「あ―……、え―っと、もしかして言い忘れてたかな? 環さん、男性なんだよね」
私の言葉に、花音がゆっくりと首を傾け、目と口を大きく開ける。
声は出ていないが『はあ?』というフキダシが宙に浮かんでいそうな表情だ。
さらに、
「あんたねぇ――! なにがどうしたらそんな重要なこと忘れちゃうのよ!」
「だ、だって環さんも、自分のこと『僕』って言ってるし……」
「今どき僕っ娘くらい珍しくないでしょうよ! スーパー僕っ娘かと思ったわよ!」
――何よ、スーパー僕っ娘って……。
「いやぁ~、言ったつもりだったんだけど……勘違い?」
……なぁんて、ウソ。
あたりまえだけど、あえて隠すつもりじゃなければそんなこと忘れっこない。
私が足繁く通っている先のボスが二十歳のイケメン男子だなんて、そんな情報を先に渡したら花音のことだ、好奇心が爆発して何をしでかすか分からない。
……というのもあったけれど、それよりなにより、環さんが男性だと知った時の二人の反応を楽しみたい、っていうのが一番の理由。
ようやく落ち着いてきたのか、花音がソファの背もたれに身体を預けながら、
「でもまあ、不思議ではあったんだよねぇ……」と、大きく息を吐く。
「なにが?」
「ほら、あたしってイケメンが好きじゃん?」
「ほら、って言われても……」
「いつもだったら今日は、徹底的にあまねくん攻めに入るパターンなんだけど……」
勘弁してくれよ……と、後ろで零す周くん。
「それなのに、今日に限って環さんに意識が向いちゃったからさぁ……。自分でもなんでかな、って不思議だったんだけど、センサーが働いたのね、きっと」
「なんのセンサーよ?」
花音センサーのことはともかく、環さんが性別に関係なく、他人の意識を鷲掴みにするような引力を持っていることは確かだ。
さらに花音が、誰もが抱くであろう当然の疑問をあっさりと口に出す。
「なんで女性の格好なんてしてるんです? 環さん、男子のままなら、それこそモテモテのスーパーイケメンモデルですよね!?」
――うんうん! それは私も気になっていた。
正直、昔から知っている私ですら、女装したときの環さんは麗しすぎて男性だということを忘れそうになることがある。
かと言ってそれは、女装の方が似合っている、という意味じゃない。
私のもっとも古い記憶――四、五歳の頃に本家へ遊びに行ったときにはすでに、五歳年上の環さんは、隠れて母親の服を着て見せてくれたりしていた。
その頃から、大人用の服でも普通に着こなせるほど高身長だった環さん。
子供心にとても綺麗だと感嘆した記憶はあるけれど、なぜそんな格好をするのかまでは考えが及ばなかった。
物心がついてからは何度か尋ねたこともあったけれど、その度に上手くはぐらかされ、そのうちあまりしつこく訊くのも憚られるように感じて話題に出せなくなってしまっていた。
――花音の土足質問スキルが、まさかここで役に立つとは!
「ありがとう。……う~ん、特に理由はないんだけど、なんとなくかな。単純に女性物の服が好きってだけだけど、心は男性だから、安心して」
相変わらず答えになってるようでなってない曖昧な返答に、それでも、「なるほどぉ~」と、花音が深く頷く。
――え? 今ので納得したの!? もっと頑張れよ花音!
「まあ、いまどき女装子なんて普通だしね。中身が男性ならあたしは全然問題ないかな。むしろ、安心して接近できるぶん、これはこれでアリかも!」
「花音、あまねくんにだって接近してたじゃない……」
「そうそう、田舎暮らし憧れてたんです、あたし! ご両親との同居もOKです!」
――花音のやつ、何をアピってるんだ?
「あのぉ……、それで……その〝隠れ里〟というのは一体どういう所なんですか?」
逸れていきそうな話を戻すように、恐る恐る質問したのは手嶋さんだ。
普通なら〝神隠し〟や〝隠れ里〟なんてワードが出てきた時点で眉唾だと一笑に付されてもおかしくないところを、彼女はまじめな顔で聞き返してくる。
やはり手嶋さんも、花音と同じようなオカルト趣味があるのかな?
それとも、弟のことがあるだけに、たんに真剣味が違うだけ?
「隠れ里っていうのは、イメージしやすいように花音さんの言葉を引用しただけなんだけどね。僕たちはその場所を〝ミラージュワールド〟って呼んでる」
「ミラージュ……蜃気楼、ですか」
「うん。まあ、本来の蜃気楼の意味とはちょっと違うし、雪実さんの弟さんのケースがそれに該当するかどうか、現時点ではまだ分からないけれど……」
「かっこいい!」
再び、胸の前で両手を合わせる花音。
「雪実ちゃんの件はさておき、すごく興味ある! 〝蜃気楼の世界〟!」
再び、環さんの方へ身を乗り出すように背もたれから身体を離す花音。
でも、手嶋さんのことはさておいちゃダメでしょ……。
チラリと斜め上に走らせた環さんの視線に釣られて、私も壁時計を確認する。
――五時十五分か。
「時間は、大丈夫?」と、今日会ったばかりの女子高生二人を気遣う環さん。
「全然平気です! 最近は六時でも明るいし……ユッキーはどう?」
「ゆ……ユッキー??」
突然、呼び方を〝ユッキー〟に変えてきた花音にとまどう手嶋さん。
「あれ? 気に入らない?〝ユッキー〟と〝だいふくちゃん〟どっちがいい?」
「二択!? ユッキーで……いいです……」
あだ名が決まったところで、手嶋さんも環さんの方に向き直る。
「わ、私も……大丈夫です。門限もありませんし……」
「じゃあ、簡単に説明しようか」と、膝を組み直して両手で抱えながら、環さんがソファーへ深く身を沈める。
「少し話が逸れちゃうけど、世の中のあらゆる現象は、それを人間が観測しようがしまいが、結果は変わらないと思う?」
突然の環さんからの質問に、少し考えてからゆっくりと頷く手嶋さん。
それを見て花音も、コクコクと手嶋さんに倣う。
環さんが、にっこりと笑って説明を続ける。
「そうだね……観測という行為は現象の原因たり得ない……というのがかつての、いや、今現在でもそう考えてる人は多いと思う」
「それは、でも……普通のことですよね?」と、小首を傾げたのは手嶋さんだ。
「ところがね、この世の中には人間に観測されることで状態を変化させるものが、昔から存在してるんだよ」
それはここにもあるよ、といいながら、ぐるりと首を回す環さんに釣られて、花音と手嶋さんもキョロキョロと辺りを見回す。
「僕たちはそれを〝霊子〟って呼んでいる」
「僕たちはそれを〝霊子〟って呼んでいる」
「れいし?」
環さんが、手嶋さんから花音へ視線を移してゆっくり頷く。
〝僕たち〟というのは、私を含めたこの事務所の面々……というわけではなく、霊子に関わるすべての人たちを指しているんだろう。
