森を抜けて。公園を横切って。私たちの住む団地へ。日常のある場所へ。
 A棟の下で苑子に手を振る。ハルは大きなあくびをした。
「明日起きれるの?」
 ただでさえ、朝が苦手なハルだ。家を出るタイミングが私よりずいぶん遅いみたいで、となり同士なのに、中学生になってからは一度も、朝、かち合ったことはない。
「休みたい……」
「休んだら、サボりだって先生に言いつけてやるからね」
 ハルがむっとふくれて、私を小突いた。
「晴海」
 低い声が響く。びくっと震えて、声のする方を見やると、E棟の階段のそばに、千尋さん――ハルのお母さんがいた。私は反射的に、ハルの背中の後ろに隠れた。やばい。
「不良息子。どこ行ってたの? 小川商店のあたり、探してみたけどいないし」
 千尋さんはボーダーの長Tシャツにゆるっとしたグレーのズボン。肩まである茶色がかった髪は、下ろしている。
 完全に寝る恰好だけど、それでも綺麗だ。何歳なのかは知らないけど、うちのお母さんよりかなり若いんだと思う。肌のハリが違う。まったく「おばさん」という感じがしなくて、小さいころから、私も苑子も、「千尋さん」と、自分の親が呼ぶのと同じ呼び方をしている。千尋さんはそんな私たちを面白がっていた。
 いつもにこにこ優しいひとだけど、さすがに今は、全身から怒りのオーラが出ている。迫力たっぷり。
 ハルが以前、こっそり、「母さん元ヤンなんだよ」と教えてくれたことを思い出した。
「近くにいるって返信したろ?」
 ハルの声に棘が生えている。反抗期ってやつだろうか。バトルの予感しかしない。
 千尋さんは大きくため息をついた。
「こんな時間に女の子を連れ回すなんて、聞いてない。考えられない」
 やばい。私は縮こまった。
「隠れないで出ておいで、果歩ちゃん」
 おびえている子猫に掛けるみたいな、やわらかい声。私は小さく小さく身をすくめて、はい、と返事をした。自分の声が、かすれている。
「あのね、晴海。果歩ちゃん。何も、こんな時間にこそこそ会わなくたって、私も果歩ちゃんのお母さんも反対はしないよ? むしろ応援する」
「えっ……」
 ちょっと待って。何か、勘違いしてる?
「私たち、べつにそんなんじゃ」
「いいから」
 千尋さんは私の言葉をさえぎった。
「ふたりとも。とくに、晴海。お互い、本当に好きなら、自分にストップをかけなきゃいけない。何のこと言ってるかわかる? あなたたちは、まだ中学生。子どもなんだからね。夜中にふたりきりは、だめ」
「ちょっと待って。違います、ほんとにそんなんじゃないですから」
 す、好きとか。お互い好き、とか。冗談じゃないし。
 千尋さんは、ふっ、と、優しい笑みを浮かべて、私の頭に手のひらを置いた。そして、ぽんぽん、と撫でた。
「恋っていうのはね。ゆっくり、じっくりと、あたためていくものよ。急がないで。晴海には、果歩ちゃんを大事にするように、たーっぷり言い聞かせておくから」
「あ、あの」
 どうしよう。完全に、誤解されてる。こんな時間にふたりでいるところを見られたら無理もないかもしれないけど、じゃあ何をしてたんだって言われたら説明できないけど。
 でも。恋だなんて。やめてほしい。顔がかあっと熱くなって、頭がくらくらしてきた。
「自分は失敗したくせに、よく言うよ」
 ハルが、吐き捨てるように言って、私はすっと冷めた。水をかけられたみたいに、一気に、冷えた。
「晴海」
「俺と果歩がつき合うわけないじゃん。ありえないから。な?」
 ハルが私の目を見る。ありえない。あたり前だ。私だって、いつか誰かに恋をする日が来るかもしれないけど、ハルだけはありえない。
 強く。強く、うなずく。
「ずーっとずーっとオトモダチです。私たちは」
 ハルから、ふいっと顔をそらす。
「意地っ張り」
 千尋さんがつぶやいた。どこか、からかうような、面白がるような響きでもって。何となく居心地が悪い。だけど、もう、怒ってはいないみたいだ。
 ずっとオトモダチ。
 私はハルを好きになることはない。
 音を立てないように気を遣いながら鍵を開け、忍び込むようにして自分の部屋へ戻る。
 お姉ちゃんが掛布団を蹴飛ばしてすうすう眠りこけている。着がえて、となりの布団へ滑り込む。
 からだは疲れているのに、頭の芯が冴えて、眠れない。目を閉じて寝返りを何度もうつけれど眠れない。いろいろなことがまぶたの裏に浮かんでは消えた。ほたるの光のように。

 そうしているうちに、やがて、闇がうすくなり、空が白み始めた。
 夜は去り、朝が来たのだ。