「腹は決まったか?」
 キャッチャーのポジションに戻って来た大森に剣都がさり気なく訊いた。
「見ればわかるよ」
 審判に会話をしているのがバレないよう、大森もさり気なく答えた。
 大森の返答を聞き、剣都はマウンドに目を向けた。
 そこには闘志をむき出しにして立つ大智の姿があった。
 剣都はふっと笑みを漏らす。
 心が躍っていた。
 大森が腰を下ろしたのを確認して、球審が試合再開の合図をかけた。
「九回の裏、二アウト一塁。マウンド上の春野は表情が変わりましたね」
「そうですね。チームメイトから何と声をかけられたのかはわかりませんが、何か吹っ切れたような顔をしていますね。いい表情です。これは面白い対決が見られるんじゃないですかね」
「期待したいですね。さぁ、マウンド上の春野。セットポジションから、第一球を……投げました!」
 セットポジションから流れるように綺麗なフォームで大智が投げる。
 乾いた革の音が響き渡った。
「真っすぐー! ストライク! 春野、黒田に対して初回の大ファール以来の真っすぐを投じました」
 スタンドから歓声が上がる。
 球場のボルテージが一段上がった。
 初球、ストライクを取られた剣都。
 だが、表情は嬉しそうにしていた。
「何、笑ってんだよ」
 大森が返球しながら訊く。
「いい球だ」
 嬉しそうに口元を笑わせる剣都。
 それを見て、大森もふっと口元を緩ませていた。
「楽しめよ」
 大森はさり気なく言って、腰を下ろした。
 二球目も真っすぐ。
 剣都がスイングする。
 金属音が響いた。
 ボールはバックネットを揺らした。
 ファールボール。
 剣都は一瞬悔しそうな表情を浮かべた。
 だが、またすぐにその顔には笑みが浮かんでいた。
 それを見て大智も笑みを浮かべる。
 全球ストレート、真向勝負。
 一球入魂。
 その言葉通り、大智は一球一球、魂を込めてボールを投げ込んだ。
 投げる姿、投げる球からそれがひしひしと伝わって来る。
 だが、剣都だって負けてはいない。
 投げる度にキレの増す大智のストレートに剣都も振り負けはしない。
 二ストライクに追い込まれてからも、剣都はフルスイングを貫く。
 剣都も一スイング一スイングに魂を込めてボールを打ちに行った。
 互いに一歩も引かない二人の戦いは十球をとうに超えていた。
 球場のボルテージは既に最高潮。
 皆が二人の勝負に心を熱くしていた。

 バックネット後方の席で愛莉は一人、手を組み祈るように二人の対戦を見守っていた。
 何を祈っているのかは自分でもわかっていなかった。
 気が付くと勝手に体がそうなっていた。
 ただ、二人の勝負が終わってほしくない、その思いだけは確かに抱いていた。
 終われば必ず、どちらかが笑い、どちらかが泣くことになる。
 そんなことは初めからわかっていたことだが、その時を前にしてもなお、その時が来なければいいのにと都合のいいことを考えている自分がいる。
 このまま、ただひたすら目の前のライバルと魂のぶつけ合いを楽しんでいてほしい。
 しかし、当然そうはいかない。
 決着の時はいつか必ず訪れる。
 次かもしれないし、まだ先なのかもしれない。
 それがいつなのかは誰にもわからないのだ。
 だけど、ただ何となく、何となくなのだけど、次のような気がする。
 大智が次に投げる球。
 次に投げる球で決着が着いてしまいそうな気がしていた。

 ベンチから二人の兄の対決を見つめる紅寧。
 真っすぐ。
 ただひたすら真っすぐな目で兄達の戦いをじっと見つめていた。
 かつて、夕暮れの空き地で二人の姿を見つめていたように。
「あ……」
 紅寧が突然、声を漏らした。
「ん? どうした、黒田」
 藤原からの問いに紅寧は、次、とだけ答えた。
「次?」
「次で……決まる」
「どうしてそう思う?」
「ただの勘です。でも、そんな気がしてならないんです」
「……そうか」
 藤原は納得したように頷きグラウンドに視線を戻した。

 音が……消えた。
 だが頭は異常な程冷静で冴えている。
 周りも良く見える。
 空が青い。
 もの凄く……青い。
 夏の空ってすっげぇ青いんだな。
 すーっと息を吸って吐いた。
 最後……だな。
 そんな気がした。
 次に投げる球が最高の一球であり、この試合最後の球になる気がした。
 根拠はない。
 ただ何となくそんな気がした。

 ――――――来る。
 これまでの球を超える一球が。
 あいつが投げる最高の一球が来る。
 マウンドに立つあいつから、そんな空気が伝わって来る。
 乱れつつあった呼吸を整え、集中力を高める。
 そして、感覚を研ぎ澄ませる。
 頭で考えていたんじゃ間に合わない。
 考えるな、感じろ。
 全ての感覚を研ぎ澄ませて感じるんだ。
 ボールの鼓動を。
 あいつの鼓動を。
 周りの音はとうに聞こえなくなっていた。
 伝わって来るのは自分の鼓動とあいつの鼓動だけだ。

 大智がセットポジションに入った。
 一呼吸置いて、動き出す。
 無駄のない、流れるような動き。
 無駄な力は一切入っていない。
 全ての力が右手の指先に集約されて行く。
 指先に集約された力がボールへと伝えられる。
 大智の指先からボールが弾き出された。
 大智から全ての力を伝えられたボールはうねりを上げ、大森のミット目がけて向かって行く。
 剣都は一切の迷いなく打ちに行った。
 フルスイング。
 タイミングもバッチリ。
 もらった、と剣都は思った。
 だが……。
 大智の真っすぐは途中からこれまで以上のノビを見せた。
 大智の真っすぐのノビは剣都の予想を遥かに上回っていた。
 タイミングがバッチリだったはずの剣都のバットの上を大智の真っすぐは通り過ぎて行く。
 大森のミットがパシッと気持ちの良い音を鳴らした。
 大智の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
 剣都は唇を噛みしめる。
「ストライク! バッターアウト!」
 球審の渾身のコール。
 次の瞬間、大歓声が上がった。
 何かから解き放たれたように、笑顔を浮かべる者、涙を流す者、抱き合い称え合う者。
 皆、思い思いの形で感情を露にしていた。

 バッターボックスで剣都は天を仰いでいた。
 青いな。
 どこまでも、青い。
 清々しいほどの青さが、どこまでも続いている。
 あぁ、悔しい。
 途轍もなく悔しい。
 どうしようもなく悔しい。
 でも、なぜだ。
 悔しいのに、どうしよもなく悔しいはずなのに……。
 心はどこか清々しかった。