――秋の終わりの頃。朧は変調をきたした。
おやきを作ったあの日。一旦席を外して、凛太郎と櫻子を迎えに行った私は、ふたりと合流した途端、大きな揺れを感じた。
「ひえええっ!」
「真宵ちゃん、頭を低くして!」
「こっちです。中庭に!」
急いで屋敷から出ると、不思議と地面はちっとも揺れていなかった。けれども、屋敷は震え、瓦は落ち、柱にはヒビが入っている。どういうことなのかと唖然としていると、神使二人が青ざめたのがわかった。
「……朧様!」
悲鳴のような声を上げて、走り出した凛太郎の後を追う。嫌な予感がする。私は必死に駆けた。朧は台所にいるはずだ!
そして、ようやく到着した先――そこには、人形を失い、巨大な化け物姿となって、息も絶え絶えに横たわっている朧がいた。
「朧……⁉」
「お、朧様!」
慌てて揺さぶって見ても、その巨体はピクリともしない。頭が真っ白になって混乱する。ついさっきまで、おやきの味に感動して私を抱きしめていたのに、これは一体どういうことなのだろう。
その場所には、獣頭の神もいた。かの神に、どういうことなのかと問いただしたが、詳しいことは教えてくれなかった。けれども、ただ一言――こう言った。
「この現状を招いたのは朧自身であり、そして嫁殿、お前のせいでもある」
それだけ言い残し、獣頭の神はどこかへと去ってしまった。
意味がわからない。残された私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「朧様を、寝室に」
「そうだね」
そんな私を他所に、神使ふたりは冷静に朧を運ぶ算段を立て始め、面布衆を呼び集めた。この状況で、どうして落ち着いていられるのか理解できずに、ふたりに声をかけようとして――やめた。凛太郎も櫻子も、顔がとても強張っていて、どこか諦めが籠もっているように見えたからだ。
「朧様を、早く温かい部屋へ」
凛太郎が音頭を取り、朧の巨大な体を、難儀しながらも寝室に運び込む。しかし、先ほどの揺れで屋敷は随分と荒れてしまっていて、開くはずの扉が開かなかったり、崩れた屋根のせいで廊下が埋まっていたりと、かなりの時間を要した。ようやく寝室に朧を運び込んだ時には、みんな心から疲れ切っているように見えた。
――その時だ。
「奥方様」
集められた面布衆たちが、私に向かって一斉に頭を下げた。そして、その中のひとりが前に進み出ると言った。
「朧様の負担を軽減するため、必要最低限を残し、私どもは形代へと戻ります。奥方様にはご不便をおかけいたしますが、何卒ご容赦くださいませ」
「え?」
「屋敷も、縮小いたします。客間棟は消滅させ、母屋のみを残します。普段の生活には、然程問題はないでしょう」
「……待って。どういうこと⁉」
私が動揺していると、面布衆のその人は、いつもと変わらない優しい声で言った。
「すべては旦那様の思し召し。奥方様、またお会いできることを祈っております」
そして、全員で頭を下げると――ふっと、姿を消してしまった。
――はらり。そこに残されたのは、人の形に切り取られた白い紙。それが、いくつもいくつも宙に舞って、まるで雪のように畳に降り積もった。
「あ……」
私は息をするのも忘れて、その様子を見つめていた。大勢が一瞬にして姿を消すと、途端に周囲に満ちていた気配が薄くなり、言い知れない孤独感を感じて身を竦める。そしてあることに思い至ると、ハッとして勢いよく神使のふたりを見た。すると、凛太郎はやれやれと肩を竦めて言った。
「僕たちは消えませんよ。朧様に作られたものではありませんからね」
「そ、そっか……」
――ここに、ひとりで取り残されるのかと思った。
ホッと胸を撫で下ろしていると、凛太郎はジロリと私を睨みつけて言った。
「一体、どういうことなんですか。何故、嫁取りをしたはずの朧様の力が、これほどまで弱っているのです」
「わ、私に聞かれても」
凛太郎の、あまりの剣幕にたじろぐ。すると、凛太郎は苛立ちを隠そうともせず、チッと舌打ちをすると、私に向かって言った。
