぐるっと見まわして言った。
「青色が好きなんだ」
言われて始めて気づいた。この部屋は壁紙も床も天井も、すべて青だった。
「青色は、心を静める効果があるらしいよ」
「ふうん。じゃあ美朱には全然必要ないじゃん。お前はもっと興奮した方がいいぞ」
「そ、そう」
お友達を作って遊ぶ。咲子さんに言われたのとはちょっと違うと思うけど、少なくとも私にとって葵君は唯一、友達といえる存在だったと思う。話した内容はほとんど忘れてしまったけど、でも静かな、穏やかな時間を葵君は作ってくれた。
夏休み最後の日のことだった。
昼過ぎ、いつも通りに病院の中にある私の小部屋へ向かうと、いつもとは違って葵君はもうそこにいた。
真剣な顔をしている葵君にちょっと気圧されながら、私は葵君の斜め前に座る。
「手術を受けることにしたんだ。ここを出て専門の病院に行く」
固い表情を崩さないまま、葵君は短く言う。
「うまくいっても、何年もリハビリが要るんだってさ」
「なんで?」
もう俺なんて死ねばいいんだと、いつも言っていたのに。
「美朱は、前に葵について話してたろ」
「え、うん……」
私は花の絵をよく描いていたから、時々葵君と花について話していた。
――何これ。本当に花?
――うん、これは水葵。小さい花だけど、綺麗な水色をしてるの。
葵は身近にあるものじゃない。幼い頃からよく植物図鑑を広げて見て、私は気に入っていた。
――私は葵の葉っぱが好き。みんな、太陽に向けてぱぁって葉を広げてて。花びらみたいに華やかじゃないけど、力強いの。
「所詮俺なんて家に閉じこもってるだけだから、誰も俺のいいとこなんて見つけてくれないし、自分でもわからない。遠い太陽を横目にしてぶつくさ言ってるだけだってわかってるよ」
葵君は空色の目を吊り上げて言った。
「でも俺は死にたくない。何もできないまま死ぬなんて冗談じゃない」
「……うん」
「部活がしたいし。友達とくだらない話がしたいし。走りたいし」
言葉を切った葵君の目は、やっぱり綺麗な空色だった。
私はこくんと頷く。
「いいと思う」
気の利いた言葉を探したけど、話し慣れていない私が零したのはその一言だった。
しばらく葵君と二人、黙りこくる。先に沈黙を破ったのは葵君の方だった。
「そういえば、美朱の絵はけっこう上手いと思う」
「え?」
突然の言葉に目を瞬かせると、葵君は苦笑して言った。
「葵の絵くれよ。記念に持ってく」
「私の……?」
私はスケッチブックを握り締めながら視線をさ迷わせる。
「あ、あんまり丁寧に描いてない、と思う。本当に」
「いいから」
力を緩めた瞬間に、葵君はひょいっと私の手からスケッチブックを取り上げた。慌てて取り戻そうとしたけれど、私より背が高い葵君の手までは届くはずもなく。
スケッチブックを開いたまま固まっている葵君。急に恥ずかしくなって、私は目を伏せた。
下書き段階でボツにした絵もたくさんある。とても見れたものではない絵でいっぱいなのはわかっている。
「……やっぱり」
いらない?
残念な気持ちとほっとした気持ちが同時に押し寄せてきた私に、葵君は絵を指し示しながら言った。
「こっちにする。いいだろ?」
スケッチブックの見開きに大きく描かれていたのは、葉が細長く、すらりとした背の高い花だった。
菖蒲だ。美しい紫の花。
「……両方持っていって」
こうして葵君は病院から姿を消すことになった。
葵の花びらを一枚、ガラス玉にくっつけると、ガラス玉は青い光を帯びた。
「ふーん」
いきなり耳元で声がしたので、私はびっくりして腰が浮きあがるほど跳ねた。
「あ、明さん。いつからそこに?」
「うん? ずっといたわよ」
明さんは楽しそうに小さく声を上げて笑う。
「やるじゃない。美朱」
「え、えと」
「純愛よ、純愛」
「え、そ、そんなこと」
ないと思う。
そう続ける前に、後ろから声がかかった。
「友達だろ」
振り向いて確認すると、大地さんだった。慌てて私も激しく頷いて同意する。
見上げると、いつの間にか上空には青空が広がっている。淡い、空に溶けていきそうだった葵君の瞳の色に似ている。
大地さんの言う通りだ。あれは恋というにはあまりに儚くて稚拙なもの。
でも、かけがえのない、思い出の夏休み。
「また喧嘩した」
誰ととは聞くまでもない。
「あいつ見てると腹立つ。兄さん元気出してって、よく言うよ。俺がいつ落ち込んだっての」
苛々している時の葵君は、吐き出すように言葉を零していた。
「いつも馬鹿にして。こんな体じゃなきゃ、あいつに慰められることなんてないのに」
私は返事を多くしない。時々頷くだけだったけど、葵君はそれで構わないらしかった。
独白が途切れると、今度は逆だった。私に問い掛けてきて、私に話すことを求める。
「お前の父親、再婚したんだって?」
「……うん。六年、前」
私が沈んだ声を出したので、葵君は少し困った顔で目をそらした。自分の家族のことは散々言っているのに、他人に対しては気を使うらしい。
「それで兄ちゃんができたんだろ」
「うん。どうして知ってるの?」
不安げな顔でもしていただろうか。葵君は励ますように声のトーンを上げて笑ってみせた。
「なんだよ。兄ちゃん、ここへいつもお前迎えに来てるじゃん。真面目そうでちょっと怖いけどさ。でも俺みたいに殴ったりはしないだろ?」
「うん」
「俺よりずっと出来た兄貴だよ、な?」