「うん。原子一粒って世界の話だから、肉眼で見ることはできないのだけど」
「げんし……」
花音が、水でも掬うような手つきで、おわん型に重ねた両手の平を覗き込む。
――そんなことしても見えないでしょ、原子の粒は。
「観測される前の霊子は空間に広がる波の性質を持っているんだけど、人に観測されることで収縮し、ある一点で一つの粒子として確認されるんだよ」
「そういえば、同じような説明を聞いたことがあります。確か……量子?」
半分独り言のように呟いた手嶋さんに、人差し指を向けながら花音が可笑しそうに笑う。
「りょうし、って……バカじゃないのユッキー! いくら波がどうこうったって、海の話じゃないことくらいは、あたしにだってわかるよー!」
「バカは花音よ」
〝りょうし〟といっても漁師じゃない。
花音と私のやりとりに、周くんが俯いて肩を震わせている。
一方、穏やかに微笑みながら私を嗜めたのは環さん。
「雪実さんが言ったのは量子力学のことだね。女子高生で知ってる子は多くないだろうし、バカなんて言っちゃダメだよ、咲々芽さん」
「そ、そうだぞ、咲々芽! 友達に対してバカとか……酷いよ!」
「あんたが言う?」
私と花音はともかく、今日初めて話すようになった人からバカ呼ばわりされて、手嶋さんもさぞ戸惑っているだろう、と思いきや……。
そんなことには全く関心がなさそうに、環さんを食い入るように見つめたまま、
「その……霊子というのは量子と同じものなんですか?」
「それは、正直分からない。僕も物理学者ではないからね。ただ、耳にする一般教養レベルの知識によれば、かなり似た性質なのは確かだね」
「霊子と、さっき言っていた〝ミラージュワールド〟とは、どんな関連があるんですか?」
「うん……時間もないしくわしい話は端折らせてもらうけど、霊子が収縮してできた〝霊粒子〟こそが、ミラージュワールドへの入り口なんだよ」
正直、一般人が受け入れるにはあまにりも荒唐無稽な話だ。
どんなふうに受け止めていいのか……信じるべきか呆れるべきか、感情を持て余したような複雑な表情を手嶋さんが浮かべているのも無理はない。
でも、もともと一般常識や既成概念といった部分にいろいろと不具合を抱えている花音は例外だ。
「っていうことは、ユッキーの弟の部屋に、その……れいりゅうし? ミラージュワールドへの入り口が開いた、ってことですね!」
――ある意味、理解が早いなあ。
余計なことは一切考えない、オッカムの剃刀ならぬ、花音の剃刀だ。
「それは、実際に現場を調べてみないと分からないけれど……話を聞く限りでは、可能性がなくはないと思ってるよ」
「でも……」と、手嶋さんが再び、遠慮がちに口を開く。
「仮にそうだったとして、弟がその霊子というのを観測した、ということですか?」
「一般の人が霊子状態のものを観測するということは、まずあり得ないだろうね」
「では、どうやって霊粒子に……」
「実は、実際に観測をしなくても〝観測可能な状態〟になっただけで、霊子の状態は変化するんだ」
そういって、環さんがルージュを引いた唇の端をわずかに上げる。
薄い色であるにもかかわらず、鮮やかに紅が浮かび上がってくるような妖艶な微笑。
あれは、すでに何かを感じ取っているいるときの環さんの表情だ。
「でも、そんなんで霊粒子になっちゃうんじゃ、世の中隠れ里だらけにならない?」
花音が、同級生の中では大きさの目立つバストを下から持ち上げるように、腕組みをしながら宙を睨む。
意識的なのだろうけど……ちょっと、イラッとするポーズね。
「うん。だから、観測可能な状態といっても、それほど簡単に整う状況ではないよ」
「どんな時に観測可能になるんです?」
「まず、その場所が〝特異点〟であること」
「特異点?」と、花音だけじゃなく、手嶋さんも同じように首を傾げる。
「イメージ的には、川の淀みのように、霊子が留まりやすい場所というのがあちこちに存在しているんだよ」
「じゃ……じゃあ、ユッキーの弟の部屋がその特異点に――」
「それともう一つ……」
花音の言葉をさえぎるように、環さんが人差し指を立てて言葉を繋げる。
「特異点の近くで〝この世界とは別の場所に行きたい〟という強烈な意志が存在することが必要になってくる」
「強烈な……意志……」
「うん。実は霊子は、観測効果ほどではなくとも、人間の意志によっても状態が変化することがあるんだよ」
肉眼では無理でも、意志は人間であれば誰でもが持ち合わせいる。
その〝意志〟こそが、霊粒子を形成するトリガーになるのだ。
「つまり、特異点と意志……その二つが揃うことで、ミラージュワールドって場所に行けるようになるんですね!?」
「必ずではないけれど、そういう可能性もあるという――」
それじゃあ! ……と、手嶋さんが食い気味で質問を重ねる。
霊子の話になってから、呆れるどころか、むしろ前のめりになっているみたい。
「琢磨が――弟が、この世界から逃げ出したいと思っていた、ということですか!?」
「それは分からない。弟さん……琢磨くん? は、充実した毎日を送っていたようだけれど……心の奥底のことは、外からはうかがい知ることができないからね」
「そんな……」
「とにかく……」
環さんが組んだ脚を戻し、手嶋さんの方へわずかに身を乗り出す。
「琢磨くんの心の内を詮索する前に、まずは彼の部屋に特異点が存在するかどうか……そこからだよ。弟さんの部屋、見せてもらってもいいかな?」
「ハアァ――……」
「なによ? さっきから……」
ビルの階段を下りながらため息をつく花音の背中へ声をかける。
事務所を出てから三回目のため息だ。
「あ、ごめん、気になった?」
「……いいから話せば?」
最初の二回は放っておいたけど、これは私が聞き返すまでため息を続ける構ってちゃんモードだ。
まあ私は慣れてるからいいんだけど、花音と並んで歩く手嶋さんが、ため息のたびにチラチラと花音の方を気にしている。
内容はだいたい予想がつくし、面倒臭いけど……手嶋さんのために花音の相手してやるか。
「いやぁ……あまねくんと環さん、どっちも捨てがたいなぁ、って」
「今日会ったばかりなのに、さっそくそれですか?」
「善は急げ、って言うじゃない」
――善?
「捨てる方を決めるには、まず手に入れなきゃね?」
「それじゃあやっぱり、あまねくん狙いかぁ~」
私の皮肉に気付いた様子もなく、あっさりターゲットを絞った花音がさらに言葉を繋ぐ。
「環さんも素敵なんだけど、なんていうか……見てるだけでポワ~ン、って感じで、実際にどうこうって相手ではない気がするんだよねぇ」
「ポワ~ン、ねぇ……」
そうだったっけ?
