神の花嫁にも、初夜というものは存在するらしい。
神前式が終わった後、簡単に夕食を済ませた私は、面布衆に全身を清められて、朧の寝室に通された。ふわふわの布団の上に座ると、なんだか落ち着かなくて、辺りを見回す。
すでに太陽は沈み、空には大きな月が昇っている。障子越しに冷たい月明かりが差し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせていた。
格子窓から外を覗くと、面布衆が明かりを持って見回っているのが見えた。今、部屋から逃げ出したとしても、すぐに捕まってしまうかも知れない。
――どうしよう。今日は初夜だ。化け物と朝までふたりきり。あんなのと一緒にいたら、なにをされるか……。
夜着の袂を手でギュッと握りしめて、どうすれば逃げられるか考える。しかし、どうにも、いいアイディアが浮かばなくて焦りばかりが募る。
するとその時、障子戸の向こうを大きな影が横切った。それは、巨大な化け物の影だ。恐ろしいほどの巨躯を持つそれは、ギシギシと床板をきしませながら、ゆっくりと廊下を歩いている。
「……ひっ」
手を口で塞ぎ、悲鳴を飲み込む。すると、小さく漏れた悲鳴が聞こえてしまったのか、影が一瞬立ち止まった。しかし、それはすぐに歩みを再開すると、部屋の前まで来て止まった。
「……待たせたな」
室内に入ってきたのは、人形に変化した朧だった。あの化け物姿でないことに安堵して、ホッと息を漏らす。朧は、私から少し離れた場所に座ると、なにも語らずこちらをただじっと見ている。
――私を、食べないのだろうか。
朧の態度を不思議に思って、いつでも逃げられるように体勢を整えながら様子を窺う。しかし、朧は無言で座っているだけで、なにもしてこない。
「……あの」
重苦しい沈黙に耐えきれず、思わず声を上げる。すると、朧は僅かに首を傾げた。
「わ、私を食べないんですか……?」
震える声で尋ねると、朧は一瞬目を見開き、また小さく首を傾げた。
「なぜ、花嫁を食わねばならない?」
「だって、食べるために嫁にしたのでしょう……?」
「何故そう思う。お前は、家に受け入れるために娶ったのだ。食うためではない」
思わぬ正論を吐かれて、言葉に詰まる。
勝手に食べられるのだと思っていたけれど、それは杞憂だったようだ。とりあえずの危機(?)を脱して、安堵のため息を漏らした。
けれど、そうなるとまた、別の疑問がムクムクと頭をもたげてきた。
――どうして私みたいな、絶世の美女でもない、普通の女を嫁にしたのだろう。
少し警戒が解けてきた私は、続けて朧に尋ねた。
「なら、どうして私を選んだのか理由を聞かせてください。私は、神に見初められるような女ではありません」
すると、朧はすぐには答えようとはせずに、色違いの瞳を薄っすらと細めて私を見つめた。ドキリとして、思わず身構える。その瞳は、まるで「忘れたのか?」と問いかけているようだったからだ。
すると、ふいに朧が視線を外した。そして、彼は言った。
「……お前を気に入った。ただ、それだけだ」
「そ、そんなの。答えになってな――」
思わず食い下がろうとすると、朧はおもむろに立ち上がり、障子戸に向かい始めた。そして、戸に手をかけると「出かけてくる」と、出ていってしまった。
「ちょっ……待って‼」
焦った私は、朧の後を追いかけた。頭の中では、今までにないくらいに思考がフル回転していた。とんだ化け物と婚姻する羽目になったと思ったけれど、どうもこの感じだと違うようだ。
ならば、話し合えば私を帰してくれるかも知れない……‼
夜着の裾が足に絡み、転びそうになりながらも、ようやく障子戸に手をかける。そして、思い切り外へと身を乗り出して、辺りを見回した。
「……っ‼」
すると――視界に、なにか大きなものが入り込んできた。
見たこともないほど大きな月を背景に、それはそこにじっと佇んでいた。
