「言うな! 悔しい!」

 むきーっと重実が頭を抱えて悶絶する。それを狐が、面白そうに眺めた。

『欲のないおぬしも、唯一剣の真剣勝負にかけては滾るのぅ』

 狐に魂を食われてからというもの、重実が熱くなるのは強い相手と剣を交えたときだけだ。死なないとわかっていても、緊張感は半端ない。剣の真剣勝負では、死ななくても五体満足とはいかない可能性もあるからだ。それに、はたして首を落とされても死なないのかは疑問である。今の重実の、唯一先が見えない事態に身を置けるのが、剣での真剣勝負なのだ。

「い、いやしかしだな。正面から鳥居とやり合って、命があるだけでも幸いなのだぞ?」

 いきなり頭を抱えて悔しがる重実に驚きながらも、安芸津が慰めるように言う。小野はしばし顎を撫でながら重実を見、少し難しい顔をした。

「おぬしは純粋な剣客だな。己の身がどうなろうと、強い相手を望む。そういう気質は鳥居と通じるであろう。奴も同じく、おぬしを好敵手と見ておれば、今一度おぬしと戦いたいと思うやもしれぬぞ」

「望むところでさ」

『わしはあまり望まんが』

「奴が手傷を負っておらぬのなら、今すぐ旅立てば危険なのではないか? どこぞで鳥居がおぬしを狙っておるやもしれぬ」

「鳥居は幸い、久世殿は斬られて死んだと思っているかもしれませぬ」

 安芸津が言うが、小野は眉根を寄せたままだ。目の前の重実の様子から、とても死ぬほどの重傷を負ったとは思えないからだろう。

「……まぁ、奴がこのままどこぞへ去ってくれれば、それに越したことはないのだがな」

 以前の安芸津と同じことを言い、小野は腰を上げた。

「ではおぬしには、旅の路銀を用立てよう。それであれば、邪魔にはならぬであろう?」

「は。ありがとうございます」

 一文無しでも何とかなるが、金はあって困ることはない。多すぎたら安芸津に宿代だと言って押し付ければいいや、と考え、重実は深く頭を下げた。うむ、と小さく言って、板を踏む音が遠ざかっていく。
 小野が去ってから、重実は顔を上げた。途端に階の上の、艶姫の不満そうな目にぶつかる。

「折角伊勢に、いい殿方が現れたと思ったのに」

 ぷーっと頬を膨らませて、恨めしそうに重実を見る。

「生憎伊勢は、おれをそんな目で見てないと思いますよ」

 伊勢の前で、そんないいところを見せた覚えもない。むしろ独り言の多い妙な奴、としか思われていないような。

『そうかのぅ。おぬしと一緒に旅に出たいとか言っておったではないか』

「あれは単に、武者修行に出たいってこったろ」

『そんなことを考える時点で、あ奴も相当妙な女子じゃが。お似合いかもじゃぞ』