化け神さん家のお嫁ごはん

 たまねぎとピーマンをみじんぎりに。
 ソーセージは輪切り。コーン缶は水切りをして、主役は合いびき肉。


 昼食の準備を進めながら、ふと不安になって視線を移す。


 台所は床が土間になっていて、すぐ側に板間がある。そこに、ぐったりとして意識がない陽介君を抱いた朧が座って、私の調理を見守っていた。


「……真宵、ピーマンはあまり目立たないように細かくしてくれ。大きな欠片は好きじゃないらしい」
「は、はい」


 時折、朧に指示を貰いながら調理していく。頻繁に、陽介君を連れて行こうと、あの黒い手が現れるけれど、それは朧が追い払ってくれた。けれども、黒い手が陽介君に触れた箇所が、徐々に黒く染まり始めていて、もうあまり時間が残されていないことがわかる。


 ――急がなくちゃ。でも……。
 料理なんてしている場合なのだろうか。


 そんな疑問が頭を過る。朧の様子を窺うと、特に焦っている風には見えない。


「あの、朧」


 恐る恐る声をかけると、朧は私に色違いの双眸を向けた。


「――陽介君、助かりますよね?」


 縋るような思いで尋ねる。すると、朧は小さく頷くと――。


「時が来れば」
 と、答えてくれた。


 私はそれを聞くと、大きく深呼吸をした。

 
 そして、心の中で覚悟を決めて、朧に向かって言った。


「……朧、あなたを信じます。私は、私にできることを精一杯やりますね」


 朧は、私の言葉にゆっくりと頷くと、台所の格子窓の向こうに視線を移した。そして、窓越しに見える、霧に烟っている太陽をじっと見つめていた。





「よし。下拵え終わり」


 私はふうと息を吐くと、次の工程に移った。


 合いびき肉は、予め塩で良く練っておく。肉が温まらないように注意しつつ、粘り気が出て、うっすらと白くなってきたら、そこに具材を投入。玉ねぎ、ピーマン、輪切りのソーセージ、コーン。それをしっかり混ぜ合わせたら、牛乳に浸したパン粉、卵、塩胡椒少々、ナツメグ少々。これで、肉ダネの完成だ。うまく纏まったら、小さな丸形に整形する。


「……この子どもは、それを作る時、よく母親の手伝いをしていたそうだ」


 その時、朧がぽつりと独り言のように呟いた。思わず、作業する手が止まる。


 肉の整形は、子どもにだって簡単にできる。自分が作ったものなら、普段からあまり食べない子どもも食べるなんて、よく聞く話だ。


 けれど親としては、自分ひとりでやった方が早く終わるし、あちこち汚さなくて済む。見た目だって、綺麗に仕上がるだろう。でも、一緒に料理する楽しさは格別だ。子どもにとって思い出にもなるし、学びの機会にもなる。


 ――陽介君のお母さん、ちゃんと愛情を注いでいたんだ。


 たったこれだけのことだけれど、それがわかって内心ホッとする。同時に、事情も知らないのに、母親に怒りを覚えていた自分を恥ずかしく思った。


 ――母親に大切に育てられた子を、悪霊なんかにしてたまるものか。
 決意も新たに、拳を強く握りしめる。


「ケチャップは多め、甘めの味付けだそうだ……真宵? 大丈夫か」
「はい、問題ありません」


 私は、いつの間にか浮かんでいた涙を袖で拭うと、調理を再開した。


 整形した肉ダネに、小麦粉を振りかける。それを、バターを引いたフライパンで焼いていく。じゅう、と水分が弾ける音がして、ぷんと辺りにバターのいい匂いが立ち込めた。片面に焼き目がついたら、ひっくり返し、蓋をして蒸し焼きにする。


 その間に――と、私は予め沸かしておいたお湯に、パスタを投入した。


 ……そう、私が作っているのは、ミートボールパスタだ。
 具材がたっぷり入ったミートボールを、トマト味で仕上げる。子どもはもちろん、大人も大好きな味。苦味のある野菜もたくさん食べられるようにと、具だくさんだ。


 味付け、具材、かかる手間……すべてから、母親の愛情が感じられる一品。


「よし、最後の仕上げ!」


 フライパンの蓋を取ると、赤かった肉は白っぽくなっていて、ところどころ肉汁が溢れている。余計な油をキッチンペーパーで拭き取ったら、そこにトマト缶を投入。じゅくじゅくじゅくっと赤い汁が沸騰したら、調味開始。


 茹で汁をお玉一杯分入れて、敢えてワインじゃなくて、癖のない調理酒。それにケチャップ、醤油にお砂糖少々。酸味と旨みが入り混じった匂いが広がって、唾を飲み込む。すると――。


「いい匂い……」


 陽介君が、うっすらと目を開いた。


「もうすぐできるからね。待っていて」
「うん……」


 陽介君は、朧の肩に頭を預けると、とろんとした目で私を見守っている。
 その時、陽介君が、朧を怖がる様子を見せていたことを思い出して焦る。
しかし、本人は自分が誰に抱かれているかを気にしていないらしく、素直に体を預けていた。


 ――まあ、大丈夫かな?


 私は、少し不安に思いながらも、最後の仕上げに取り掛かった。


 トマトソースが煮詰まってきたら、ミートボールを端に寄せて、そこにパスタを投入する。ソースを絡めたら、お皿に盛って、最後に粉チーズを振りかけて……。


 ――これで完成。ゴロゴロミートボールパスタ!


 陽介君を別の部屋に抱っこで連れていき、目の前にパスタを置く。すると、陽介君はふにゃっと嬉しそうに笑った。


「わあ! お肉ボールのちゅるちゅる! ……食べていい?」
「どうぞ」
「へへ……」


 陽介君は、朧に抱っこされたまま、小さな手を伸ばしてフォークを取った。
その手だって、悪霊たちに触れられて、すでに半分以上は黒く染まってしまっている。私は、朧に食事を提供する時以上に緊張して、その様子を見守っていた。


 やがて、フォークでミートボールを突き刺した陽介君は、ゆっくりとそれを口に運んだ。そして、僅かに目を見開くと、満面の笑みを浮かべた。


「ママの味……」


 ――ああ、よかった。


 朧から指示を貰いながらだったものの、違うと言われたらどうしようと不安だったのだ。ホッとしていると、陽介君は、大きなミートボールをあっという間にひとつ食べ終わり、真っ赤に染まったパスタを口に運んだ。そして、ご機嫌な様子で語った。


「うふふ。僕、知ってるんだよ。お肉の中に、ピーマンが入ってること。でも、僕はいい子だから、ママには内緒にしてあげてるんだ」
「そうなんだ」
「僕がいっぱい食べると、ママが喜ぶから。偉い?」
「うん。とっても偉い」


 すると、陽介君は照れくさそうに頬を染めると、もうひとつ、ミートボールにフォークを突き刺した。


 その様子を、黙って見つめる。お皿に盛られたパスタは、みるみるうちになくなっていき、それと同時に、陽介君の口の周りが赤く染まっていった。やがて、お皿が空になると、陽介君はまた、うとうとと微睡み始めた。


 濡らしたおしぼりを持って、ゆっくりと近づく。そして、汚れてしまった顔を拭いてやっていると、あることに気がついた。なんと、悪霊が触れて黒くなっていた箇所が、薄くなっているではないか。


「朧、これって……⁉」


 ぱっと顔を上げて、朧に尋ねる。すると、朧はゆっくりと頷いてくれた。


「――これで、もう暫くは保つだろう」
「私の作った料理を食べたせい、ですか?」
「そうだ。心から望むものを得た時、人の魂は癒やされる」


 そして、朧はゆっくりと手を伸ばすと――まるで子どもにするみたいに、私の頭をぽん、と叩いた。


「お前のおかげだ。……頑張ったな」


 大きな手に触れられて、一瞬、思考が停止する。すると、朧は僅かに視線を泳がせると、「悪かった」と急に謝ってきた。


「俺のような恐ろしいものに触れられるのは、嫌じゃないか?」


 その言葉に、私は何度か目を瞬くと、プッと小さく噴き出した。


「この間、熱が出た時……触れていたじゃありませんか」


 すると、朧はますます目を泳がせると、あれは……と、やや口ごもりながら言った。


「お前が、ああして欲しいと望んでいたからだ」
「そうですね。両親の夢を見ていましたから。父の冷たい手を、懐かしく思っていました。けれど……」


 私は朧を見つめると、小さく首を傾げた。


「あの時、朧が触れてくれて嬉しかったですよ。それに、今だって。人間は慣れる生き物なんです。確かに、朧を初めて見た時は怖かったですが……今は、そんなに怖くありません」
「……無理をしなくてもいい」
「無理だなんて!」


 なかなか私の言葉を受け入れようとしない朧に、おもむろに手を伸ばす。そして、私よりも随分と大きくて、ゴツゴツしたその手に触れて言った。


「怖くないですよ、朧。さっきの、頭をポンッてやられるの、好きです。だから、褒めたくなったら、ご自由にどうぞ」


 そして私は、眠ってしまった陽介君の頬にも触れると、しみじみと言った。


「ふたりで、この子の面倒を見ていきましょう。時が来るまで。……ね? 朧は神様なんだから、この子を助けられますよね? 奇跡だって起こせるでしょう?」


 期待を込めて、朧に笑いかける。
 そんな私を、朧は眩しそうに、うっすらと目を細めて見つめていた。
 それから数日間、私は朧と陽介君と三人で過ごした。


 陽介君自身は、初めは朧を怖がっていたようだが、徐々にそれにも慣れていった。人間は慣れる生き物――朧自身も、それを実感しているようだった。


 あの黒い手は、頻繁に姿を現した。


 そのたびに、朧が追い払ってくれたものの、陽介君の体は徐々に黒く染まっていった。だから、私は朧の指示に従いながら、陽介君が食べたいものを作っていった。


 クリームコロッケ、オムライス、ハンバーグ、エビフライ。子どもらしく、洋食が好きらしい。陽介君のお母さんは料理上手だったようで、自分でお子様ランチを作ったりもしていたようだ。その頃には、私の陽介君の母親に対する疑念は完全に晴れていた。むしろ、なにか事情があって、陽介君を置いていかざるを得なかったに違いない……そんな確信があった。それだけ、母親が陽介君に作っていた料理には、気遣いや愛情が溢れていたからだ。