黒々とした体毛は、青白い光に照らされて白く輝いて見える。天を衝くかの如く巨大な角は、月光を反射して辺りに冷たい光を放っていた。
巨大な体を広い庭で窮屈そうに丸めて座り込み、四対の真紅の瞳を光らせて、長い尾をゆらゆらと揺らしている、それは……。
――朧、だ。
あれは、私を食べないと言ってくれた、夫であり神様だ。
恐らく、今すぐに私に害を与える類のものではない。獣とは違い、理性を持った存在。話し合えばわかるかもしれない――そう、理解していたつもりだったのに。
「あ……ああああ……」
腰が抜けてしまった私は、その場にへなへなと座り込んでしまった。
――その時、私を支配していたのは「恐怖」だ。
脳内では、けたたましく警報が鳴り響き、逃げろと私に呼びかけている。あれは危険だ、今すぐ逃げ出せ――私の本能が、そう告げている。
なぜかわからない。その必要はないと必死に自分に言い聞かせても、逃げなければという想いに駆られる。それは、絶対的捕食者に対峙した、被食者のようだった。
「……真宵」
すると、朧が口を開いた。そして頭を横に振って、多すぎる瞳を一斉に閉じると、ぽつりと言った。
「お前もまた、俺を恐怖するか」
すると、朧はゆっくりと立ち上がった。そして、ぐんと背を伸ばしたかと思うと、空を覆わんばかりに巨大な黒い翼を広げて言った。
「この度の婚姻は、神の気まぐれ。幼気な人間の娘を、このような恐ろしくおぞましい化け物の傍に置いておくのは、可哀想だ」
朧が翼を軽く動かす。すると、辺りには暴風が吹き荒れ、私は思わず目を瞑った。
「――一年だ。一年経ったら、俺から解放してやろう。季節が一巡する間、妻としてここにいろ。それ以上は望まない」
その瞬間、一層強く風が吹いた。息を吸えないほどの風に翻弄されて、体を縮こませる。そして、ようやく風が収まった頃――恐る恐る目を開けると、そこにはもう、黒い巨大な化け物の姿はなかった。
神前式が終わった後、簡単に夕食を済ませた私は、面布衆に全身を清められて、朧の寝室に通された。ふわふわの布団の上に座ると、なんだか落ち着かなくて、辺りを見回す。
すでに太陽は沈み、空には大きな月が昇っている。障子越しに冷たい月明かりが差し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせていた。
格子窓から外を覗くと、面布衆が明かりを持って見回っているのが見えた。今、部屋から逃げ出したとしても、すぐに捕まってしまうかも知れない。
――どうしよう。今日は初夜だ。化け物と朝までふたりきり。あんなのと一緒にいたら、なにをされるか……。
夜着の袂を手でギュッと握りしめて、どうすれば逃げられるか考える。しかし、どうにも、いいアイディアが浮かばなくて焦りばかりが募る。
するとその時、障子戸の向こうを大きな影が横切った。それは、巨大な化け物の影だ。恐ろしいほどの巨躯を持つそれは、ギシギシと床板をきしませながら、ゆっくりと廊下を歩いている。
「……ひっ」
手を口で塞ぎ、悲鳴を飲み込む。すると、小さく漏れた悲鳴が聞こえてしまったのか、影が一瞬立ち止まった。しかし、それはすぐに歩みを再開すると、部屋の前まで来て止まった。
「……待たせたな」
室内に入ってきたのは、人形に変化した朧だった。あの化け物姿でないことに安堵して、ホッと息を漏らす。朧は、私から少し離れた場所に座ると、なにも語らずこちらをただじっと見ている。
――私を、食べないのだろうか。
朧の態度を不思議に思って、いつでも逃げられるように体勢を整えながら様子を窺う。しかし、朧は無言で座っているだけで、なにもしてこない。
「……あの」
重苦しい沈黙に耐えきれず、思わず声を上げる。すると、朧は僅かに首を傾げた。
「わ、私を食べないんですか……?」