「人と神が交わる時、新しい力が生まれます。子を成せば、更にその存在は盤石のものになる。信者がいない朧様が、これからも生きるために必要なのが嫁取りです。今まで何度も進言していたというのに、朧様はなかなか嫁取りをしようとしなかった。けれども、やっとキミを迎え入れる決意をしてくださった。この世界に……自分に心を寄せてくれない人間に絶望していた朧様が、ようやく生きる道を選んでくれた。そう思っていたのに」
凛太郎の言葉を聞きながら、ふと視線を彼の手に止める。
その手は、硬く握り締められているせいで白くなってしまっていた。更には、指の間から、ポタポタと赤い雫が溢れ落ちているではないか。
「り、凛太郎。手……!」
思わず声を上げると、凛太郎は忌々しげに自身の手を見ると、自嘲気味に笑った。
「朧様の味わっている苦しみに比べたら、こんなもの」
そして、改めて私に厳しい視線を向けると、こう言い残して去って行った。
「朧様と夫婦の契りを交わすつもりがないのであれば、一刻も早くここを立ち去りなさい。キミからすれば恐ろしい化け物であっても、僕たちからすればかけがえのない、尊い方なのです。……これ以上、朧様の御心を乱すな。人間‼︎」
私は強く唇を噛みしめると、去って行く凛太郎の背中に叫ばずにはいられなかった。
「知らなかったの。私、そんなこと知らなかった‼」
すると、凛太郎はくるりとこちらに振り返ると――黒縁眼鏡の奥に、冷え切った眼差しを湛えて言った。
「ならばそれは、キミが朧様の本当の妻でなかった証拠ですよ」
そして再び、どこかへ去って行った。遠ざかる足音を聞きながら、へたりとその場に座り込む。すると、私の隣に櫻子がやってきた。櫻子は、私の隣にくっつくようにして座ると、膝を抱えこんで言った。
「凛太郎ちゃんね、化け神さまが本当に、本当に、好きで大切なんだよ。だから、ああいう言い方なんだ。ごめんね~」
そう口にした櫻子は、どこか寂しげな表情をしている。
「知ってる? 神使って、動物の中でもエリート中のエリートなんだよ。凛太郎ちゃんはね、神使を目指す狐たちの中でも、特に優秀だったの。その癖、他の人とは上手に付き合えないタイプでね〜。人と神を繋ぐのが、神使のお仕事でしょ? だから、そんな凛太郎ちゃんは神使失格だって、どこの神様にも拾って貰えなかった。でも、化け神さまは違った。凛太郎ちゃん自身を見てくれた」
櫻子は私に寄りかかると、ぽつりと言った。
「すごいよね〜。幼馴染のあたしにしかわからなかった、凛太郎ちゃんの本質を見抜いたの。しかも、自分の神使にって受け入れてくれた。それ以来、凛太郎ちゃんは化け神さまに夢中。後を着いて来た、あたしのことなんて眼中にないくらいにね〜」
私はじっと隣の櫻子を見つめると、ぽつりと零した。
「櫻子ちゃんは、凛太郎が好きなんだね」
すると、櫻子はパチパチと目を瞬くと、可愛らしい笑みを浮かべた。
「うん、そう〜。昔からずっと片想い。口も性格も悪いけど、大好き」
「それって褒めてる?」
「褒めてるよ〜。滅茶苦茶褒めてる」
すると突然、笑っていた櫻子が、私をじっと見つめて言った。
「真宵ちゃんも、化け神さまのこと好きでしょ」
「ブッ‼︎」
思わず噴き出して、慌てて朧の様子を窺う。その大きな体は、呼吸に合わせてゆっくりと上下を繰り返しているだけで、特に反応はなかった。聞かれていなかったことに安堵の息を漏らし、非難めいた視線を櫻子に送る。すると彼女は、タレ目がちな瞳を細めて、ニヤニヤ笑いながら言った。
「睨まれてもなあ。見てたら、バレバレだよ?」
「そ、そうなの?」
「そうだよ。視線とか仕草とかが、大好きーって言ってた。最近は常に」
「つ、常に……⁉」
あまりのことに、顔が熱くなって汗が噴き出してくる。朧を意識すると、心臓が早鐘を打ち始めるのを感じて、思わず眉を顰めた。
――ああ。やっぱり、そうなのか。
「……私、朧のこと好きなんだね」
「他人事みたいに言うね~?」
「だって、よくわからなかったから」
私は苦い笑みを零すと、両膝の間に顔を埋めた。
