俺の甘い声にも何も動じないとは、扱いづらい。
「真子、船戸くんとどういう関係?」
彼女の友達は、かなり興味深々に真子ちゃんに話しかけている。
「別にどういう関係でもないよ」
彼女は、いらいらした調子で友達に言った。
「でも、あんなに甘い声で話しかけてもらってるって羨ましい!」
彼女の友達は、かなり目をきらきらさせている。
「えっ? すごくしつこいよ?」
彼女が言うと、友達は更に目を光らせて、
「いいなぁ。何も話しかけられないよりいいよ!」
と言った。
「いや、絶対話しかけられない方がいいって!」
彼女の友達は、俺の声に反応するだろうが、肝心の彼女はときめこうとしない。
……いや、待てよ。
前に話しかけてみたところ、一瞬、彼女はときめきそうになっていた。
彼女は、その後すぐに「そんな甘い声出さないでよ!」と怒っていたけれど。
もしかしたら、きっと後1歩なのだろうか。
教室に入ると、なぜか俺は同じクラスの井上 礼央(いのうえ れお)にガン見されていた。
「おい、淳也。お前、春瀬が好きなの?」
突然、礼央に言われて、俺は面食らった。
「確かに、ああいう白い子猫みたいな容姿してるから、お前が好きになるのも分かるな」
「白い子猫?」
「えっ、お前そう思わねえの?」
そう思う奴初めて見た、というような顔で言われ、俺はとっさに、
「えっ、じゃあお前はそう思うの?」
と、聞いた。
「思うというか、俺さ、春瀬と小6の頃同じクラスだったけど、みんなから『うちのクラスの子猫ちゃん』とか言われてたし」
うちのクラスの子猫ちゃん、か。
まあ確かに言われてみれば、分かる気がする。
彼女は、背が低くて真っ白な肌をしていて、小さな白猫というイメージにぴったりだ。
「ふーん。てか、お前も好きなのか?」
「俺は違うけど、結構むずいぞ。小6の時さ、顔がいいのか、意外と人気高かったけど、全員振られてたし」
彼女は、恋愛などに全く興味がない、意外とクールな性格をしているのだろうか。
彼女をターゲットにすると、色々と難しいところが多い。
けれども、彼女は可愛いところがあったり、クールなところがあったりと、ギャップがあって、悪くはない。
中学生の頃は、俺がいたクラスではほとんどが恋愛好きだったから、彼女を落とすのは思っていたよりも難しそうだ。
自信があった訳ではないが、恋愛に興味がない女子高生がいたとは思いもしなかった。
「でも、なんであいつばかり狙ってんの?」
不意に井上が聞いてきたので、
「……な、なんか面白そうだし?」
と、俺は言った。
「面白そう?」
共感できないという風に、井上は眉をひそめた。
「なんか、あいつ、天然なところあるから、馬鹿にしやすいし」
「ふーん」
おかしい。なんで、こんなにも動機が止まらないんだろう。
本当にちょっとした遊びのつもりだったのに、こんなに顔が熱くなるのか、自分でも分からない。
「お前、大丈夫か? 顔が赤いぞ。熱でもあんじゃねえの?」
「いや、そんなことないと思うけど……」
俺は、なんとか彼女のことを考えないようにしようと、心の中で深呼吸をした。
「あ、そういえば、次の授業なんだっけ?」
この話をやめようと、俺は話をずらす。
「次? 社会」
何事も無かったように答える井上。
「ああ、そっか。サンキュ」
俺が社会の教科書を机の上に出した後は、井上は何も話しかけてこなかった。
ホームルームが終わって、俺が教室を出ると、彼女が廊下を歩いているところが見えた。
「まーこちゃんっ。初デートとかさー、どこにする?」
今日も俺は甘い声で、彼女に話しかける。
「……ねぇ」
彼女の声だ。
こんなに早く反応してくれるのは、初めてだ。
「いい加減にして! なんでわたしは、そうやって楽しい高校生活をあんたに邪魔されないといけない訳!?」
彼女は、くっついてきた俺をいきなり引き離した。怒った目つきで、怒気を帯びた声を出す彼女。
「わたしは本当に嫌だから怒ってんの! それなのに、なんでいちいちあんたに色んなことされなきゃならないの?」
拳を握って、眉を吊り上げている。今、彼女が本気で怒っていることが分かる。
周りを見ると、全員が俺たちのことを見ているけれど、彼女は気づいていない。
「こうなるんだったら、他の高校を受験すれば良かった!」
俺は何も言い返せない。
そんな俺を見て、後悔したのか彼女は、
「……ご、ごめん。わたし、言いすぎた……」
と言った。さっきの怒鳴り声とは全然違い、かすれている。
「でも、嫌だったの。本当に。……ごめんなさい」
彼女が泣きそうだったにも関わらず、俺は何も言うことができなかった。ただ、その場で沈黙が続くしかなかった。
その場で見ていた人達も、気まずそうにしていて、誰も何も言わなかった。
