サヨナラ、セカイ。

カラダだけだったとしても。自分と繋がり続けてくれたユウスケの存在は小さくなかった。

意味を考えなくなったわたしを縛って、意味を残してくれた人。

でも。

先生はもっと違う意味をくれる人。愛せるかもしれない人。・・・そう信じたくなった。だから。

「・・・・・・楽なところにずっといるより、そのひとを好きになったの。先のことは分かんないけど、自分で決めたことだから後悔はしないって思う」

ユウスケは沈黙してから、低く呟く。

「・・・勝手に決めんな」

「わたしじゃなくたって」

「俺はお前がいいんだよ」

「もっと若くて、都合よく会える子だって他にいるでしょ」

「遊びの女なんかいるか。お前だったから俺は・・・!」

苦そうに吐き捨てたその顔には。
苛立ちと。悔しさ。・・・初めて見せた切なさが、ありありと滲んでいた。
はじまりは。危うい綱渡りみたいな恋。・・・だったかもしれない。
ユウスケにさり気なく口説かれて、流された。

カラダを重ねるうちにいつしか、ただ来て、抱いて帰る。それだけになったから。芽生えた恋ゴコロは自分で蓋をして、枯らした。

今さら惜しまれても。・・・()うに枯れてしまった種に、芽吹く力なんてどこに。

「・・・・・・ごめんなさい」

マグカップに視線を落とし、応えられないことを謝った。

「どうしても、・・・か?」

「・・・うん」

ユウスケの問いに静かに頷く。
深い失望の溜息が彼の口から大きく漏れた。

ガタン。椅子が床を削る音。

「勝手にしろ」

冷めた捨て台詞が他に音のない部屋に残響して。
玄関ドアの閉まる音が、鈍くくぐもって聴こえた。




「お疲れさまでした、新宮さん。これで歯の治療は終了になります。長い間よくがんばってくれましたね」

吉見先生の目が優しく弧を描いて、わたしを労う。

マスクで半分隠れていても、イケメンの笑顔は半減しないんだなって。
当たり障りのない返事をしながら、そんなことを思っていた。

「歯って、きちんと磨いてても虫歯になることもあるし、色んな要因で歯茎が弱ったりしちゃうんですよ。やっぱり定期的に検診させてもらうと発見も早いですから、2ヶ月後にまた診させてください」

「分かりました。わたしもその方が安心できますから、よろしくお願いします」

「お大事にしてください」

医師と患者の会話を交わし、診察台を下りて会釈する。
目は合ったけど甘い熱なんてない。先生は仕事中なんだから。


クリニックを後にして、ふっと吐息を漏らす。

ユウスケと『別れ話』をする前に逢ったあの夜から。先生は公衆電話を使ってときどき声を聴かせてくれた。

“沙喜に会いたい”

繰り返される呪文。

でも会えない。・・・寂しい。


そうだった。レンアイって。・・・けっこう苦行だった。
会社に向かって歩きながら、冷たい空気に首をすくめた。
バレンタインもとうに過ぎて、いつ渡せるかも分からない先生宛てのチョコレートは冷蔵庫に眠ったまま。

ユウスケとの関係を終わらせて、時計の針が違う進み方をするんじゃないかって。・・・漠然とした期待も、なんだか停滞気味だ。



のんびり社長の下で平和に一日の仕事を終え、自分の駅に降り立った。
電車に乗っている時間は5分あるかないか。車通勤だったら片道20分くらい。駅から歩く時間を計算しても、それほど変わらない。

