「艶姫がお待ちです。少し離れてついてきてくだせぇ」

 すれ違いざま、男の耳元に囁く。男が明らかに驚いた顔になって、ぱっと振り向いた。重実はそのまま、振り向きもせずに歩いて行く。男は僅かに逡巡したが、巡礼に何か告げると、周りを気にしつつ、重実の少し後ろをついてきた。

 重実は宿には行かず、一旦小汚い飯屋に入った。宿場でも藩士などはまず利用しない、安く汚い店だ。それでも一応中を確かめ、重実は奥の席に座ると、蕎麦を二つ注文した。後から入って来た男が、店の汚さに若干引いている。入るのも嫌そうだが、気になることを呟いた重実を放っておくこともできず、しぶしぶ近付いてきた。小女が、蕎麦を運んでくる。

「安芸津様……でやんすね」

 男がすぐ傍まで来てから、ようやく重実は口を開いた。

「……おぬしは何者だ?」

 重実の問いには答えず、男は腰の刀を左手で握ったまま誰何する。

「久世 重実ってもんです。沖津藩とは何の関りもない素浪人でさ」

 あっさりと名乗り、重実はずず、と蕎麦を啜った。そして、箸で前を差す。

「とりあえず、座っちゃくれませんかね。目立っちゃまずいでしょ」

 重実の言葉に、我に返ったように、男はやっと腰を下ろした。だが依然左手は刀の柄にある。

「そう固くなりなさんな……つっても無理か。でもこっちとしても、お侍さんが安芸津様だって思って声をかけたんだ。さて、何で藩士でもないおれっちが、安芸津様の面体を知っていたのか? さらに姫君のことまでね」

 あくまで軽く、重実が言う。そして、男の前の蕎麦を指差した。

「こんな店にゃ、さすがに追っ手も入らねぇとは思いますがね、万が一だ。その蕎麦ぁ啜りながら聞いてくだせぇ」

 一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに合点がいったらしく、男は箸を取ると、蕎麦をたぐり寄せた。ずず、と音を立てる。その音に紛れるように、重実は早口で経緯を語った。峠でたまたま姫君と伊勢を助けたこと。今はとある宿に滞在していること。

「して、姫君はどこにおられる」

 箸を置き、安芸津は真っ直ぐに重実を見据えた。重実は少し目を細めると、ゆっくりと立ち上がる。

「十分注意してついてきてくだせぇよ。おれは面も割れてねぇが、あんたはそうもいかねぇでしょ」

 そう言いおいて出て行く重実の後ろ姿を、しばらくしてから安芸津が追う。その安芸津の足元には、狐がついていた。宿の前で、一応重実自身も十分周りを確かめる。

---けど安芸津だって、どっかに宿を取ってるんだろうし、おれのことは知らんはずだから、安芸津がここに入ったのを見られても、すぐさま伊勢たちに繋がるとも思えんけどな---

 変に宿を張られるのも鬱陶しいが。とりあえず安芸津の周りは狐が探ってくれよう。そう思い、重実は宿に入った。