佐枝子(さえこ)さんは? 研究室(ラボ)ですか?」
「ああ、はいはい」

 一通り出迎えの儀式(・・・・・・)が終わったのを見計らって(たまき)さんが尋ねると、ビリーも本来の目的を思い出したように振り返る。

「今日になって急にタンク(・・・)三台使うかもしれないなんて連絡してくるから、急ピッチでもう一台の準備を進めていたんデスよ」
「無理を言ってすみませんでした」

 爽やかに微笑む環さん。
 口ではああ言ってるけど、あの眩しい笑顔……絶対に恐縮なんてしていないんだろうなあ。

「環くんの〝無理〟には慣れてますから」と、ビリーもニヤリ。
「人聞き悪いなあ」
「いえいえ、歓迎してるんデスよ。飛鳥井家からの依頼とあれば、大手を振ってタンクを弄れますからね。佐枝子さんも、ぼやきつつ嬉しそうでしたよ」
「私はもう、飛鳥井家の人間ではないですけどね」
「そう思ってる人は、ここには一人もいないでしょうねぇ。……とりあえず、行きましょうか」

 そう言って環さんと並び、二人が先頭に立って歩き始める。
 そのすぐ後ろに(あまね)くん、少し離れて花音(かのん)と私が続き、最後に手嶋さんが付いてくる。

 まだそわそわと落ち着かない様子の手嶋さんに比べ、すっかりリラックスムードの花音。
 そろそろ鼻歌でも歌いだしそうだなぁ、花音(こいつ)

「それにしても、人の気配がしないところね」

 キョロキョロと周囲を見回しながら、花音が呟く。
 床も壁も天井も、真っ白に統一された幅二メートルほどの無機質な通路からは、それだけでも閑寂(かんじゃく)な心象を与えられる。

 ただ、人気(ひとけ)がないと花音が呟いたのは白亜の回廊から受ける印象のせいだけじゃない。実際、私たちの歩く足音以外には物音も話し声も聞こえてこない。
 各研究室も照明の消えている部屋が多く、ハーフミラー状態のドアガラスが通路の左右に並ぶ。たまに明かりが見えても、薄暗い常灯のみで人影は見られない。

「そもそも、施設規模は他の研究棟以上なのに、入所権限のある職員の人数は五分の一にも満たないデスからねぇ」

 横顔を見せるように半分だけ振り向いたビリーが、花音を流し見る。

「特に今はゴールデンウィーク前で、前半の休暇グループが休んでいるのでなおさらデスよ」
「なるほど~。ビリーはいつ休みなの?」

 さすが花音、さっそく呼び捨てか。

「ボクも前半組だったので今日から休みの予定だったんデスけどね。環くんたちのオペレーションが入るかも知れないと聞いて残っていたんデス」
「へ―……、研究者も大変なんだぁ」
「いえいえ、休むことだってできたんデスけどね。とくに予定もありませんし、オペレーションに参加する方が数倍楽しいデスから」

 そう言ってニッコリと微笑むビリー。
 まあ、それは本心でしょうね。
 以前も、ビリーが休暇の日に急なオペレーションが入った時、ちょっとした確認事項で電話をしただけなのに、ここまで飛んで来たからなぁ。

「ん―、ビリーも、有りっちゃ有りだなぁ……」と、花音が難しい顔で呟く。
「なにがよ?」
「なにが、って……あたしとのカップリング候補に決まってるじゃない。意外と息が合ってる気がするし、少なくともキープはしておいていいかな、って」

 すっごい上から目線ね……。
 うっかり鼻水が出そうになったわ。

「あのさ花音、飛鳥井家はもちろんだけど、ビリーの家だって、私たち庶民が簡単に釣り合うような家柄じゃないからね?」
「うわぁ……、咲々芽(ささめ)、そんなつまんないこと気にしてるから、いつまで経ってもみんなに洗濯物なんて言われんのよ」
「言われたことなわよ! 花音(あんた)以外に!」
「って言うかさぁ……意外とああいう人たちだって、特別な目で見られたくないと思ってるんじゃない? どう思う、セレブユッキーは?」

 花音が、最後尾から付いてきていた手嶋さんを顧みる。
 花音(あんた)も、呼び方っ!

「そ、そうですね……(うじ)より育ち、って言いますしね」
「う……(うじ)……?」
「生まれた家柄より、(しつけ)や教育の方が人間形成には重要ってことです」
「そ、そうそう、それよ! あたしもそれが言いたかったの! さすが小説家!」

 躾も教育も、家柄以上に怪しいじゃない、花音(あんた)……。

「とにかくさ、クラスの男子とか、そういうほうがいろいろ確率高いんじゃない? 高望みばっかりしてないで……」
「高望みなんて……咲々芽は自ら壁が高いと思い込んでるだけよ。ちょっと無理めの相手だって、あたしなんてもう十回以上ゲットしてるし!」
「……ゲットできてなくて草」

 後ろから、プッと吹き出すような声。
 私と花音が振り返ると、口に手を当てた手嶋さんが、眼鏡の奥で慌てたように目を丸くする。

「ご、ごめんなさい、つい、可笑しくて……」
「ああ、ううん、別にいいんだけど……」

 手嶋さんもそんな風に笑うことがあるんだ、と、少し驚いただけ。

「でも私、新しい小説のネタ、思い浮かんだかもしれません」
「へぇ~、今の話で? どんな?」
「えっと、女子高生二人が、おバカなガールズトークをしながら身の周りの謎を解いていく日常系ミステリーで……」

 やっぱり手嶋さん、意外と失礼な人かもしれない。