手嶋さんの方はともかく、花音はかなり気さくに会話してた気がするけど。
「あまねくんはやっぱり、あのルックスのくせに年下でしょ? リアクションも可愛いし……お姉さんモード全開になっちゃうのよね!」
「っていうか花音、このまえ言ってたバイト先の彼はどうしたのよ? たしか……大学生だっけ?」
「あー……あいつねぇ……。あれはやめた!」
「なんでよ? なかなかカッコイイ、って言ってたじゃん。食事に誘われたんでしょ?」
「まあ、見た目はまあまあだったんだけどねぇ……。まだ付き合ってるわけでもないのに、食事のあとホテルに誘ってくんのよ!? どう思う?」
「あー……。んー……、私は、パスかなぁ」
「あたしだってパスよ! そんなに軽そうに見えるかな、あたし?」
「見えない……といったら、嘘になるけど」
「嘘かい!」
どうなの、ユッキー? と、今度は隣の手嶋さんに問い質す。
「あ、うん、えっと……真面目そうな気がします、意外と……」
「〝意外と〟は余計よ! こう見えてもあたし、まだ経験ないんだからね!」
それ以前に〝真面目〟とか言われてる時点で、百パーセントお世辞だろうけど。
雑居ビルの階段を下りきって通りへ出ると、花音が振り返って私を見る。
「っていうか咲々芽も、なかなかあたしを連れて来ないと思ったら、こんな秘密があったなんてさぁ……」
「秘密?」
「超絶イケメン二人に囲まれて逆ハーレム満喫してた、って秘密!」
「別に秘密でもないし……それに今日は、たまたまあまねくんもいたけど、普段から二人とも揃っているわけじゃないからね?」
「だとしても環さんはいるんだし……あまねくんだってちょくちょく顔は出すんでしょ? ウハウハなのは変わらないって」
「ウハウハっていったって……しょせん従兄妹だしね?」
「まあ、付き合ったり結婚したりってのは無理だとしても、それでもほら、あれだけのビジュアルなら、そばで眺めてるだけで血湧き肉躍るでしょ?」
「湧きも踊りもしねぇよ……」
――たまに出てくる変な言葉は、どこで覚えてるんだろ?
「……できますよ」
手嶋さんが、ボソッと呟く。
「「ん?」」
私と花音が同時に手嶋さんに注目すると、一瞬首をすくめるように視線を逸らしたあと、しかし、もう一度同じことを呟く。
「できますよ、結婚。いとこ同士でも」
「「そうなの!?」」
花音だけじゃなく、思わず私まで同時に聞き返す。
「法律では、四親等以上離れていれば、直系でない限り血族同士の結婚は認められていますから」
「四親等?」と、花音が首を傾げる。
「家系図をイメージすれば分かりやすいです。自分からスタートして両親が一親等、祖父母が二親等、叔父さん叔母さんが三親等……で、従兄妹は四親等」
「ママ、お婆ちゃん、叔母さん、あきらくん……。ほんとだ、四親等だ」
花音が指折り数えて確認する。
あきらくんというのは花音の従兄弟の名前だろう。
とはいえ、いとこ婚が法律上可能だということは私も初めて知った。
今まで、親族というだけで結婚はできないという先入観を持っていたけれど……周くんや環さんと、法律上は結婚することも可能なんだ!?
「じゃあやっぱり、咲々芽はライバルになりそうなあたしを遠ざけてた、ってことになるのね?」
「どうしてそうなるのよ! いとこ婚のことは私だってさっき初めて知ったんだから! 手嶋さんの話を聞いて、私だって一緒に驚いてたじゃない」
「そんなの、ほら……演技かもしれないし……」
「なんのためよ?」
「まあいいわ。今日であたしも一員になったし……バイト先も近いから、これからはちょくちょく寄らせてもらうからね」
――いつ、どのタイミングで一員に!?
「それにしてもユッキー……さっきの量子ナントカの話といい、何気に頭いいよね。なんでうちの高校なんかに来てんの!?」
「雑学と勉強は別ですし……」
雑学と勉強は別……確かにそうかもしれない。
そうかもしれないけれど、でも、家も裕福らしいし、もう少しまともな私立もあったんじゃないのかな?
やっぱり、花音じゃないけど、ちょっとちぐはぐな感じがはするよね。
「んじゃ、あたしたちは先帰るけど、咲々芽は、泊まっていくの?」
「そんなわけないでしょ! 明日、私も一緒に手嶋さんの家に行くことになったし……環さんたちと、ちょっと打ち合わせだけしたら帰るわよ」
「とりあえず、抜け駆けはなしだからね!」
そう言って私に人差し指を向けたあと、すぐにニコっと笑って「バイバイ!」と手を振る花音。
「今、春の変質者キャンペーン中だから、あまり遅くならないようにね、咲々芽」
「なによそのキャンペーン……。そっちこそ気をつけてね!」
時刻は午後六時前だが日没までに三十分ほどあるし、外はまだ十分に明るい。
路地を曲がる前に、もう一度振り向いて手を振る二人に、私も手を振り返してからビルの中へと戻る。
階段を上りながらスマートフォンを取り出して、〝いとこ 結婚〟とワード検索してみると……。
すぐに、手嶋さんがしていた説明と同じ内容の記載を発見することができた。
――ほんとに、できるんだ、結婚……。
カラン、と、心の中で音がする。
これまで、知らないうちに嵌められていた足かせが外されたような、そんな音だ。
いつまにか階段を上る足取りも、軽やかな駆け足に変わっていた。
事務所へ戻ると、小豆色のジャージに着替えた環さんが、所長席で夕飯に箸を伸ばそうとしているところだった。
周くんが用意したのだろう。デスクの上に並べられているのは、肉野菜炒め、コンソメスープ、焼き鮭の切り身と炊き込みご飯、といった献立。
「やあ、お帰り」
「お帰り……じゃないですよ! またそんな格好で、そんな所で!」
「こんな時間だし、もう依頼人もこないよ。もっとも、時間に関係なくここに依頼人が来ることなんてほとんどないんだけどね」
そう言ってクスクス笑いながら、環さんが肉野菜炒めをつまんで口に運ぶ。
「笑い事じゃないですよ。あまねくんがいなかったら、とっくにこの事務所だって引き払ってるところじゃないですか」
「そうだね~。あまねくんには感謝してるよ」
その周くんは、といえば――。
壁沿いに置かれた長机の上でノートパソコンを開き、何やらたくさんのグラフのようなものが表示された画面を眺めている。
「今週の成果はどうだったの、あまねくん?」と、食事をしながら環さんが尋ねる。
「…………」
「あまねくん? ……環さんが、今週の成果は?って訊いてるよ?」
「…………」
「あまねくん?」
「……ん? あ、あぁ……成果? まずまずかな」
画面から目を離さずに、あちこちクリックしながら周くんが答える。
何かに集中し始めると、他のことが耳に入らなくなるのはいつものことだ。
「ゴールデンウィーク中はマーケットも閉じるから、可能な限り余計なポジションは手仕舞って利確したんだけど……」
「りかく?」
「利益確定のこと。前に教えたじゃん」
「そうだっけ? そういう、株とかFXとか……私にはさっぱりだから」
何かを思い出したように、周くんが少しだけ首を回して私の方を流し見る。
「そういえば、咲々芽はいいの? 飯」
「あ、うん、大丈夫、家で用意してると思うから。ありがとう」
