頭の上から、何か冷たい液体がドロリと滴り落ちてきた。
ねっとりと、貼りつくように、頬や指の間を伝って流れ落ちる不気味な感触。
――な……なに、これ? なにをかけられたの!? 気色わるっ!
混乱しているところへ、今度はパシャッ、というカメラのシャッター音と、目の前を照らすフラッシュの閃光。
顔面を覆った指の隙間から覗いてみると、私の方へスマートフォンのカメラを向けて立っている男の姿が目に留まる。
パシャッ、パシャッ、パシャッ! と、なおも連続して鳴り響くシャッター音。
――なに!? 写真を撮られてる!? なんなの一体!!
「いやぁぁぁ――――っ!!」
軽いパニックに陥り、思わずその場にしゃがみこんだ。
ししっ、と、歯間から息を漏らしたような短い笑い声が聞こえ、続けて、公園の入り口へ向かって走り去る男の足音。
直後。
「咲々芽ぇ――っ!!」
背後で、私の名を呼ぶ聞き慣れた声がした。
反射的に振り向いた視線の先には、公園の入り口付近で仁王立ちになっている周くんの姿が。
「あまね……ぐん……」
緊張の糸が途切れ、両目にじわりと熱いものがこみ上げてくる。
コート男が、目の前に立つ周くんの横をすり抜けて逃げようとしたその刹那――。
左手で素早く男の襟首を、右手で男の左袖を掴むやいなや、周くんが左足で男の下半身を跳ね上げた。
柔道初段、周くんの流れるような大外刈り!
一瞬で半回転したコートの男が真っ逆さまに地面へ落下っ!
……と思ったんだけど、地面に落ちる瞬間、周くんが男の襟首をクイッ、と持ち上げる。
変質者とはいえ、相手は恐らく素人だし、受け身など取れないだろう。
あのまま落とせば後頭部を強打して重症を負わせかねない……と判断した周くんの咄嗟のフォローに違いない。
結果、腰から落ちたコート男が「うぐやぁっ」と、聞いたことのないような呻き声を上げて、地面の上で身をよじる。
「大丈夫か! 咲々芽――っ!」
うつ伏せになったコート男の腕を締め上げながら、私の方へ視線を戻す周くん。
かけられた液体がなんなのかはまだよく分からないけれど、冷静になってみれば紙パックの中に入れて持ち歩けるような代物だ。
とくに痛みもないし、健康被害を受けるようなものではなさそうだ。
大丈夫……と答えようとしたけれど、舌が震えて上手く声が出ない。
必死に頷く私を横目に見ながら、周くんがポケットから取り出したスマートフォンの画面をタップして、
「……ああ、はい。高浜四丁目のセブンマート前の公園で……はい、そうです。……変質者を暴行の現行犯で取り押さえたので……はい。怪我は多分、大丈夫です……」
警察に状況を報告する。
そんな周くんの周りに、通行人が物珍しそうに集まり始める様子を、私は少しの間ぼんやりと眺めていた。
◇
「液体は……いわゆる、ローションでしたねぇ……」
あのあと、駆けつけた刑事や警察官と共に簡単に現場検証を終えてから、周くんと二人、警察署の相談室という部屋に通された。
警察署といえば、スチール製の机にパイプ椅子、机上には電気スタンドみたいなイメージがあったんだけど、通された部屋にあったのは立派な応接セット。
高級家具……というほどではないだろうけど、飛鳥井事務所のものより数段上等なのは間違いない。
借りたタオルで髪の毛や制服を拭きながら十分ほど経ったあと、部屋に入ってきた年配の刑事から告げられた液体の正体が、それだった。
――ローションか、やっぱり。
現場検証の時点ですでに、ペシャンコになった私の髪を拭いてくれた女性警官も同じことを呟いていたので予想はできていた。
「ローション? というと……ベビーローション、みたいな?」周くんが聞き返す。
「まあ、分析してみないと種類までは分かりませんが……おそらく、ラブローションみたいなやつでしょうな」
「ラブローション……」
周くんの大人びた風体のせいで、刑事も彼が未成年だということを失念していたのかも知れない。
確か、公園で見せてもらった警察手帳には槇田って書いてあったかな?
