ガラスの向こう側は、壁、床、天井、一面真っ白な実験室。
 二十畳ほどの室内の中央には、病院の大部屋のように、四つの間仕切りカーテンが天井に備え付けられたカーテンレールから垂れ下がっている。

 ただし、それぞれのカーテンで仕切られているのはベッドじゃない。
 高さ約百センチ、幅約百五十センチ、長さは二百五十センチほどあろうか。シングルベッドより一回り大きな、白い直方体。――それが四台。

 天板にはさらに、人一人が出入りできるほどのドア状の潜入口が付いていて、今は四台のうち三台のドアが上に開け放たれている。
 ドアには四角い覗き窓が付いていて、閉じられている左端の一台を見ると、さながら巨大な棺桶のよう。

 最終チェックでもしているのか、白衣を着た二人の男性職員が、周りでてきぱきと確認作業をこなしている。
 普段私たちは、簡単にタンク、タンクと呼んでいるが、正式名称は――

「デタッチング・タンクじゃ」

 佐枝子(さえこ)さんの説明に手嶋さんも、detaching(デタッチング)……とオウム返しで呟いたあと、「分離、ですか?」と問い返す。

「分離、ってもしかして……あそこで幽体離脱でもするの!?」

 ガラスに顔を近づけながら、花音も隣室に目を凝らす。
 オカルト趣味なだけあって、花音も〝マインドリープ〟という単語からある程度のイメージは湧いているみたいね。

「当たらずといえど、遠からず、じゃな」

 幽体離脱という言葉に、佐枝子さんもわずかに笑みをこぼす。

「あれの発想の元になっておるのはフローティング・タンクという感覚遮断装置なんじゃが、中身はエプソムソルト塩水ではなく、AAAfluidで――」
「とりぷるえー……古井戸?」
「asukai artificial amniotic fluid――簡単に言えば、この研究所で独自開発された人工羊水のことじゃよ。被験者にはあの中で、まずは液体呼吸状態になってもらう」

 いわゆる、胎児と同じような状態になるわけだけど……肺に人工羊水(AAAF)が満ちていく感覚を思い出して思わず眉間に皺が寄る。
 あれ、何回やっても慣れないんだよなぁ。
 もっとも、肺に満たす時より排出する時の方がさらに苦しいんだけど。

「おしっことかはどうするの?」
「ほう、いい質問じゃ」

 花音の言葉に、またしても口元を緩める佐枝子さん。
 それって、いい質問なんだ!?

「人工羊水の中にはバンプレシン――いわゆる抗利尿ホルモンじゃな。その分泌を促す成分も含まれているので、入る前に用を足しておけば二十四時間は大丈夫じゃ」

 もっとも、万が一尿を漏らしたとしても、尿の成分の大部分はただの塩水。少量のクレアチンと尿素は含まれるが、一回の排尿で人体に影響を与えるほどのことはないらしい。

「じゃあ、大きい方(・・・・)は?」
「基本的に、意識を切り離された肉体は生体活動を著しく低下させるからの。排便活動もそれに準じるわけじゃが……緊急時は対応マニュアルがあるから大丈夫じゃ」

 そう、対応マニュアル。これが曲者だ。

「対応まにゅある……って、ちなみにどんなことするの?」
「というかお主、敬語は使えんのか!? ……まあ、そんな大変な話じゃない。要は、タンクから肉体を引っ張り出して、強制的に排便させるだけじゃ」
「は、はああ!? すんごい大変じゃん! 大事(おおごと)だよそれ!」

 さすがの花音も、そして、隣で話を聞いていた手嶋さんまで、目を見開いて佐枝子さんへ視線を向ける。

「たしかに、処理に時間が掛かると肺の人口羊水(AAAF)が漏れ出てしまうからの。意識が戻ったときに、一時的に呼吸困難に陥るのじゃが……」
「そこじゃなくて! 他人に強制的に排泄させられる、ってことよね!?」
「そうじゃ。でも、あそこにいるスタッフも含めて全員訓練は積んでおるからの。排泄の信号を受けてから処理が完了するまで、五分もかからんから大丈夫じゃ」
「大丈夫じゃないよ! 何人もの男の人に、無意識のうちにウ、ウ、ウ……ウンチを出されるとか! どんな変態集団よ!?」

 うん。この点に関しては花音に同意。
 だから私も、お腹の調子が悪いときには絶対にやらない、って誓ってる!

「なんじゃ、もしかして恥ずかしいのか? 誰でも、若い頃は経験あるじゃろ」
「赤ちゃんね? 赤ちゃんのときだよねそれ!?」
「そ、それで、その……」

 気を取り直すように眼鏡の位置を直しながら、手嶋さんが口を開く。

「意識の分離なんて……本当にそんなことができるんでしょうか?」
「それは問題ない」

 佐枝子さんの即答。

「瞑想状態の肉体の意識を電気信号に変え、このラボで独自開発したスーパーコンピューター〝Vanessa(ヴァネッサ)〟とリンクさせることには、数年前から成功しておる」
「そんなことが……もう、現実に……」
「もちろん、世間には公表しとらんがな。このことを知っておるのはこの研究所内でもR棟に出入りできる人間と、JAXAや政府高官の一部くらいじゃろ」
「そんなことを私たちに話しちゃっていいの?」

 再び、花音が口を挟む。
 とにかく、数分と黙っていられないのが、花音だ。
 こんな落ち着きのないやつをオペレーションに参加させて、本当に大丈夫なの?

 ふと、すぐ後ろで話を聞いていた環さんの方を振り向くと、静かに微笑みながら花音たちの様子を眺めている。
 環さんには、私には見えていない何かが見えているんだろうけど……それにしても、こと花音に関しては不安しかない。

「大丈夫じゃろ」と、花音の質問にも、事も無げに答える佐枝子さん。
「もちろん口外を推奨はせんし、他言無用とは伝えておくが……」
「いや、言わないけどね? ゴ〇ゴに狙われても困るし」

 ゴ〇ゴ限定ですか。
 女子高生一人にゴ〇ゴが出てくるとも思えないけど……。

「まあ、あれじゃ。仮に宇宙人が現れたとして、報道したのが朝売新聞なら耳も傾けるが、西京スポーツなら誰も本気にせんじゃろ。それと同じじゃ」
「いやいや、こう見えてあたし、情報通で通ってるからね? 担任のゆいぴょんが歳を二つ誤魔化してたこと暴いたのも、あたしだし!」

 あんたは西スポだよ。間違いなく。