「しかし、ほんとびっくりしたなぁ、もう……」
「花音それ、何回言うのよ」
「だって! あまねくんち、近所だとは聞いたけど……まさか同じフロアの隣りだなんて!」
「隣りじゃない。四軒隣り」
「同じだよ! 一戸建てなら隣りの距離だよ!」
環さんが乗ってきた古いミニバンの二列目――私の斜め後ろで、さっきから同じことを繰り返している花音。
「それにしてもほんと……びっくりしたなぁもう」
「もういいっつ―の!」
「それにしてもさ……」
花音が、助手席と運転席の間から身を乗り出すように顔を覘かせる。
「中学の頃からあたし、なんどか咲々芽んちに行ったこともあるのに、あそこにあまねくんが住んでるなんて、全然教えてくれなかったよね!?」
「あー……訊かれなかったしね」
「訊けるか! 存在も知らないのに」
「あまねくんのお父さんに頼まれてたのよ。ビッチは近づけるな、って」
「誰がビッチよ!!」
……っていうか、なにそれ? 真っ赤っか! と、私が膝の上で操作していたポータブルナビの画面を覗きこんで、花音が眉をひそめる。
「下道、渋滞してますね。予定到着時刻、十三時五十分ですよ?」
「そうかぁ。土曜だから空いてるかと思ったんだけど……高速乗ろうか?」
私の言葉に、運転席の環さんもナビの画面を覗き込んでプクッと片頬を膨らませる。
女子かっ!
今日の装いはグレージュのチュニックワンピースに黒のストッキング。可能な限りボディラインを目立たせないのは、女装子ファッションの基本らしい。
もっとも、昨日のようなスマートな服装でもまったく違和感なく着こなしてしまうのが環さんのすごいところだけど……。
「だからもうちょっと早めに待ち合わせを、って言ったのに……。高速なんて、経費大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。昨日、あまねくんがいっぱい稼いでくれたから」
直後、チッと、小さな舌打ちが真後ろから聞こえる。周くんだ。
花音の隣りの席でノートパソコンを広げなら、まだいろいろと調整中らしい。
「高速使うなら……あと二キロで入り口ですよ」
有料道路優先でルート検索をして、ダッシュボードのスタンドにナビを戻す。
すぐに、ナビからも高速道路に関する音声案内が流れる。
「そういえば咲々芽さん、さっき、メッセンジャーで何か送ってきた?」
「気付いてたんですか? なら、すぐに読んでくださいよ」
「う~ん、あれって、開くとそれが送り主にも分かっちゃうんでしょ?」
「〝既読通知〟ってやつですね。分かりますよ」
「それが伝わっちゃうと、すぐに返信しなきゃならない気がして、焦らない?」
「いつも読まないの、そんな理由だったんですか? 別に、雑談するために環さんにメッセージなんて送りませんから、読むだけ読んでくださいよ!」
環さん、意外と気遣い屋さん!?
「で、用件はなんだったの?」
「いいですよ……もう……」
ほんとは、花音にいろいろ気付かれる前に待ち合わせ場所を外に変えたかったんだけど……。周くんがうちに来ちゃった時点で手遅れだ。
「ああ! あたし、既読にならないようにするアプリ、知ってますよ!」
花音が、座席の間から授業中の小学生のようにまっすぐ挙手をする。
「ほんと? それ、私のにも入れられる?」
「大丈夫だと思いますよー。スマホ貸して下さい」
環さんからスマートフォンを受け取ると、自分のスマホも取り出してなにやら操作を始める花音。
あれ? アプリのインストールで、自分のスマホは必要なくない?
と思った矢先、ピロリン、と聞いたことのある効果音が流れる。
「花音……今の音、赤外線通信の音じゃない!?」
「うんうん。ロックかかってなかったから、ついでに番号の交換をね~」
「ついでに、って……勝手にそんなことする人、初めて見たよ!」
「そうかなぁ? えへへへ~」
「褒めてない!」
「ウフッ。これこそ、フレンドリーに友人の輪を広げていくフレンドプロジェクト、名付けて親友ダボハゼ作戦なのだよ、咲々芽くん」
「やけに、友が多いわね……」
っていうか、ダボハゼ言われてますよ環さん。いいんですか?
チラリと運転席に目をやるが、とくに気にしてはいないようだ。
はい、できましたよー、と、花音が環さんにスマホを渡したところで、車も高速入口の側道へ逸れていく。
「ありがとう、矢野森さん」
笑顔でスマホを受け取ったあと、高速に乗るからシートベルトしておいて、という環さんの指示に、花音も「は~い」と元気に答える。
「ほんとは一般道だって、後部座席もベルトしなきゃないんだよ、花音」
「胸が締め付けられて苦しいんだよねー。スポーツブラの咲々芽と違って……」
スポーツブラ? と、環さんが助手席の私を流し見る。
「ちっ……ちがいますよ! 普通のブラですよ! スポーツじゃない、普通の!!」
振り返ってキッと花音を睨みつけると、すでにそ知らぬ顔でベルトを締め終わった彼女がニコッと微笑みかけてきた。
くっそ……、覚えてろよ、花音のやつ……。
◇
高速から降りてさらに走ること十五分。ようやく『目的地周辺です』というナビの音声案内が車中に響く。
近くのコインパーキングに車を停め、四人で車外へ。
午後一時十五分。約束の時間より少し遅れたが、先ほど手嶋さんへは連絡を入れておいたので大丈夫だろう。
チュニックワンピースのスーパーモデルに、百八十センチ級のイケメン男子と制服姿の女子高生。
そして……花音曰く、早朝のゴミ出しファッションの私。
傍から見たら奇妙な取り合わせなのか、道行く子連れの主婦が二、三度私たちの方を振り返りながら通り過ぎていく。
「それにしても雪実、なんでN市なんかからうちの学校通ってるんだろ。別に、わざわざ通うほどの学校でもなくない?」
確かに――。
電車なら三十分、徒歩や待ち時間も合わせれば、通学時間は有に一時間を超えるだろう。
偏差値、五十そこそこの公立高校。全県一学区制導入前の、昔ながらの校区の生徒しか通わないような、言ってみればどこにでもある地元校だ。
こんな、見るからに高級住宅街に住む女子高生が、一時間以上かけて通う学校としてはあまりにもありふれすぎている。
聞いていた住所を頼りに五十メートルほど歩くと〝手嶋〟と表札の掲げられた、周囲の家よりもさらに一際……どころか、二際も三際も立派な豪邸の前に辿り着く。
ローマ字で書かれている家族四人の名前の中には〝YUKIMI〟の文字も。間違いない、ここが手嶋さんの家だ。
環さんが、アルミ製の門扉に付いているブザーを押すと、程なくして『はい』という女性の声がスピーカーから流れてきた。
――手嶋雪実さんの声。
「飛鳥井環です。すいません、少し遅くなってしまって」
『いえ、大丈夫です。どうぞ、お入り下さい』
「飛鳥井環です。すいません、少し遅くなってしまって」
『いえ、大丈夫です。どうぞ、お入り下さい』
手嶋さんが答えるのとほぼ同時に、門扉からカチャン、と解錠の音が聞こえた。
門をくぐると、すぐ左にはガレージの入口があり、敷き詰められた石畳から靴底を通して凸間凹間の感覚が伝ってくる。
石畳部分を抜けると青々とした芝生が広がり、ガレージの裏を回るように飛び石状の玄関アプローチが十メートルほど続いていた。
先頭に立ち、きょろきょろと首を回しながらアプローチを渡っていく花音。
「うっはー……、このガレージ、車何台くらい並ぶんだろ」
奥行き約五メートル、幅はアプローチが切れるさらにその奥まで続いている。
おそらく、普通車なら七~八台は並んで停められる広さだろう。
「ガレージだけでうちのマンションより広いかも……」
ポーチに辿り着いた花音が、母屋に隣接して建てられているガレージを覗き込みながら嘆息する。
続いて私、さらにすぐあとに、片手にノートパソコンを持った周くんも、色鮮やかな乱形石のポーチに足を載せる。
振り向くと、環さんがアプローチの中ほどで立ち止まり、額に手をかざして上を見上げている様子が目に止まる。
視線の先は……母屋の二階部分?
