これはいつのことだろう。

 俺の目に入ってきたのは、仏壇に向かう祖父の後ろ姿だった。
 祖父は押し殺した声で、何度もすまない、すまないと謝っている。

 その姿に、俺は衝撃を受けた。
 もしかして祖父はこうやって毎日、父と母に謝り続けていたのだろうか?
 俺はずっと、祖父は父と母が死んでも、さほど悲しんでいないのだと思い込んでいた。

 祖父が俺と鈴芽の前で、悲しむ様子を見せた記憶がなかったからだ。
 祖父は両親の死後、人が変わったように厳しくなった。
 家事も鈴芽の面倒を見ることも、大半を俺に押しつけた。
 年月が経てば経つほど、祖父との心の距離はどんどん開いていった。

 友達と遊ぶことも制限され、門限から数分遅れると、家の中に入れてもらえず何時間も玄関の前で立たされた。かといって成績が落ちるとそれはそれで大声で怒鳴られて、祖父がいいと言うまで勉強することを強いられた。
 家事と勉強と鈴芽の面倒を見ることで、俺はへとへとに疲れ切っていた。
 そんな時祖父は何をしているかというと、部屋にこもり、押し黙っているだけだった。

 祖父の豹変ぶりが信じられなかった。
 父と母の死を悲しんでいる素振りもなかったし、裏切られたような気持ちでいっぱいになった。

 中学を卒業する頃には、俺は祖父を毛嫌いするようになっていた。
 鈴芽も可哀想だった。その頃鈴芽は五歳くらいで、まだ幼稚園に通っていた。親に甘えたい盛りだっただろうに、鈴芽が甘えられる人間は俺しかいなかった。

 他の子と同じように欲しいものをねだることも家族で遊園地に行くこともできず、小さいなりに懸命に俺の手伝いをしてくれた。
 鈴芽は自分が泣いていたら俺が心配すると思って、いつも布団に隠れてこっそり泣いていた。そんな鈴芽の姿を見ていると、祖父を許せないという気持ちばかりが強くなっていった。

 早くこんな家を出ていってやる。その決意だけが、俺を動かす原動力になった。



 その日の祖父は、一人で縁側に座って、月を眺めていた。

『あなたはもう少し、明良と鈴芽に優しくしてあげたらいいのにね』

 誰かが優しい声で、そう言った。

 いつの間にか祖父の前に、ふわふわとした蛍のような光に包まれたお婆さんが立っていた。
 この人、一体どこから現れたんだろう。そう考え、彼女の顔を見て、俺はハッとした。

「これ、婆ちゃんだ!」
「お前の婆さんか」
「そう、絶対にそう! 婆ちゃんは、俺が生まれる前に亡くなったんだ」
「なるほど。爺さんは、やっぱり生者でない人を見る力があったようやな」

 会ったことはないけれど、祖母の姿は写真で見たことがある。
 それに説明されなくても、ひと目で俺の祖母だと分かった。笑った時の目元が、父さんによく似ていたから。
 祖母に向かい、祖父は静かに呟いた。

『そう言えば、今日はお前の命日だったか』
『嫌ですよ、忘れちゃ。お久しぶりです』

 そう言って、祖母は儚げに笑った。

『私は老い先が短い。明良と鈴芽が社会人になるまで、見守れるかすら分からない。あんな目に遭った二人だけを残して死ぬのは、心配で堪らない』
 祖父は疲れたように空を見上げ、深い溜め息を吐く。

『二人が立派に生きていけるように、心を鬼にして、明良と鈴芽をしっかりと育てないと。それがせめてもの、私の罪滅ぼしだ』

 その言葉を聞いて、初めて気がついた。
 祖父が理不尽に家のことを押しつけてばかりいると思っていたが、おかげで俺は、一人で大抵のことをこなすことができている。料理も、掃除も、洗濯も。

 自分が死んだ後、残された俺と鈴芽のことを考えてのことだったのだろうか。
 学費を奨学金やバイトでまかなったことも、祖父の死後、残された俺と鈴芽に相応の財産を残すための配慮だったのかもしれない。