「いいですよ、先生」
 マウンドからの投球練習を終えた大智が藤原に声をかける。
「よっしゃ」
 体をほぐしながら待っていた藤原は大智に声をかけられて、バッターボックスへと向かった。
 藤原が右のバッターボックスに入る。
「判定はキャッチャーに任せるわ。ええっと……」
「大森です」
「そう、大森。君もなかなかやるって噂を聞いているよ」
「ありがとうございます。でも、今はそんなことよりもあいつの球に集中してください。先生の経歴がどれほどのものなのかは知りませんけど、ちょっとやそっとじゃあいつの球は捉えられませんよ」
 大森はマスクを被って屈んだまま、左上にある藤原の顔を見つめながら言った。
「言うね~。まぁでも、何となくそんな気がするよ」
 藤原はそう言うと、マウンドの大智へと視線を向けた。その目は人が変わったようにキリッとした目つきになっていた。
 藤原の視線が自分に向いたことを確認した大智が投球モーションに入る。
 グラウンドにいるメンバーは全員、その対決に注目していた。
 グラウンドには緊張感が張りつめている。
 初球、大智の投げた球が大森のミットに収まる。
「は、速っ……」
 二人の対決を傍から見ていた部員たちはそう声を漏らしていた。
「ストライクです」
 大森がボールを大智に返球しながら藤原に言う。
「なるほど。スピードだけじゃないみたいだな。ノビも一球品だ」
 藤原は嬉しそうにそう呟くと、再びマウンドの大智へと視線を向けた。
 二球目。
 藤原のバットが大智の球を捉える。鋭い打球がレフト線の左に切れていった。
 ファールボール。
「少し焦ったか……」
 藤原は打球の行方を見ながら呟いていた。
「さっきほど球にノビがなかったな」
 藤原の顔が大森に向く。
「まだ硬球に慣れきれていないもので」
 大森は外していたキャッチャーマスクを着け直しながら答えた。
「半年の間に慣らしてなかったのか?」
 藤原は少し驚いた様子を浮かべて大森に訊いた。
「えぇ、まぁ。途中、触ってない時期があったんで」
「どうして?」
 藤原が不思議そうな顔を浮かべる。
「受験の為です」
「受験? うちの学校、そんなに偏差値高くないだろ? 寧ろ低いくらいだ」
「根っからの野球バカなんですよ、あいつは。中学で引退した後も高校で野球をやることしか考えてなかったから、勉強の方はほったらかしで。ギリギリになってようやく自分が置かれている状況に気が付いて、そこから猛勉強。その間は真面にボールを投げていなかったんですよ」
 大森はそう言いながら、マウンドの足場を整えている大智を見つめていた。
「なるほど。当面の課題だな」
「えぇ。でも、この勝負はさっきの当たりであいつの中で完全にスイッチが入ったみたいですよ」
 大森はそう言うと左右の口角を上げて藤原を見た。
「なに?」
 藤原はそう言われてマウンドの大智へと視線を向けた。
 マウンドにいる大智は目をキラキラと輝かせていた。
「あの目をしている時の大智の球はこれまでとは比べものになりませんよ」
 大森はマスク越しに藤原を見て、ニヤリと笑った。
「ほう……」
 藤原はそう言いながらフッと笑みを浮かべると、打席を外して素振りを始めた。
 鋭いスイング音が静寂なグラウンドに響く。藤原のスイングもまた一段と鋭さが増していた。
 藤原のスイングを目の当たりにした大智はより一層の闘志をその目に宿していた。
 素振りを終えた藤原が、バッターボックスへと戻る。
 大森とのサイン交換を終えた大智が藤原に対して三球目を投げた。
 大森の宣言通り、これまでの二球よりも勢いのある球が大森のミット目がけて進んで行く。
 藤原はその球を打ちにいった。

「グキッ?」
 打球音と共に聞きなれない音が聞こえてきた為、大森は首を傾げた。
 しかし、すぐに我に返り、大森はマスクを外して打球を追った。藤原が打った打球は高々と上がっている。だが、落ちて来たのはマウンドにいる大智の許だった。
 ピッチャーフライ。
 勝負は大智が勝利。
 すると次の瞬間「こ、腰が……」と唸るような声が大森の足下の辺りから聞こえて来る。
 大森は「ん?」とその声の方へと目を向けた。
 するとそこには腰を抑えて倒れ込む藤原の姿があった。
「せ、先生!? ど、どうしたんですか!?」
 大森は慌ててしゃがみ込みながら藤原に声をかけた。
「スイングしたら、腰が……」
 藤原が絞り出すように声を発する。
「う、動けますか?」
「む、無理……。きゅ、救急しゃあぁ……」

 藤原を乗せた救急車がサイレンを鳴らしながら学校から出て行く。
「おいおい、大丈夫か……」
 大智と大森は呆然と救急車を見送りながら、そう呟いていた。