そこから何があったのか、覚えていない。
気がつけば、俺の足は家の方へと向かっていた。
鍵を開けて家に入り、自分の部屋のベッドで俺は大の字になった。
なんでわたしは、そうやって楽しい高校生活をあんたに邪魔されないといけない訳、か。
家の中で、彼女の言葉が俺の頭の中でリフレインする。
頭に浮かぶのは、本気で怒った彼女の顔。
こうなるんだったら、他の高校を受験すれば良かった。
俺さえいなければ、彼女は楽しい高校生活を送れていたという訳だ。
別に、彼女は俺のことなんて好きじゃなかった。
次会ったら、絶対謝ろう。
そうして、彼女を解放してあげよう。
それが、俺に出来ることなんだから。
翌日の放課後。俺は、彼女を誰もいなくなった教室へ呼んだ。
「ごめん。真子ちゃん」
「……へ?」
これだけいたずらばかりしていた俺が、いきなりこうなるだなんて、そりゃあ彼女もパニクるだろう。
「ごめん。最初さ、いじりやすそうだから、ああやっていたずらしてたけど、もうやめる」
俺は、そう言った後、
「もう、俺のこと。忘れてもらえないか?」
と聞いた。
「忘れるって……」
口以外、彼女は固まっている。
「つまり、俺とお前は、会わなかったことにするということだ」
「……」
「じゃあね。明日から、俺の記憶にお前はもう、いないから」
俺は、唖然としている彼女を置いて、教室を出た。
彼女は、全く教室を出ようとはしていなかったけれど、いずれ出るだろう。
俺のそばにいたくない。
そう思っているだけだ。
俺の姿が、完全に彼女の目から消えないときっと駄目なのかもしれない。
それなのであれば、急いで帰らないと。
わたしは家に帰り、自分の部屋のベッドに座ってハート形のクッションを抱きしめた。
なんで、なんで。
なんでこんなに心が苦しいの。
わたしがあんなことを言ったからだ。だから彼もわたしが嫌いになったんだ。
涙は、わたしのハート形のクッションと心に落ち続ける。
あんなに軽かった心が、涙のせいで重くなってきた。
彼にあんなことを言われてから、ずっと心が重い。
だったら、あのままの方が心が軽くてずっと良かった、ということなんだ。
こんな重さ、耐えきれないよ。
わたしは重さに耐えられなくなって、倒れた。
どうして。
あなたの事を考えれば考えるほど、涙が溢れ出て、止まらなくなる。
お願い、待って。消さないで。
わたしの出会った記憶、消さないで。
わたしの声、届くかな。
ううん、届けなくてはならない。
明日、絶対に、あなたに、本心を、伝えるから。
お願い。わたしと出会った記憶を、消さずに待っていて。
良かった。
幸い、淳也くんを学校が終わった後、すぐに廊下で見つけることが出来た。
「淳也、くん」
声が細くて、聞こえていない。
「淳也くん、待って! お願いだから!」
わたしは、彼の元へ走り、腕を掴んだ。彼は、わたしの名前を言わない。
「わたし、やっと気づくことできたの! わたし、前より今の方がずっと心が軽いなって思ってた」
涙が出そう。声を出しづらい。
いや、負けるな。
わたしは、必死に叫んだ。
「いつもより心が軽いのは、誰なのかなって思ってた! 気づく事、出来たよ!」
ほろりとこぼれ落ちる涙。
滲んだ視界。
「わたしの心を軽くしてくれたのは、淳也くんだよ!」
視界は滲んでいるけれど、今、彼の表情が分かった。
「だから……。だから、わたしと、あなたが出会ったこと……。無かったことにしないでっ」
「真子ちゃん……」
彼は、わたしを忘れたことにしていない。
ちゃんと呼んでくれた。
真子ちゃん。
「真子ちゃんっ。ごめん! 真子ちゃんにこれ以上辛い思いさせないようにしたけど、結局辛い思いさせて、本当にごめん!」
わたしは、淳也くんの胸ですすり泣いた。
淳也くんは、わたしと家が近くないにも関わらず、わたしの家の近くまで送ってくれた。
「送ってくれて、ありがとう」
昨日の夕方、心が湿って重かったからなのか、なんだか前よりも、ずっと心がふわふわと軽い。
「でも、送ってもらうことになっちゃって本当に良かったの?」
「いいよ。別に今日は何の予定もないしさ」
なんでもないという風に、彼は答えた。
「でも悪いな。家、遠いのに」
「いいって。ほら、家入って休みなよ」
わたしの家のドアを指差しながら、彼は言った。
そう言っている彼には、どこにもチャラいという感じはなくて。
本気でわたしのことを思ってくれているのが伝わった。
「あっ。うん、ありがとう。じゃあね」
「うん、じゃあ」
わたしは、ドアを開けて家に入るふりをしてから閉じて、また外に出た。
彼の後ろ姿が見える。
わたしは、彼の姿が見えなくなるまで見ていた。