「どうしたんですかー?」と声をかけると、
「ああ……うん、いや、なんでもない」と言って、再びこちらへ向かって歩き出す。
午後の陽射しの下で、一瞬、口元の影がわずかに吊り上がるのが見えた。
あれは……なんでもない顔じゃないよね、絶対。
四人がポーチに揃ったところで、改めてチャイムを押そうとしたその時、両開きの玄関ドアがガチャリと開き、中から手嶋さんが顔を覘かせる。
白いTシャツにチェックの長袖シャツを重ねただけの地味な普段着。
「すごいね、ユッキーの家!」という花音の言葉に少しだけ微笑んで、
「お疲れさま。……どうぞ、中へ」といって大きく玄関ドアを開く。
手嶋さんに促されるまま、たっぷり三~四畳はありそうな玄関ホールへと足を踏み入れると、さらに玄関の奥で二人の女性が出迎えてくれていた。
いらっしゃいませ、と深々とお辞儀をしたエプロン姿の女性は……おそらく家政婦さんだろう。
その隣、家政婦さんに続いて「こんにちは」と軽く会釈をした、薄茶色のショートボブの女性は――
「こちらが、私の母です」
手嶋さんの紹介にあわせて、彼女がもう一度会釈をする。
「雪実の母の……手嶋洵子と申します。この度はわざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」
エリートOLか、もしくはキャリアウーマンかのようなきちんとした挨拶だ。もちろん、高校生の私のイメージ上の話だけど。
アイライン、シャドー、チークに口紅……。
決して厚化粧ではないけど、しかし、隙のない入念なメイク。
息子が行方不明ということでもう少し憔悴した様子を想像していたんだけど……もしかするとそれを隠すためのフルメイクなのかもしれない。
「飛鳥井、環さん……。あの……所長さんですか?」
環さんから手渡された水色の名刺に視線を落としながら、洵子さんが意外そうに呟く。
「ええ……聞いていませんでしたか?」
「あ、いえ、雪実さんからは、所長様は男性の方だとお聞きしていたので」
自分の娘に〝さん〟付け?
テレビドラマなんかではたまにみたこともあったけど……お金持ちの家って、ほんとにそんな風に呼んでいるんだ!
「ああ、私、こう見えて男性ですので、間違ってはいませんよ」
環さんの言葉に「ええっ!?」と目を見開くも、すぐに気を取り直して、小心翼翼といった様子で頭を下げる洵子さん。
「あ、あの……ごめんなさい、知らなかったもので……大変失礼いたしました」
「いえいえ、この出で立ちですからね。これで、男性だと思えなんて、そんな鬼みたいなこと私だって言いませんよ」
環さんなりの冗談なのだろう。そういって微笑みかける環さんだったが、それでも洵子さんは恐縮したようにもう一度頭を下げた。
かなりの身長差のせいで、框に立った彼女と環さんの視線はほぼ同じ高さ。
環さんに見据えられながら微笑まれては、男女問わずああなるのも無理はない。
歳は……私の母よりもさらに若い?
二十代と言われても違和感はないけど、私たちの年齢を考えればさすがにそれはないだろう。多分、どんなに若くても三十代前半といったところか。
顔立ちも、綺麗だ。
メイクで作られた美貌ではない。地肌の瑞々しさを誇るような薄塗りのファンデーションから、上品な美しさが滲み出ている。
この母親からよく、手嶋さんのような地味な娘が生まれたよなあ……と、一瞬、失礼なことを考えながらチラリと彼女の横顔を覗き見る。
緊張しているのか、やや俯き加減で、少し頬も強張っているのが分かる。
環さんたちにも昨日でだいぶ慣れた気がしたんだけど、一日経ってまたリセットされちゃったのかな。
「とりあえず、お上がり下さい」
洵子さんが一歩退がり、手の平で床を指し示す。
框には四つのスリッパが――うち三つは、こちら向きに綺麗に並べられている。
反対向きの一つは、手嶋さんが履いてきたものだろう。
お手伝いさんが「すいません、お越しになるのは三人だとお聞きしていたので……」といいながら、慌ててもう一つスリッパを用意する。
「雪実……、だめだよ、咲々芽のこと忘れちゃあ……」
「花音だよ! 招かれざる客は!」
そんな私のツッコミに、特に気を留める様子もなく、花音が手嶋さんの肩に手を回しながら、もう一方の手で彼女の脇腹をグリグリと小突く。
それ、何ノリ? マブダチ!?
手嶋さんもすっかり、ダボハゼの一匹にされたらしい。
「ごめんなさい……」
どう考えてもおかしいのは花音なのに、そこで謝っちゃうのが手嶋さんなのだろう。
「それじゃあ、悦子さん……応接間に、お茶とお菓子を用意して」
「承知しました」
一礼して、家政婦さんが廊下の奥へと消える。
そんな彼女の後ろ姿を睨みながら「まさか!」といって目を見開く花音。
「ユッキー、ユッキー! もしかしてお手伝いさんの苗字って――」
「え? 佐藤さん、ですけど……」
「なぁ―んだ。惜しいっ!」
惜しい? 何が?
「もしかしたら市原かな、って思ってさ。そしたら事件なんてすぐに解決しそうだったのに」
と、花音が悔しそうに顔を顰めた。
「では、こちらへどうぞ……」
そう言って先に歩き出した洵子さんの背中を、すぐに環さんの声が追いかける。
「その前に、差し支えなければ息子さん……琢磨くんのお部屋を拝見してもよろしいですか?」
「え? あの……それは、えっと……」
洵子さんが私たちの方を振り返り、少し戸惑ったように視線を泳がせる。
まあ、それはそうよね。
訪問した用件は概ね承知しているとはいっても、彼女から見れば私たちはまだ、どんな人物かも分からない、得体の知れない来訪者なわけで――。
いきなり子供の部屋を見たいと言われても抵抗感はあるでしょうね。
しかし、現場を見てみないことには私たちが手伝えるケースかどうかも分からないし、それを確認する前に交わす会話など、社交辞令以外にはない。
大人中心のビジネスシーンではそれも重要かもしれないけど、私たちはまだ、そんな小間怠い手順を踏めるほど歳を取ってはいない。
「もしご心配なようであれば、お母様もお立会いいただいて……」
洵子さんの戸惑いを感じてそう提案した環さんに、しかし、わずかに手嶋さんと目を合わせると、彼女もすぐに首を振る。
「いえ、大丈夫です。屋内の案内は雪実さんにお任せすることにしておりますから、どうぞご覧になってください」
終ったら皆さんを応接間へ……と、小声で手嶋さんに伝え、洵子さんもすぐ横の扉の中へと姿を消した。
「こんな怪しげな四人をすぐに自由にさせてくれるなんて……神経質そうに見えたけど、意外と大らかなお母さんじゃない」
そう言いながら花音が、別の扉を勝手に開けて室内を物色し始める。
自覚があるならまず、その怪しげな行動を慎め!