「――ママ、僕のこと迎えに来てくれるかなあ?」


 陽介君は、頻繁にそんな言葉を口にした。


 そういう時、私は陽介君をギュッと抱きしめると、一言、一言、噛みしめるようにして言い聞かせた。


「絶対に迎えに来るよ。きっと、ママも陽介君のことを捜してる。大丈夫、私の旦那様はすごい神様なんだから。……きっと、見つけてくれるよ」


 私の言葉に、陽介君はニッコリと笑った。


「うん。あの神様なら見つけてくれるよね。僕と一緒で、ケチャップ大好きだしね」
「フフフ……そうだね。意外に好きよね」
「怖いお顔してるのにね‼ お皿に残ったケチャップ、全部スプーンで掬って食べるんだ。きっと、お口はお子様(・・・)なんだよ」
「……プッ。アハハハ‼ 陽介君、やめて。朧に聞こえちゃう」
「聞こえてるぞ」
「わっ。お顔が怖い! お姉ちゃん、逃げよう‼」


 私たちの笑い声が、夏のマヨイガに響いていく。
 夏らしい熱を含んだ空気の中で、私たちはぴったりと寄り添いながら、一日一日を過ごしていった。徐々に、私の作った料理を食べても、陽介君の体から汚染された部分が減らなくなっていくことから目を逸して。


 燦々と降り注ぐ太陽の光の中で、私たちは笑顔でいた。





 そして――陽介君と出会ってから、五日目のことだ。


 たくさん遊んで、お昼ごはんをお腹いっぱい食べて。お昼寝をし始めた陽介君に付き合っていたら、いつの間にか私も眠っていたらしい。
 目覚めると、外から差し込む夕日の朱色が目に飛び込んできた。


 遠くで、鴉が鳴く声が聞こえる。黄昏に染まった室内は、両親を亡くして嘆いてばかりいたあの日を思い出させて、どこか物悲しく感じる。


「……あれ」


 辺りを見回すと、どうにも陽介君の姿が見当たらない。焦りを覚えた私は、慌てて襖を開けて、中庭を見渡した。夕日が眩しい。手をかざして目を細める。すると、中庭に小さな背中を見つけて、安堵の息を漏らした。


「陽介君」


 声をかけようとして、途中で止める。


 黄昏色に染まったその光景に、違和感を覚えたからだ。どこか気持ち悪さを感じながら、踏石の上にある草履に足を通し、中庭に降り立つ。徐々に夜に向かいつつあるせいか、日中よりは涼やかな風が、私の頬を撫でていく。


「陽介君。冷えてきたから、中に入ろう?」


 黙ったまま動かない陽介君に近づき声をかける。
 すると、ようやく陽介君はこちらに振り向いてくれた。


「……お姉ちゃん、痛いよう」


 真っ赤に燃える太陽を背に、陽介君が立っている。
 逆光のせいか、陽介君の表情が昏くてよく見えない。
 いや――違う。それに気がついた瞬間、背中に冷たいものが伝った。
 逆光のせいじゃない。陽介君の体全体が、闇色に塗りつぶされてしまっている。


 ふくふくとしたほっぺたも、半袖から伸びた細い腕も、サンダルを履いた足の指の先まで、黒一色で染まっている。更には、その体から陽炎のように闇がこぼれ落ち、ゆらゆらと辺りに影を落としている。


 私は、慌てて陽介君に駆け寄った。


「ど、どうしたの。大変……大変だ、どうしよう」


 パタパタと手で闇を払おうとする。

 
 けれども、いくら払っても変わらない。混乱した頭のまま、どうすればいいか一生懸命考える。そして、あることを思い出して、弾んだ声を上げた。


「そうだ、ごはんにしよう! そうすれば、この黒いのも消えるはず……」


 けれど、そんな私の言葉に、陽介君はふるふると首を振った。


「もう駄目だよ。もう遅いよ。……お姉ちゃん、僕はもうママに会えない」
「そんなこと――……‼」


 否定しようとして、けれども途中で口を閉ざす。なぜならば、陽介君の影から、大量の黒い手が伸びてきているのを、目にしてしまったからだ。


 私は歯を食いしばると、陽介君を抱き上げた。


「陽介君……逃げるよ」
「もう、駄目だよ。もうママには……」
「馬鹿言わないの‼ ママに会うんでしょう⁉」


 一喝すると、陽介君は体をビクリと引き攣らせ、黒く染まった顔で私を見つめた。


「……まだ、ママに会える?」
「もちろんだよ。私の旦那様なら、なんとかしてくれる」


 陽介君は、涙を一杯湛えた瞳で私を見つめると、その小さな手を私の首に回した。


「朧‼ どこ……‼」


 私は大きく叫ぶと、黒い手から逃れるように走り出した。


 最近は慣れてきたものの、和服の裾が足に絡んで走りづらい。けれども、そうも言ってはいられない。私は、夕日の中に、化け物みたいな神様の姿を捜してひた走る。


 ちらりと後ろを確認すると、黒い手が追いかけてきているのが見えた。


 ……いや、それはもう、手とは言えない。数え切れないほどの黒い手が絡み合い、混じり合って、巨大な人形となって私たちを追ってくる。赤ん坊のように四つん這いになって、陽介君を飲み込もうと、怒涛の勢いで追いかけてくる!


 きっと、あんなものに追いつかれたら、ひとたまりもないだろう。私は、すでに怠くなりつつある足を必死に動かして、母屋に向かって駆けていく。


 ――その先に、朧がいる。そう信じて。


「――はあっ、はあっ、はあっ‼」
「……痛い……痛い……ママァ……」


 激しく乱れる呼吸。そして、陽介君の苦しげな声を聞きながら、やっとのことで母屋にたどり着く。すると、そこには明かりを手にした面布衆たちが待っていた。


「奥方様‼ あちらでございます‼」


 彼女たちは、私たちを守るように、黒い人形の行方を遮った。私は、面布衆にお礼も言えずに、ひたすら巨大な屋敷の中を走り抜ける。迷ってしまうかもと心配したが、私の行く先々に面布衆が現れ、どこに行けばいいか教えてくれた。


 やがて――たどり着いたのは、マヨイガの玄関だった。


 重い体を引きずり、痺れる腕で陽介君を落とさないように苦労しながら、玄関を開ける。するとそこには、ずっと捜していた朧の姿があった。


「……ああ。やっと」


 嬉しくなって、頬を緩める。けれども、朧は険しい表情を浮かべて、問答無用で私の腕の中から陽介君を抱き取った。


「――真宵。離れていろ」
「……お、ぼろ?」


 朧の赤と黒の色違いの瞳に、剣呑な光が宿っているのに気がついて、私は息を呑んだ。どうしてそんなに怖い顔をしているのか、理解ができなくて思考が止まる。


「陽介君を、どうするの」


 思わず尋ねると、朧は小さく首を横に振った。


「……っ、駄目」


 嫌な予感がして、私は、朧から陽介君を取り戻そうとした。……が、それは叶わなかった。屋敷の中から、誰かの悲鳴と、何人もの足音が聞こえてきたからだ。


「――朧様。アレが参ります‼」


 そこに姿を現したのは、凜太郎だ。
 普段はきっちりと整えている髪を乱れさせ、額に汗を浮かべた見習い神使は、私の顔を見るなり、ハッと皮肉めいた笑みを浮かべた。


「まったく。面倒なことをしてくれましたね‼」


 そして、私を抱き上げると、玄関の外に向かって走り出した。


「うええっ⁉ ど、どこに――……」
「黙っていてください。舌を噛みますよ‼」


 凜太郎がそう言った瞬間――マヨイガの玄関の内から、黒い粘着質のものが溢れかえった。それは、陽介君を執拗に追っていた黒い手の成れの果てだ。
多くの悪霊と混じり合い、人形ですらなくなったそれは、陽介君を捕らえようとヘドロのような体を伸ばしている。辺りに粘着質の黒い欠片をまき散らしながらも、すさまじい執着心を見せる様子は、ただごとではない。


 その時、背筋が凍るような、異様な声が聞こえてきた。
 それは、老若男女様々な人間の声が入り混じった――怨嗟の声。


「「「「寂しい……寂しい……お前も一緒に……一緒にィィィィィ‼」」」」
「――……いい加減、諦めろ」


 すると、玄関から離れた場所に避難していた朧は、それらに冷たい視線を投げかけた。そして丁寧な手付きで地面に陽介君の体を下ろすと、その瞬間、朧の体がみるみるうちに変わっていった。


 筋肉が膨張し、骨が変形していく音がする。人らしい部分が段々と消え失せ、存在が獣に近づいていく――。


 やがてそこに現れたのは、黒く艷やかな毛に、四対の真紅の瞳、捻じくれた漆黒の両角、凶悪な爪を持った、山ほどもある巨大な化け神だ。
朧は、体をふるりと震わせると、なおも陽介君を捕らえようとするそれに向かって、大きく吠えた。


「グルァァアアアアアアアアアアアァ‼」


 あまりの声に、思わず耳を塞ぐ。すると、その咆哮を真正面から受け止めたそれは、まるで火にかけられたお湯のように一瞬で沸騰した。
ブクブクと泡立ち、形を歪に変えていく。そしてそれは、鉄板の上に落ちた水滴のように、徐々に総量を減らしていった。


 ――やがてそこには、黒い泡がひとつ、ぽつんと残された。


 朧はそれに近づくと、容赦なく足で踏みつけた。そして、ひらりと身を翻すと、あっという間に人形に戻って、地面に横たわっている陽介君に近づいていった。


 凄まじい光景に圧倒されていた私は、正気に戻ると、慌てて朧に声をかけた。


「お、朧。なにをするの。……陽介君に酷いことをしないで‼」


 すると、朧は歩みを止めて私の方に振り返った。


 その顔を見た瞬間、私は胸の奥に鋭い痛みを感じた。なぜならば、朧が見たこともないくらいに、哀しそうな顔をしていたからだ。


「あっ……ごめ……」


 自分のあまりにも酷い言い方に後悔して、小さく謝罪の言葉を漏らす。
すると、朧はどこか諦めたような顔で言った。


「奇跡なんて、簡単に起こるものではない。たとえ、神であったとしてもな。この子どもは……処分する」
「……っ‼」


 その言葉に、思わず顔を歪めた。心臓が締め付けられるようで、息が上手くできない。息を吸おうにも、喉が酷く乾いていて、舌が口内に張り付いてしまったようだ。


 私はおもむろに、凜太郎の腕から降りた。
 すると、そんな私を倫太郎が引き留めた。


「……奥方様、朧様の邪魔は」
「……しませんし、できません。私はなんの力も持ってない、ただの人間だもの」


 乾いた声で、やっとのことで答える。私は、ふらつきながらも、地面に横たわる陽介君に近づいていった。


 ――ああ、世界が赤い。
 黄昏時の空に照らされた陽介君は、痛みに顔を歪め、脂汗を浮かべて唸っている。あの黒い手からは逃れられたものの、穢れは彼の体を確実に蝕んでいるようだった。このまま放って置けば、おそらく――この子は、悪霊と成り果てる。