そっか、といって再びパソコンの画面に視線を戻す周くん。
「咲々芽も、今後も環に付き合うつもりなら、投資くらい覚えておかないと」
「私……数字とかダメなのよね……踊って見えるっていうか……」
「ミラージュワールドに入るときはあんな複雑な計算ができるんだから、トレードくらいすぐに覚えられるだろ」
「あれは別に、そういう能力ってだけで、私が計算してるわけじゃないし……」
「とりあえず今週は、為替は二十万くらいしかプラスにならなかったけど、株で数銘柄、上手く決算プレーがはまったから……」
そういいながら、周くんが金融資産管理と書かれた画面を開いてチェックする。
「税抜きでざっと、四百万くらいの利益だな。半分は再投資に回しても、家賃半年分くらいのキャッシュは残るだろ」
「うわ! すご……」
「ギリギリだったけど、なんとか追証は入れずに済んだ」
「おいしょう?」
「追加証拠金! 含み損が拡大したりして有価証券の評価額が下がると、追加で必要証拠金額を回復する必要が――」
だめだ……さっぱり分からない。
それを聞きながら、再び環さんが口を開く。
「資産運用はあくまでも、余剰資金でやっておいてね、あまねくん」
「やかましい! 環が競馬なんてしてなければもっと余裕があったはずなんだよ!」
周くんが、今度は首だけじゃなく、回転椅子を回して環さんに向き直る。
「とにかく、これからしばらく競馬禁止だからな!」
「えぇ~……。今日買ってきた競馬BOOK、どうすれば……」
「知らん。捨てろ」
会話だけ聞いてると、どっちがお兄さんか分からないな。
「あまねくんの方がそんなに調子よかったなら、わざわざクラスメイトを紹介する必要もなかったなぁ」
「いやいや、それは違うよ、咲々芽さん」
環さんが首を左右に振る。
「彼女の……雪実さんの依頼はあきらかに、警察よりも僕たち向きだからね。お金の件は抜きにしたって、ここに連れてきて正解だったと思うよ」
「ということは、やっぱり、特異点が?」
「うん。彼女の周囲の霊子に、明らかに不自然な〝ゆらぎ〟が見られたからね。あれは、長時間特異点のそばにいた人間に現れる特徴だ」
「手嶋さんにも〝ゆらぎ〟が……ということは、じきに?」
眉根を寄せた私をみて、環さんが柔らかな微笑を返してくれた。
「いや、まだ〝霊現体〟化するほどじゃないし、時間的な余裕はあるよ。ただ、何が起こるか分からないし急ぐに越したことはないけれど」
「そっか。とりあえず、よかった……」
ファントム――人間が長時間特異点のそばにい続けると、霊粒子の影響で人体そのものが特異点に似た性質……いわゆる、特異体質に変化することがある。
当然、大気中の霊子はその人体の周囲で淀みやすくなり、個人差もあるが、最悪の場合は精神にまで変調をきたす。
その状態になった者を、私たちはファントムと呼んでいる。
「明日は午後一時に訪問の約束だから……咲々芽さんのマンションに迎えにいくのは、正午頃でいいかな?」
「あ、うん、私はそれで、大丈夫……」
そういいながら、チラリと周くんの方を流し見る。
「俺も、いつでもいいよ。ゴールデンウィークは帰らないって、本家には言ってあるから」
「じゃあとりあえず、明日はそういうことで! 昼食はそれぞれ済ませておいてね」
それだけ言うと、再び環さんが食べかけの夕飯に箸を伸ばす。
打ち合わせなんて言いつつ、いつもながら適当だなぁ……。
「じゃあ私、そのへんを少し片付けてから帰りますね」
「ええ……!? 今食事中だし、埃が立っちゃうからもう少し待ってよ」
「私だって暇じゃないんですから……嫌なら隣の控え室で食べてください」
「控え室はほら……そうそう! このまえジュースをこぼして、床がペタペタしてるから……」
「そんなの、とっくに掃除しましたよ!」
言い訳にしても、ひどすぎる。
「でも、なんていうか、一人で食べてても、ちょっと寂しいでしょ?」
「……分かりました。五分待ちますから、急いで食べちゃってください」
「ありがとう! ……何分オーバーまでオッケー?」
「ゼロです! きっちり五分後に片付け開始です!」
残りの夕飯を急いで搔きこみ始める環さん……とはいっても、その所作は相変わらず、あくまで優雅。
環さんなりに多少スピードはアップしてるんだろうけど、一般人の感覚からすれば、とても急いでいるようには見えない。
ほんと、普段の環さんはゆるゆるというか……脱力させられちゃうのよね。
でも、そういうところに、母性本能がくすぐられちゃうんだろうなぁ……。
環さんの食事が終わると、目に付いた物だけを適当に片付け、一通り事務所の掃除を終わらせる。
無理に今日掃除する必要もなかったんだけど、放っておくと指数関数的にちらかっていくので、結局、後日苦労するのは私だ。
時間を確認すると、午後七時まであと十分少々――。
だいぶ遅くなっちゃったな。
家には遅くなると連絡は入れておいたけど、花音たちの話で時間を取られた分、予定よりもだいぶ押してしまった。
「すっかり暗くなっちゃったね」
ブラインドのスラットを、スラリとした長い指で押し広げながら環さんが呟く。
この時期の日没時間は六時二十分頃だ。
日が落ちてから三十分……窓の外はすっかり宵闇に包まれている。
「マンションも遠くないですし、大丈夫ですよ」
「いやいや、ダメダメ」
そういいながら、環さんが周くんの方を振り返る。
「あまねくん、適当なところで切り上げて、咲々芽さんと一緒に出られる?」
「ん? ああ……いつでもいいよ」
回転椅子を回して、ノートパソコンのモニターから私の方へ視線を移す周くん。
いくら背が高いとはいっても、中身は年下の中学三年生。いつも、弟と話すような感覚で気軽に接してはいるんだけど……。
あの切れ長のツリ目で見つめられると、年上男性から値踏みされているような気がして、やはり少しだけ緊張してしまう。
「だ、大丈夫ですよ。バイト帰りはこれくらいの時間になることも多いですし。あまねくんだって、明日の調整とか、いろいろあるんじゃないですか?」
「俺は、大丈夫だよ。PCさえあればどこでだって作業できるし」
それを聞いて環さんもにっこりと微笑む。
「だそうだよ? 大丈夫! あまねくんは僕と違って仕事はきちんとしてるから」
「いや、環さんもきちんとしてくださいよ……」
そんな私たちのやりとりをよそに、いつの間にか周くんがパソコンの電源を落としてリュックにしまい始めている。
私服だし、荷物も他には見当たらない。
ここへは一旦自宅に帰ってから来たのだろう。
さっさと帰り支度を整えると、「じゃ、行こっか」と、椅子から立ち上がる。
「う、うん……いいの?」
「ああ。いい加減俺も腹減ったし」
「あれ? そういえばあまねくん、自分の夕食は?」
周くんの代わりに、環さんがニコニコしながら、
「もしかしたら咲々芽さんも食べるかも、ってあまねくん、自分は食べなかったんだよ」
「そ、そうだったんだ……ごめん」
「べ、別にそんなんじゃねーよ! 俺は、作りながらちょくちょくつまんでたし……。咲々芽が食べなくても、明日の朝、環が食べればいいかなって……」
早口で言い訳する周くん。
――あれ? 照れてる?