震える声で尋ねると、朧は一瞬目を見開き、また小さく首を傾げた。
「なぜ、花嫁を食わねばならない?」
「だって、食べるために嫁にしたのでしょう……?」
「何故そう思う。お前は、家に受け入れるために娶ったのだ。食うためではない」
思わぬ正論を吐かれて、言葉に詰まる。
勝手に食べられるのだと思っていたけれど、それは杞憂だったようだ。とりあえずの危機(?)を脱して、安堵のため息を漏らした。
けれど、そうなるとまた、別の疑問がムクムクと頭をもたげてきた。
――どうして私みたいな、絶世の美女でもない、普通の女を嫁にしたのだろう。
少し警戒が解けてきた私は、続けて朧に尋ねた。
「なら、どうして私を選んだのか理由を聞かせてください。私は、神に見初められるような女ではありません」
すると、朧はすぐには答えようとはせずに、色違いの瞳を薄っすらと細めて私を見つめた。ドキリとして、思わず身構える。その瞳は、まるで「忘れたのか?」と問いかけているようだったからだ。
すると、ふいに朧が視線を外した。そして、彼は言った。
「……お前を気に入った。ただ、それだけだ」
「そ、そんなの。答えになってな――」
思わず食い下がろうとすると、朧はおもむろに立ち上がり、障子戸に向かい始めた。そして、戸に手をかけると「出かけてくる」と、出ていってしまった。
「ちょっ……待って‼」
焦った私は、朧の後を追いかけた。頭の中では、今までにないくらいに思考がフル回転していた。とんだ化け物と婚姻する羽目になったと思ったけれど、どうもこの感じだと違うようだ。
ならば、話し合えば私を帰してくれるかも知れない……‼
夜着の裾が足に絡み、転びそうになりながらも、ようやく障子戸に手をかける。そして、思い切り外へと身を乗り出して、辺りを見回した。
「……っ‼」
すると――視界に、なにか大きなものが入り込んできた。
見たこともないほど大きな月を背景に、それはそこにじっと佇んでいた。
黒々とした体毛は、青白い光に照らされて白く輝いて見える。天を衝くかの如く巨大な角は、月光を反射して辺りに冷たい光を放っていた。
巨大な体を広い庭で窮屈そうに丸めて座り込み、四対の真紅の瞳を光らせて、長い尾をゆらゆらと揺らしている、それは……。
――朧、だ。
あれは、私を食べないと言ってくれた、夫であり神様だ。
恐らく、今すぐに私に害を与える類のものではない。獣とは違い、理性を持った存在。話し合えばわかるかもしれない――そう、理解していたつもりだったのに。
「あ……ああああ……」
腰が抜けてしまった私は、その場にへなへなと座り込んでしまった。
――その時、私を支配していたのは「恐怖」だ。
脳内では、けたたましく警報が鳴り響き、逃げろと私に呼びかけている。あれは危険だ、今すぐ逃げ出せ――私の本能が、そう告げている。
なぜかわからない。その必要はないと必死に自分に言い聞かせても、逃げなければという想いに駆られる。それは、絶対的捕食者に対峙した、被食者のようだった。
「……真宵」
すると、朧が口を開いた。そして頭を横に振って、多すぎる瞳を一斉に閉じると、ぽつりと言った。
「お前もまた、俺を恐怖するか」
すると、朧はゆっくりと立ち上がった。そして、ぐんと背を伸ばしたかと思うと、空を覆わんばかりに巨大な黒い翼を広げて言った。
「この度の婚姻は、神の気まぐれ。幼気な人間の娘を、このような恐ろしくおぞましい化け物の傍に置いておくのは、可哀想だ」
朧が翼を軽く動かす。すると、辺りには暴風が吹き荒れ、私は思わず目を瞑った。
「――一年だ。一年経ったら、俺から解放してやろう。季節が一巡する間、妻としてここにいろ。それ以上は望まない」
その瞬間、一層強く風が吹いた。息を吸えないほどの風に翻弄されて、体を縮こませる。そして、ようやく風が収まった頃――恐る恐る目を開けると、そこにはもう、黒い巨大な化け物の姿はなかった。