 夕暮れ時は、バラバラになっていた家族が集まる時間だ。
 なのに、この子の下には誰も帰ってこなかった。
 夕暮れ時は、容赦なく世界から光を奪っていく。


 私は、陽介君の傍にしゃがみ込むと、その手を握りしめた。


「痛いね、辛いね。……ごめん。ごめんね、陽介君。迎えに来るって言ったのに。大丈夫だよって言ったのに。お姉ちゃん、嘘ついちゃった」


 柔らかい頬に触れ、頭を撫でる。痛くないように、ぐったりとしているその小さな体を優しく抱きしめてやる。まだ、二次性徴すら迎えていない、誰かが守ってやらなければいけないはずの子どもが……苦しみ続けている。


 ひとりは寂しいものだ。両親が死んだ時に、嫌というほどに実感した。
人間がひとりで生きていくのは難しい。幼い子どもなら尚更だ。それを知っていたからこそ、この子をどうにかしてあげたかった。なのに……。


「助けてあげられなくて……ごめん……」


 そのことが辛くて、苦しくて、申し訳なくて――。
 気がつけば、私も涙を零していた。


 ――すると、その時だ。
 朧が、私を陽介君ごと抱きしめた。


 大きな体に包まれて、夕日が遮られる。途端に世界を包む色が変わって、恐る恐る朧を見上げる。私たちを抱きしめている朧は、見たことのないような穏やかな表情をしていて、驚いて目を何度か瞬いた。


「奇跡……確かに、奇跡は簡単に起こらない。……だが、積み上げてきたものは確実に成果となる。それは奇跡とは言わないだろう? そうは思わないか、真宵」


 言葉の意味がわからずに首を傾げる。


 すると朧は、私の頭をポン、と叩くと、柔らかな笑みを浮かべて言った。


「……頑張ったな。どうやら――間に合ったようだ」
「え?」


 その時、遠くからなにか聞き慣れない音が聞こえてきた。
 それは、軽快に地面を蹴る音。獣の吐息。なにかのいななき――。


「……馬?」


 音がした方に視線を向ける。すると、朧がぽつりと言った。


「――時が来た。導きの炎を」


 すると、朧が懐からなにかを取り出した。それは、何本かの木切れだ。朧の手のひらに乗せられたそれは、次の瞬間には炎に包まれた。


 ちりちりと木が焼ける音がして、焦げ臭さが鼻を突く。熱くないのかとも思ったが、朧は平気そうな顔をしていた。


 やがて木切れが炭化し始めると、真っ白な煙がゆらりと空に昇って行った。
その次の瞬間、屋敷を包む霧の向こうから、なにかが近づいてくるのがわかった。それもひとつじゃない。なにかの大群が、こちらに向かってやってくる‼


「お待たせしました~‼」


 そして聞こえてきたのは、やけに呑気な――聞き慣れた声。場違いなほどに明るいその声に、思わず目を瞬く。


 霧の向こう――そこから姿を現したのは櫻子だった。


 なにか大きな動物のようなものに跨り、宙を駆けてくる。
 櫻子は、何人もの同じ動物に跨った人間を引き連れていた。辺りが足音やらいななきで急に騒がしくなり、目を白黒させていると、彼らが跨っているものの正体に気がついて、更にギョッとしてしまった。


 それは、胴体がきゅうりで造られていた。ついでに言うと、手足は木材でできている。普通のサイズであれば、割り箸なんて呼ばれそうな木材だ。それが、まるで生きているかのように、駆け、いななき、軽快な動きで人々を運んでいた。


 それには見覚えがあった。精霊馬――。お盆の時期、先祖の霊を迎えるために、きゅうりなどの野菜で作られる供物のひとつだ。


「どうどう。いやあ、お盆の時期は本当に混むよね~。参っちゃう。あ、やっほ! 真宵ちゃん、ひさしぶり~! 風邪治った?」


 場違いなほどに明るい櫻子に、曖昧に笑って頷き返す。


 すると、櫻子はひらりと精霊馬から降りると、私たちの方へとやってきた。


「朧様‼ 遅れてすみませんでした。留守中、凜太郎ちゃんが真宵ちゃんに意地悪しませんでした?」


 その言葉に、私たちを黙って見守っていた凜太郎が、ギョッとしたのが見えた。けれども、今はそれどころではない。朧は首を横に振ると、櫻子に尋ねた。


「その話は後だ。それよりも、あれは連れてきたのか」
「もっちろん!」


 櫻子は得意げに胸を叩くと、私たちの間にいる陽介君を見つけて、満面の笑みを浮かべた。


「あらま。化け神さんと真宵ちゃんに挟まれて、温かそうだねえ。まあいいや、こっちおいで!」


 そして、陽介君をひょいと抱き上げると、辺りをキョロキョロと見回し――。


「あ、いたいた‼ ほら、ここだよ~」


 満面の笑顔で手を振ると、陽介君の体を頭上に抱き上げた。その時だ。一匹の精霊馬が怒涛の勢いで駆けてきた。このままでは、櫻子たちに激突してしまいそうだ。


 ハラハラ見守っていると、その精霊馬を操っていた人物は、ひらりと華麗に馬から飛び降り、両手を広げて叫んだ。


「……陽介‼ 迎えに来たよ……‼」


 それは、三十路くらいに見える女性だった。


 半透明の体をしていて、白装束を纏っている。彼女は櫻子から陽介君を受け取るなり、勢い余ってその場でくるくる回った。そして、陽介君を力いっぱい抱きしめ、ボロボロと涙を溢しながら、小さな顔に頬ずりをしながら言った。


「寂しかったでしょう。待たせてごめん。ママが来たよ……!」


 それは、陽介君の母親だった。彼女は、愛おしそうに陽介君を見つめると、「ただいま……!」と泣き笑いを浮かべた。


「ママ……?」


 すると、うっすらと目を開けた陽介君は、目の前に心から待ち侘びた人物を見つけて、途端に涙を浮かべた。そして、顔をくしゃくしゃに歪めると――。


「ママああああ‼ う、うわああああああああん‼」


 大声を上げて、母親に抱きついたのだった。
「なにもかも、不幸なことが重なった結果だった」


 ようやく遂げた母子の邂逅――それを眺めながら、朧は語った。


 陽介君は母子家庭だった。ある夏の日――。家に陽介君を置いて、母親は小銭だけを握りしめてコンビニに出かけた。陽介君がアイスを食べたいとねだったからだ。


 しかし、外は酷暑とも呼べる状況で、子どものことを慮った母親は、ひとりで買い物をすることに決めた。けれども、それが間違いだったのだ。


「ふとした瞬間に、部屋のクーラーが切れてしまった。しかし、この幼い子どもは自分でつけ直す事ができなかった」


 普通ならば、数分も経てば母親が帰ってくるのだから、そう問題にもならなかっただろう。けれども、間の悪いことに、母親は家に帰る途中、事故に巻き込まれて死亡してしまった。身分証も、携帯電話すら持たずに出かけた母親。身元を特定するまでにかなりの時間を要した。父親とは離婚して以来、連絡を取っておらず、祖父母とも頻繁に連絡を取り合う仲ではなかった。陽介君の通っていた幼稚園は夏休みで、母親は求職中だった。


 誰も――幼い子が取り残されていることに気がつけなかったのだ。


「……暑くて、暑くて。玄関で、ずっとママを待ってたんだ。でも……全然帰ってこなくて」


 母親に抱かれた陽介君は、当時のことを思い出したのか、また泣きそうな顔になった。そして、母親の首にギュッと抱きつくと、震える声で言った。


「もう僕のこと……置いていかないよね?」


 すると、母親は酷く優しげな表情を浮かべると、「絶対に」と愛おしそうに陽介君を抱き返した。


「――これで、幼子の未練は解消された」


 すると、朧がそう言うのと同時に、陽介君の全身を覆っていた黒い穢れが、みるみるうちに抜けていった。あっという間に、健康的な肌の色を取り戻していく陽介君に呆気にとられていると、朧が口を開いた。


「遅くなってすまなかった」


 朧の謝罪の言葉に、陽介君は明るい笑顔を浮かべて答えた。


「いいよ。お姉ちゃんといっぱい遊んで、そんなに寂しくなかったしね」


 そして陽介君は、今度は私に視線を向けると、悪戯っぽく笑った。


「ごはん、いっぱい作ってくれてありがとう。美味しかった! まあ、ママの作ったごはんの方が美味しかったけどね‼」
「こら、陽介」


 陽介君は、母親に咎められてもニコニコと笑っている。


 私は、苦笑を零すと――大きく頷いた。


「そりゃあね。お母さんのごはんって格別だもの」
「だよね~‼」


 ふたりで笑い合う。すると陽介君の体が、半透明になっているのに気がついた。


 陽介君もそれに気がつくと、一瞬だけ驚いたような顔をした。夕日に小さな手をかざして、まじまじと見つめる。するとなにかを感じたのか、私たちに笑顔を向けると、ひらひらと手を振った。


「神様、お姉ちゃん。色々とありがとう。本当に、本当にありがとう‼」
「息子のために、手を尽くしてくださって――感謝しています」


 陽介君と母親は、感謝の言葉を告げると、お互いに笑い合って――夕暮れ時の、黄昏色に染まる世界に、ふっと溶けるように消えてしまった。


 この世に未練を遺し、天に昇ることもできずにいた幼い子どもの魂は、これでようやく、本来あるべき場所へと戻っていったのだ。





「……いいものを見せて貰った‼」


 朧とふたりで、ぼんやり赤い空を眺めていると、やけに上機嫌な笑い声が響き渡った。笑い声の主――獣頭の神は、朧の背中を容赦なくバシバシと叩いている。


「なるほど。なるほど。これが主ら夫婦のあり方か。面白い見世物だった」
「み、見世物って……」


 あんまりな言い方に脱力していると、獣頭の神は黄金色の瞳を細めて言った。


「見世物に違いあるまい。人間の魂のひとつやふたつ、消えようが悪霊と成り果てようが、神からすれば些細なことだ。なのに、こんなにも大騒動を起こして送ってやるなど……まるで喜劇のようであった。我は満足している」
「……っ。些細なことだなんて。獣頭の神、それはあなたが、そういう風に思うだけではないのですか?」
「いいや?」


 すると獣頭の神は、まるでなんでもないことのように、さらりと言い放った。


「神とはそういうものだ、嫁殿。神にとって、人なぞ取るに足らぬものよ。人がおらねば、困ることは確かだが――。この世界に無数にいるうちの、ひとつに拘ったとて、意味はない。代わりは掃いて捨てるほどいるのだ」


 そう言うと、獣頭の神は黄金色の瞳に冷たい光を宿して、朧に向かって言った。


「――相変わらず優しいことよな、朧よ。その外見を恐れるあまり、自分に心を寄せてくれなかった相手に、いつまで媚びている?」
「…………。俺は、自分のしたいようにしているだけだ。獣頭の」
「フハハハハ‼ 後先考えず、心のままに行動するのも、また神か。フム」


 そして、獣頭の神は私たちに背を向けると――夕日に照らされた霧の中に向かって、ゆっくりと歩き出した。


「相変わらず、お前は興味深い。――また来よう。友よ」


 そんな獣頭の神の後ろ姿を、朧はじっと見つめている。


 神――計り知れないほどの力を持ち、人間を超越した存在。
 私は、獣頭の神の言葉に反発を覚えながら、同時に納得もしていた。
 私たち人は、神に心を寄せる側であって、神が人間に歩み寄ることなんて滅多にない。そういうものだと思っていたし、そのこと自体は間違ってないとも思う。


けれども、同じ神だというのに、朧はどうだろう?