「普通はお母さんも一緒に来るよね~」という花音の言葉に、先に勾配の緩やかな階段を上り初めていた手嶋さんが、つと足を止める。
「私は……母にあまり好かれてないんです」
「んん?」
何の話だろう?
真偽はさておき、話題としては少し唐突だ。
「ああ、いえ、その……家でもあまり顔を合わせないですし……」
「ま―、これだけ広けりゃ、なかなか出会えないこともあるでしょうよ」
部屋の物色から戻ってきた花音が、さもありなんといった表情でコクコクと頷く。
「何LDKなの? ユッキーの家」
「十……三……LDK、だったかな?」
「じゅ、十三!? もうちょっとで一ダースになるよ!」
花音の一ダースはいくつだよ!?
「そういうんじゃなくて……たぶん、避けられてるんです、母に」
前を向いたまま話す手嶋さんの表情がなんとなく想像できるような、少し寂しそうな背中。
なに深刻になってんのよ―、と、花音がポンポンと手嶋さんの肩を叩く。
「きっとほら、弟さんの行方が分からなくなって、ナイーブになってんのよ、ユッキーも……」
「ほんと、そういうんじゃなくて……母は……」
そう言いかけた手嶋さんの肩に、今度は環さんが、階段を上りながら手を置く。
「無理に話すことはないと思うよ、雪実さんも」
自分を追い抜いて先に二階へ上っていく彼を目で追いながら、中指で眼鏡を上げ直した手嶋さんが、意を決したようにもう一度口を開いた。
「母は……洵子さんは、私の本当の母親ではありません」
「えっ……」と驚いたのは、花音だけでなく私も一緒だ。
「本当の母は、私が小学校三年の時に離婚して家を出ていきました。洵子さんはその後……私が五年生の時に、父と再婚した継母です」
それだけ一気に言い終わると、手嶋さんが再び階段を上り始める。
少し驚いたように振り向いていた環さんに追いつくと、「どうして分かったんですか?」と、不思議そうに質問した。
「う―ん……確信があった、というわけではないよ。ただ、なんとなくそんな気がしたという程度で……。有体に言うなら〝勘〟みたいなものかなぁ」
「勘……ですか」
「ただ、それだけでお母さんに疎んじられてると考えるのは、早計だと思うよ」
「はあ……」
分かったような分からないような……煙に巻くような環さんの答えに手嶋さんも小首を傾げるが、しかしそれ以上何かを質問することはなかった。
環さんのああいった人間観察能力は、正直〝勘が鋭い〟なんて言葉で説明できるレベルを凌駕しているのは、付き合いの長い私や周くんなら知っている。
恐らく、人の意志や感情にも反応する〝霊子〟を視認できる――〝観測者〟としての能力が関係しているのは間違いないんだろうけど……。
でも、あまり詳しく訊ねたことはない。
その内容如何によっては環さんと普通に接することができなくなりそうだし、それは分かっているだろう環さんも、詳しく答えてはくれないだろう。
とにかく、これまで問題なく過ごせているのだから、今のままで問題ない。
再び、先頭に立って二階へ上っていく手嶋さんに、私たち四人も続く。
階段を上りきるとすぐ目の前に、一階のリビングを見渡せるバルコニーのようなスペースが広がり、すぐ右に長い廊下が続いていた。
パッと見たところ、廊下の両側には部屋の入口らしき扉が三枚ずつ。
二階は合計六部屋かな?と思ったが、少し廊下を進むと、最奥の一つはトイレの扉であったようだ。
さらにその先にも、入口にカーテンの付いた脱衣所らしきスペースが見える。奥には浴室もあるのだろう。
「ここが、弟の部屋です」
廊下の中ほどで立ち止まった手嶋さんが、〝TAKUMA〟とプレートの付いた扉を手で指し示しながらこちらを振り返る。
私のすぐ後ろで、パカンと、パソコンを開く音が聞こえた。
左腕に載せたノートパソコンの画面を眺めながら、周くんが口を開く。
「手嶋さんと……あと矢野森さんも、一つ約束して」
「うん、約束するぅ―!」と、周くんに歩み寄る花音。
せめて、聞いてからにしろよ約束……。
「先に俺たちが入るから、OKするまでは中に絶対に入ってこないで」
俺たち、というのは周くんと環さん、そして私も含めた三人だ。
普通なら他人の家で気軽に要請するような内容ではないんだろうけど……。
理由は分からなくても、昨日、霊子の説明を受けている花音と手嶋さんは、それが必要なことであると推測はできるのだろう。周くんの言葉に二人が頷く。
「気をつけてね、あまねくぅん……」
そう言って、腰に手を回してくる花音を避けるように、周くんが慌てて体を捻る。
「ばか、止めろ! パソコン持ってるんだから……危ねぇだろ!」
「なんで避けるのよ」
「避けるだろ普通! ……おい咲々芽! なんとかしろ、この女!」
なんだろう、この既視感……。
そっとドアを開くと、締め切られたカーテンのせいで一瞬視界が暗転したが、すぐに目が慣れて室内の様子が確認できた。
八畳ほどの室内は、ほとんど、手嶋さんの弟――琢磨くんが出ていった時のまま保持されているのだろう。
テーブルの上には、無造作に置かれた漫画本や携帯ゲーム機。
ベッドの布団は綺麗に整えられているが、上にはスクールバッグも残されたまま。
床には、カラフルな色のハンドグリップや小型のダンベルが転がっているのが見える。
部屋の隅に立てかけてあるのは……金属バットか。そういえば野球部だって言ってたっけ。
片付いていない物も多少あるけど、年頃の男の子の部屋としては概ね綺麗に使われている方かな?
もっとも、家政婦さんのいるような家だし、放っておいたって私の部屋のような惨状ににはならないか……。
最後に入室した周くんが部屋のドアを閉めるとすぐに、リュックから集音マイクのような道具を取り出してノートパソコンに繋げる。
正式には〝ハープーン〟と呼ばれている機器だけど、当然ながら私には、その仕組みはまったく分からない。
先に入っていた環さんが右の壁際へ移動する。
少しだけ前かがみになり、手の平でさするように壁の一部を撫でること数回。
さらに周囲の壁を一瞥したあと、枝垂れた長い黒髪をかき上げながら周くんの方を振り返る。
「あまねくん、ここの壁の中。アンカー」
「了解」
やっぱり……特異点だったんだ、この部屋!
