瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ――。
いつからだったのか、きっと物心つく前から、私には人ならざる者が見えていた。
そう、あれは確か小学四年生の頃、暑い夏の日の放課後のこと――。
『おい、お前! うまそうな匂いがするな!』
足元から声が聞こえて視線を落とすと、ひとつ目で尻尾が四本もある猫が私を見上げていた。これは〝あやかし〟だ。
前に本人が名乗っていたので知っている。
『肉どころか骨も残らないくらい、貪り食ってやる! どうだ、怖いだろ~』
あやかしは四本の尻尾をゆらゆらと揺らし、まるで私の反応を楽しむようにニタニタと笑って、恐ろしいことを次々と口走っている。
なのに、私は目の前のあやかしが全然怖くなかった。
人間と違って、あやかしは思っていることや企んでいることをはっきり言葉にしてくれるから。
『私を食べるの?』
しゃがみ込んであやかしに尋ねれば、『当然だろう!』と返ってくる。
どうしよう、痛いのは嫌だな。
うーん、とうなりながら悩んでいると、ふと下駄箱の中に嫌がらせで大量に詰め込まれていた棒状のスナック菓子の存在を思い出す。
そうだ、あれだ!
私はランドセルを下ろして蓋を開けると、中から大量にある【さんま納豆ミックス】味のスナック菓子を取り出した。
『あの、これじゃダメかな?』
さんま納豆ミックスなんて、味を想像しただけで「うげっ」と吐き気を催しそうだけれど、あやかしの口には合うかも。
ダメ元で提案してみると、あやかしは食いついた。
『うむむ? なんだそれは』
『さんまと納豆が混ざった味?がするお菓子みたい。おいしいかどうかはわからないけど、これで私のことは諦めてくれる?』
『うー……いいだろう。今回だけだぞ!』
あやかしはそうは言いながらも、口元が緩んでいる。結構、嬉しかったらしい。
これまでも、私を『食べたい』と言うあやかしはたくさんいた。
けれど、ちゃんと向き合って話せばわかってくれた。本当に恐ろしいのは、腹の内が見えない人間のほうだと私は思う。
『ありがとう』
あやかしに笑顔を返しながら、お菓子の袋を開けていると、どこからかひそひそ話が聞こえてきた。
『あの子、またひとりで喋ってるわよ』
『ああ、気持ち悪い。病気なんじゃない?』
あ……近所のおばさんたちだ。
昔からあやかしや神様が見えた私は、友人や学校の先生、両親からも気味悪がられていた。
『……ごめんね、あやかしさん。私、そろそろ帰るね』
胸の痛みが大きくなる前にと思い、立ち上がる。
そして、あやかしの返事を待たずに、近所のおばさんたちの視線から逃げるようにしてその場から立ち去った。
とはいえ、家に帰ってきても居心地の悪さは拭えないのだけれど。
『ただいま』
ためらいがちに声をかけると、洗濯物のカゴを抱えたお母さんが玄関の前を通る。
『……帰ってきたのね』
私の存在に気づいたお母さんは、足を止めて怯えるように表情を凍りつかせた。
私の頭の中で、お母さんの『帰ってきたのね』という言葉がぐるぐる回っている。
自分の家に帰ってくるのは当たり前なのに、まるで帰ってきてほしくないみたいな言い方。私は知ってる。
お母さんは気味の悪い私に、消えてほしいと思ってるんだ。
ここは私にとっても、帰りたいと思える場所ではない。
でも、戻る場所はここにしかない。子供の私には、行きたいと思う場所に行ける力はなかった。
胸が重くなるほどの沈黙が降りて、私はふとお母さんが抱えている洗濯物カゴを見る。
すると、手がハサミのようになっている老婆のあやかしがお父さんのワイシャツをチョキンッと切っているのが見えた。
『あっ、ダメ!』
思わず大声を出すと、お母さんがひいっと小さな悲鳴をあげて持っていた洗濯カゴを落とした。
『今度はなんなのよ!』
小刻みに足を震わせながら、お母さんは私から距離をとるように後ずさる。
『お父さんの服、あやかしが切ろうとしてたの。だから、止めようと思って……』
『またなの? なんで、あなたの周りではおかしなことばっかり起こるのよ! あやかし? あなたのほうがよっぽど……化け物よ』
『化け物』のひとことが胸に鋭く突き刺さり、息もできないほどの痛みに襲われる。
私は泣きそうになって、俯きながらお母さんの横を通り自分の部屋に入った。勉強机にランドセルを置くと、すぐに玄関に戻って靴に履き替える。
『行ってきます』
すでにお母さんの姿はなかったし、誰も聞いてはいないと思うけれど、一声かけてから家を出る。
私、どうしてここにいるんだろう。
自分だけが生まれてくる世界を間違えたみたいに、どこにいても居場所がないような気がして苦しかった。
沈んだ気持ちのまま住宅街をあてもなく歩いていると、急に話しかけられる。
『そこな人間、我を捕まえられるなら捕まえてみよ!』
『わっ』
驚いて肩をびくっと震わせた私は恐る恐る周囲を見回す。
すると、人の家の門の隙間から茶碗の頭をした着物姿の子供が顔を出していた。
これは付喪神だ。
長年使った道具に宿る神様で、人をたぶらかすのが好きなのだと、別の付喪神が話していた。
どうやらこの付喪神は、茶碗に宿っているらしい。
『ほらほら、ついてこい!』
『待って!』
いきなり駆け出した付喪神を反射的に追いかける。
半ば強引に誘われて鬼ごっこをすることになったけれど、走っていると嫌なことを忘れられた。
『人間、遅いぞ! もっと我を楽しませてみよ!』
『ふふっ、うん!』
自然と笑みがこぼれる。この頃の私は、人よりもあやかしや神様と一緒にいるほうが自然体でいられるから楽だった。
誰にも必要とされなかった私の唯一の友達になってくれた彼らのことが人間よりも大好きだった。
だって見えているものを見えないふりしなくてもいいし、普通でなくてもありのままの私を嫌な顔ひとつせず受け入れてくれるから。
私も神様やあやかしだったらよかったのに。
そんなふうに思っていると、ふと目の前から茶碗の付喪神がいなくなっているのに気づいた。
『あれ、どこに行っちゃったんだろう?』
ついさっきまで、付喪神は私の数歩前を走っていたはずだった。
けれど、なんせすばしっこい。とうとう見失ってしまった私は、いつの間にか住宅街の裏にある森の中に迷い込んでいた。
『おーい、神様ー?』
声をかけてみても、返事がない。
これじゃあ、鬼ごっこじゃなくてかくれんぼだよ。
後ろを振り返ってみても生い茂る木々が広がっているだけ。
無我夢中で付喪神を追いかけていたから、いつ森に入ったのかも帰り道も当然わからない。