 ひとりひとりの未練を解消したら、手厚くもてなしてから送り出す。なかなか未練を解消できない魂だって、責任を持って最後まで面倒を見ている。
 それは、とても神の為すことだとは思えない。
 どちらかというと、とても人間に寄った行動のように思えた。


 ――ああ。朧は、やっぱり優しい。


 なぜか、その事実がじんと胸に沁みて、泣きそうになる。


 この人が、私の夫であるという事実が誇らしい。
人間にこんなにも寄り添ってくれる神がいるだなんて、その事実が尊くて――気まぐれだったとしても、そんな神に選ばれた自分の幸運を嬉しく思う。


「……俺はきっと、神としては不適格なのだろうな」


 だから、寂しそうに、ぽつんと呟いた朧を放って置けなかった。


 甘酸っぱいような、苦しいような、不思議な感情が胸の奥から溢れてきて、どうしようもなかったのだ。


「……っ、真宵?」


 無言で、朧を背中から抱きしめる。私よりもずっと、ずっと背の高い神様を。


 でも、とても寂しそうな神様の背中を、強く、強く抱きしめた。


 すると、朧が身を固くしたのがわかった。息をするのも忘れて、私の行動に戸惑っているのが伝わってくる。
 私は、微笑みを浮かべると、一言、一言、心を籠めて言った。


「朧、ありがとう」
「……」
「陽介君を、見捨てずに救ってくれて……本当にありがとう……」


 はらはらと、温かい涙が私の瞳から零れて落ちる。
 そうしながら、私は自分の胸が、普段よりもずっと早く鼓動しているのに気がついていた。全身に心地よいものが満ちて、布越しに朧から伝わってくる体温に、どうしようもなく安心感を得ていることを、自覚していた。
 秋は好きな季節だ。
 世界が鮮やかな色を纏って、穢れたものや目にしたくないものを、平等に覆い隠してくれる。それに、落ち葉の匂いは落ち着く。あの土臭いけれども、鼻の奥でほんのり甘くなる独特な匂い。


 それは、生きとし生けるものからすれば、厳しい冬に備えるために歓迎すべきもの。一帯がその匂いに包まれると、その中に存在している自分すら、誰かに必要とされているような気になるからだ。


 今年も、山の木々は様々な色で自身を着飾っている。
 ハラハラと舞い散る落ち葉を眺めて、ぼうっと日がな一日過ごす。
 それが――神として人々を救うために生まれたはずの、俺の日常だった。





 誰に言われたわけではない。生まれた時から、自分が特別であることは理解していた。同時に、小さな……それでいて、儚い命への慈愛も自覚していた。その中でも、特に人間を守らねば、という使命感がいつも心のどこかにあった。


 神――。


 そう、俺は神としてこの世に生まれ落ちたのだ。


 俺を産み落としたのも、また神だった。家系図を遡れば、国産みをしたと言われている、伊邪那岐神と伊邪那美神にたどり着く。俺は……いや、俺たちは、この小さな島国に生きる人間たちを、ずっと見守ってきた。母神や父神がしてきたように、俺も彼らを守るのだ――そう思っていた。
 
 
 神というものは、人々から信仰を集め、それを己が力として取り込む。だから、大きな社を持ち、たくさんの信者を抱えた神の力は強大だ。
この日本には、八百万の神という言葉があるくらいに、多くの神が存在する。けれど、信者の数は有限だ。神であっても、人々から信仰を集めるために努力するのは、当たり前だった。


 その点で言えば、俺は非常に恵まれていると言えた。


『相手の望むものが理解できる能力』


 それが、俺が生まれ持った力だったからだ。


 人というものは、神に色々なことを望むものだ。それは、人という生き物の、弱さと欲深さからくるものなのだろう。そのこと自体は、多くの信者を必要とする神にとって高都合だった。願いを叶えてやれば、人は簡単に神を信じたからだ。


 しかしどの神も、人が「本当に」望むものがなにかを知るのに、苦労しているようだった。人の価値観や心というものは、そんなに単純なものではない。的外れな叶え方をして、呪いだのと敬遠されてしまった神も多くいる。


 けれど、俺はそんなことを気にする必要はない。
 

 俺が人と相対する時、小さな囁き声が聞こえてくる。
 

 それは、その人が心から望んでいるものだ。たとえば、寂しさを紛らわせるものだったり、心を満たすためのものだったり、空腹を紛らわせるためのものだったり、夢を叶えるためのものだったりする。人によって、聞こえてくる内容は様々だ。けれどもそれは、現在進行形で、その人が求めているものには違いない。


 想像してみても欲しい。自分が望んだものを、思うがまま叶えてくれる神がいたとすれば、それはどの神よりも人の心を捉えて離さないのではないだろうか。
 

 だから、俺には誰よりも偉大な神になる自信があった。


「きっと、俺の社は供物で満杯になるぞ。境内は信者で溢れ、いつも賑やかだ。どの供物も選び放題だな。祭も盛大に行わせよう。俺にはそれだけの力があるのだ」


 当時の俺は、同じ神である友人に、得意げに語っていたのを覚えている。
けれども、ことはそう簡単にはいかなかった。


 神として人の前に現界するやいなや、俺は躓いてしまったのだ。


「ひっ……! ば、化け物……‼ 命だけは、どうか命だけは……ッ‼」
「逃げろ、食われるぞ‼」
「化け物よ、ここはお前がいていい場所ではない。去れ、ここから立ち去れ‼」


 俺は愕然とした。別になにをしたわけでもない。むしろ、自分から人間に寄り添おうとしたくらいだ。なのに、俺が姿を見せた途端、誰も彼もが泣きわめき、逃げ出してしまう。石を投げ、時には弓を射かけた。洞窟に封印しようとしたり、油をかけられて燃やされそうになったこともある。


 ――どうして。どうして、人は俺を恐れるのだ。


 この姿がいけないのだろうか。初めはそう思った。だから、長い年月をかけて、人形に変化する術を覚えた。人が好むように、容姿に拘ってもみた。けれども、それも無駄だった。俺の存在そのものが、恐怖を駆り立てるらしい。


「朧よ、信者からこんな供物を貰ったのだ。これが大層美味くてな。これを、私の好物ということにしようと思う。そうすれば毎年貰えるだろう?」


 誰からも、供物どころか心も預けて貰えない俺は、友が嬉しそうに語る様を、羨ましく思いながら眺めていた。


 自身を好いてくれ、信じてくれる人から貰える供物とは、一体どんな味がするのだろう。きっと、筆舌に尽くしがたいほどの美味に違いない。


 ――……俺が人と相対する時、小さな囁き声が聞こえてくる。


 現世に来る前は、真摯に願う人々の声ばかりが聞こえるのだろうと思っていた。


 ……なのに、なのに、なのに‼


『死にたくない死にたくない死にたくない』


 ――俺の耳に届く声は、いつだって悲鳴混じりの命乞いだった。

 はらり、一枚の落ち葉が俺の鼻に乗った。


 それは、真っ赤な色をした紅葉だった。秋の透き通った光を浴びて、色鮮やかに変化した紅葉は、穏やかな風に吹かれてゆらゆらと揺れている。


 俺は、それを払うこともせずに、薄目を開けて眺めた。まるで血管のような葉脈を見つめているうちに、また一枚、また一枚と俺の上に紅葉が降り注いでくる。


 次に、こつんと落ちてきたのは、どんぐりだ。小さな帽子を被ったどんぐりは、俺の鼻に当たると、ころころと転がっていった。洞窟の天井の裂け目付近に、楢の木が生えているらしい。毎年秋になると、それ目当てで食欲旺盛なリスがやってくる。それを眺めるのが、俺の小さな楽しみだった。


 俺は――この時、すでに人と関わり合うのを諦めていた。


 なにをしても恐れられるばかりで、信仰を得るどころか、まともに話をすることすらままならない。それでも、数百年はどうにかならないかと足掻いた。だが、足掻けば足掻くほど、虚しくなるばかりだった。


 神として生まれたのに、神であることができない。誰からも心を預けて貰えないことが苦しくて、俺はすべてを諦めて山に引きこもった。


 それ以来、適当に見つけた洞の中でじっとしている。一度、山に入り込んだ人間に目撃されてしまった時は、どうなることかと思ったが――ほとぼりが冷めた頃に戻って来てみると、なぜかこの場所が禁足地とされていた。小さな祠が造られ、よくわからない石像が祀られていたのには笑ってしまったが、人間から近づかなくなってくれたのはこれ幸いと、この場所に居座っている。


 ――地上に降り立ってから、何百年経過したのだろう。


 長年、誰とも話していない。そのせいで、声を出す方法も忘れてしまった。なにをするでもなく、まるで元からそこにあったように、春は新緑を眺め、夏は燦々と振り注ぐ太陽の光を浴び、秋は落ち葉に埋もれて、冬は雪の下に眠る。それが、俺の世界のすべてだった。


 常に脳裏に浮かんでいるのは、信仰を得られなかった神の末路――。
神は人の信仰心によって、力を得る。逆に言えば、人から信仰して貰えなければ、元々持っていた力をすり減らしていくだけだ。