頬が少し赤らんでいるように見えたので、よく見ようと下から覗き込むと、咳払いをしながら顔を背けられた。
――あらら? なんか、可愛いぞ!?
……と思わされたのも束の間、
「ほら! いくぞ!」
つっけんどんに言い捨てると、さっさとパーテーションの向こう側へ姿を消えてしまった。間を置かず、ドアベルがチリチリン、と鳴って外へ出ていく足音。
「ちょ、ちょっと待ってよ、あまねくん! 私、まだ用意してな……」
声をかけながら、慌てて私も荷物を取りまとめる。
「ごめんなさい環さん。まだ、流しに洗い物が……」
「ああ、いいよいいよ。そんなの僕がやっておくから」
……と言ってはいるけれど、やってくれた試しがないのよね。
「じゃあ、環さん、また明日!」
「うん、気をつけてね!」
ニコニコと手を振る環さんへの挨拶もそこそこに、急いで廊下に出る。
一瞬、階段の方へ向かいかけて、人の気配に振り返ると――。
階段とは反対側――入り口脇の壁に寄りかかりながら私を待っていた周くんの姿。
スマートフォンをポケットにしまいながら「おせぇよ」と、ディムグレイの瞳で私を見下ろしてくる。
「あまねくんがさっさと行っちゃうから!」
「待ってたじゃん」
「待つなら中でいいじゃん! せっかく見た目はいいんだし、あとは、もっとエスコートが上手くなれば女子にもモテると思うよ~」
……といっても中身は中三だしね。
今から女性の扱いなんかに長けてたら、それはそれで嫌味だけど。
「いいよ、女子なんて、めんどくせぇ」
「うわ……なに? 硬派厨? そんなのがモテるの、ラノベの中だけだよ?」
「なんだよそれ? ……なぁんか、苦手なんだよ。女となんて、これまであんまり接点なかったし、何を話していいか分かんないっつぅか……」
「環さんや、私だっていたじゃない」
「環は女じゃないだろ! 咲々芽だって……なんていうか……純粋に女、って感じじゃないし……」
「純粋な女でしょっ!」
ビルから通りへ出ると、二人で駅とは反対方向に向かう。
自宅のマンションは、電車なら一駅区間なのだが、駅から二十分ほど歩くため、直接徒歩で帰っても、帰宅時間はほとんど変わらない。
普通のペースで歩を進める周くんだけど、なにせ百八十センチ級の長身男子だ。百五十三センチ程度の私は、たまに小走りにならないとおいていかれそうになる。
そこまで気の回る人じゃなくたって、歩幅を合わせるくらいのことはすると思うんだけど……こういうところなんだよね、周くんに足りないのは。
「そういえばあまねくんとこは、中高一貫なんだよね」
「学校? うん、まあ……。でも、たぶん、高校は外部を受験すると思う」
「あ、そうなんだ。頭良いみたいだもんねぇ……高校は、レベル上げるの?」
「いや……う――んと……」
少し言い淀んで……。
「たぶん、咲々芽と同じとこ」
「は――あ!?」
「たぶん、咲々芽と同じとこ」
「は――あ!?」
思わず立ち止まった私を、周くんが足を止めて振り返る。
「な……なんだよ?」
「なんで、あんなバカ高校に!?」
「ば、バカってほど低くないだろう、偏差値は……」
「いやいや、あまねくんのレベルからしたら、バカよ! ゴミクズだよ!」
「自分の通ってる学校、そこまで卑下しなくても」
「だって……あまねくん、勉強できるんでしょ? もっといいとこ、いくらでも選べるじゃない!」
「興味ねぇよ……」
「叔父さんはなんていってるの!?」
「親父? 最初は怒ってたけど……卒業したら家を継ぐって約束したら、それなら、好きにしろ、って。これまで、なんだかんだ明言は避けてたから、俺」
確かに、本家を継ぐなら学歴は関係ないだろうけど……。
でも、周くん、学年でもトップを争うような成績だったはずだよね!?
いくらなんでもうちの高校じゃ……
「もったいな過ぎる! なんでわざわざ?」
「今の学校、ちょっと遠くて不便だし、それに、今後も環んとこでいろいろ手伝ったりするならさ……一緒の学校の方が何かと便利だろ」
「私と? そりゃそうかも知れないけど……そんなことで進路を決めてもいいの? 人生を左右するんだよ!」
「右も左も……実家を継ぐってのは、周りからみたらとっくに既定路線だし、今さらどこの学校に行こうが関係ねぇよ」
再び前を向いて歩き始めた周くんを、慌てて小走りで追いかける。
「でも、先のことはどうなるか分からないし、もし跡継ぎの話がなくなったら……」
「そんときゃそんときで考える」
「あんな高校出たって先が知れてるよ!? 三流企業に就職して、せいぜい年収四百万がいいとこだよ!」
「四百万なら、さっきトレードで稼いだけど」
――確かに。
「い、いや、もしかしたら三百かも!? ……じゃなくて、トレーダーなんて、いい時もあれば悪い時だって……」
「ああ~、分かった分かった、うるさいなぁ! まだ時間はあるし、もうちょっと考えてみるから」
とうとう、周くんが面倒臭そうに手を振って話を打ち切る。
私も、ちょっと熱くなりすぎたかもしれないけれど……。
でも、学力が足りなくて進路を限定された人間からしてみたら、周くんの選択はもったいなく思えて仕方がない。
「咲々芽はさ……」
前を向いたまま、周くんが私の名を口にする。
「うん?」
「俺と一緒の高校とか、迷惑?」
「な、なんで!? そんなわけないじゃん! 迷惑どころか、むしろちょっと嬉しいくらいだけど……」
花音なら狂喜乱舞だろうな。
「ただ、私の気持ちとか関係なく、純粋にもったいないな、って……」
「ああ、いや、もういい。迷惑じゃないならいいんだ、それで」
――あまねくん、私が迷惑に感じて反対してるとでも思ったのかな?
ホッ、と一つ息を吐く周くん。
なんとなく、安堵の気持ちが込められていた気もするけど、後ろからはその表情を窺い知ることができない。
「この時間じゃ、帰って飯作るのも面倒だな……」
話題を変えるように、周くんがボソッと呟く。
本家のある地域ではまともな学校がない、という理由で、中学生ながら一人暮らしをしている周くん。
私ん家が傍にあるのも許可が下りた要因の一つだろう。
もっとも周くんにとっては、学校のことはただの言い訳で、たとえ期限付きでも息苦しい本家から離れたかった、というのが本当の理由だったみたいだけど。
「なら、うち寄ってく? お母さんも、いつでも連れてこいって言ってるし」
「いや、いい。明日の準備もあるし、ちょっとそこのコンビニ寄ってくわ」
「そっか。じゃあ……」
私も、と言いかけて口を噤む。
「いや……やっぱり私、外で待ってる」
団地やマンションが立ち並び、その合間合間に、芝生広場や公園などの緑地が整備された小奇麗な住宅街。
駅からは少し離れているので、今、周くんが入っていったコンビニ以外に商業施設もない。疎らに外灯はあるものの、言ってみれば、ちょっと薄暗い通りだ。
そんな、それほど広くもない車道の反対側を――中学生くらいかな?