『自分は、朧をどう思っているのか?』
それは、ここ最近の私の悩みだった。
朧を見ると、嬉しくなる。朧が話しかけてくれると、心が浮き立つ。朧に美味しいと言って貰えるなら、いくらでも料理に手間暇をかけられる。家庭菜園で、上手に野菜が育ったら、朧に見せようと思う。朝起きると、一番に考えるのは朧のことだ。
こんなの、考えなくてもわかる。
今までは、わかっていないふりをしていただけ。
私は――化け物みたいな神様に恋をしている。
「人じゃないのに」
ぽつりと呟くと、櫻子がクスクスと笑った。
「そんなの、関係あるかな~? 好きになることって理屈じゃないと思う。凛太郎ちゃんよりも素敵な人をたくさん知ってるけど、私が誰よりも好きなのは、凛太郎ちゃんだもん」
「…………もう一回聞くけど、それって褒めてる?」
「褒めてる。凛太郎ちゃんは、あたしにとって最高の雄だよ」
「雄……」
「あたし、これでも狸だからね」
私たちはじっと見つめ合うと、小さく噴き出した。
そして、寝室で身じろぎひとつせずに眠っている朧を見つめながら言った。
「恋は理屈じゃないんだね」
「うん」
「そっか」
私は自分の手を見つめると、ギュッと強く握りしめた。そして、呼吸はしているものの、なんの反応も返さない朧を眺めて、ぽつりと零した。
「……朧、このままだとどうなっちゃうのかなあ」
「……」
「死んじゃうのかな。……私の、せいだよね」
それを口にした瞬間、唇が震えた。みるみるうちに視界が滲んでいって、溢れたものがぽつりぽつりと落ちていき、私を濡らしていく。
「私、好きな人にとんでもないことをしちゃった……」
「真宵ちゃん……」
「どうしよう。櫻子ちゃん」
慰めるように、櫻子が肩を抱いてくれた。
私は彼女に寄りかかると、ポツポツと話し始めた。
「初めは、ちゃんとやっていけるかなって、不安だった。借金を肩代わりして貰うんだから、ちゃんと奥さんしようって頑張ってきたつもりだよ。でも、私は肝心なことをしてこなかったんだ」
「肝心なこと?」
首を傾げた櫻子に私は頷くと、あの初夜のことを語り始めた。
「あの日、朧は私に言った。こんなおぞましい化け物の傍に置いておくのは可哀想だって。だから、一年経ったら帰してやろうって」
「一年……。朧様が、それを言ったんだね」
「うん」
あの時の私は、得体の知れない自分の夫が恐ろしくて、正常な思考なんてちっともできなかった。けれども、冷静になった後も、私はその言葉に甘え続けた。
彼の真意だって、一度尋ねてみただけで、知ろうとすることをやめてしまった。
優しくしてくれるみんなに甘えて、自分がここにいる理由を考えることをしなかった。たった一年間だけだからと、安心しきっていた。その後のことなんて、ちっとも考えてなかった。
「あっちに戻ったら、両親の店を再開しようって。そんなことばっかり考えてた。自分の足もとを見ないで、ふわふわと少し先の未来のことばかり考えてた」
――もっと早く、朧が嫁を必要とした理由を知っていれば、最悪の状況だけは避けられたかもしれないのに。私は、一体なにをしていたんだろう。
「『夫婦』って関係から、ずっと目を逸らしてきたの。せっかく、朧が手を差し伸べてくれていたのに」
「真宵ちゃんだけが悪いわけじゃないよ。化け神さんだってなにも言わなかったんでしょ。お互い様じゃない?」
「でも、きちんと考えるべきだった! 私たちは、期間限定だったとしても、ちゃんと夫婦だったんだから」
私は、櫻子にしがみつくと、震える声で言った。
「凛太郎の言うとおりだよ。私は……本当の意味での奥さんじゃなかったんだ。私がちゃんと向き合っていたら、朧は事情を話してくれていたかもしれない。自分の気持ちに早く気づいて、朧に伝えていたら……こんなことには、ならなかったかもしれないのに‼」
「自分ばっかり責めちゃ駄目」
「でも。でも……ッ! 好きな人を、こんな風にしたのは私なんだよ‼ 私が、もう少し上手く立ち回れていたら……」
――胸が痛い。