周くんがゆっくりと壁に近づき、ここでいいな?と、壁の一点をハープーンの先で指し示しながら、環さんに再確認する。
ゆっくりと頷く環さんを見て、周くんがパソコンのキーを押すと〝プッ〟というビープ音がスピーカーから流れた。
「北緯三十五度XXXXX分、東経百四十度XXXXX分、アンカリング完了」
パソコンのモニターに目を凝らしながら周くんが呟く。
「あったんですね……霊粒子」
「そうだね。咲々芽さんのクラスメイトがたまたま特異点に関わっていたというのは、本当にものすごい確率だけど……」
「それにしても、珍しいですよね、こんな場所に」
「壁の中?」
「ああ、いえ、それもそうですけど……二階という点です。琢磨くんがここからミラージュワールドに入ったっていうのは……」
「うん。間違いないだろうね」
「特異点もそうですし、人を飲み込むような霊粒子だって、普通は地表に近い場所にできますよね?」
「まあ、これまでの観測ではそういう結果はでているけど……例外もないわけではないし、霊子に関してはまだ分かっていないことも多いからね」
そう言って微笑を浮かべた環さんが、再び周くんの方へ向き直る。
「ミラージュワールドとの相対距離は、出た?」
「ちょっと待って、もう少しで……ああ、でたでた」
周くんが、ハープーンを取り外してリュックに戻しながら、モニターのバックライトで青白く照らされた顔を上げる。
「一.〇九リップルだ」
「そう、よかった。……あまり離れてはいないね」
リップル……現界を〝一〟とした場合に、ミラージュワールドがどれくらい離れた波線上に形成されているかという数値……らしい。
イメージとしては、水面に投げこんだ石を中心に広がる波紋に近い、と、周くんに以前説明されたことがある。
どれだけ離れた波紋か、というのがミラージュワールドまでの距離で、原則として一以下はなく、その数値の二乗が、そのまま現界との相対時間になる。
つまり――
「相対時間は一.一八八一」と、周くん。
現界で一日が経過すると、え―っと……今回のミラージュワールドでは一日と約四・五時間が経過するということか。
琢磨くんが行方不明になってから約二日半が経っているから、琢磨くんのいる世界では約三日が経過していることになるのね……。
波線の位置によっては、相対時間が数倍に跳ね上がって一刻を争う事態になるが、これくらいのズレであればそこまで慌てる必要もない。
「霊粒子の活性度は、どうですか?」
そうだね……と、環さんが再び壁に手を当てる。
「大丈夫、沈静化に向かってるし副霊子の逆流も見られない。場合によっては凍結処理も、と思ったけど、これなら大丈夫だね」
「じゃあ、二人を呼んでも?」
環さんが頷くのを確認してから、ドアを開ける。
「中に入ってもいいわよ、二人とも」
「あー、やっとかー! 待たされ過ぎて苔がむすかと思ったよぉ」
廊下に座り込んでいた花音が、私の顔を見てスッと立ち上がる。
まだ、五分かそこらでしょ……。
「で、どうなのよ? 隠れ里への入口とやらは、あったの?」
「うん。やっぱり琢磨くん、ミラージュワールドに迷い込んだ可能性が高いわね」
私の答えに、一瞬強張った表情を見せた手嶋さんの横で、よっしゃ!と、握り拳を固めた花音が、私の横をするりと抜けて部屋の中へ――。
「で、ユッキー……あれはどこ?」
「え――っと……ああ、そこに立てかけてあります」
花音のあとを慌てて追いかけて、手嶋さんが部屋の一角を指差す。
「ああ、あったあった!……って、けっこう重いわね、これ」
花音が掴んだのは……金属バット!?
「な、なに、あれ?」と、思わず目の前の手嶋さんの肩を叩く。
「あ、ああ、えっと……矢野森さん、何か武器になるものはないかって言うので、弟の部屋にバットがあるかも……って教えたんですけど……」
一キロはないとしても、七、八百グラム程度はあるだろう。
女子高生の細腕で振り回すにはなかなかの重さだ。
「で? ゲートはどこ!?」と、室内をきょろきょろと見回す花音。
「げ、ゲート!?」
「あるんでしょ? その……隠れ里みたいなとこに入ってく門だか穴だかみたいなものが。でもって、その先には恐竜がいたりして……」
そこでようやく、花音が好きだと言ってた海外ドラマのことを思い出す。
「花音、プラ〇ミーバルの見すぎよ!」
「花音、プラ〇ミーバルの見すぎよ!」
「見てようが見ていまいが、他にどうやって行くのよ、異世界に? いちいちトラックに轢かれるわけでもないんでしょ?」
「と、トラッ……怖いわ!」
いつのまにか、隠れ里から異世界になってるし……。
花音の中で、何かいろいろと混ざってしまってるみたい。
「そもそも恐竜がいたとして、そのバットで何をどうするつもり?」
「咲々芽バカねぇ……素手で恐竜は倒せないでしょ? 常識だよ?」
「……その常識を、もうちょっと他の部分で働かせようよ」
まあまあ、咲々芽さん……と、環さんがにこやかに語りかけてくる。
「普通は、霊子だの隠れ里だのなんて話、眉唾でしか聞いてくれない人も多いのに、自分まで行くつもりで聞いてくれる人なんて稀だよ?」
「そりゃそうでしょうね。……というか、花音にはもともと事務所のことについては多少は話してたんですよ」
あの事務所は、警察が本腰を入れてくれないような不明者捜索を専門に請け負っている……という程度の情報だけど。
それでも、普通の女子高生――いや、当時は中学生だったけれど――が、何の疑問も持たずに『ああそうなんだ!』と受け入れられるような内容じゃないだろう。
ただ、花音に関して言えば、もともと常識という部分に多少の不具合をかかえているうえに、オカルト好き。
探偵社なんていうちょっと浮いた話も、昨日のミラージュワールドなんていう現実離れした話にしても、まるっと受け入れられたのはそのおかげなんだろうな。
「まさか環さん、花音まで連れて行く気じゃ……」
「いや、さすがにそれは無理だけどね」
苦笑する環さんに、今度は花音が詰め寄る。
「え? 今日召集されたメンバー、みんなで行くんじゃないんですか? 異世界……」
異世界でもないし、誰も花音を招集してもいない。
「う―ん……それはちょっと難しいかな。少なくとも、何度か経験を積んでからでないと、実際の事件に関わるミッションには参加させられないけど……」
「わかりました! あたし、がんばります!」
と、金属バットを肩に担ぐ花音。
まてまて……なにをがんばるつもりよ?
「環さんっ!!」
私の険相に、なに? といった表情で、環さんが向き直る。
「そんな……ガチで不思議そうな顔しないでくださいよ! 花音にあんなこと言ったら、本気でつきまとわれますよ?」
「いいんじゃない? やっと四台目のタンクもできたところだし、そろそろバディの増員を検討しても」
「それには反対しませんけど……なんでよりによって花音なんですか!」
花音に向けた私の人差し指を目で追いながら、環さんが首を傾げる。
「ん――……勘かな?」
でたよ……。環さんの気まぐれ発言。
「あまねくんは、潜跡追尾対象が増えても問題はないよね?」
環さんの質問に一瞬だけ上げた視線を、しかし、すぐにパソコンのモニターに戻す周くん。
「トラッキングは問題ないけど、佐枝子さんは何ていうかな。人選は一任されてるといっても、気軽にホイホイ一般人をスカウトしていい、って話ではないだろ」
「なに言ってるのよあまねくん」と、花音が彼の横にひらりとピットイン。
「あたし、言うほど一般人じゃないからね?」
一般人でしょ、コテコテの!