後ろ髪を二束に纏めた制服姿の女の子が歩道を歩いている。
さらにその後ろ、五~六メートルほど離れて、髪の薄い、頬がこけた中年男性が付いて行くのが見える。決して早いとはいえない女の子の歩調とほぼ一緒の速度。
しかし、それよりも「アレ?」と思わされたのは、男が着ているコートだ。
スプリングコート……と呼ぶには少々厚手の、グリーンのミリタリーコート。
四月下旬だしそこまで不自然な装いではないかもしれないけれど、それでも、今日の陽気を考えるとあんなコートが必要な日だったとは思えない。
しかも、荷物は持たず、左手はポケットに、右手は胸元からコートの懐に突っ込んだ状態の歩き姿。
――少なくとも、帰宅途中のサラリーマン……ではないよね。
コンビニに入ろうとして思いとどまったのは、視界の端に入ってきたその男が気になったからだ。
それにしても、見れば見るほど……
――怪し過ぎる!!
女の子はスマートフォンの画面に気を取られていて、後ろの男には気付いていないようだ。
私も、もう歩きスマホはしないように気をつけよう。
と、その時、一瞬スマホの画面から目を離して前を確認した女の子が、不意に向きを変えてすぐ横の公園へと入っていく。
おそらく、あそこを横切るルートが自宅への近道なのだろう。
直後、それを見た男の歩幅も広がり、女の子との距離がぐんぐん詰まっていく。
同時に、コートから右手を引き抜く。
その先に握られていたものは……
――牛乳パック!?
スーパーなどでもっともスタンダードな、千ミリサイズの紙パックだ。
コンビニの方を振り返ると、ちょうど周くんが、レジの上に買い物カゴを乗せたところだった。
――ダメだ、出てくるまで待ってられない!
帰り際、花音が話していた言葉を思い出す。
『春の変質者キャンペーン中だから、あまり遅くならないようにね』
――花音のやつ、あんな所でとんちきなフラグを立てるから、まんまと回収する羽目になったじゃない!
女の子を追うように、足早に公園の中へ入っていく男。
それを追って私も、急いで道路を横断すると公園の中へ駆け込む。
再び男の後ろ姿を見つけた時にはもう、男と女の子の距離は二~三メートルほどまで縮んでいた。
「ちょっとあんた? そこで何してるの?」
すばやく息を整えて男に声をかけると、それに気付いて男と、そして女の子も同時に振り返る。
私と男の姿を見て、驚いたように二、三歩後退さる女の子。
と、次の瞬間、くるりと振り返ると反対側の出口を目指して走り去り、逃げるように公園から出ていった。
――うん、それでいい!
しかし、外灯に照らされた男の顔は、振り返った直後の驚愕の表情から一転、すぐに薄ら笑いを浮かべたような下卑た表情に変わる。
踵を返して私の方へ近づきながら、右手の牛乳パックを振り翳した。
遠目ではよく見えなかったが、パックの注ぎ口は左右完全に開かれていて、大きく口を開けた状態になっていた。
こう見えても私だって、中学のころは裏バンと呼ばれた女! だがしかし!
……自慢じゃないけど戦闘力はゼロだ。
男が、何が入っているのかも分からない牛乳パックを目の前で振るうのを見て、私も「きゃあっ!」と悲鳴を上げて両腕で顔を隠す。
ビシャン! と、耳朶を打つ粘ついた水音。
直後、頭の上から、何か冷たい液体がドロリと滴り落ちてきた。
頭の上から、何か冷たい液体がドロリと滴り落ちてきた。
ねっとりと、貼りつくように、頬や指の間を伝って流れ落ちる不気味な感触。
――な……なに、これ? なにをかけられたの!? 気色わるっ!
混乱しているところへ、今度はパシャッ、というカメラのシャッター音と、目の前を照らすフラッシュの閃光。
顔面を覆った指の隙間から覗いてみると、私の方へスマートフォンのカメラを向けて立っている男の姿が目に留まる。
パシャッ、パシャッ、パシャッ! と、なおも連続して鳴り響くシャッター音。
――なに!? 写真を撮られてる!? なんなの一体!!
「いやぁぁぁ――――っ!!」
軽いパニックに陥り、思わずその場にしゃがみこんだ。
ししっ、と、歯間から息を漏らしたような短い笑い声が聞こえ、続けて、公園の入り口へ向かって走り去る男の足音。
直後。
「咲々芽ぇ――っ!!」
背後で、私の名を呼ぶ聞き慣れた声がした。
反射的に振り向いた視線の先には、公園の入り口付近で仁王立ちになっている周くんの姿が。
「あまね……ぐん……」
緊張の糸が途切れ、両目にじわりと熱いものがこみ上げてくる。
コート男が、目の前に立つ周くんの横をすり抜けて逃げようとしたその刹那――。
左手で素早く男の襟首を、右手で男の左袖を掴むやいなや、周くんが左足で男の下半身を跳ね上げた。
柔道初段、周くんの流れるような大外刈り!
一瞬で半回転したコートの男が真っ逆さまに地面へ落下っ!
……と思ったんだけど、地面に落ちる瞬間、周くんが男の襟首をクイッ、と持ち上げる。
変質者とはいえ、相手は恐らく素人だし、受け身など取れないだろう。
あのまま落とせば後頭部を強打して重症を負わせかねない……と判断した周くんの咄嗟のフォローに違いない。
結果、腰から落ちたコート男が「うぐやぁっ」と、聞いたことのないような呻き声を上げて、地面の上で身をよじる。
「大丈夫か! 咲々芽――っ!」
うつ伏せになったコート男の腕を締め上げながら、私の方へ視線を戻す周くん。
かけられた液体がなんなのかはまだよく分からないけれど、冷静になってみれば紙パックの中に入れて持ち歩けるような代物だ。
とくに痛みもないし、健康被害を受けるようなものではなさそうだ。
大丈夫……と答えようとしたけれど、舌が震えて上手く声が出ない。
必死に頷く私を横目に見ながら、周くんがポケットから取り出したスマートフォンの画面をタップして、
「……ああ、はい。高浜四丁目のセブンマート前の公園で……はい、そうです。……変質者を暴行の現行犯で取り押さえたので……はい。怪我は多分、大丈夫です……」
警察に状況を報告する。
そんな周くんの周りに、通行人が物珍しそうに集まり始める様子を、私は少しの間ぼんやりと眺めていた。
◇
「液体は……いわゆる、ローションでしたねぇ……」
あのあと、駆けつけた刑事や警察官と共に簡単に現場検証を終えてから、周くんと二人、警察署の相談室という部屋に通された。
警察署といえば、スチール製の机にパイプ椅子、机上には電気スタンドみたいなイメージがあったんだけど、通された部屋にあったのは立派な応接セット。
高級家具……というほどではないだろうけど、飛鳥井事務所のものより数段上等なのは間違いない。
借りたタオルで髪の毛や制服を拭きながら十分ほど経ったあと、部屋に入ってきた年配の刑事から告げられた液体の正体が、それだった。
――ローションか、やっぱり。
現場検証の時点ですでに、ペシャンコになった私の髪を拭いてくれた女性警官も同じことを呟いていたので予想はできていた。
「ローション? というと……ベビーローション、みたいな?」周くんが聞き返す。
「まあ、分析してみないと種類までは分かりませんが……おそらく、ラブローションみたいなやつでしょうな」
「ラブローション……」
周くんの大人びた風体のせいで、刑事も彼が未成年だということを失念していたのかも知れない。
確か、公園で見せてもらった警察手帳には槇田って書いてあったかな?