後悔ばかりが募り、喉の奥がひりつき、頭が混乱して……自分が、どうしようもなく愚かに思えて仕方がない。化け物なのに、誰よりも優しい朧。朧は、自分の命がすり減っていくのを感じながら、私のことをどう思っていたんだろう。
私は、胸の奥から溢れてくる気持ちを抑えることができずに、櫻子に吐露した。
「櫻子ちゃん、朧が好きなの。一年経てばいなくなるのに、優しくしてくれた朧が好き。いつだって、私のことを一番に考えてくれた朧が好き。人形じゃない時は、確かに恐ろしく感じる時もあるよ。でも、私を怖がらせないようにって、いつも気遣ってくれてた朧が好き。好きなんだ。好き……」
あの、温かい赤色を宿した瞳の色が恋しくて堪らない。
一見すると恐ろしく思える瞳の、底の部分にある温かさを感じたい。
朧に触れて欲しい。朧と話したい。朧に――……私の気持ちを伝えたい。
「私、どうすればいいの……⁉」
こんな状況になっても、なすべきことすらわからない自分を情けなく思いながら、櫻子に尋ねる。本来なら、他人任せにはしたくない。けれども朧の眷属である櫻子であれば、なにか方法を知っているのではないか、そう思ったのだ。
しかし、櫻子はゆっくりと首を振ると、「あたしにもわからない」と答えた。
「……そんな」
がっくりと項垂れる。そして、畳に視線を落とした。
すると、そんな私の顔を覗き込みながら櫻子が言った。
「――きっと、凛太郎ちゃんや、獣頭の神さまがなんとかしてくれる。それを信じて待とう。悩んだり、苦しかったりしたら、あたしがいくらでも話を聞くよ。だから、今は休もう? 真宵ちゃん、疲れてるみたい」
「うん……」
櫻子の申し出に、私はふらりと立ち上がると、滾々と眠り続ける朧に近寄って行った。そして、その体に抱きつくと、そのまま瞼を閉じた。
「……後で、ごはん持ってくるね。ここに、真宵ちゃんのお布団を敷くよ。その方がいいよね」
櫻子は静かな口調でそう言うと、部屋を出て行った。私は、襖が閉まる音を聞きながら、ひたすら後悔の涙を零していた。
おやきを作ったあの日。一旦席を外して、凛太郎と櫻子を迎えに行った私は、ふたりと合流した途端、大きな揺れを感じた。
「ひえええっ!」
「真宵ちゃん、頭を低くして!」
「こっちです。中庭に!」
急いで屋敷から出ると、不思議と地面はちっとも揺れていなかった。けれども、屋敷は震え、瓦は落ち、柱にはヒビが入っている。どういうことなのかと唖然としていると、神使二人が青ざめたのがわかった。
「……朧様!」
悲鳴のような声を上げて、走り出した凛太郎の後を追う。嫌な予感がする。私は必死に駆けた。朧は台所にいるはずだ!
そして、ようやく到着した先――そこには、人形を失い、巨大な化け物姿となって、息も絶え絶えに横たわっている朧がいた。
「朧……⁉」
「お、朧様!」
慌てて揺さぶって見ても、その巨体はピクリともしない。頭が真っ白になって混乱する。ついさっきまで、おやきの味に感動して私を抱きしめていたのに、これは一体どういうことなのだろう。
その場所には、獣頭の神もいた。かの神に、どういうことなのかと問いただしたが、詳しいことは教えてくれなかった。けれども、ただ一言――こう言った。
「この現状を招いたのは朧自身であり、そして嫁殿、お前のせいでもある」
それだけ言い残し、獣頭の神はどこかへと去ってしまった。
意味がわからない。残された私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「朧様を、寝室に」
「そうだね」
そんな私を他所に、神使ふたりは冷静に朧を運ぶ算段を立て始め、面布衆を呼び集めた。この状況で、どうして落ち着いていられるのか理解できずに、ふたりに声をかけようとして――やめた。凛太郎も櫻子も、顔がとても強張っていて、どこか諦めが籠もっているように見えたからだ。
「朧様を、早く温かい部屋へ」