同意を求められても、私は困ってしまう。まともに話しかけたことがない兄で、彼のことは六年経っても全然理解できなかった。
仰向けにひっくり返って葵君は天井を眺めてから、両腕で顔を覆った。
沈黙が始まったので、私は絵を描く作業を再開する。黙っている時の葵君は、邪魔をしてはいけないと決めていたから。
絵の具を薄く溶かして、ふき取るようにして広げる。私は色を融合させていく水彩画が絵の中では一番好きだったから、一日中そればかり描いていた。
「……俺、このまま死ぬのかな」
葵君がうめくようにつぶやいた。
「最後は白に、なっていくんだろうか……」
私は筆を動かす。無心のその作業は、そこに感情を挟まないでいられる。
「お前、完全無視だよな」
「え? き、聞いてるよ」
慌てて現実世界に戻ってくると、葵君は苦笑して首を横に振った。
「いいけどさ。今日は何描いてんの?」
葵君の精神状態は上がっては下がるものらしい。私との会話は淡々としたものだった。
どうしてこの部屋へやってくるのか。葵君は隣の小部屋の住人であるはずなのに。
そう聞いたら、彼は部屋をぐるっと見まわして言った。
「青色が好きなんだ」
言われて始めて気づいた。この部屋は壁紙も床も天井も、すべて青だった。
「青色は、心を静める効果があるらしいよ」
「ふうん。じゃあ美朱には全然必要ないじゃん。お前はもっと興奮した方がいいぞ」
「そ、そう」
お友達を作って遊ぶ。咲子さんに言われたのとはちょっと違うと思うけど、少なくとも私にとって葵君は唯一、友達といえる存在だったと思う。話した内容はほとんど忘れてしまったけど、でも静かな、穏やかな時間を葵君は作ってくれた。
夏休み最後の日のことだった。
昼過ぎ、いつも通りに病院の中にある私の小部屋へ向かうと、いつもとは違って葵君はもうそこにいた。
真剣な顔をしている葵君にちょっと気圧されながら、私は葵君の斜め前に座る。
「手術を受けることにしたんだ。ここを出て専門の病院に行く」
固い表情を崩さないまま、葵君は短く言う。
「うまくいっても、何年もリハビリが要るんだってさ」
「なんで?」
もう俺なんて死ねばいいんだと、いつも言っていたのに。
「美朱は、前に葵について話してたろ」
「え、うん……」
私は花の絵をよく描いていたから、時々葵君と花について話していた。
――何これ。本当に花?
――うん、これは水葵。小さい花だけど、綺麗な水色をしてるの。
葵は身近にあるものじゃない。幼い頃からよく植物図鑑を広げて見て、私は気に入っていた。
――私は葵の葉っぱが好き。みんな、太陽に向けてぱぁって葉を広げてて。花びらみたいに華やかじゃないけど、力強いの。
「所詮俺なんて家に閉じこもってるだけだから、誰も俺のいいとこなんて見つけてくれないし、自分でもわからない。遠い太陽を横目にしてぶつくさ言ってるだけだってわかってるよ」
葵君は空色の目を吊り上げて言った。
「でも俺は死にたくない。何もできないまま死ぬなんて冗談じゃない」
「……うん」
「部活がしたいし。友達とくだらない話がしたいし。走りたいし」
言葉を切った葵君の目は、やっぱり綺麗な空色だった。
私はこくんと頷く。
「いいと思う」
気の利いた言葉を探したけど、話し慣れていない私が零したのはその一言だった。
しばらく葵君と二人、黙りこくる。先に沈黙を破ったのは葵君の方だった。
「そういえば、美朱の絵はけっこう上手いと思う」
「え?」
突然の言葉に目を瞬かせると、葵君は苦笑して言った。
「葵の絵くれよ。記念に持ってく」
「私の……?」
私はスケッチブックを握り締めながら視線をさ迷わせる。
「あ、あんまり丁寧に描いてない、と思う。本当に」
「いいから」
力を緩めた瞬間に、葵君はひょいっと私の手からスケッチブックを取り上げた。慌てて取り戻そうとしたけれど、私より背が高い葵君の手までは届くはずもなく。
スケッチブックを開いたまま固まっている葵君。急に恥ずかしくなって、私は目を伏せた。
下書き段階でボツにした絵もたくさんある。とても見れたものではない絵でいっぱいなのはわかっている。
「……やっぱり」
いらない?
残念な気持ちとほっとした気持ちが同時に押し寄せてきた私に、葵君は絵を指し示しながら言った。
「こっちにする。いいだろ?」
スケッチブックの見開きに大きく描かれていたのは、葉が細長く、すらりとした背の高い花だった。
菖蒲だ。美しい紫の花。
「……両方持っていって」
こうして葵君は病院から姿を消すことになった。
葵の花びらを一枚、ガラス玉にくっつけると、ガラス玉は青い光を帯びた。
「ふーん」
いきなり耳元で声がしたので、私はびっくりして腰が浮きあがるほど跳ねた。
「あ、明さん。いつからそこに?」
「うん? ずっといたわよ」
明さんは楽しそうに小さく声を上げて笑う。
「やるじゃない。美朱」
「え、えと」
「純愛よ、純愛」
「え、そ、そんなこと」
ないと思う。
そう続ける前に、後ろから声がかかった。
「友達だろ」
振り向いて確認すると、大地さんだった。慌てて私も激しく頷いて同意する。
見上げると、いつの間にか上空には青空が広がっている。淡い、空に溶けていきそうだった葵君の瞳の色に似ている。
大地さんの言う通りだ。あれは恋というにはあまりに儚くて稚拙なもの。
でも、かけがえのない、思い出の夏休み。