改札を抜け、冷蔵庫の中身を思い浮かべながら、少し長い階段を小刻みに下りていく。と。

「沙喜!」

耳に飛び込んできた声に、危うく最後の一段を踏み外すところだった。

「先生・・・?」

目の前に立ったチェスターコート姿の男性。ニットと濃色の細身のパンツのカジュアルな格好は、部屋に来た時より若く見えた。・・・なんて失礼かも。

「待ってたんですか?」

退社時間は毎日ほぼ一緒。乗る電車も。
時刻表を調べて一駅分の乗車時間を計算したら、会える確率は高いと思う。けど。

「びっくりしました、いきなりで」

まだ目を丸くしたままのわたしに、先生は悪戯気味に目を細めて笑う。

「ちょっとだけ時間が取れそうだったから、会いたくて来ちゃったんだ」
午前中、クリニックで顔は見たのに?
そんな表情を読まれたのかもしれない。

「患者じゃない沙喜にどうしても会いたくてね」

手を繋ぎ、マンションの方向へと向かってロータリーを歩き出す先生。

同じように帰路につくサラリーマンや学生達に混ざり、一人(いつも)だったらスタスタと早足になるのを。二人でゆっくりと。腕と肩を触れ合わせながら並んで。

「先生、ご飯たべます?」

二人分となると、買い足しが必要かもしれない。

「あぁ・・・ごめん。そこまでゆっくり出来そうにないかな」

「気にしないでください」

申し訳なさそうに眉が下がった横顔に、明るい口調で返した。
優先順位がある付き合い方は慣れてる。

「そこは怒っていいとこ」

穏やかだけど諭すような声音が降って、隣りを仰げば。
こっちに傾けられた視線と一瞬交わる。

「恋人らしいこともしてやれない俺を、沙喜は責めていいんだよ。・・・『赦す』のと『諦める』のは違うんだから」


このひとは。どこまで。

同じ痛みを知っているんだろう。

諦めることで自分を守ってきたわたしと。同じ痛みを。
「それより沙喜。治療も終わったし、もう敬語と『先生』呼びはやめたら?」

ふっと口許を緩め、言われる。
気持ちの問題で、通院中は、って線引きしてたのをどうやら見通されていたらしい。

「なんて呼べばいいですか?」

「ふつうに下の名前でいいよ」

直彦(ただひこ)さん?」

「学生時代の友達はみんな『ナオ』って呼ぶんだ。『直』って、だいたいそっちで読むでしょ」

「じゃあ・・・ナオさん。でいいですか?」

「ん。あと敬語」

「あ、うん」

繋いだ指に力が籠もって、ナオさんがニコリと笑った。


告白から1ヶ月近く経って。ようやく呼び方が変わった。
順番立ったレンアイにはならなそうだし、進み方の速度もかなり不規則な予感。

でも。あなたは隣りにいてくれる。


私を独りで歩かせたりしないで。
マンションに着き、今までで一番自然な気持ちでナオさんを部屋に招き入れた。
背中で玄関ドアが閉まる音が聞こえたと同時に、先に入ったわたしの腕を彼が引いて振り返らせ。一息にキスを繋げた。

両頬を掌で捕まえ。好いように角度を変えながら、しなやかに貪る。

「・・・ぅん・・・ッ・・・」

頭の芯が蕩かされ、昂ぶりに堪えきれずにくぐもった声を漏らすと、さらに深く絡みつき、うまく呼吸ができなくなる。
小さく身を捩って抵抗するようにナオさんにそれを伝えたら、やっと離してもらえた。

「ごめん。全然し足りない」

紳士服のモデルにでもなれそうな、端正な顔立ちに切なげに笑まれて。
誰かを好きになる感情には理由がないことを、思い知るのだ。


「わたしも・・・。ナオさんが足りない」

そのあとベッドでわたしだけを喘がせた彼はそれでも、幸せそうだった。

「そうだ沙喜。この番号、スマホのアドレスに登録しておいて」

二人で寝転び、ナオさんの腕の中にいたわたしに、番号だけ書かれたメモをパンツのポケットから抜き出して手渡す。

「ラインはちょっとできないけど、通話は平気だから。それと、ごめん。夜は俺からはかけられるけど、沙喜がかける時は7時までしか今は無理なんだ。・・・ほんとにごめん。俺の都合ばっかり押しつけて」

数字を見つめていると、抱き寄せる腕にぎゅっと力が籠もった。

ナオさんは理由を言わない。
今までだったら。言わないなら訊かなかった。別に物わかりがいいわけじゃない。踏み込んで、なにかのバランスを崩すのが怖かった。

言うことさえ聞いていれば、わたしにも関心を示した母親の呪いだ。
自分を主張しようとすると、小バカにしたような顔で面倒くさそうにされたから、引かれた線の内側で黙っているのが“いい子”なんだと刷り込まれてしまった。

ナオさんは。そんなわたしをどこか、分かってるような気がする。
我慢しなくていいと、繰り返し伝えてくれてる気がする。

ほんの僅かでも。この爪先を前に押し出してラインを越えたら。


どうなるんだろう。



「・・・訊いてもいい?」

胸元に顔を埋めたままで、小さく。

「いいよ。なんでも」

「わたしは、ここでただ待ってればいいの・・・? ナオさんにとって、恋人の立ち位置ってなに?」 
本気で愛して、と前に彼は言った。

足りないモノを埋め合って、愛だけがあればいい?
夫婦とはベツモノの、“一生の恋人”?

それとも最後の賭けって。選ぶなにかをもう決めてるの?

ナオさんは考えるように黙ったあと。探すように、ゆっくりと一つ一つ言葉を並べる。

「今はきっと沙喜を待たせるだけになる。・・・子供に罪はないし、自分勝手な父親でしかないのも自覚してる。でも俺は・・・人形から人間に戻って沙喜といたい。そう決心できたくらい俺にとって沙喜は、無いと生きていけないもの、・・・かな」

仄かに笑まれた気配に、そっと胸元から顔を上げた。

儚げな眸に見つめられて、泣きたい気持ちになった。
出会うべきじゃなかったのかもしれないと思うくらい。
ナオさんとわたしは。
お互いを誰より理解できてしまえる。
確信した。

「いつって約束ができないから、無責任なことはまだ言いたくない。どうしても信じててほしいのは、不条理なこの世界で・・・俺が誰より沙喜を愛してるってこと」



絶望しかないコノセカイで。


たった一つの愛があれば。


生きていける。


わたしも。あなたも。


ただ寂しくて悲しい魂に。・・・共鳴したの。