訝しそうに隣を流し見る周くんの視線を気にも留めず、花音が金属バットを抱きかかえるようにしゃがみ込んでアピールポイントを指折り列挙していく。
「えっと、こう見えて結構体力はあるし、思いやりもあるし、よく友達から相談さるし……ああ、そうそう! 五百円玉貯金で一万円貯めたよ!」
「間違いなく一般人だよ! ただの庶民だよ!」
花音から金属バットを取り上げて、もとあった場所に立て直す。
「そもそも、一万円ぽっち、なんの役に立つのよ?」
「バカだなぁ咲々芽は……金額の問題じゃないってば。五百円玉十枚を使わずに貯め続ける、その根性に注目しなさいよ」
「十枚じゃ、五千円じゃん」
「……だ、だからぁ! 金額の問題じゃないって言ってるじゃん!」
「いや、根性の問題にしたって大した枚数じゃないからね? っていうか、それならこの前カラオケで貸した千円、その五百円玉で返してよ」
「もうない。使った」
「ダメじゃん! 根性なし!」
あれ? そもそもなんの話だっけ?
ああ、そうそう、花音がミラージュワールドにいくかどうか、みたいな話か。
「私は、絶対反対ですからっ!」
と環さんに向き直るも、すでに私たちのくだらないやり取りなどそ知らぬ様子で、件の壁の前にしゃがみこみながら考え事をしている。
まだ何か、気になる点でもあるのかな?
「ところで雪実さん……」
おもむろに振り向いた環さんが、今度は手嶋さんに話しかける。
「この壁の向こうは、誰の部屋?」
「あ、えっと……私です」
「ちょっと、そっちも見せてもらっていいかな?」
「え!? 私の部屋をですか? ど、どうしてですか?」
「深い意味はないんだけどね。霊粒子の位置が位置だし、一応、周囲は見ておきたいな、って」
「わ、分かりました……ちょっと、散らかってるんで……片付けてきますから、二、三分待ってもらえますか?」
そう言って、慌てて手嶋さんが部屋から出て行く。
二、三分で片付けられる程度なら、散らかってるうちに入らないよ。
「どうしたんです、環さん? わざわざ手嶋さんの部屋まで……」
「う――ん、別に、はっきりとした理由があるわけじゃないんだけど……咲々芽さんは、気づいた?」
「なにがです?」
「え―っと、それじゃあ彼女、うちの事務所に何を相談しにきた?」
「え? それは……弟の琢磨くんが、行方不明になったって……」
「そう。普通は、人がいなくなれば〝行方不明〟だとか〝失踪〟だとかって表現するよね」
「そうですね」
まあ……言われてみれば、なかなか他の言い方も思い浮かばない。
「でも、雪実さんはずっと、弟が〝消えた〟って言ってたんだよ」
「どうぞ……」
私たち――手嶋さん以外の四人で琢磨くんの部屋から退出すると、ほどなく隣室のドアが開いて手嶋さんが顔を覘かせた。
「少し散らかっていますけど……」
そう言いながら、ゆっくりとドアを押し開く。
「うわ! おっしゃれ――っ!」
真っ先に部屋へ入った花音の声が室内から聞こえてきた。
続いて、私、環さん、周くんも順に中へ。
いかにも女子高生……といった、いわゆるガーリーな内装ではないだろうと予想はしていたけど――。
なるほど、確かにお洒落!
DIY風の調度品が配された洒脱な色調ながら、地味でもない……まるでインテリア雑誌にでも紹介されていそうな洒落た室内だ。
広さは、琢磨くんの部屋と同じ八畳ほど。
中央には、部屋を左右に間仕切りするように大きな白い書棚が置かれ、向かって右側がベッドスペース、左側がスタディルームに区分けされている。
ベッド側に向いた書棚の背面に、ピタリと付くように置かれた机の上には、電気スタンドと木製のレターケース、ノートパソコンなどが見える。
高い天井から室内を照らしている蛍光灯とは別に、ベッドスペースとスタディルームに吊るされた裸電球が、優しく室内を彩っている。
「ユッキーのことだからもっと地味かと思ってたよぉ……」
失礼な感想だけど、花音と同じ先入観を持っていた私も、思いもよらなかったモダンな室内に思わず仕事を忘れてみとれる。
「室内を、拝見しても?」
という環さんの問いに小さく頷きながら「そちらです」と、手嶋さんが右の掌で机の方を指し示す。
琢磨くんの部屋は確かに左側だけど……。
環さんが向かったのは右側のベッドスペース。
「え? あ、あの……」
戸惑ったような手嶋さんの声が環さんの背中を追いかける。
が、そんな彼女の言葉に気を留めることもなく……あるいは、聞こえないふりをして? ベッドを背に立ち止まると、書棚の中を眺める環さん。
腕を組み、背表紙を順に目で追いながら、右手の人差し指で唇を抑える。
昔からよく見せる……思考のピースを弄びながら、頭の中でゆっくりと組み立てているときの、彼の独特のポーズ。
「うわぁ~、本がいっぱい!」
環さんの隣に歩み寄った花音も、書棚を眺めて感嘆の声を上げる。
「これ、何冊くらいあるの?」
「そこには……三百冊くらい、かな?」
「三百!! ユッキーはあれだね……本の虫だね!」
小学生レベルの慣用句を使った程度で、ドヤ顔を見せる花音。
三百冊という数に興味が湧いて、私も環さんの隣で一緒に書棚を眺める。
太宰や芥川といった文豪作品から最近の小説やライトノベル、さらには実用書の類までジャンルはバラバラだ。
「これ全部……手嶋さんが読んだの?」
「え、ええ、一応……。書庫にあった親の本なんかもありますけど」
そう言いながら手嶋さんも、書棚の前にきて私の横に立つ。
しょこ? と、聞き慣れない上流階級の単語に小首を傾げながらも、再び口を開く花音。
「ユッキー、よく本なんか読む時間あるよね」
「テレビも見ないし、ネットもあまりやらないし……」
「あたしなんて毎日、友達とメッセしてるだけで時間なくなるよ。あれほんと、時間ドロボーだわ」
「私は……友達もいないから」
「だからって、代わりに三百冊って……。友達三百人ならすごいけど」
いや、本でもすごいよ。
「あ……雪実さん、ちょっと、そこ、いい?」
環さんが、手嶋さんの影に隠れていた辺りの本を見ようとして声をかける。
「え? ああ、はい……」
おずおずと身体をどかした手嶋さんの横から、一冊の参考書を取り出す環さん。
タイトルは……『小説を書くための基礎メソッド』?
環さんが引き抜いた付近に目をやると、似たような種類の参考書が何冊も並んでいる。
『小説を書く前に読みたい作品10選』
『ライトノベルの書き方講座』
『読者を楽しませるテクニック』
et cetera……。
他にも参考書や実用書の類はあるけど、明らかに執筆指南系のタイトルだけが群を抜いて多い。
「ユッキー、小説なんて書くの?」
花音も、環さんの手に取った本を覗き込みながら訊ねる。
チラッと私の目にも入ってきたページには、ピンクや黄色の蛍光ペンでびっしりと線が引かれていたようにも見えたけど――。
う、ううん! と、手嶋さんが慌てて首を左右に振る。
「それはたまたま、書庫にあった親の本を持ってきただけで……ちょっと面白そうかな、って思って……」
それだけで、こんなに沢山、同じような本を持ってくるかな?