不思議そうに首を傾げる周くんを見て、槇田刑事が慌てて言葉を繋ぐ。
「ああ、まあ、ローションはローションですからね。似たようなもんですわ。どっちにしろ身体に害のあるようなものではないですから、その点は安心して下さい」
ラブローションといえば、いわゆる、男女がホテルなんかでイチャコラする際に使うサポートグッズだ。
今時は、有名なものなら普通の薬局でも取り扱っている……らしい。
私も知識として知っているだけで実際に使ったことはないけれど(そもそも恋人ができたこともない)、周くんにはまったくピンときていないようだ。
中三くらいなら知っていてもおかしくはないとは思うけど……。
あまねくんも見た目と違って、中身はかなりウブだからなぁ。
「なんであの犯人は、咲々芽にそんなものを?」
「やつのスマホの画像を調べてみたら、同じような画像……つまり、制服姿の女生徒にローションをかけた写真ですな。そんなのがいっぱい保存されてまして……」
「はあ……。だから、なんで、そんなことを?」
「なんでといわれても……そういう性癖だとしか……」
槇田刑事が口ごもる。未成年相手に言葉を選んでいるのだろう。
私も聞いたことはある。いわゆる〝濡れフェチ〟ってやつだ。
そんなものを見て何が楽しいのかは分からないけど、女性の濡れた髪や衣服を見て興奮する男性というのが世の中には存在するらしい。
鞄からスマートフォンを取り出して〝濡れフェチ〟と検索してみると、何枚も表示されるそれらしき画像。
さらに槇田刑事に食い下がろうとしている周くんの横腹を指でつついて、「ほら、こういうやつ」と、出てきた画像を見せる。
スマホの画面を覗きこむと同時に、周くんの切れ長の目がわずかに大きくなり、少しだけ頬が赤らんだ。
――ほんとこういうの、耐性がないんだなぁ。
ねっとりと、貼りつくように、頬や指の間を伝って流れ落ちる不気味な感触。
――な……なに、これ? なにをかけられたの!? 気色わるっ!
混乱しているところへ、今度はパシャッ、というカメラのシャッター音と、目の前を照らすフラッシュの閃光。
顔面を覆った指の隙間から覗いてみると、私の方へスマートフォンのカメラを向けて立っている男の姿が目に留まる。
パシャッ、パシャッ、パシャッ! と、なおも連続して鳴り響くシャッター音。
――なに!? 写真を撮られてる!? なんなの一体!!
「いやぁぁぁ――――っ!!」
軽いパニックに陥り、思わずその場にしゃがみこんだ。
ししっ、と、歯間から息を漏らしたような短い笑い声が聞こえ、続けて、公園の入り口へ向かって走り去る男の足音。
直後。
「咲々芽ぇ――っ!!」
背後で、私の名を呼ぶ聞き慣れた声がした。
反射的に振り向いた視線の先には、公園の入り口付近で仁王立ちになっている周くんの姿が。
「あまね……ぐん……」
緊張の糸が途切れ、両目にじわりと熱いものがこみ上げてくる。
コート男が、目の前に立つ周くんの横をすり抜けて逃げようとしたその刹那――。
左手で素早く男の襟首を、右手で男の左袖を掴むやいなや、周くんが左足で男の下半身を跳ね上げた。
柔道初段、周くんの流れるような大外刈り!
一瞬で半回転したコートの男が真っ逆さまに地面へ落下っ!
