「……欲がないのさ」

 一言で言うと、そういうことだ。だがそんなこと、普通の人間ではほぼあり得ない。まして人生を達観した老人でもないのだ。
 伊勢の目が、胡散臭そうな者を見る目に変わった。

「……まぁよろしいです。見たところ、姫様もご無事で……て、姫様は?」

 はた、と伊勢が、きょろきょろと部屋の中を見回す。艶姫の姿がない。

「あ、大丈夫大丈夫。そこの湯屋に行ってるだけだから」

 ちょい、と障子の向こうを指差して、重実が言う。途端に、ぱっと伊勢が身を翻した。

「おい、待てって」

「いくら湯屋でも、油断できませぬ!」

「いや、そうでなくて。あんた、そのまま行くのか? 男装がバレるぜ」

 う、と伊勢の動きが止まる。忘れていたが、今、伊勢は男装だ。風呂自体は混浴なので問題なかろうが、男として入って女として出てくるのは如何なものか。

「大丈夫だって。気を探ってるから」

 一緒にいるほど正確ではないが、何かあれば気が大きく乱れる。それを追っているので、多少離れても大丈夫なのだ。が、やはり伊勢は胡散臭げな視線を投げる。
 そのとき、外から襖が開き、艶姫が顔を見せた。

「あら伊勢、帰ってたの」

「姫様っ! 姫様ともあろう者が、湯屋になど行かないでください」

「だって、つまらないんだもの。外にも出られないし」

「それにはそれなりの理由があるのです。姫様が襲われたら、わたくしは切腹を免れませぬ。ご自分の身が危ういだけでなく、周りも同様、と自覚してください」

 どこまでも男勝りだ。女子に切腹もないだろう、と思ったが、伊勢に限っては本当にやりそうだ。