さっきの蛍光ラインだって鮮やかな発色に見えたし、まだ引かれてからそれほど期間は空いていないように見えたけど……。
「でもさっき、全部読んだって言ってなかった?」と、花音にしては鋭い質問。
「う、うん、小説なんかはね。参考書や実用書は別だよ」
「ふぅん……。お父さんかお母さん、昔、小説家でも目指してたの?」
「あ、うん……そうみたい……」
私も、適当な一冊を手に取ってみる。
『ハリウッド脚本術 – 三部構成の基本と応用』――これも間違いなく執筆関係の参考書だよね。
何気なく、パラパラとページを捲ってみると、本に挟んであったらしい何かのメモがハラリと床に落ちた。
四つ折にされたA4サイズのルーズリーフ。
環さんが、足元に落ちた紙を拾って広げた次の瞬間――
「そ、それは! 違うんです!」と、大きな声を上げた手嶋さんが、環さんの手元から用紙を引ったくるように取り上げる。
これまでの、どちらかと言えばゆったりとした彼女の動きからは思いもよらない素早い動き。
赤いアンダーリムの眼鏡が斜めにずれるほどの勢いに、私も花音も一瞬呆気にとられたが……。
環さんは、いつもと変わらない落ち着いた様子で手嶋さんに向き直る。
「雪実さん、それって……」
「雪実さん、それって、もしかして小説のプロット?」
手嶋さんが胸の前で、両手で隠すように握り締めたルーズリーフに目をやりながら、環さんが落ち着いた口調で訊ねる。
環さんが広げた瞬間、私の視界にもチラッと入ってきたその紙には、線や矢印で繋がれた楕円や菱形などの図形が見えた気がした。
以前、周くんがパソコンでプログラムを組むときに書いていたメモの形状に似ている。
たしかあれって……フローチャートってやつよね!?
少しの間、俯いて考えを巡らせているような様子の手嶋さんだったが、やがて覚悟を決めたようにフッと息を吐くと、ずれた眼鏡の位置をなおして口を開く。
「プロット……というほどのものでもないですけど、物語の大枠というか……おおまかな構成を考えていた時のメモです」
「なになに? ユッキー、小説なんて書いてんの!?」
環さんの向こう側から、手嶋さんを方を覗き込むように花音が訊ねる。
「あ、うん、その、書いてるっていうか……」
「すっごいじゃん!」
「……え?」
「だって、小説なんてあたし、読むものだとばっかり思ってたから。書く人がいるなんて思わなかったよ! もうあれだね、ユッキーは本の亡者だね!」
また得意気に鼻の穴を大きくする花音だが、その慣用句は初めて聞いた。
「も……亡者……」
「あ、気にしなくていいよ。たぶんあれ、褒め言葉だから」という私の説明に、少し戸惑いながらも「う、うん」と頷く手嶋さん。
「でもさぁ……」
腑に落ちない様子で小首を傾げる花音。
「なんで小説のこと、隠そうとしてたの?」
「え? いや、別に……隠そうとした、ってわけじゃ……」
「いや! あれは絶対隠そうとしてたよ! ねえ咲々芽!?」
私に振るなよ。
「ど、どうかな……まあ、そう言われればそんな風に見えなくもなかったけど……」
「隠そうとしたわけじゃないんだけど……小説書くなんて、なんか、イメージが暗いっていうか……」と、俯き加減でポツリポツリと手嶋さんが答える。
「なにいってんのよ! 大丈夫だよユッキー。小説を書こうが書くまいが、ユッキー、普通に暗いんだから気にすることないって。ねえ咲々芽!?」
だから私に振るなって。
っていうか、普通に暗いって……もっと酷いこと言ってない!?
「ま、まあ、暗いかどうかはさておいて、凄いと思うよ、小説なんて」
「……凄い?」
私の言葉に、手嶋さんが、足元へ落としていた視線をわずかに上げる。
「うんうん。だって、物語なんて私、全然思いつかないし……文章だって、なんだろ……小学生の作文みたいなのしか書けないもん……」
「ああ―……、咲々芽の作文はほんと読みづらいからねぇ」
小学生にも失礼だよ、と、花音が口を挟んでくる。
「ん? 花音に作文なんて見せたことあったっけ?」
「いっつも見てるじゃん、メッセで」
「メッセンジャーは作文じゃないよ! それに内容だって……ふ、普通でしょ?」
「普通じゃないよ。怒ってるときにイカのスタンプとか、センスおかしい」
「文章と関係ないしっ! ……っていうかあれ、タコだし!」
「どっちにしろおかしいってば」
「……私、友だちとうまくいってなかったんです」
脱線していく私と花音の会話に気付いていないかのように、焦点の合わない瞳でボーッと書棚を眺めながら、手嶋さんがポツリと呟いた。
「……え?」異口同音に聞き返す私と花音。
「中学校の頃。クラスでうまくいってなかった……というか、小説で関係を壊しちゃったっていうか……」
突然の手嶋さんのカミングアウトに、私も花音も――いや、環さんや周くんも、手嶋さんの次の言葉を待つように口を噤み、静に彼女を眺める。
◇
(あ――……どうして気付かなかったんだろ……)
歩道橋の階段を小走りで駆け上りながら、心の中で呟く雪実。
もう、先ほどから同じ言葉で何度も反芻している自問自答だ。
階段を上りきって橋板の上に立つと、国道を挟んで反対側にあるN第一中学校のグラウンドを見下ろすことができた。
まだ時間は午後四時過ぎ。部活動に励んでいる生徒たちの影が、グラウンドのあちこちで点々と動いている。
陸上部に所属している友達の顔を思い浮かべながら、あそこに見えるうちの何人かは自分のクラスメイトなんだろうな……と、少しだけ胸を撫で下ろす雪実。
少なくとも、部活動に参加している友人はまちがいなく教室にはいない。
今の彼女にとって、教室内に残っている生徒が確実に減っている……という証がそのまま、安堵の理由になっている。
橋板を小走りで渡り切ると、反対側の階段も急ぎ足で下りながら、一時間前――五限のホームルームのことを思い出していた――。
「それでは投票の結果、三年三組の文化祭の出し物はシンデレラのアレンジ演劇に決まりましたぁ」
学級委員の男子生徒が黒板に引かれた正の字をみながら述べると、パチ、パチと、まばらな拍手が教室内に響く。
「それでは続いて、脚本係りについて決めたいと思います。まず――」
立候補ありませんかぁ?……という学級委員の声をぼんやりと聞きながら、〝シンデレラ〟と書かれた黒板を眺める雪実。
アレンジ演劇――いわゆる、童話や古典をアレンジして演じるという出し物だ。
シンデレラは言わずと知れた、誰もが知っている超メジャーなグリム童話だ。しかし、演技力も底辺以下の中学生が演じたところでお寒い出し物になるだけだろう。
(原作だと、シンデレラの姉たちは最後に目玉をくり抜かれるのよね……)
と、原作童話についてまとめた本の内容を思い出すが、中学生の演劇でさすがにそんな残酷描写を取り入れるわけにもいかない。
原作の舞台となる十九世紀中ごろのフランス風王宮という設定では、衣装の問題もでてくるだろう。
(やっぱり、学園物にアレンジするのが一番無難かなぁ……)
ぼんやりそんなことを考えていると、不意に自分の名を呼ぶ学級委員の声に驚き、びくんと肩を弾ませる雪実。
(な……なに!?)
気が付くと、黒板にはクラスメイトの男子と女子一人ずつの名前。……と一緒に、雪実の名前が書き出されていた。
「では、脚本係は中村俊くん、林美和子さん、手嶋雪実さんの三人でいいですか?」
パチ、パチ、パチ……と、再び教室内に響く、まばらな拍手。
妄想の旅に出ている最中に、いつのまにか誰かの推薦を受けていたらしいと気付く。
(ええ? ……私が、脚本!? なんで!?)