……と思ったんだけど、地面に落ちる瞬間、周くんが男の襟首をクイッ、と持ち上げる。
変質者とはいえ、相手は恐らく素人だし、受け身など取れないだろう。
あのまま落とせば後頭部を強打して重症を負わせかねない……と判断した周くんの咄嗟のフォローに違いない。
結果、腰から落ちたコート男が「うぐやぁっ」と、聞いたことのないような呻き声を上げて、地面の上で身をよじる。
「大丈夫か! 咲々芽――っ!」
うつ伏せになったコート男の腕を締め上げながら、私の方へ視線を戻す周くん。
かけられた液体がなんなのかはまだよく分からないけれど、冷静になってみれば紙パックの中に入れて持ち歩けるような代物だ。
とくに痛みもないし、健康被害を受けるようなものではなさそうだ。
大丈夫……と答えようとしたけれど、舌が震えて上手く声が出ない。
必死に頷く私を横目に見ながら、周くんがポケットから取り出したスマートフォンの画面をタップして、
「……ああ、はい。高浜四丁目のセブンマート前の公園で……はい、そうです。……変質者を暴行の現行犯で取り押さえたので……はい。怪我は多分、大丈夫です……」
警察に状況を報告する。
そんな周くんの周りに、通行人が物珍しそうに集まり始める様子を、私は少しの間ぼんやりと眺めていた。
◇
「液体は……いわゆる、ローションでしたねぇ……」
あのあと、駆けつけた刑事や警察官と共に簡単に現場検証を終えてから、周くんと二人、警察署の相談室という部屋に通された。
警察署といえば、スチール製の机にパイプ椅子、机上には電気スタンドみたいなイメージがあったんだけど、通された部屋にあったのは立派な応接セット。
高級家具……というほどではないだろうけど、飛鳥井事務所のものより数段上等なのは間違いない。
借りたタオルで髪の毛や制服を拭きながら十分ほど経ったあと、部屋に入ってきた年配の刑事から告げられた液体の正体が、それだった。
――ローションか、やっぱり。
現場検証の時点ですでに、ペシャンコになった私の髪を拭いてくれた女性警官も同じことを呟いていたので予想はできていた。
「ローション? というと……ベビーローション、みたいな?」周くんが聞き返す。
「まあ、分析してみないと種類までは分かりませんが……おそらく、ラブローションみたいなやつでしょうな」
「ラブローション……」
周くんの大人びた風体のせいで、刑事も彼が未成年だということを失念していたのかも知れない。
確か、公園で見せてもらった警察手帳には槇田って書いてあったかな?
不思議そうに首を傾げる周くんを見て、槇田刑事が慌てて言葉を繋ぐ。
「ああ、まあ、ローションはローションですからね。似たようなもんですわ。どっちにしろ身体に害のあるようなものではないですから、その点は安心して下さい」
ラブローションといえば、いわゆる、男女がホテルなんかでイチャコラする際に使うサポートグッズだ。
今時は、有名なものなら普通の薬局でも取り扱っている……らしい。
私も知識として知っているだけで実際に使ったことはないけれど(そもそも恋人ができたこともない)、周くんにはまったくピンときていないようだ。
中三くらいなら知っていてもおかしくはないとは思うけど……。
あまねくんも見た目と違って、中身はかなりウブだからなぁ。
「なんであの犯人は、咲々芽にそんなものを?」
「やつのスマホの画像を調べてみたら、同じような画像……つまり、制服姿の女生徒にローションをかけた写真ですな。そんなのがいっぱい保存されてまして……」
「はあ……。だから、なんで、そんなことを?」
「なんでといわれても……そういう性癖だとしか……」
槇田刑事が口ごもる。未成年相手に言葉を選んでいるのだろう。
私も聞いたことはある。いわゆる〝濡れフェチ〟ってやつだ。
そんなものを見て何が楽しいのかは分からないけど、女性の濡れた髪や衣服を見て興奮する男性というのが世の中には存在するらしい。
鞄からスマートフォンを取り出して〝濡れフェチ〟と検索してみると、何枚も表示されるそれらしき画像。
さらに槇田刑事に食い下がろうとしている周くんの横腹を指でつついて、「ほら、こういうやつ」と、出てきた画像を見せる。
スマホの画面を覗きこむと同時に、周くんの切れ長の目がわずかに大きくなり、少しだけ頬が赤らんだ。
――ほんとこういうの、耐性がないんだなぁ。