凛太郎が音頭を取り、朧の巨大な体を、難儀しながらも寝室に運び込む。しかし、先ほどの揺れで屋敷は随分と荒れてしまっていて、開くはずの扉が開かなかったり、崩れた屋根のせいで廊下が埋まっていたりと、かなりの時間を要した。ようやく寝室に朧を運び込んだ時には、みんな心から疲れ切っているように見えた。
――その時だ。
「奥方様」
集められた面布衆たちが、私に向かって一斉に頭を下げた。そして、その中のひとりが前に進み出ると言った。
「朧様の負担を軽減するため、必要最低限を残し、私どもは形代へと戻ります。奥方様にはご不便をおかけいたしますが、何卒ご容赦くださいませ」
「え?」
「屋敷も、縮小いたします。客間棟は消滅させ、母屋のみを残します。普段の生活には、然程問題はないでしょう」
「……待って。どういうこと⁉」
私が動揺していると、面布衆のその人は、いつもと変わらない優しい声で言った。
「すべては旦那様の思し召し。奥方様、またお会いできることを祈っております」
そして、全員で頭を下げると――ふっと、姿を消してしまった。
――はらり。そこに残されたのは、人の形に切り取られた白い紙。それが、いくつもいくつも宙に舞って、まるで雪のように畳に降り積もった。
「あ……」
私は息をするのも忘れて、その様子を見つめていた。大勢が一瞬にして姿を消すと、途端に周囲に満ちていた気配が薄くなり、言い知れない孤独感を感じて身を竦める。そしてあることに思い至ると、ハッとして勢いよく神使のふたりを見た。すると、凛太郎はやれやれと肩を竦めて言った。
「僕たちは消えませんよ。朧様に作られたものではありませんからね」
「そ、そっか……」
――ここに、ひとりで取り残されるのかと思った。
ホッと胸を撫で下ろしていると、凛太郎はジロリと私を睨みつけて言った。
「一体、どういうことなんですか。何故、嫁取りをしたはずの朧様の力が、これほどまで弱っているのです」
「わ、私に聞かれても」
凛太郎の、あまりの剣幕にたじろぐ。すると、凛太郎は苛立ちを隠そうともせず、チッと舌打ちをすると、私に向かって言った。
「人と神が交わる時、新しい力が生まれます。子を成せば、更にその存在は盤石のものになる。信者がいない朧様が、これからも生きるために必要なのが嫁取りです。今まで何度も進言していたというのに、朧様はなかなか嫁取りをしようとしなかった。けれども、やっとキミを迎え入れる決意をしてくださった。この世界に……自分に心を寄せてくれない人間に絶望していた朧様が、ようやく生きる道を選んでくれた。そう思っていたのに」
凛太郎の言葉を聞きながら、ふと視線を彼の手に止める。
その手は、硬く握り締められているせいで白くなってしまっていた。更には、指の間から、ポタポタと赤い雫が溢れ落ちているではないか。
「り、凛太郎。手……!」
思わず声を上げると、凛太郎は忌々しげに自身の手を見ると、自嘲気味に笑った。
「朧様の味わっている苦しみに比べたら、こんなもの」
そして、改めて私に厳しい視線を向けると、こう言い残して去って行った。
「朧様と夫婦の契りを交わすつもりがないのであれば、一刻も早くここを立ち去りなさい。キミからすれば恐ろしい化け物であっても、僕たちからすればかけがえのない、尊い方なのです。……これ以上、朧様の御心を乱すな。人間‼︎」
私は強く唇を噛みしめると、去って行く凛太郎の背中に叫ばずにはいられなかった。
「知らなかったの。私、そんなこと知らなかった‼」
すると、凛太郎はくるりとこちらに振り返ると――黒縁眼鏡の奥に、冷え切った眼差しを湛えて言った。
「ならばそれは、キミが朧様の本当の妻でなかった証拠ですよ」
そして再び、どこかへ去って行った。遠ざかる足音を聞きながら、へたりとその場に座り込む。すると、私の隣に櫻子がやってきた。櫻子は、私の隣にくっつくようにして座ると、膝を抱えこんで言った。
「凛太郎ちゃんね、化け神さまが本当に、本当に、好きで大切なんだよ。だから、ああいう言い方なんだ。ごめんね~」
そう口にした櫻子は、どこか寂しげな表情をしている。