 ……神の死。それは、誰にも信じて貰えなくなった時だ。


 今日もまた、昨日の続きがやってくる。俺は、体の内にある力の残量が尽きるのを、ただひたすら待っていた。


 そんなある日のことだ。
 四季しか変わらないと思っていた俺の日常に、変化が現れた。


「おお……。いい感じじゃん‼」


 それは、元気いっぱいな少女の声だった。どうも、洞の入り口の辺りで騒いでいるらしい。少女の他にも、複数の少年の声が聞こえた。


「ここはやばいって、母ちゃんが言ってた」
「そうそう、近づくなって。お化けが出るんだって」


 随分と時が流れているはずなのだが、人の間では、まだここは禁足地という扱いらしい。なのに、子どもたちはここにやってきてしまったようだ。話の内容から、乗り気なのは少女だけで、少年ふたりは嫌々のようだが。


「そんなの、大人がここに近づけないようにって、方便を使ってるだけよ。ほら、なにもいないし、なにも起こらないでしょ?」


 ……ここに、忘れられた神がいるのだが。


 まあ、俺は子どもたちに害を与えるつもりはないから、特別なことは起こり得ない。だが、木の葉に埋もれて身動きひとつしない俺の存在を、少年たちは本能で敏感に察知したらしい。どこか、不安そうな声を上げた。


「俺、なんか寒気がする」
「……俺も。帰ろうぜ? 真宵~」


 すると、真宵と呼ばれた少女は、勝ち気そうな声で言った。


「じゃあ、あんたたち帰れば。私は残るから! 欲しかったんだ。こういう洞穴の中にある秘密基地‼」


 ……この子どもは、一体なにを言っているのだろう。


 思わず呆気に取られていると、なにやら話し合いをしていた子どもたちは、それぞれ別の方向に歩き出した。残ったのは、真宵と呼ばれた少女ひとり。本当に、ここを秘密基地にするつもりなのだろうか。


 すると、真宵はゆっくりと洞の中に入ってきた。
 天井の裂け目から差し込む光が、警戒しながら入ってきた少女の姿を照らし出す。


 真宵は、日本人にしては明るい色の髪を、かなり短く切っていた。俺が知る人の女性は、長い髪であることに価値を見出していた気がするのだが、今はそうでもないらしい。着物ではなく、やたらとペラペラした薄い布で作った、露出の多い服を着ていて、勝ち気そうな発言とは裏腹に随分と小柄だ。


 体のあちこちに傷を作っていて、膝小僧なんて青あざで黒くなってしまっている。本人がまったく意に介していない様子から、自分でこさえた傷のようだ。発言通りに、やんちゃであることが窺える。


「わあ……。綺麗」


 真宵は、焦げ茶の瞳をまん丸にすると、天井を見上げてにっこりと笑った。釣られて、俺も上に視線を移した。天井の裂け目から、はらはらと赤い欠片が舞い散る様は、確かに美しく思えるかもしれない。けれども、俺にとっては何年も繰り返し見てきた光景だ。笑顔になるほどの感動なんてない。


 すると、真宵は近くに落ちていた木の枝を拾うと、洞の中を探検し始めた。


 俺はその様子を、身じろぎひとつせずに眺めていた。別に、見られて困るも
のなんてひとつもないが、久しぶりの人間に興味があったからだ。


「わ……。なんだこれ」


 すると、真宵はあるものに気がついた。


 それは、遠い昔に人間が造った祠だ。
 おそらく、そこに祀られているのは俺なのだろう。恐ろしい見た目の化け物を鎮めるために……とか、適当な理由で造ったのだと推察できる。けれど、その中にはなにもいない。なんてたって、本人は落ち葉に埋もれて、絶賛、人間観察中だ。


 けれど、そんなことは真宵が知るはずもない。


 真宵は、興味深そうに祠を覗き込むと、ぽつりと言った。


「……神様がいるんだ」


 その瞬間、真宵はシュンとして肩を落とした。そして、途端に不安そうに辺りを見回し始める。どうやら、ここに先住(・・)がいた事を知って、居心地悪く感じているらしい。ゆっくりと立ち上がると、小走りで洞を出ていってしまった。


 ――行ったか。


 胸を撫で下ろし、同時に少しだけ寂しく思った。


 やはり、俺は生まれついての神なのだ。人が傍にいると、どうにも面倒を見てやりたくて仕方がない。


 ……この想いを再確認できただけで、僥倖だった。
 

 なぜならば、人に必要とされていない自分が、如何に「無価値」であることを感じることができたからだ。やはり、ここで命尽きるのを待っているのは、間違いではなかった。俺は痛む胸を宥めながら、ゆっくりと目を瞑った。
 

 そしてそのまま、とろとろと眠りの淵へと落ちていった。


「よっし、始めるかー‼︎」


 しかし、その眠りはすぐに妨げられた。驚きのあまり、思わず立ち上がりかける。俺の上に降り積もっていた落ち葉が、まるで雪崩みたいに滑り落ちた。すると、声の主――真宵は、驚いたように辺りを見回すと、「地震?」と首を傾げた。


 ……少女が戻ってきた。


 その事実に、俺は驚きを隠せなかった。やたら大きなリュックサックを背負っている様子から、ただ荷物を取りに帰っただけなのだとわかる。真宵は、リュックの中身を探ると、そこから色々なものを取り出し始めた。それは松ぼっくりや、山に生えている木の実だ。真宵は、それを満足げに眺めると、いきなり祠に供え始めた。


「こんなもんかなあ」


 仕上げに、空き缶に花を供えて大きく頷いている。岩を削って作られた、苔生した味気ない小さな祠が、一気に賑やかになる。


「あ、どんぐりもいるかな」


 最後に、葉っぱのお皿にそこらで拾ったどんぐりを山盛りにすると、真宵は祠に向かって手を合わせた。そして言ったのだ。


「――神様。しばらくの間、ここを使わせてください。秋休みの間だけですから」


 そう言うと、真宵は白い歯を見せて笑って、またリュックの中身を漁り始めた。


 その時――俺は、なんとも言えない気持ちでいっぱいだった。


 初めて貰ったお供えもの。初めて貰った願いの言葉。
 あまりのことに、思考が停止する。


「神様」と自分を呼ぶ声が、耳の奥に残っている。


 目頭が熱くなって、呼吸が乱れる。ずっと――ずっと欲しかったものが、不意に与えられて、小さな子どものように戸惑う。


 すると、今までリュックを探っていた真宵が、なにかを取り出して動き出した。そして、辺りをキョロキョロと見回すと――突然、俺の方に足を向けた。
 

 ……絶対にバレてはいけない。


 咄嗟にそう思って、息を潜める。そんな俺を余所に、無防備な表情をした真宵は、テクテクと俺の腹の近くで立ち止まると――手にしたそれを広げた。
ふわりと広がったのは、ひとりが座れば埋まってしまうほどの小さな敷物だ。それを、降り積もった落ち葉の上に広げると、真宵はリュックを手にそこに座った。


 そのせいで、俺は益々混乱することになる。なぜならば、真宵が俺に体を預けて寄りかかったからだ。


「いい感じ〜」


 真宵からすれば、背もたれにするのに丁度いい岩があった、くらいの認識なのだろう。なにせ長年動かないでいたせいで、俺の体の上には大量の落ち葉が降り積もっていたし、体の至る所から植物が生えているような始末だったから、無機物と勘違いされたって仕方がない。


 でも――不意に与えられた、小さな、それでいて柔らかいものから伝わってくる温かさに、目頭がまた熱くなってきた。


 腹部から、じわじわと得体の知れない……けれども、酷く優しいものが広がっていくような感覚がして、固く目を瞑る。


 そのあまりの居心地のよさに、頭がクラクラしてきた。


「……」


 そんな俺を余所に、当の真宵は、本を取り出して読み耽っている。手の中の別世界に没頭し、俺の存在になんてこれっぽっちも気づきそうにない。
 

 俺はゆっくりと息を吐き出すと、そっと耳を澄ませた。
 この娘の願いを知りたい。
 そして、できることなら叶えてやりたい。そう、強く思ったからだ。


 その時、聞こえてきたのは、意外な願い。少女の――ちっぽけな願いだ。


『……秘密基地、嬉しいなあ。ここでのんびりしたいな』


 俺は、何度か四対の瞳を瞬くと、苦い笑みを零した。
 ――お安い御用だ。
 俺は少女のひと時を邪魔しないように息を潜めると、目を瞑った。


 それはまるで、夢のような時間だった。
 一生、この時間が続くようにと願うくらいには、心地がよくて。


 空の色が、青いまま変わらなければいいのにと、ずっと祈るような気持ちでいた。
 

 けれども、神といえど俺のような力のない存在が時間を操れるわけもなく、空はあっという間に黄昏色に染まった。すると、帰り支度を済ませた真宵は、祠に向かってまた手を合わせたのだ。


「神様、この場所を使わせてくれてありがとう‼︎」


 その瞬間――俺はやられてしまった。
 少女が紡いだ感謝の言葉。その言葉は、力へと変化して、俺の糧となった。


 その甘さと言ったら‼︎


 とろみがあって、決してしつこくなく、優しく俺の中に染み渡っていく。得も言われぬ上品な甘さ。ゾクゾクと快感が全身を駆け巡り、俺は思わず身じろぎした。


 やがて、真宵がいなくなった洞の中。
 俺は、天井にある裂け目から見える星に願った。


 ――明日も、あの少女が来ますように。


 神だと言うのに、他のなにかに願い事をする矛盾に気づかないほど、真剣に願う。誰かから貰える感謝の言葉。信じる心――そのあまりの心地よさに、俺は夢中になってしまった。その時には、もう頭の中は真宵のことでいっぱいで、自分の寿命が尽きるのを願っていたことなんて、すっかり忘れてしまった。


 俺の願いに応えるように、連日、真宵は洞を訪れてくれた。


 菓子を持ち込んだり、大声で歌ったり、ラジオを聞いたり……。真宵は、秘密基地での生活を楽しんでいるようだった。楽しんでいたのは、なにも真宵だけではない。俺も、少女と過ごす時間を心地よく思っていた。


 同時に、自分の姿を万が一にでも見られたら……という恐怖もあった。
 真宵に拒否されたら――俺は、おかしくなってしまうかもしれない。そんな想いがあったからだ。だから、絶対にバレないように慎重に気配を消した。なにより、真宵の願いは、秘密基地を「ひとり」で楽しむことだ。そこに、俺の存在は必要ない。


「……むにゃ」


 俺にもたれかかって眠る真宵を眺めて、ほうと吐息を漏らす。
 俺は全身に染み渡った甘い感覚に身を任せ、真宵を守るように身を丸めた。
 ある日のことだ。
 

 真宵は、いつもよりも大荷物を抱えてやってきた。パンパンのリュックから取り出したのは、半透明の容器。それに、ひとりで飲むには大きすぎる水筒だ。


 なにがあるのかと不思議に思って眺めていると、真宵はいつものように祠に供え物を上げ始めた。しかし、様子がおかしい。普段は木の実など、山から採ってきたものを供えていたのに、今日は違ったのだ。