不思議そうに首を傾げる周くんを見て、槇田刑事が慌てて言葉を繋ぐ。
「ああ、まあ、ローションはローションですからね。似たようなもんですわ。どっちにしろ身体に害のあるようなものではないですから、その点は安心して下さい」
ラブローションといえば、いわゆる、男女がホテルなんかでイチャコラする際に使うサポートグッズだ。
今時は、有名なものなら普通の薬局でも取り扱っている……らしい。
私も知識として知っているだけで実際に使ったことはないけれど(そもそも恋人ができたこともない)、周くんにはまったくピンときていないようだ。
中三くらいなら知っていてもおかしくはないとは思うけど……。
あまねくんも見た目と違って、中身はかなりウブだからなぁ。
「なんであの犯人は、咲々芽にそんなものを?」
「やつのスマホの画像を調べてみたら、同じような画像……つまり、制服姿の女生徒にローションをかけた写真ですな。そんなのがいっぱい保存されてまして……」
「はあ……。だから、なんで、そんなことを?」
「なんでといわれても……そういう性癖だとしか……」
槇田刑事が口ごもる。未成年相手に言葉を選んでいるのだろう。
私も聞いたことはある。いわゆる〝濡れフェチ〟ってやつだ。
そんなものを見て何が楽しいのかは分からないけど、女性の濡れた髪や衣服を見て興奮する男性というのが世の中には存在するらしい。
鞄からスマートフォンを取り出して〝濡れフェチ〟と検索してみると、何枚も表示されるそれらしき画像。
さらに槇田刑事に食い下がろうとしている周くんの横腹を指でつついて、「ほら、こういうやつ」と、出てきた画像を見せる。
スマホの画面を覗きこむと同時に、周くんの切れ長の目がわずかに大きくなり、少しだけ頬が赤らんだ。
――ほんとこういうの、耐性がないんだなぁ。
画面を覗きこむ周くん。
切れ長の目がわずかに大きくなり、少しだけ頬が赤らむのが分かった。
ほんとこういうの、耐性がないんだなぁ。
「いわゆる〝濡れフェチ〟なんていわれる性癖の連中ですな。……とりあえず、未成年が刑事の前で、そういう画像を回し見るのは控えてもらえませんかね」
と、槇田刑事が、向かいのソファーで苦笑いを浮かべる。
おい槇田! 笑い事じゃないっつーの!
そもそも、濡らすだけなら水でいいよね!? なんでローションなのよ?
怪訝そうに眉を顰めた私の顔を見て、何を勘ぐったのか槇田刑事が的外れなフォローを始める。
「ああ……まあ、詳しいことはまた取り調べのあとになりますが、ローション以外に変なものを混ぜていたということはなさそうですから、その点は安心していいかと」
そんなこと考えてもいなかったのに、余計不安になったよ!
周くんが、刑事の語尾にかぶせるように「変なもの?」と質問を重ねる。
「ああ、いや、こういう犯行ですと、液体の中に……例えば唾液だとか尿だとか、まあ、あれやこれや余計なものをまぜる輩もいるんですよ」
槇田刑事の説明によれば最近、管轄は別だけど、他の地区でも同様の事件が何件か発生していて、警察でも警戒を強めていたらしい。
犯人のスマートフォンにあった画像を見る限り、恐らく同一犯であろうということ。
そして、これまでの被害者にかけられていた液体の分析結果からも、ローション以外の成分は検出できていない、というような説明を聞かされた。
そういうことなら確かに、今回もローションだけである可能性が高いわよね。
唾液? 尿?……どころか、他にもあれやこれや余計なものが混ぜられていたなんて、想像しただけでも気持ち悪すぎて吐き気がする。
ほんと、ローションだけでよかったよ。
……いやいや、よくはないけどねっ!!
「で、これからのことなんですが……被害届けは、どうします?」
槇田刑事から、届けを出せば、明日改めて供述調書を作成する必要があるとの説明を受けて、私と周くんが顔を見合わせる。
少なくとも明日は無理だし、仮に日にちをずらしたところで、面倒臭いことに変わりはない。
ローションを掛けられた以外に怪我もないし、他の被害者から届けは出ているので、あの男がこのまますぐに釈放、ということはないらしい。
そもそも暴行罪は親告罪ではないから、現行犯逮捕であれば当然だ。
ムカつく気持ちがないといえば嘘にはなるが……数万円の示談金のためにこちらだけが個人情報を与え、あんな男の関係者とこれ以上関わるのも気が滅入る。
一応、親とも相談をしてから、ということで今日の提出は見送ったけど……。
「届け……どうしよう……」
「被害にあったのは咲々芽なんだから、咲々芽が決めればいい」
警察車両――黒いミニバンの後部座席に座りながら呟いた私の独り言に、質問をされたと思ったのか、すぐあとから乗り込んできた周くんが答えた。
今夜はこのあと、この車で自宅まで送ってくれるらしい。
「そうは言ってもさ、捕まえたのはあまねくんだし、届けを出せばあまねくんだっていろいろと面倒なことになるよ? 実況見分とかそういうの、あるんじゃない?」
「現行犯逮捕したのは俺だし、どっちにしろいろいろ聞かれるんじゃないかな。いずれにせよ、このことで俺のことなんて気にすんな」
走り出した車の中で、前を向いたまま答える周くんの横顔をそっと覗き見る。
ずっと、一つ年下の弟のように思ってたけど……いつの間にか頼もしくなったなぁ……。
私の視線に気付いたのか、周くんも、フッとこちらへ視線を向ける。
「なんだ?」
「あ、ううん……そういえばまだ、お礼言ってなかったよね。公園のこと……」
「助けたって言ったって、逃げた犯人を捕まえただけで、結局被害には遭ってるし」
「それでも全然違うよ! もし逃げられてたら、あんなわけの分からない写真、どんな使われ方してるのか気持ち悪くて仕方ないじゃん」
「そっか……」
「うんうん。だから、ありがと」
「いや、別にそんな大したことじゃ……」
周くんが指で鼻の頭をかきながら、窓の方へ顔を向ける。
あれ? 照れてる?
「ってか咲々芽も、弱いくせに危ねえことにホイホイ首突っ込むんじゃねえよ」
「い、いや、強くないだけで、そこまで弱いってわけじゃ……」
「同じだっつ―の。なんのために俺が一緒に帰ってんだよ」
「ご、ごめん……一応確認はしたんだけど、店の中……」
「いや、その前からおかしかったでしょ」
「え?」
「店に入る前から、様子おかしかったじゃん。もしかしてあの変質者のこと、最初から知ってたんじゃないの?」
気付いてたんだ……。
「う、うん……。でも、あのときはまだ、そこまではっきり怪しいってわけでもなかったから」
「それでもいいから、一声かけろって」
「うん……そうだね……」
これまで弟のように思ってたから、私の方でもついついお姉さんになったような気分で接していた。
傍にいてくれるのはもちろん心強いけど、かといって助けを求めるとか、そういう対象ではなかったんだよなぁ……今までは……。
これまで弟のように思ってたから、私の方でもついついお姉さんになったような気分で接していた。
傍にいてくれるのはもちろん心強いけど、かといって助けを求めるとか、そういう対象ではなかったんだよなぁ……今までは。
でも、一緒の学校に行くことになったら、事務所に行かない日でも今日みたいに送ってもらったりすることが増えるのかも?