「知ってる? 神使って、動物の中でもエリート中のエリートなんだよ。凛太郎ちゃんはね、神使を目指す狐たちの中でも、特に優秀だったの。その癖、他の人とは上手に付き合えないタイプでね〜。人と神を繋ぐのが、神使のお仕事でしょ? だから、そんな凛太郎ちゃんは神使失格だって、どこの神様にも拾って貰えなかった。でも、化け神さまは違った。凛太郎ちゃん自身を見てくれた」
櫻子は私に寄りかかると、ぽつりと言った。
「すごいよね〜。幼馴染のあたしにしかわからなかった、凛太郎ちゃんの本質を見抜いたの。しかも、自分の神使にって受け入れてくれた。それ以来、凛太郎ちゃんは化け神さまに夢中。後を着いて来た、あたしのことなんて眼中にないくらいにね〜」
私はじっと隣の櫻子を見つめると、ぽつりと零した。
「櫻子ちゃんは、凛太郎が好きなんだね」
すると、櫻子はパチパチと目を瞬くと、可愛らしい笑みを浮かべた。
「うん、そう〜。昔からずっと片想い。口も性格も悪いけど、大好き」
「それって褒めてる?」
「褒めてるよ〜。滅茶苦茶褒めてる」
すると突然、笑っていた櫻子が、私をじっと見つめて言った。
「真宵ちゃんも、化け神さまのこと好きでしょ」
「ブッ‼︎」
思わず噴き出して、慌てて朧の様子を窺う。その大きな体は、呼吸に合わせてゆっくりと上下を繰り返しているだけで、特に反応はなかった。聞かれていなかったことに安堵の息を漏らし、非難めいた視線を櫻子に送る。すると彼女は、タレ目がちな瞳を細めて、ニヤニヤ笑いながら言った。
「睨まれてもなあ。見てたら、バレバレだよ?」
「そ、そうなの?」
「そうだよ。視線とか仕草とかが、大好きーって言ってた。最近は常に」
「つ、常に……⁉」
あまりのことに、顔が熱くなって汗が噴き出してくる。朧を意識すると、心臓が早鐘を打ち始めるのを感じて、思わず眉を顰めた。
――ああ。やっぱり、そうなのか。
「……私、朧のこと好きなんだね」
「他人事みたいに言うね~?」
「だって、よくわからなかったから」
私は苦い笑みを零すと、両膝の間に顔を埋めた。
『自分は、朧をどう思っているのか?』
それは、ここ最近の私の悩みだった。
朧を見ると、嬉しくなる。朧が話しかけてくれると、心が浮き立つ。朧に美味しいと言って貰えるなら、いくらでも料理に手間暇をかけられる。家庭菜園で、上手に野菜が育ったら、朧に見せようと思う。朝起きると、一番に考えるのは朧のことだ。
こんなの、考えなくてもわかる。
今までは、わかっていないふりをしていただけ。
私は――化け物みたいな神様に恋をしている。
「人じゃないのに」
ぽつりと呟くと、櫻子がクスクスと笑った。
「そんなの、関係あるかな~? 好きになることって理屈じゃないと思う。凛太郎ちゃんよりも素敵な人をたくさん知ってるけど、私が誰よりも好きなのは、凛太郎ちゃんだもん」
「…………もう一回聞くけど、それって褒めてる?」
「褒めてる。凛太郎ちゃんは、あたしにとって最高の雄だよ」
「雄……」
「あたし、これでも狸だからね」
私たちはじっと見つめ合うと、小さく噴き出した。
そして、寝室で身じろぎひとつせずに眠っている朧を見つめながら言った。
「恋は理屈じゃないんだね」
「うん」
「そっか」
私は自分の手を見つめると、ギュッと強く握りしめた。そして、呼吸はしているものの、なんの反応も返さない朧を眺めて、ぽつりと零した。
「……朧、このままだとどうなっちゃうのかなあ」
「……」
「死んじゃうのかな。……私の、せいだよね」
それを口にした瞬間、唇が震えた。みるみるうちに視界が滲んでいって、溢れたものがぽつりぽつりと落ちていき、私を濡らしていく。
「私、好きな人にとんでもないことをしちゃった……」
「真宵ちゃん……」
「どうしよう。櫻子ちゃん」
慰めるように、櫻子が肩を抱いてくれた。
私は彼女に寄りかかると、ポツポツと話し始めた。
「初めは、ちゃんとやっていけるかなって、不安だった。借金を肩代わりして貰うんだから、ちゃんと奥さんしようって頑張ってきたつもりだよ。でも、私は肝心なことをしてこなかったんだ」