(ええ? ……私が、脚本!? なんで!?)
これまで、クラスではまったく目立たない存在だった雪実。
中学三年生の、このクラスだけの話ではない。一、二年でもずっとそうだった。
もちろん、こういった催し物で重要な役割を担った経験も皆無。
成績も優秀ではあったが、それでも学年で十~二十位辺りが定位置。特別に注目を浴びるような順位でもない。
ちょっと頭の良い地味な子――。
雪実について最も詳しく知っているクラスメイトでさえ、彼女の印象を問われればその程度しか答えられないだろう。
今日まで、目立たず、教室内では空気のような存在として過ごしてきたのだ。
ただ、雪実本人も、とくにそれを居心地が悪いと感じたことはなかった。
もともと人付き合いが苦手で、可能な限り他人と関わらず存在感を消すように努めてきたのもまた、雪実自身なのだから……。
(どういう経緯で、脚本係なんて大役が私に?)
その疑問は、ホームルーム後、同じ脚本係に選らばれていた中村俊の言葉で解消された。
「いやぁ……悪いねぇ、手嶋さん!」
帰り支度を整えたあと、右手を軽く上げながら雪実の方へ近づいてくる俊。その後ろに付き従うように、林美和子の姿も見える。
「悪い? ……な、なにが?」
「いや、俺が他薦なんてしたから手嶋さんも面倒なことになっちゃって……って、もしかして手嶋さん、実はやりたかった感じ!?」
ブンブン、と雪実が慌てて首を左右に振る。
(そうか……中村くんの推薦のせいでこんなことになってるのか。でも――)
「なんで?」
「ほら……俺たちって、ちょっと成績がいまいちじゃん?」
そう言って、自分と美和子を交互に指差す俊。
二人がカップルであることはクラス公認の事実だ。ちょっとお調子者の俊に、おっとり天燃系の美和子。
だいぶ性格は違うが、二人ともあまり成績が良くないということは雪実もなんとなく知っていた。
特に俊に関しては、テスト返却のたびに「また赤点だぁ~」と、おどけるように吹聴している姿を何度も目にしていた。
雪実たちが通っているN第一中学校は、公立ながら中高一貫システムを導入しており、そのぶん受験の倍率も偏差値も高めだ。
高校進学に当たっては、さらに上のランクを目指して外部受験を選択する生徒もいるが、基本的にはそのままN第一高校へ内部進学する生徒が圧倒的に多い。
俊と美和子も内部コースのはずで、基本的には受験の心配もないはずだ。
ただし、成績が進学基準をあまりにも大きく下回るという理由で、内部進学すら諦めざるを得ない生徒も毎年何人かはいる。
そして恐らく、俊はそうした心配をする必要がありそうなレベルだと思われた。
「う……う―ん……そうなの?」と、曖昧に答える雪実。成績の悪さに同意を求められて、素直に肯定することも憚られる。
「そうなんだよ……。去年くらいから、このままの成績では進学に問題がある、なんて担任に脅されててさあ」
それ多分、脅しじゃないと思うなぁ……と、俊の左腕をつねるような仕草を見せる美和子。
「そ、そうなんだ……。大変だね……」
「でさ! 内申点だけでも稼いでおこうと思って、とりあえず脚本係に立候補したんだけど……」
(なるほど。……でも、内部進学で内申点の上積みなんて意味あるのかしら)
「たださ、俺たち、脚本なんて書いたことないじゃん?」
「じゃん、って言われても……私だってそんなの――」
そう言いかけた雪実の言葉に被せるように、なおも俊が言葉を繋げる。
「でもほら、手嶋さんって、そういうの得意っしょ?」
俊に問われて、雪実の心臓がドキリと音を立てる。
(まさか……趣味で小説を書いてること、バレてる!? いや、でも……)
小説投稿サイトへの登録は、当然本名ではない。〝スノーベリー〟というペンネームからすぐに雪実を連想することも、まずあり得ないだろう。
「ほら……なんか、休み時間によく本を読んだりしてるじゃん?」
「よ、読むのと書くのでは、全然……」
そう答えながら、しかし、俊の言葉に雪実もホッと安堵の溜息をつく。
小説執筆のことは、まだ親にも話してない秘密の趣味だし、もちろん、学校でも人に話したことはない。
「まあ、とにかくさ、脚本なんて言ったって俺らじゃ雲を掴むような話だし……ほら、なんつぅんだっけ……。物語の大雑把な、あらすじみたいなやつ……」
「……プロット?」
「そう、それそれ! そんな感じのやつ、とりあえず手嶋さんの方で作ってくんないかなぁ? そういう原案があれば、俺らもいろいろ意見出せると思うし」
とりあえず脚本がなければ他の係も配役も決められない。一週間後のホームルームまでにそれを仕上げる、というのが脚本係に課せられた当面の仕事らしい。
学園物にアレンジしたシンデレラかぁ……と、ホームルーム中に考えていた妄想に思いを巡らせかけたとき、続く俊の言葉に再び冷水を浴びせかけられる。
「昼休みとかよく、ノートに何か書いてるでしょ、手嶋さん?」
(バレてた!)
今まで、自分は空気のような存在だと思いこんでいた雪実だったが、そんな彼女のことを見ていた人物もいたことに愕然とした。
自分の存在感の薄さに安心して、ついつい油断していた場面があったのではないかと急に不安になってくる。
「本読みながらのこともあるみたいだし……内容とかメモしてんの? よく分かんないけど、そういうことしてるくらいなら書く方だって結構得意なんじゃない?」
一瞬、跳ね上がった雪実の心拍数が、ゆっくりと元に戻ってゆく。
メモの内容まではバレていないと分かったからだ。しかし――。
(もしあのメモ帳のことがバレたら……もうこの教室にはいられない!)
