同僚の花巻から卵をひとつもらった。

 それは片手で包み込めるほどの大きさで、表面は白くつるつるとしている。軽く振ってみると、重みのある中身が転がる感触を楽しむことができた。

 いわゆる、なんの変哲もない鶏の卵だ。

 ちょうど腹がへっている。これを湯気立つ白米の上にぱかりと割って、お醤油をたらりと落として、ぐるぐる混ぜて口にかっこめばどんなに旨いことだろう。

 想像すれば待ちきれなくなってしまい、お茶碗片手に炊飯器を開けようとしたところで、花巻の言葉が頭をよぎった。

「これはただの卵じゃないんです。この卵の中身が殻を破るそのときまで、愛情を持って接してあげてください」

 ──仕事はできるがコミュニケーション能力が著しく欠如している。

 職場の大多数からそんな評価を受けている彼女のとんちんかんなセリフと、それを発する真面目な顔が頭に浮かんで、少し吹き出してしまう。

 女性は少しバカな方が可愛らしいとも言うが、花巻の場合はバカとは違う。思考回路が常人のそれではないから、仕事の面で彼女のひらめきは重宝するし、おかしな言動も結果を残せば目をつむれる。

 これがプライベートまで介入されるとなると、話は別だ。

「殻を破るまで愛情を持って接しろ、と言われてもなあ」

 手に余る卵を指で撫でながら、独り言つ。

 そもそもこれは有精卵なのだろうか。たとえそうだとしても、俺に人工孵化の知識なんてない。

 冷蔵庫に入れて放置するべきか、今食べるべきか、いっそのこと捨ててしまうべきか悩んでいると、それを察したかのようなタイミングで彼女からメールが来た。

『伝え忘れていたことがありました。その卵から片時も離れないでください。さみしいと死にます』

 飲んでいたビールを吹き出しそうになりながら、返事をする。

『中身はうさぎなの?』

 まるで俺からその質問が来ることをわかっていたかのように、間髪入れずに返事が来た。

『中身はあなたの愛情の深さによって変わります。愛情が薄いととんでもない怪物が生まれ、この町内が大変なことになるので、くれぐれもお気をつけください』

 とんでもない怪物が生まれるわりには、被害規模が町内というところが引っかかるが、彼女の発言にいちいち反応していてはこちらの頭までもがおかしくなりそうなので、そっと携帯電話を閉じた。

 とりあえず今日は風呂に入って寝るだけなので、浴槽に湯を張る。着替えなどを準備していると、どうしてもちらつくのが卵の存在。

「……暇つぶしくらいにはなるか」

 捨てどきを失って部屋の隅で放置されていた段ボールの山を、ごそごそと漁る。お目当てのものはすぐに見つかった。暇なときにぷちぷちと潰すことでストレス解消していた、気泡緩衝材だ。

 それを卵に巻き付けて、輪ゴムでゆるく縛り、一緒に湯船に浸かることにした。

 卵が腐るといけないので、風呂桶に氷水を入れてその中に浮かべた。それを浴槽に入れると、ぷかぷかと船のように漂う。

 こうやって見ると、なんだか可愛らしく思える。指で突いて「気持ちいいでちゅか~?」と言ってみたが、当然返事はない。少し恥ずかしくなってきて、頭を冷やそうと風呂から上がろうとしたときに、ふと雑学を思い出した。

 ――新鮮な卵は沈み、古くなった卵は浮かぶ。

 その理屈までは覚えていない。

 物は試しだ。気泡緩衝材から卵を取り出し、もう一度風呂桶にそろりと入れた。

 すると、みるみるうちに卵は沈んだ。

 風呂から上がって、早速花巻にメールを送った。

『一緒に風呂に入ったら、卵が沈んだ。これは、新鮮な卵なんだな!』

 返事はすぐに来た。彼女は古風で地味な風貌をしているが、意外にも携帯依存症なのだろうかと不安になる。

『その調子です』

 育て方は間違ってないらしい。

 一応パソコンで、卵の取り扱いについて調べてみた。生食以外なら常温保存で良いらしい。季節は秋だから、ちょうど涼しくもある。

 新品の五本指ソックスに卵を入れて、枕元にある目覚まし時計の隣に卵を置いた。寝冷えするといけないので、同期の結婚式の引出物でもらった、上等なタオルを掛けてやる。

「お、おやすみ」

 一応声をかけるが、返事はない。

「……ふっ」

 こんな自分におかしくなって、つい笑みがこぼれる。

 たまにはこんなことも悪くはないな、と思い始めている自分がいる。

 代り映えのない日常の中で、少しだけ現状を変えてくれるなにかがありそうな、そんな、一縷の望みのようなものを、卵という存在に見出してしまっている。

 壮年男性のひとり暮らし。ここまで孤独が続くと、新しい刺激に影響を受けやすくなるのだろうか。