いや……いくら従姉弟同士とは言え、周くんみたいな男子と一緒に帰ったりしたら、ぜったいに周りからあれこれ言われるよなぁ。
というかまず、花音が黙っちゃいないな!
下手したら、毎日事務所や自宅まで付いてきかねないぞ、あいつ。
「どうしたんだ? ニヤけたり、しかめ面になったり……」
「え? な、なに? 見てたの!?」
「ああ……なんか、いろいろ表情が変わってオモシれぇな―と……」
「趣味わるっ!」
さっきまで窓の外を眺めてたと思ったのに、いつの間に!
「そういえば、まだ通ってるの? 道場」
「柔道? うん、まあ……週に二日だし、ちょうどいい運動だよ」
ちょくちょく環さんに呼び出されるので、学校の部活動は入っていないらしい。
ただ、小学校の頃までは本家の叔父さん――つまり、周くんのお父さんにみっちり鍛えられていたおかげで、かなりの実力であることは確かだ。
なんの才能もない私と違って周くんなら、柔道部でもきっと全国クラスの活躍ができるだろうと思うと、少しもったいない気もする。
もっとも、中学生ながら百八十センチ前後という超長身に、運動神経だって人並み以上だ。なにをやったってかなりの成績を収められるだろう。
いったい、何を食べたらこんなに大きく……と、そこまで考えて、リュック以外には手ぶらの周くんに気がつく。
「あれ? お弁当は? 買ってなかったっけ?」
「ああ、なんか、公園のゴタゴタのせいで、気付いたらどっかいっちゃってたな……。カップ麺もあるし、今日はそれでいいよ」
「そ、そっか……なんか、ごめん……」
シートの合間からカーナビを確認すると、既に時間は午後九時を回っている。
「遅くなったし……やっぱり今日、寄っていったら? お父さん出張で留守だし、お母さんだけだから気を使わなくていいよ」
「叔母さんだけなら、さらに行けないって」
「なんでよ?」
「柊さんの留守中に他所の男が訪問するって、拙いだろ、世間的に」
「はあ? 男って……甥っ子じゃん!」
ラブローションは知らないくせに、変なところには気が回るのね。
「どっちにしろ、明日、どうなるか分からないからもう少しプログラムの調整しておきたいし……。前回、跳躍中に一度フリーズしちゃったから」
「そっか……じゃあ、何か持っていこっか? 夕飯」
「それこそ拙いだろ! 深夜に、男子の部屋に女子が訪問とか……」
「深夜って、まだ九時過ぎじゃん! それに、女子っていったって……私は純粋な女子じゃないんでしょ、あまねくん的には」
少し膨れた私を見て、周くんがフッと息を漏らす。
「なに? 怒ってんの?」
「べつに~。そんなんじゃないけどさ」
「帰ってシャワー浴びてなんだかんだやってたら、いい時間になっちゃうじゃん。いいよ今夜は……危険だし……」
「危険……って、私んちからあまねくんの部屋まで、何が起こるっていうのよ? 同じ階じゃん」
◇
「ただいまぁ……」
「お姉ちゃん、おかえり――!」
自宅マンションの玄関ドアを開けると、すかさず奥から駆け出してきたのは弟の湊斗だ。
七歳、小学二年生。くりっとした二重に利発そうな鼻筋、母親譲りの白い肌に小さな花が咲いたような薄い唇。
姉の私が言うのもなんだが……正直、めちゃくちゃ可愛い。
私と性別が逆になればよかったのに……とは、親戚中から言われすぎて耳タコだけど、私ですらそう思ってるから文句は言えない。
「湊斗~! まだ起きてたんだ!?」
「うん! お姉ちゃん、もうすぐ帰ってきそうだってお母さんが言ってたから、待ってたの」
「そっかそっかぁ……って、今はダメ! お姉ちゃん、汚れちゃったから!」
聞きようによっては危ないセリフを吐きながら、抱きついてきそうになった湊斗を慌てて制止する。
かけられたのは頭からとはいえ、ローションは全身に飛び散っている。
すでにだいぶ乾いて、事件直後のようにベタベタしている……ということはないが、あちこちカピカピと照かっている制服に湊斗を抱きつかせるのは忍びない。
「あらあら……大変だったみたいね~」
エプロンで手を拭きながら奥から歩いてきたのが、母の柊萌葱。
飛鳥井本家の徹叔父さんの、一回り年下の妹に当たる。
二十歳で結婚し、二十一歳で私を生んだので今は三十六歳だが、ややふっくらとした皺の少ない童顔のせいで、未だに二十代後半に見える。
客観的に見ても、女性としては十分に可愛らしい容姿に分類されるだろう。
メッセンジャーでちょくちょく状況も連絡していたので、思っていたよりも心配はしていないようだ。
「お父さん出張中だったから……迎えにいけなくてごめんね?」
「ううん、大丈夫。あまねくんも一緒だったし」
「二人とも夕飯、まだなんでしょ? 一緒に連れてくればよかったのに」
「ああ―……、一応誘ったんだけどね。明日、環さんところの手伝いにいくし、お父さんが出張中だって話したら、気を使って……」
「あらなんで? お父さんいないんだから、逆に気を使わずに済むのに……」
確かにうちのお母さん、歳の割には若いし、逆に周くんはとても中三には見えないけどさ……それにしたって、さすがに不倫疑惑はありえないでしょ!?
お母さん一人ならともかく、私や湊斗だっているんだし。
「じゃあ、夕飯のビーフシチュー、持って行ってあげましょうか?」
言いながら、エプロンを外しはじめる母。
あまねお兄ちゃんのところに行くの―!? 僕もいく―! と、湊斗も母のスカートの裾をつかみながら、一緒に台所へ戻っていく。
周くんに懐いている……というのもあるけど、こんな時間に外に出ることなどまずないので、それだけで湊斗にとっては深夜のお散歩気分でわくわくするようだ。
……といっても周くんの部屋、同じ七階の、たった四軒先なんだけどね。
中学生ながら一人暮らしを許可してもらえたのは、柊家と同じマンションに住む、ということにしたからだ。
ただし、ここは賃貸じゃなく分譲マンション。
子供の一人暮らしのために、マンション一部屋をポンッと購入してしまう事実から、飛鳥井本家の財力の大きさが垣間見える。
「ついでだから、私が持っていこうか~?」と、玄関から声をかけると、
「咲々芽は、早くお風呂入っちゃいなさい!」
台所の奥から、母の声が聞こえてきた。
確かに、こんな姿でシチューなんて持っていったら、また周くんに怒られそうだな。