「わ、わかった……。とりあえず、明日までに、書いてくる」
そう言って、自分のスクールバッグを肩にかけると、慌てて席を立つ雪実。とにかく今は、早く一人になって落ち着きたかった。
「そっかぁ―! いやほんと、助かるよ!」
「じゃあ、私は、これで……」
「ああ、そうそう、脚本用のノートとか、買うっしょ? 書いてもらうだけじゃ悪いしノート代くらいは俺らが出すよ」
そう言って俊が、雪実の後ろからスクールバッグのショルダーベルトを掴む。
「離して!!」
ほとんど無意識だった。
雪実自身も驚くほどの勢いで、俊の手を振りほどこうと顧みる。
「うわっ!」
予想もしていなかった激しい反応に、雪実の鞄を掴んだままバランスを崩す俊。
「しゅ、俊くん!」
差し伸べられた美和子の手を、俊も咄嗟に掴んでなんとか転倒は免れたが、その代わり、自分と雪実の鞄を足元に放り投げてしまっていた。
「ご……ごめんなさい!」と、慌てて頭を下げる雪実。
「い、いや……こっちこそ、急に掴んだりして……ご、ごめん……」
俊が呆気にとられたような表情で雪実のバッグを拾い、差し出す。
「の、ノートとか……いっぱい余ってるから……大丈夫だから!」
そう言いながら、ひったくるように俊の手から鞄を受け取ると、雪実は急いで教室をあとにした。
◇
「うふぁ――……ん」
雪実の話を聞きながら、花音が間抜けな声を上げる。
「な……なによ、その声?」
「なんかさ……咲々芽もだいたい予想つくでしょ? このあとの展開……」
「そ、そう?」
「ベタすぎだよ。見られちゃいけないメモ、床に落とした二人の鞄、そのあと訪れるクラスメイトとの不和……ここまで伏線張られたらねぇ」
「いやこれ、手嶋さんの中学時代の話だからね? 小説じゃあるまいし、伏線張りながら話してるわけじゃないでしょ!?」
このあとの展開、かあ……。
確かに、なんとなく予想はできるけど、ここまで聞いて、もういいというわけにもいかないよね。
なにげに手嶋さんも、すっかり打ち明けモードに入ってる様子だし。
私たち四人は、再び黙って、手嶋さんの次の言葉を待った。
雪実がそれに気が付いたのは、学校を出て十五分ほど歩いた……すでに自宅まであと数分という場所まで来たときだった。
コンビニエンスストアに寄るため、財布を取り出そうとファスナーの引き手を摘んだときにようやく、違和感に気付いてハッと鞄を見直す。
自分のものより明らかに年季が入っているし、淵汚れも目立つ。
なにより、プラーに吊り下げてあった雪実のネームプレートも見当たらない。
鞄を回転させて反対側を見ると、黒い油性マジックで〝SYUN NAKAMURA〟と書かれていた。
一瞬、軽い眩暈を覚えるも、すぐに状況を把握して踵を返す。
(中村くんが落としたとき、私の鞄と入れ替わっちゃったんだ!)
学校指定のスクールバッグなのでデザインは一緒だ。しかし、冷静になってみれば、重さも、脇に当たる感覚も微妙に違う。
普段であれば、肩に掛ければすぐに違和感を感じたはずだ。
ここに来るまでそれに気が付かなかったのは、例のメモ帳の事を指摘され、自分で思っていた以上に動揺していたということだろう。
学校まで五分ほどで駆け戻り、息を整える間もなく中等部の生徒用玄関へ。
靴を脱ぐと、一旦しゃがむのもものどかしいといった様子で、上履きの踵を踏んだままスノコから玄関廊下へ駆け上がる。
五限の授業が終わってすでに三十分以上が経っている。
アリーナから聞こえてくる、バスケ部やバレー部員たちの甲高い掛け声が人気のないウレタンの廊下に響く。
小走りで階段を駆け上る雪実の後を、パタパタと乾いた足音だけが追いかけてきた。汗ばんだ顔から、眼鏡が何度もずり落ちそうになる。
(中村くん……もう……帰っちゃったかな……)
中村俊の自宅は別方向だが、林美和子は途中まで雪実と同方向だ。
二人が一緒に帰る姿を雪実も何度か見かけていたし、放課後はいつも、俊が美和子を自宅まで送っているのだろうと思われた。
雪実が学校に戻るまでの間、俊も、美和子の姿も見なかった。となれば――
(まだ、二人とも学校にいる可能性が高い!)
そう自分に言い聞かせながら二階を過ぎ、さらに三階へ続く階段を駆け上る雪実。
中学生の雪実にとって、自作小説の題材にできそうな実体験などたかが知れている。自宅、塾、学校――行動範囲は限定的だ。
しかし、考え方を変えれば現役中学生だからこそ書ける内容もきっとあるはず。
そう考えて、キャラ作りのために教室の隅から人間観察をすることが、雪実の密かな日課となっていた。
ある生徒の外見、性格はもちろん、口調、交友関係、部活や家庭環境、そして雪実が抱いている印象まで、知り得る情報はすべて専用のメモ帳に記していた。
執筆用の資料なので、多少の脚色や追加設定が入ることもある。
もちろん、万が一に備えて実名は書いていない。しかし……。
中には本名を多少捩っただけで済ませていたり、情報が特有過ぎて、見る人が見れば誰のことを書いているのか分かってしまいそうな内容もあった。
書きこむのは大抵昼休み。
給食のあと、屋上のベンチで、知り合いをモチーフにしたキャラ作りや小説のプロットを考えるのが雪実の密かな楽しみだった。
こんなメモが見られたら大変なことになるな……と、漠然とした懸念を抱きながらも、存在感の薄さを過信して油断していた自分を省みる雪実。
(メモなんてスマホにでも付けて、まとめるのは家に戻ってからでもよかったのに)
あんな爆弾を毎日持ち歩いていた自分の迂闊さを悔やみながら、ようやく、三階にある三年三組の教室の前に辿り着く。
直後、閉じられた引き戸の向こうから聞こえてくる生徒の笑い声。
この声は――
(中村くん!? よかった……まだ残ってったんだ……)
雪実の、乱れた呼吸の中に安堵の吐息が混じる。
何人か、他のクラスメイトと集まって談笑をしている気配は窺えるが、とくに険悪な雰囲気というのは感じられない。
(この様子ならまだ、鞄が間違っていることにも気付いていないかも……)
一刻も早く自分の鞄を取り戻したい一心で、ボサボサに乱れた髪を直すことも忘れて教室のドアを開けた。
すぐに、教室の一角で集まっている五~六人の生徒の一団に目が留まる。
彼らの中心、一番前の窓側の席に林美和子が腰かけ、隣の席に座っている中村俊の手元を覗き込むように身を乗り出している。
教室のドアを開けた直後、俊と美和子、そして、その周りに集まっていた数人の生徒の視線が、一斉に雪実へと集まった。
小説などでたまに、〝目の前がグニャリと歪む〟というような表現を目にすることがある。ショックな出来事に遭遇したときの、大袈裟な心情描写だ。
しかし、そのときまさに、雪実自身がそれを体験することで、決して大袈裟な表現などではなかったのだと悟る。
こちらを向いた俊が手元で開いていたのは、紛れもなく、雪実の件のメモ帳だった。
◇
「うふぁ――……ん」
再び花音が、意味不明な声を漏らす。
「な、なによさっきから?」
「ついに伏線が、回収されますた……」
「だから、伏線じゃないってば」
「あたし、なんていうか……こういう〝泥沼系〟っていうの? ズルズル裏目って酷い目に合いそうな感じのする話、苦手なのよぉ~」
両耳を塞ぐように、手で頭の横を押さえながら首を左右に振る花音。
「たぶん矢野森さんは、一見無神経そうに見えて、実は優しい性格なんだよねぇ」
そんな環さんの言葉に、花音が待ってましたと言わんばかりに拍手を打って、私を指差す。
「今の聞いた、咲々芽!? 環さん、大事なこと言った!」
「他人を指差すな」
「あまねくんも……聞いてた!?」
興味なさそうに、一瞬だけ花音に目を向けたあと、すぐに書棚に視線を戻す周くん。
調整は終わったのか、すでにノートパソコンは閉じて小脇に抱えている。
「ったく、みんなしょうがないないなぁ。環さん、もう一回説明してもらえます?」
「ん? ああ……えっと、矢野森さんは無神経に見えるな、って……」
「い……いや、すいません、そっちじゃなくて……」
「そのメモって、そこまでマズいことが書かれてたの?」
脱線しそうな花音を無視して、手嶋さんに質問する。
小さく頷いた手嶋さんが、書棚の裏に回り、机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、A5サイズ程の黒い表紙ノート。
「これがその……メモ帳です」