『馬鹿が』

 ごろごろと畳を転がって逃げる重実から素早く離れ、狐が呟いた。

『わしは他の者には見えぬということを、いい加減に覚えたらどうじゃ。ただの変態じゃぞ』

 呑気にがしがしと後ろ脚で耳の後ろを掻きながら、逃げ回る重実を見る。とはいえここで伊勢に刺されたら、狐とて痛い。やれやれ、とおもむろに身体を起こすと、狐は、とん、と床を蹴って、荒れ狂う伊勢の背を駆け上がった。肩の上で、思い切り尻尾で伊勢の顔を撫でまくる。

「えっ? ひゃあぁっ!」

 初めて聞くような情けない声を出して、伊勢が刀を放り投げ、己の顔を押さえる。いきなり顔を、ふさふさの刷毛のようなもので撫でまわされた感じがしたのだ。驚かないはずがない。

「な、何っ?」

 ぺたんとその場にへたり込む。同時に狐も床に降り立ち、ててて、と重実の元に駆け戻った。

「ふ~、やれやれ。助かったぜ。ったく、何だってんだよ」

 むくりと上体を起こし、重実はがしがしと頭を掻いた。

『お前はほんと、わしを普通に扱うよな。他の者には見えないっつーに、何度言っても忘れよる。その頭に詰まっておるのは米ぬかか?』

「失礼な。わかっとるわい、それぐらい」  

『わかっとらん。言うた傍からすぐそれじゃ。ほれ、皆が怪訝な顔で見ておるぞ』

 肩の上で呆れたように言う狐に、ん、と顔を上げれば、伊勢と艶姫、彦佐までが妙なものを見る目で見ている。

「あー……っと。ああ、えっと、そういう意味じゃなくてだな、うん、一人が寂しいってんなら、もうしょうがねぇからその衝立の向こうにいなよ。確かにほれ、うっかり誰かが忍び込むってこともあるかもだしな」

 意味なくうんうんと頷きながら、重実は艶姫を、部屋の隅にあった衝立の向こう側へと追いやった。ついでに狐も。