「肝心なこと?」
首を傾げた櫻子に私は頷くと、あの初夜のことを語り始めた。
「あの日、朧は私に言った。こんなおぞましい化け物の傍に置いておくのは可哀想だって。だから、一年経ったら帰してやろうって」
「一年……。朧様が、それを言ったんだね」
「うん」
あの時の私は、得体の知れない自分の夫が恐ろしくて、正常な思考なんてちっともできなかった。けれども、冷静になった後も、私はその言葉に甘え続けた。
彼の真意だって、一度尋ねてみただけで、知ろうとすることをやめてしまった。
優しくしてくれるみんなに甘えて、自分がここにいる理由を考えることをしなかった。たった一年間だけだからと、安心しきっていた。その後のことなんて、ちっとも考えてなかった。
「あっちに戻ったら、両親の店を再開しようって。そんなことばっかり考えてた。自分の足もとを見ないで、ふわふわと少し先の未来のことばかり考えてた」
――もっと早く、朧が嫁を必要とした理由を知っていれば、最悪の状況だけは避けられたかもしれないのに。私は、一体なにをしていたんだろう。
「『夫婦』って関係から、ずっと目を逸らしてきたの。せっかく、朧が手を差し伸べてくれていたのに」
「真宵ちゃんだけが悪いわけじゃないよ。化け神さんだってなにも言わなかったんでしょ。お互い様じゃない?」
「でも、きちんと考えるべきだった! 私たちは、期間限定だったとしても、ちゃんと夫婦だったんだから」
私は、櫻子にしがみつくと、震える声で言った。
「凛太郎の言うとおりだよ。私は……本当の意味での奥さんじゃなかったんだ。私がちゃんと向き合っていたら、朧は事情を話してくれていたかもしれない。自分の気持ちに早く気づいて、朧に伝えていたら……こんなことには、ならなかったかもしれないのに‼」
「自分ばっかり責めちゃ駄目」
「でも。でも……ッ! 好きな人を、こんな風にしたのは私なんだよ‼ 私が、もう少し上手く立ち回れていたら……」
――胸が痛い。
後悔ばかりが募り、喉の奥がひりつき、頭が混乱して……自分が、どうしようもなく愚かに思えて仕方がない。化け物なのに、誰よりも優しい朧。朧は、自分の命がすり減っていくのを感じながら、私のことをどう思っていたんだろう。
私は、胸の奥から溢れてくる気持ちを抑えることができずに、櫻子に吐露した。
「櫻子ちゃん、朧が好きなの。一年経てばいなくなるのに、優しくしてくれた朧が好き。いつだって、私のことを一番に考えてくれた朧が好き。人形じゃない時は、確かに恐ろしく感じる時もあるよ。でも、私を怖がらせないようにって、いつも気遣ってくれてた朧が好き。好きなんだ。好き……」
あの、温かい赤色を宿した瞳の色が恋しくて堪らない。
一見すると恐ろしく思える瞳の、底の部分にある温かさを感じたい。
朧に触れて欲しい。朧と話したい。朧に――……私の気持ちを伝えたい。
「私、どうすればいいの……⁉」
こんな状況になっても、なすべきことすらわからない自分を情けなく思いながら、櫻子に尋ねる。本来なら、他人任せにはしたくない。けれども朧の眷属である櫻子であれば、なにか方法を知っているのではないか、そう思ったのだ。
しかし、櫻子はゆっくりと首を振ると、「あたしにもわからない」と答えた。
「……そんな」
がっくりと項垂れる。そして、畳に視線を落とした。
すると、そんな私の顔を覗き込みながら櫻子が言った。
「――きっと、凛太郎ちゃんや、獣頭の神さまがなんとかしてくれる。それを信じて待とう。悩んだり、苦しかったりしたら、あたしがいくらでも話を聞くよ。だから、今は休もう? 真宵ちゃん、疲れてるみたい」
「うん……」
櫻子の申し出に、私はふらりと立ち上がると、滾々と眠り続ける朧に近寄って行った。そして、その体に抱きつくと、そのまま瞼を閉じた。
「……後で、ごはん持ってくるね。ここに、真宵ちゃんのお布団を敷くよ。その方がいいよね」
櫻子は静かな口調でそう言うと、部屋を出て行った。私は、襖が閉まる音を聞きながら、ひたすら後悔の涙を零していた。