「お母さんとね、一緒に作ったんだよ」


 そう話しながら、真宵が並べたのは、白くて丸い、少し平べったい食べ物だった。表面に狐色の焦げがついていて、見るからにむっちりとしているのがわかる。


「私の大好きなおやつ。いつも、お世話になってるからね。感謝の気持ちを籠めて作りました!」


 真宵は、それを並べ終わると、パン! と勢いよく手を合わせた。
 そして、目を瞑ると――。


「神様、いつもありがとう。美味しいから食べてね」


 そう言って、いつもの定位置に敷物を広げると、自分の分を容器から取り出した。そしてそれを噛りながら、読書を始めた。


 秋の風が吹くと、洞の中は葉擦れの音でいっぱいになる。俺は、その音を聞きながら、じっと祠を見つめていた。


 やがて夕方になると、真宵は祠に挨拶をして帰っていった。普段よりは、随分と長い間喋っていたような気がする。けれども、俺はそれどころじゃなかった。


 天井の裂け目から差し込む月の冷たい光を受けて、それは白く浮かび上がっているように見えた。俺は、のそりと大きな体を動かすと、祠に近づいていった。


 ざら、ざらざら、と砂やら落ち葉やらが落ちる音がする。けれども、それには構わずに、鼻先を祠にくっつくほどに近づける。


 ――あぁ‼
 俺は、恐る恐るそれの匂いを嗅いだ。


 甘くて、香ばしくて、小麦の匂いがする。
 それは俺にとって、初めての――食べられるお供えものだった。





 ――真宵。真宵。
 お前は知っているだろうか。
 お前は俺にたくさんの「初めて」をくれたのだ。


 それが、どれだけ俺の心を満たしてくれたか。
 それが、どれだけ俺を癒やしてくれたか。
 お前はきっと知らないだろうな。


 あの時のお供え物、もったいなくて中々食べられなかった。
 その次の日から、お前が来なくなってしまったから尚更だ。あの日、長々と話していたのは、別れの言葉だったんだな。
 ちゃんと聞いてやれなくて、本当にすまなかった。


 結局――あのお供え物は、だいぶ経ってから食べた。
 鳥やら虫やらが狙っていたから、腹の下に隠しておいて、毎日、毎晩、眺めていたんだが、黴が生えてきてしまったから、仕方なくな。
 水分が飛んで、カチコチになっていたから――正直、味がしなかった。
 でも、でもな。真宵――。


 最高に美味かった。
 名も知らぬお供え物を、俺はみっともなく涙を零しながら食ったよ。


 ……本当は、姿を見せなくなったお前を、捜しにいこうかとも思った。
 けれども、俺は恐ろしい化け物だろう? 
 お前を怖がらせたらいけない。そう思って、やめておいた。


 信じる心、感謝の言葉。それはなんて魅惑的なのだろう。
 一度味わったら、二度と忘れられない。
 真宵が来なくなって、お供え物もなくなってしまった。
 また、俺にはなにもなくなってしまった。


 俺は、お前のことが忘れられなくて、意識を閉ざすと長い眠りについた。そうでもしないと、お前を捜しに洞を飛び出してしまいそうだったからだ。


 ――まあ、そのうち……我慢できなくて、飛び出していただろうけどな。


 深い、どこまでも深い眠りの中。
 俺はそのうち、また自分の寿命について考えるようになった。
 早く、この命が果てればいい。この耐え難い乾きから、早く解放されたい。
 そう思っていた――ある日のことだ。


「……神様‼ 今年も来たよ‼」


 山が萌える季節。木々が鮮やかな色で自らを着飾った、次の年の秋。
 俺は、元気いっぱいの声で叩き起こされた。




 秋は好きな季節だ。
 なぜなら、ひとりぼっちの俺の下に、少女がやってきてくれるからだ。
 大切な、大切な少女が、笑顔を見せてくれ、風の冷たさとは裏腹に、心が温かいもので満たされる……そんな季節だからだ。
「朧―! 朧も、焼き芋食べますよね?」


 霧に烟るマヨイガ。その中庭で、集めた落ち葉を山盛りにして、真宵がはしゃいでいる。俺が気づいていないと思ったのか、片手を振りながら、ぴょんと真宵が跳ねれば、頭の高いところで結った髪も、元気よく跳ねた。


 その姿からは、嫁に来た当初の怯えは一切消え去っていた。むしろ、友好的な感情を抱いてくれているようだ。秘密基地に胸をときめかせていた時と比べると、短かった髪は伸び、身長はさほど変わらないながら、彼女も随分と大人になった。長くなった分、毛先があちこち自由に跳ねると、悩みが追加されたようだったが。


 初めは着慣れないようだった和服も、最近は板についてきている。今日なんかは、柿柄の着物が可愛いでしょうと、俺に自慢してきたくらいだ。面布衆が買ってきた反物を、自分たちで仕立てたりしているらしい。


 あの――まるで奇跡みたいな時間は、真宵が中学生になるまで続いた。


 後で知ったことだが、真宵はあの近くに住んでいたわけではなかったらしい。秋休みを利用して、遊びに来ていただけだった。両親に着いて親戚の家に泊まりに来ていたようだが、あまり居心地のいい家ではなかったらしく、ひとりになりたくて秘密基地を求めていたのだ。結果、中学生ともなると、両親とわざわざ出かけることも少なくなり、あの秘密基地を訪れることもなくなってしまった。


「おーぼーろっ! 聞いてますか?」


 ひとり物思いに耽っていると、真宵がまた大きな声を上げた。


 苦い笑みを零し、真宵に向かって小さく頷く。
 すると彼女は、ぱあっと顔を輝かせた。


「一番美味しいところ、持っていきますからね!」


 そして、焚き火の近くにしゃがみ込むと、木の枝で落ち葉を弄り始めた。


「朧様、よろしければ蒸かしたじゃが芋もお持ちしましょうか」


 するとそこに、糸目に黒縁眼鏡をかけた、茶髪の青年が声をかけてきた。
青年は、両手に木箱を持っている。その中から、一際立派なじゃが芋を取り出して、「如何でしょう?」と少し不安そうに俺を見つめた。



 この青年は、俺の神使……であったはずの存在だ。
 名を凜太郎。代々、神に仕えている狐の一族で、その中でも一際優秀な能力を持っている。それなのに、何故か俺の神使になりたいと押しかけてきたのだ。


 ……が、俺自身が神としては無能であったがために、「神使見習い」という扱いになっている。本来であれば、社の前に姿形を模った石像でも造られ、祀られているはずで、本人もそれを目指して修行してきただろうに、不憫なものだと思う。


「塩辛がいい~? それとも明太マヨ? 塩バターも捨てがたいよねえ」


 次いでそこにやってきたのは、もうひとりの「神使見習い」櫻子だ。
垂れ目がちな大きな瞳を輝かせ、どの調味料にするかと頭を悩ませているようだ。


 彼女は狸の一族の出身で、凜太郎の幼馴染。俺のもとに押しかけた凜太郎を追いかけて、ここにやってきた。そんな櫻子もまた、「見習い」という立場に文句も言わず、俺の下で働いてくれている。


 俺はふたりを交互に見ると、「任せる」と頷いた。すると、櫻子はみるみるうちに笑みを深めて、口もとを手で隠して言った。


「じゃ、真宵ちゃんとおんなじね。化け神さんは、真宵ちゃんと一緒!」
「待て。適当に済ませるな。きちんと朧様の要望をだな……」
「え~。大丈夫だよ。化け神さんは、これが一番嬉しいと思う~」


 凛太郎は、困り果てたようにこちらに視線を寄越す。俺が、ふたりに向かって頷いてやると、凛太郎は唇を尖らせ、櫻子は満面の笑みを浮かべた。
 俺は、不満そうな凛太郎の頭の上に、ポンと手を置いて言った。


「……いつも気遣ってくれて助かっている」


 すると、凛太郎はパチパチと目を瞬かせると、みるみるうちに顔を真っ赤にして、ぴょんと狐耳を生やした。そして、慌てて耳を髪の中に仕舞い込むと、ふらりと一歩後退った。


「ぼ、僕は、朧様の一番の眷属ですから、当然のことです!」


 そして叫ぶように言うと、そのまま焚き火の方へと走り去っていった。


「アハハ! 凛太郎ちゃんったら。うぶだねえ~」


 そんな凛太郎の後ろ姿を、櫻子は僅かに目を細めて眺めている。
 その姿がどうにも寂しそうで、声をかけようと口を開きかけた。……が、その前に櫻子は凛太郎の後を追って歩き出してしまった。


「じゃ! 美味しいおやつ、期待していてくださいね~」


 次いでそう言うと、焚き火について、真宵に文句を言っているらしい凛太郎に向かって、猛然と駆け出した。


「……とうっ!」
「うわああああ!」


 そしてそのまま、凛太郎に飛び蹴りをくらわしたのだった。


「……フッ」


 俺は小さく噴き出すと、肩を揺らして笑った。
 焚き火の周りの三人は、大騒ぎしつつも楽しそうにしている。


 ――賑やかなことだ。


 俺は屋敷のぬれ縁に移動すると、そこに座って彼らの様子を眺めることにした。


「……おお、賑やかではないか。我も混ぜよ」


 すると、誰かが声をかけてきた。ふと隣に視線を向けると、そこには昔馴染みの友人……獣頭の神の姿があった。


 獣頭の神は俺の一番の友人だ。人を嫌い、引きこもっていた時から、度々俺の下を訪れていた奇抜な奴で、俺のことをよく知っている。この友人は、俺が嫁を取ったと知ってから、よく遊びにくるようになった。元々、好奇心の強いタイプだ。人間の嫁に興味津々なのだろう。


 獣頭の神には、友人としてだけでなく、別の意味でも大変世話になっている。
 神としての信者を持たない俺は、生きているだけで魂をすり減らしていく。
 このままでは、消えてしまう……そう思った時に、手を差し伸べてくれたのが獣頭の神だった。コイツは、はるか遠くにある、太陽と砂の国に属する神で、主に「死」を司っている。人の望みを知ることができる俺の能力に興味を持ち、仕事を手伝わないかと提案してくれたのだ。


 未練を解消した人間が天に昇る時、彼らは感謝の言葉を遺す。それは、信仰から出た言葉に比べると弱くはあるが、同じように神の糧となるのだ。獣頭の神がいなければ、俺はとうの昔に消えていただろう。だから、コイツには感謝している。


 ……少々、お節介なところが玉に傷だが。


 俺と同じように、真宵たちの様子を眺めていた獣頭の神は、面布衆に酒を持ってこさせると、どこか感心した様子で言った。


「人というものは、面白いものだな? 朧よ。住めば都という言葉があるらしいが、一旦馴染んでしまえば、元々住んでいた者以上に居心地が良さそうだ」


 俺は小さく頷くと、獣頭の神の言葉に続いた。


「……俺の姿にも慣れてくれたようで、安心している」
「まったくだ。近づくたびに失神していては、禄に子作りもできやしない‼ そのことに関しては、人の順応力の強さに感謝だな」


 獣頭の神はニヤリと笑うと、ぐびりと酒を呷った。


「朧よ、子はまだか? 人は弱いからな。大切にしたい気持ちはわかるが――」
「……獣頭の。それを口にするのは、野暮というものだろう」
「確かに」


 獣頭の神は、クツクツと喉の奥で笑うと、もうひとくち酒を呷った。そして、口もとから漏れ出した酒を手で拭うと、ほろ酔いの様子で俺に尋ねた。


「……で。訊いていなかったな。アレはどこで拾ってきた」
「野暮だと言ったばかりだが」
「フン。これくらい、教えてくれてもいいではないか。頑として嫁を取ろうとしなかったお前が――何故、あの娘を嫁にしようと思ったのかを」


 そして砂漠の太陽のような色の瞳を細めると、葡萄酒の瓶を俺に差し向けた。


「きっかけはあの娘か? 面白い、なにがあった。話せ」


 なにもかもわかっていると言わんばかりの態度に、ため息を零す。俺は、面布衆から杯を受け取り、獣頭の神に酒を注いで貰いながら言った。


「……前に、真宵と会った時のことを話したな」
「おお。あの惚気の塊の話か。耳の奥が痒くなったわ」
「……話すの、やめるか?」
「はははは。冗談だ、朧よ。続けろ」


 俺は、いやに尊大な態度の友人に苦笑いをすると、話を続けた。


「俺の下に、彼女が来なくなってからしばらくして、俺は案の定我慢ができなくなって、棲み家を飛び出した。自分に心を預けてくれた存在に、なにかあったらと思ったら不安で堪らなかったのだ」


 まるで飼い主がいなくなってしまった犬のように、必死に現世中を捜し回った。そして一年をかけて、ようやく彼女を見つけだした。それからというもの、人にバレないように細心の注意を払いながら、こっそりと真宵を見守った。


 中学から、高校へ――真宵は友人にも恵まれ、少しずつ大人になっていった。神とは違い、徐々に変化していく人間は、俺にとって酷く眩しく思えた。
俺は彼女が少しずつ変わっていくのを見ながら、誰にも知られずに傍にいた。


「そうしているうちに、自分自身の中に残った力が少なくなっていると気がついた。だから、お前に仕事を斡旋して貰うように頼んだのだ。今、消えてしまったら、真宵を見守れなくなるからな」


 俺が生き延びようと考えたのは、すべて真宵のためだった。
 ここ数年は、俺の世界の中心は真宵だ。


「あの娘に危機が迫った時に、すぐに動けるように備えていたが、幸いなことに今の日本は平和で、最近まで特になにも起こらなかった。だが……真宵の両親が死んで、莫大な借金が残されたことを知った。だから、借金を肩代わりすることを条件に、真宵を娶ったのだ」


 俺は、小さく息を吐くと、苦く笑った。


「――手元に置いておきたい。そう思ったことは否定しない。笑うがいい。神の癖にと、詰ってくれてもかまわん」


すると――話を聞いていた獣頭の神は、心底面白そうに手を叩いて笑った。


「なんだお主、すとーかーであったか。ワハハハハ!」
「す、すとーかー……?」
「現世では、本人の許可なくつきまとうことをそう言うのよ。いやいや、気にするな。やたら個人に執着するのは、神にはありがちなこと。力を持つゆえに、好き勝手やりたがる……ああ、困ったことにな」


 ケラケラと楽しそうに笑っていた獣頭の神は、しかしすぐに表情を消すと、俺に冷たい視線を寄越した。


「だがそれは、神の為すべきことではない。愚かにも、そういった行為に及ぶ神は後を絶たないが、それらは尽く報いを受けている。……気をつけることだ。友よ」


 そして、トンと俺の胸に拳をぶつけると、歯を見せて笑った。


「人なぞ、すぐに死ぬ。替えはいくらでもいるだろう? そのような執着、すぐに捨ててしまえ」


 その言葉に、俺は瞼を伏せた。
 獣頭の神は、俺からすると本当に神らしい神だと言える。
 正直で、己に自信がある。そして、なによりも自分を優先する。それは当たり前のことだ。なにせ、神よりも上に立つものはいない。人のことだって、あくまで糧を与えてくれる存在だとしか捉えていない。人が、日々口にする食事に関して、拘りを見せることはあっても、自分と同等だとは考えないように。
神はそうあるべきだ。無数にいる人を救うためには、それが最適解なのだ。


 だが、俺は……。


 あの小さな人の娘のことを、そういう風には思えない。


「獣頭の。俺はもう、神ではないのかもしれないな」


 ぽつりと本音を零す。すると、獣頭の神は、一瞬、ぽかんと間抜けな顔になると、次の瞬間には大慌てで体を乗り出してきた。


「朧よ、それはどういう意味だ。まさか――お前」


 俺は、珍しく動揺している獣頭の神の顔が面白くて、思わずまじまじと眺める。
 その時だ、ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえてきた。


 ……真宵。


 俺は自然に笑顔を浮かべると、そちらに目線を向ける。そこには、焼き芋を手に駆けてくる妻の姿があった。


「朧、一番大きいのを持ってきましたよ」
「美味しいところじゃなかったのか?」
「大きいの、なんとなく美味しそうじゃありません?」


 煤で汚れてしまった顔で笑う妻に、懐から手ぬぐいを出して拭いてやる。
 真宵は、大人しく俺のなすがままになっている。こう言う時の真宵は、あの秘密基地を探して、洞に迷い込んで来た時とちっとも変わらない。じわじわと胸の中心から温かいものが広がっていくのを感じながら、俺は丁寧に顔を綺麗にしていく。


『――朧。もっと』


 ふと、真宵からそんな声が聞こえてきて、眩暈がした。けれども、妻の小さな顔は既に綺麗になっていて、俺は少し名残惜しさを感じながら「終わりだ」と手を下ろす。すると、真宵は俺の手の行方を視線で追って、僅かに唇を尖らせた。


『もっと、触れて欲しかったのに』
「……ッ」


 俺は、慌てて真宵の手から焼き芋を受け取ると、妻の背中を押した。


「櫻子が呼んでいる」
「え?」


 真宵は焚き火へと視線を向けると、微笑みを浮かべた。どうやら、神使のふたりが、じゃが芋を蒸すだのと騒いでいるようだ。


 真宵は、俺に笑顔を向けると、「行ってきますね」と小走りで行ってしまった。その背中を眺めていると、途中、小石に蹴つまずいて転びそうになった。


「あっ……」


 ハラハラしていると、寸前で転ぶのを回避した真宵は、無事に焚き火の下へとたどり着いた。凛太郎と櫻子に向かって、照れ笑いを浮かべているのが見える。


 安堵の息を漏らし、苦笑を浮かべる。
 すると、笑い声が聞こえてきて、盛大に顔を顰めた。


「……フッ。クク、ククククク。過保護め」
「獣頭の。笑うな」
「いや。笑うなと言う方が……クククク……」


 俺は、目に涙を浮かべて笑っている友人をじろりと睨むと、次の瞬間、小さく噴き出した。しばらくの間、二人で笑っていると、焚き火の近くにいる真宵と目が合って、小さく手を振る。すると真宵は、大げさなくらいに手を振り返してきた。そんな真宵に、なぜか凜太郎は非常に悔しそうに顔を顰めている。そんな凜太郎を、すかさず櫻子が茶化した。そこには、いつもと変わらない光景が広がっていた。


 ああ――いつまでも、この日常が続けばいい。
 俺は、霧に烟るマヨイガで、心からそう願っていた。


「……」


 そんな俺を、獣頭の神は少し淋しげな瞳で見つめていた。
「本当にお世話になりました」
「これからは、天国でのんびりしたいと思います」


 ある日のこと――穏やかな昼下がりに、俺と真宵は、中庭でとある夫婦と対面していた。この夫婦は、いわゆる俺の「客」だ。熟年になってから離婚をしたらしく、互いにそのことをずっと後悔していて、死後も未練を残して成仏できずにいた。

 現世を彷徨っていた彼らに出会い、それぞれが抱える「未練」を知った俺は、夫婦を再会させることにしたのだ。


 この夫婦の「未練」。それは、お互いに謝りたい……ただ、それだけだった。


 総白髪になってしまっている妻も、元々は背が高かっただろうに加齢で背中が曲がってしまった夫も、お互いに本音を言えなかっただけ。


 ただそれだけのことが、彼らの魂を現世に縛り付けていた。


 夫婦は、お互いの皺の寄った手を絡め、仲睦まじく肩を寄せ合っている。時折、視線を交わしながら、まるで出会った頃のようだとはしゃいでいる。


「意地を張らないで、最初から本音で気持ちをぶつけ合っていたら、こんなに遠回りすることはなかったのにね」


 妻が悪戯っぽい視線を向けると、夫は複雑そうにそっぽを向いて言った。


「……愛してるだなんて、簡単に口に出せるかよ」
「まあ」


 すると妻はみるみるうちに顔を赤くして、「お父さんたら!」と夫の背中を手のひらで叩いた。そのことに対して、夫は「痛い」だの「加減を知れ」だの文句を言いながらも、どこか嬉しそうだ。


 ――愛。


 それは、人間がよく口にする言葉だ。


 形はなく、感情の一種。特に恋人や夫婦の間で共有されるものらしいが……俺にはそれが理解できない。だが、それは自然なことだろう。そんな形のないもの、実際に向けられてもみないと自覚できない。人から恐れられ、避けられてきた俺に、そんな感情を向けてくれる奇特な人間などいなかった。


 意識を夫婦に向けて、耳をそっと澄ましてみる。こんなにも満たされているふたりは、今どんなことを望んでいるのだろうと、興味が湧いたからだ。


 すると俺の耳に、ふたりの願いが届いた。それは――。


『『これからも、ずっとふたりで』』


 俺は、それを聞いた途端、顔を曇らせた。


 そうこうしている間にも、時間が来たようだ。夫婦の体が、徐々に薄くなっているのに気がついた。ふたりは、お互いに顔を見合わせると、微笑みを浮かべて俺に向かって頭を下げた。


「神様、夫とこうして再会できたのも、あなたのお陰です。お嬢さんも。最後の晩餐とっても美味しかったわ」
「本当にありがとう。ありがとう……」


 そして、すうと空気に溶けるようにして消えていった。


 その瞬間、体に力が漲る。それは、意識しないとわからないくらいの、ほんのりと甘い力だ。それが全身に染み渡っていく感覚に、僅かに目を細める。手を何度か開いたり閉じたりして、体の内部に残存している力を確かめた。


 すると、俺の隣で夫婦を見送っていた真宵が、嬉しそうに言った。


「朧、良かったですね。ふたりとも、未練を解消できて」


 真宵は、俺に無邪気な笑顔を見せている。


 この娘は、愛を知っているのだろうか。ふと、そんな考えが脳裏に浮かぶ。
 いや、まだ真宵は伴侶を得たことがないはずだ。それに当然だが、夫婦とはいえ、一年間限定の夫婦である俺たちの間にも、そんな感情はない。こうやって隣に立っていても、あの夫婦のような心の繋がりはないのだ。


 ……愛。それは俺にとって、まだ未知の感情だった。


「フフ」
「……?」


 すると、ふいに真宵が嬉しそうに笑ったので、首を傾げる。真宵は俺の顔を見上げると、どこか自慢げに言った。


「私の旦那様はすごいなって、改めて思ったんですよ。朧のお仕事の手伝いを始めて、しみじみ実感しました。未練を解消してあげて、最後に美味しいごはんまでご馳走してあげる。なかなかできることじゃないですよ」
「……そうか」


 あの陽介とかいう子どもの件以来、真宵は俺の手伝いをするようになった。
 とは言っても、すでに未練を解消した魂への、最後のもてなしの手伝いがほとんどだ。あの子どもの時のように、未練を残したままの魂には、危険はつきものだ。真宵に、そんな危ないことはさせられない。


 だから、真宵が関わっているのは、魂の「後始末」の部分だ。
 俺は、後は天に昇るだけとなった魂に、「最後の晩餐」と称して食事を提供することにしている。これをする、しないでは、貰える力の質が随分と違う。効率的に力を集めるためには必要なひと手間で、それの手伝いをして貰っているのだ。


 まあ、魂をもてなす理由を、敢えて口にしたりはしていない。そのせいで、どうも誤解を受けているような気がしてならないのだが――。


「旦那様はとても優しいですね」


 ……この誤解を解くべきか。
 だが、正直に話したとして、これは真宵を騙していたことにならないだろうか?


 この小さな妻は、俺が純粋な善意で魂たちをもてなしていると思い込んでいる。それが事実と違うと知れば……その時、どういう風に思われるのだろう。


 俺はふいと顔を逸らすと、真宵に言った。


「別に優しくはない。これも含めて、俺の仕事だからな」
「……! そうですか!」


 ――嘘はついていない。
 俺は、真宵のキラキラした目線から逃れるように、ゆっくりと母屋に足を向けた。


 少々胸が痛むけれども、こればかりはしょうがない。


 宵を娶ったのだ。俺は、誰よりも良い夫でいなければ。
 すると、真宵はテクテクと俺についてきた。ちらりと後ろを振り向くと、頭の高いところで結った髪が、まるでご機嫌な小型犬の尻尾のように揺れている。


 真宵は、俺の胸よりも下くらいまでしか身長がない。本人は、あまり伸びてくれなかった身長をかなり気にしているらしく、普段から底が厚い草履を愛用している。


 そのせいか――。
「わわっ!」
 うちの嫁は、よく転ぶ。


 今日もまた、小石につまづいて、俺の背中にぽふん、とぶつかった。その拍子に、俺の腰に抱きつくような恰好になる。真宵の小さな手が、そして体が触れて、内心酷く動揺した。


「ごめんなさい!」


 すると、俺から勢いよく離れた真宵は、恥ずかしそうに頬を染めた。
 そして、上目遣いで俺を見つめると――。


「へへ……」
 と、やけに嬉しそうに笑った。


「……!」


 その瞬間、俺はある予感がして、真宵を置き去りにして足を早めた。


「朧?」


 真宵の戸惑う声を無視して、スタスタと歩いていく。


 自分がどこに向かっているのか、わからないままひたすら足を動かす。


 あの場所に、あのままいたら。
 おそらく、真宵の心の声が聞こえていただろう。万が一にでも、それを聞いてしまったら――一年間で、真宵を手放す自信がなくなりそうだ。


「……はあ」


 秋だというのに、汗が滲んでくるのはなぜだろう。俺はやたら熱を持っている顔を袖で拭うと、縁側に足をかけた。


「もう、朧ってば‼ 待ってくださいよ‼」


 すると、俺の後を追ってきた真宵が、こんなことを言った。


「今日はもう用事はないですよね? そろそろ、おやつ時でしょう? よかったら、一緒に作りませんか!」
「……」


 ……どう答えたら、真宵は喜ぶだろう。
 俺は少し考え込むと――こくりと頷いた。


「よかった」


 途端に真宵の表情が明るくなる。
 それを見た瞬間、俺はどうにも泣きたくなってしまった。


 ――ああ。この、甘ったるい気持ちはなんだろう。


 混乱する頭のまま、俺は、嬉しそうに台所に向かい始めた真宵の後に続いた。

「今日のおやつは、おやきですよ」


 真宵はそう言いながら、台所の隅に置いてあった紙袋をいくつか手にした。


「……おやき?」
「長野県でよく食べられている、小麦粉やそば粉で作った皮の中に、おかずを入れたものです。昔、稲作が適していなかった場所では、こういう小麦粉を使った食べ物をよく作ったのだそうです」
「そうなのか」
「母の出身が長野で……親戚の家に遊びに行くと、おやつにって出してくれたんです。私、これが大好きで。簡単に作れるので、わが家の定番なんですよ」


 真宵は嬉しそうに顔を綻ばせると、今日のおやつはこれにすると、ずっと前から決めていたと語り始めた。


「家庭菜園でかぼちゃを育てていたの、覚えてますか?」
「ああ……今年は、たくさん採れたと言っていたな」
「はい。それを納屋で寝かせてたんです。二ヶ月くらい経ったので、水分が抜けて美味しくなっていると思います。おやきにしたら、きっと最高ですよ!」


 真宵によると、収穫したてのかぼちゃは、水分が多すぎて美味しくないらしい。
 初めて知る情報に感心していると、真宵は笑いながら言った。


「神様でも、知らないことがあるんですね」


 その言葉に、俺は肩を竦めた。


「神であっても、この世は知らないことばかりだ」
「そうなんですか」
「ああ」


 すると、真宵はどこか期待したような顔で、俺をじっと見つめた。


「おやきの作り方も?」
「もちろん」
「……! じゃあ、私が朧に教えてあげますね!」


 真宵はどこかウキウキした様子で、たすき掛けをしている。俺に教えるのがそんなに嬉しいのかと不思議に思っていると、真宵は準備をしながらこんなことを言った。


「神様になにか教えるなんて、特別な感じがしてドキドキしますね」
「……そうか」


 ――この娘は、本当に。


 俺は苦く笑うと、おやきの作り方を教えてくれと頼んだ。
 すると真宵は益々嬉しそうに笑うと、人差し指を立てて、どこか得意げに言った。


「お任せください! ええとですね、おやきには、いろんな生地があるんですよ。もちもちしたり、ふわふわだったり。うちのはなんと、『もちカリ』系です!」


 真宵が用意したのは、薄力粉と強力粉……それに、米粉だ。


「米粉は別になかったら入れなくていいですけど、入れた方がもちもち感が増します。一般的なのは、小麦粉を使ったものですが、米粉を材料にして作る『あんぼ』っておやきもあるそうですよ。長野県全部が稲作に適してなかったわけではないので、お米のおやきもあるんです。面白いですよね!」
「そ、そうだな」


 興奮気味に話し続ける真宵に、若干引き気味で相づちを打つと、小さな妻はそれで満足したようで、袖を捲って元気よく言った。


「さ、気合いを入れていきましょう。おやつにも全力投球ですよ!」


 そして、スケールを手にして数字とにらめっこを始めた。俺は、なにをすればいいかわからず、とりあえず真宵の小さな背中を見つめる。粉で手を白く染めながら、懸命に粉の量を図っている姿はどこまでも真剣だ。真宵は、材料を図り終えると、それをすべてボウルに入れて言った。


「薄力粉に、強力粉、米粉にお塩少々。それに、サラダ油を入れたものを、熱湯で混ぜていきます……これですね。熱湯は私が注ぐので、混ぜるのをお願いします。あっ、熱いので、最初は菜箸で混ぜましょうね」
「……」


 俺は差し出されたそれを、黙って見つめた。すると、真宵はニッと白い歯を見せて笑うと、更に俺に向かってボウルを押し出してきた。


「手伝ってくれるんですよね?」
「……ああ」


 俺は、少し戸惑いながらも、ボウルを受け取った。そして、菜箸を手にして真宵の次の指示を待った。


「熱湯を入れていきますね。菜箸でぐるぐる……そうです。朧、上手!」


 ほかほかと湯気を上げている熱湯が入ると、途端に粉が固まり始めた。それを、菜箸でまんべんなく混ぜていくと、もろもろとした小さな塊になっていった。


「冷めてきたら、手で捏ねましょう。そうですね、耳たぶくらいの固さまで」
「……わかった」


 調理前に手は洗ったものの、念のためにもう一度手を洗って、そっと生地に触れる。しっとりと塊になった部分と、まだ粉のままの部分があり、更に全体的に熱を持っているから、なんだか不思議な感触だ。


「捏ねていると、纏まってきますからね。あんまり捏ねすぎると、固くなりすぎるので注意して……」


 真宵が、俺の横にぴったりとくっついて、指図してくれる。
 今まで料理なんてしたことがなかったから、それは助かるのだが……。
 どうにも、気になって仕方がない。


「だんだん、生地がなめらかになってきましたね。いい感じです!」
「そうか」


 俺は、真宵に気づかれないように、徐々に距離を取りながら相槌を打った。
 生地が纏まってくると、粘土のように触り心地が良くなってきた。
先ほどまでは粉状だったというのに、あっという間に形が変わってしまった。お湯を入れたのだから当たり前のことなのだが、実際にそれを目にすると、不思議な現象を目の当たりしているようで、面白い。


「もうちょっと捏ねましょうか!」
「……任せておけ」


 ――なにかを作る喜び。それもまた、いいものだな。
 俺は、初めて触れる「料理」という作業に、密かに心躍らせながら、黙々と生地を捏ねあげていった。